「ライク・ア・ローリングストーン」と歌ったのはフォークロックの生みの親、ボブ・ディラン。音楽を始めるきっかけになった“師匠”の歌の通り、「転がる石のように」生きてきた。
「ひとところに留まれないんですよね。引っ越しは30回ぐらいしている。『引越魔』といわれて、雑誌の取材を受けたこともありますよ」
漂流を続けながら、歌を紡いできた。
若者の同棲生活を描いた、林静一原作の劇画「赤色エレジー」をモチーフにした同名の曲で1972年、鮮烈なデビューを飾った。以来、大正から昭和のロマンの匂いを感じさせる独特の詩を、フォークやロックなどさまざまなジャンルを行き来する音楽に乗せた曲を発表。唯一無二の存在感を放ってきた。
そんな現代の吟遊詩人も、デビューから40年。旅から旅の音楽人生を振り返るカバーアルバム「女と男のいる舗道」を9日に出した。
「1960年代の映画音楽を中心に集めました。ここにおさめられた映画とその音楽がオレの原点になっている。キャリアの区切りとして、1つにまとめました」
「船舶関係を統括する省庁に勤めていた」という父親の転勤に伴って、幼いころから全国の港町をめぐった。とくに強烈な印象を受けた映画は、小学2年生のときに北海道小樽市の映画館で観た冒険映画「海底二万哩」。劇中、潜水艦を操り世界中の海で船舶を襲うネモ艦長の姿はトラウマのように脳裏に焼き付いているという。
「完全なアンチヒーローなんですが、陰影を帯びたダンディズムというか、ヒロイズムというか。妙な男の色気を感じた。孤独の内に旅を続けるその生き方に惹かれたんですね」
潜水艦の操縦桿を取って七つの海を渡るネモ艦長と、ギターを手に旅する吟遊詩人の姿がだぶる。
幼い少年に人生の針路を示した映画に捧げた「海底二万哩パレード」は、7分を超えるロックオペラ風の長編曲。ヌーベルヴァーグの旗手、ジャン=リュック・ゴダールの62年の仏映画「女と男のいる舗道」のカバー曲は、乾いたロカビリー調のロックンロール…。変幻自在な音を繰り出し、愛する映画の数々にオマージュを捧げた。
60年代は「ディランがロックを生み出して、いろんな新しいものが生まれた。オレ自身も、どんじりの69年にやったイベントをきっかけに音楽を始めた。はっぴいえんどや早川義夫さんの演奏にぶっとんで…。ざわざわと騒がしい激動の時代だったよね」
「映画音楽を通してみた自分の近代史」と位置づけた同作のプロデューサーに迎えたのは、デビュー時からの盟友であるロックバンド、ムーンライダーズの白井良明だった。
12日に東京・日比谷公会堂で行われるライブでは、昨年に無期限活動休止を発表したばかりのムーンライダーズのメンバーが一堂に会し、デビュー40周年を祝う舞台に花を添える。
「リーダーの鈴木慶一をはじめ、メンバーとはデビュー前からの付き合い。今回は、40周年にかこつけて集まってもらったんだ」と笑みがこぼれる。
長年の友との共演に加え、もうひとつ期待していることがある。
「2010年代を迎えて、新大陸に来たような得体の知れない期待感があるんです。これからの10年は、60年代のようにいろんな新しいものが生まれるような気がする。僕もあと10年で70代半ばになる。クリエーティブなことができる最後の10年になりそうです」
そう言い終えると、汗ばむ陽気の中、季節外れの黒いコートを羽織った。春の強い日差しを浴びながら、吟遊詩人は雑踏に消えた。(ペン・安里洋輔、カメラ・三尾郁恵)
■あがた・もりお 1948年9月12日、北海道留萌市生まれ、63歳。本名・山県森雄(やまがた・もりお)。明治大学中退後の72年に出したデビュー曲「赤色エレジー」は50万枚の大ヒット。同年、初アルバム「乙女の儚夢」を発表。以降、40枚あまりのアルバムをリリースする。74年には、「僕は天使ぢゃないよ」で映画監督デビュー。俳優としても活躍し、昨年は映画「マイ・バック・ページ」、ドラマ「妖怪人間ベム」に出演。10年前に10歳下の女性と結婚。9歳の女児がいる。今年、オリジナルアルバムを制作予定。12日の東京・日比谷公会堂での公演問い合わせはキョードー東京((電)0570・064・708)。