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土岡剛さん

 大勢で遊ぶのが大好きで、野球選手を夢見た無邪気な少年時代。いつも家族5人で食卓を囲み、自宅で美容院を営む母が困っている常連客のために店を閉めてまで手伝っている姿をよく見ていた。一方、代々の資産家一族に生まれ、親族に甘えれば金が手に入る父は、好きな陶芸をして気ままに暮らしている。やがて博打にハマって莫大な借金を作り、母にまで暴力を振るって手が付けられなくなり、ついに孤児院生活を強いられた。
 不良仲間と万引きやカツアゲに手を染め、他校生と血まみれになるまでケンカをした中学時代。一度は更生して高校の特進クラスに進んだが、学校生活はやはり平凡に感じて、「俺はでっかく生きたいんや!」と学校をサボって木屋町をかっ歩するようになった。
 あるとき、高校の先輩が欲しがる中古車を探し出して仲介すると大金が稼げて、株や不動産の商売にまで手を広げた。バブル経済の前兆期。依頼者の期待に応えようと熱心に走り回り、生来の人懐っこい性格で不動産会社の社長や飲食店オーナーなどに気に入られて更に頑張った。気づけば銀行に数千万円が貯まっていたが、その使い道は思い浮かばない。新たな刺激も欲しくなって博打に手を出すと、あっという間に貯金は底を尽きた。
  「地道でもいいから、自分の好きなことで稼げるようになりたい」と始めていた居酒屋のアルバイト。自分なりの接客をすると客にかわいがってもらえ、調理師免許目的で1年制の専門学校へ進学。博打で警察に何度も捕まり、「博打をしなくて済むように、大金が簡単に手に入る株と不動産の商売をやめよう」と心に決めた。企業勤めをするつもりはなく、卒業後は修行としてお好み焼き店の雇われ店長になった。行きつけの同業店のオーナーから調理技術を学び、来店客一人ひとりに徹底的に気を配ってすぐに繁盛店にさせた。


独立間もない頃トレードマークのピンクの服での一枚
独立間もない頃、トレードマークのピンクの服での一枚。常連客や同業者にも店づくりを教わった。

 その半年後、19歳にして居酒屋を始めた。カウンター9席だけの物件を見つけ、ゴミ置き場から食器や備品を拾って来ては磨き上げ、棚などは自ら手作りした。「日本一になる」という夢を託して店の名前は「ももたろう」。たとえ客がいなくても朝5時まで店を閉めず、客を喜ばせるための調理技術や話術を懸命に磨いていくと常連客ができていった。
  更に、学校時代のやんちゃ仲間を社員として引き入れ、屋根裏のような2階を使って宴会をできるようにして、ランチや弁当まで始めて3時間の睡眠で働き続ける毎日。疲労でフラフラしながらも、常連客が困っていると、農家の収穫や鉄工所の運搬作業など、ときには点滴を打ってまで手伝った。その脳裏にはいつも母の働く姿が浮かんでいた。
  ただ、やがて月100万円もの現金が手元に残り、営業状態も安定すると刺激が欲しくなって、また博打に手を出した。朝から晩まで夢中に働き、深夜になると店の2階でギャンブル三昧の数年間。5年もしたころに挑戦した2つの大型店も、ボリュームたっぷりのメニューと独自の接客がウケて大繁盛し、月に250万円もの利益が上がると博打につぎ込む金も膨らんでいく。どちらの店も開店から半年足らずで博打のカタに取られてしまった。
  自ら稼いだ金とはいえ、父と変わらないヤクザな性格に嫌気がさした。そして、追い討ちをかけるように、店を支えてくれていた中学からの友人が、博打をやめさせられない責任を感じて飛び降り自殺した。「俺が殺したんや…」とヤケになって酒におぼれた。数ヵ月後にはようやく正気を取り戻したが、それでも小さな博打だけはやめられなかった。
  「大金ができれば同じことの繰り返しや…」。すっかり店舗展開に自信を失くしていた中で、最後の賭けのつもりで良い条件で紹介された物件を若い従業員に仕切らせてみた。以前から目をつけていた常連客も強引に雇い入れ、店名は弟分の意味で「ももじろう」。すると、いつの間にか自分の働き方を学び取っていた従業員たちは半年後に店を黒字化させた。


 「一人でやる博打やなく、店舗展開の夢に向かってバクチが打てる! これ以上、自分の好きなように生きてたら、また大切な人を失ってしまう」と、ついに博打をやめる決断をした。仲間からの博打の誘惑を振り切るために、1号店を100席近い規模の物件へ移して年中無休でがむしゃらに働いた。客に望まれれば、たとえ朝まででも一緒に酒を飲んで楽しませて、ときには日帰りで新潟や九州まで出かけて珍しい酒やふぐを仕入れた。そして、店舗拡大に本腰を入れるために、その年の夏には法人化に踏み切った。27歳のことだった。
  同じ頃、O-157が世間を騒がせた。「刺身などの生モノ中心の居酒屋では簡単に出店できん…」。以前から痛感していた難題に直面して出店に踏み切れない2年間。お好み焼きやラーメンなどの火を通す料理の店は開いても、居酒屋の新規オープンは1軒のみだった。
  一方で、見どころはあっても何かに夢中になりきれない若者を雇っては、体当たりで教育するようになっていた。営業中でも「死ぬ気でやれ!」とどなり声が店中に響き、オーダーミスには「客に対する必死な気持ちが足りんのじゃ!」と太ももを蹴り上げて、自分の接客や倹約の姿勢を従業員に直接叩き込む。そして、閉店後は毎日のように飲みに連れ出して、朝まで生き方や働き方に助言をし、それでも心を開かなければゲンコツでぶっ飛ばした。「みんなは俺の子どもなんや」と言って、彼らの家族の悩みごとまで面倒を見た。
  そんな従業員をいったん店長にすれば、「一生懸命やってたらそれでええんや!」と励ますだけで、売上のことは一切口にせずに店を任せ切った。すると店長たちは、教え込んだ接客に彼らなりの工夫を加え、客が喜ぶように必死で取り組んですぐに黒字化していった。


(記載内容は2006年6月時点における情報です)