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再稼働強行妖怪の没論理と反倫理 - 官邸前デモは続く
官邸前の再稼働反対デモ。「再稼働反対」の一語だけをずっと反復している。IWJで映像を見ながら、最初のうちは、もう少しフレーズを加えてバリエーションを工夫した方がいいのではないかと感じていた。メッセージとしてあまりに単調で、歩道で声を上げる者も、それをネットで聞く者も、高度情報社会に生きる現代人においては退屈を感じる素朴主義ではないかと怪しんだのである。変化や演出があってよく、こういうときの即興の言葉の才能の発揮があってもいいのではないかと。が、礑と気づいた。別の感じ方を持った。これは半世紀前の「安保反対」と同じではないかと。日本人は歴史を忘れず。DNAが言語を生成させているのではないかと。日頃、私は運動は歴史と伝統を大事にしろと言い、OWSにおけるシュプレヒコールの歴史性やそこに看取されるウッドストックの文化様式の要素を言い、フランス左派のバスティーユ広場の集会に恍惚となっている。こうじゃなきゃいけないんだと。歴史を継承し再現することに意味があるのだと。先人の志と成果を引き継ぎ、過去を呼び覚まして政治の力にするのだと。そこに"STOP THE KOIZUMI"の語の作為もあったのだと。不覚にも、迂闊にも、その私自身が「再稼働反対」のワンフレーズの歴史に思いが至らなかった。日本人のDNAがそれをさせている。一人一人の内側にある記憶の遺伝子が、無意識的にこの言霊の発声と連呼を促している。日本人も歴史を忘れず。


6/8の野田佳彦の再稼働宣言をテレビで見ながら、そのグロテスクな映像と言動に歯噛みし、激昂と憤懣でいっぱいになり、神経衰弱にさせられ、そこから暫くはTwitterの140字さえ打てなくなった。デジタル放送の切り替えを機に使うようになった大型テレビの画面に、野田佳彦のアップの顔が映り、不気味な動物のような、醜い妖怪のような巨大な顔の口だけがモゴモゴと動いている。モゴモゴと控えめに動いているが、その通告の中身は卑劣で、限りなく邪悪で酷薄で凶暴で、テレビの前の国民の心を蹂躙するもので、本人もそれを承知で悪辣な演技をしている。何か置き物の顔の目のような、墨で引いた横線が潰れたような奇怪な目の奧に鈍く怪しい光りが滲んでいる。6/8の会見が過去のものになり、6/10にTBSのサンデーモーニングで編集されたものが映ったときは、それは化け物ではなく、無能で凡庸なあの男の顔だった。見ても苦痛を覚えない。それは、『千と千尋の神隠し』で登場するカオナシの前半と後半のような変化だ。しかし、6/8の午後6時からの20分間は、まさに拷問に近い悶絶する時間の連続だった。そのとき、鬱屈と錯乱の中で思ったのは、新聞が世論調査を出してから叩いてやるということだった。その数字が出るまでは、とても平静な気分にはなれないと。朝日と毎日が80%の反対の数字を報じ、国民の拒絶と反発を代弁してから反論を書いてやろうと、そればかり念じて精神の平衡を維持した。

反論については、きっこの記事がよく書けている。間髪を置かず、ここまで速やかに反駁して投稿できるのは、並大抵の筆力ではなく、尋常な精神力の持ち主ではない。普通なら、その直後、本田圭佑の3発に慰めてもらって、ゴールの度に大量に流し込む週末の深酒で憂さを晴らして終わるのだ。私はこう思う。6/8の野田佳彦の会見のような底なしの異常な悪意が、総理大臣の政策決定の公式説明として語られるとき、それに対して抗う言葉は、もう辺見庸のような方法で探して紡ぐのは無理なのだと。不可能なのだと。論理にもならないし、言語にもならない。そこで必要なのは、革命と天誅の一撃で物理的に止めることなのだ。私がもしフリーの記者の身で、あの官邸会見の場に臨席していたら、後先のことは考えず、途中で大声を張り上げて野田佳彦の話を遮っただろう。「やめろ」とか、「ふざけたことを言うんじゃない」とか、「いいかげんにしろ」とか。そうすることで厳しい制裁を受ける羽目になったとしても、おそらく、その衝動を抑えることはできなかったと思う。会見に立ち合えた機会と権利を生かして、国民を代表して義士の真似事をやっただろう。それは会見を混乱させることなのだが、そうすることだけが正当であり、理性を持った正常な人間の反応だと思うのだ。今、言葉は過激でなければならない。あれほどの欺瞞と暴虐に対して、これほど拷問で心を傷つけられながら、そこに冷静な言葉を探して並べ置くことはできない。

「やめろ」とか、「ふざけたことを言うんじゃない」とか、「いいかげんにしろ」とかは、乱暴で非論理的な言葉だ。だが、官僚の作文である野田佳彦の言葉そのものが、論理や事実を無視し頭から排除したもので、常識や節度を踏み越え、整合性や説得性の配慮を打ち捨てていて、責任ある政府の説明の立場を放棄したものなのである。正当化できない主張を強引に正当化した官僚語の貼り合わせなのだ。「福島を襲ったような地震・津波が起こっても、事故を防止できる対策と体制は整っています」、「もし万が一すべての電源が失われるような事態においても、炉心損傷に至らないことが確認をされています」、「実質的に安全は確保されている」、これらの説明は子供騙しにもならない嘘であり、誰も妥当だと認めることのない無理な強弁だ。根拠のない安全神話の放言である。福島の事故の後、責任ある者が公の場で言ってはならない禁句のはずだった。これを官僚の詭弁と言うには、もはや一線を越えていて、政府権力による国民に対する愚弄と挑戦と言った方が正確だろう。国民を侮辱しているのだ。これを国民がどう受けとめたかは、6/10のサンデーモーニングに出演した面々の反発で示されていて、岸井成格は、「何をとち狂ったことを言っているのか」と漏らした。実際に、そういう表現にしかならないのである。怒りを怒りとして率直に表出する過激な言葉でなくては、この政治に対する正しい反論や抵抗にはならない。

この会見の後、私は野田佳彦の総理就任会見や国会での所信表明演説をネットで調べ直してみた。野田佳彦の「脱原発依存」の言質を探すためであり、6/8の発言と矛盾する証拠を見つけるためだった。しかし、それらを辿ると、実際には思っていた以上に野田佳彦が再稼働に意欲的で、脱原発的な姿勢は微塵も示していないことがよく了解できる。筋金入りの原発推進派。この再稼働は野田佳彦の信念からの政策であって、仙谷由人の主導によるものとか、産業界の突き上げに動かされてという解釈は間違いだ。昨年9月の時点で、なるべく早く再稼働すると表明している。思えば原発ゼロの達成そのものが、昨年7月の菅直人の苦肉の思いつきであるストレステストを発端にして現出した事態であり、脱原発派にとっては政治的フロックの延長上の果実だった。昨年の6月から7月、再稼働の攻防の舞台は大飯でなく玄海だったが、やらせの発覚で謀略が挫折し、菅直人が失脚と引き換えに官僚に受け入れさせたストレステストの措置のため、原子力村は1年近い挫折と雌伏を余儀なくさせられたのである。菅直人を降ろした野田佳彦の使命は、菅直人の「脱原発依存」を巧妙に取り下げ、原子力村に元の安住の楽園を保障することだった。したがって、6/8の再稼働宣言は、字面の表面上は従来の野田佳彦の原発政策の所論と齟齬するものはない。仮に矛盾を指摘されても、官僚は詭弁で言い訳する細工を施すことができるだろう。

しかしながら、翌々日(6/10)の「精神論だけではやれない」の言葉は、どうやら官僚の作文ではなく、自身の率直な心情の吐露であり、これは物議を醸す可能性がある。野田佳彦とすれば、再稼働決定の政治を敷き固めるため、後戻りできぬよう報道工作の手を打ったのだろうが、脱原発を精神論だと一蹴したことは、福島県が震災から1年の今年3/11に発布した「ふくしま宣言」と抵触する。ここで福島県と福島県民は、「原子力に頼らずに、発展し続けていくことができる社会を目指します」と誓っていた。脱原発を県民の誓いとして立て、県の再生を方針化しているのである。われわれが再稼働を倫理的な悪として捉え、「福島の人々の心を傷つける行為」だと認識するのは、人の常識からの当然の結論でもあるけれど、言わばここに具体的な法的根拠がある。「ふくしま宣言」は福島県にとって憲法に等しい存在だからだ。この宣言は、昨年7月の福島県復興本部会議での脱原発を理念に掲げた復興ビジョンの策定や、昨年10月の県議会での県内10基の原発の全廃炉決議を踏まえ、それらの積み重ねの上で起草されたものだった。原発事故に苦しめられ、今も苦難の渦中にある県民の決意が言葉で編まれている。福島県民は脱原発の生き方をすることを選んだ。脱原発の社会を築くことを決めた。野田佳彦による「精神論」の口上の脱原発批判は、こうした福島県民の願いを根本から否定するもので、非現実的で空想的な態度だと嘲弄するものに他ならない。

これは許されることだろうか。今週、再稼働反対の官邸前デモは、先週の4000名の参加を上回る規模になるかもしれない。そして、週末デモの勢いは決して衰えることなく、むしろ拡大するだろうと、私は期待をこめて予想をする。なぜなら、仮に大飯が再稼働になっても、次は伊方が争点になるからで、伊方のストレステストの1次評価が原子力安全委(斑目春樹)で確認される手続きがあり、四国電力と政府と愛媛県とのやり取りがあり、四閣僚会合での決定の進行が続くからだ。大飯3,4号機の再稼働は、全国の原発を再稼働するべく風穴を空ける政治であり、政府(原子力村)からすれば伊方と玄海に繋げないと意味がない。原発なしでも真夏のピーク時を乗り越えられた実績ができるからだ。政府は必ず今夏中の伊方・玄海の再稼働を押し切ってくるはずで、7月初旬までには決定の日程を仕掛けてくるだろう。現時点で、四電からは特に何も動きが伝わって来ない。私の推測だが、四電は原発ゼロでも関電ほどの経営の打撃がないのだ。原発なしだと経営破綻するという危機感がない。需要が小さい四電管内には、伊方停止で供給不足に陥るという心配がなく、火力や水力に十分な余裕があり、燃料のコスト増も悲鳴を上げるほどのリスクではないのだ。関電とは事情が違う。また、愛媛県が福井県と同じほど再稼働一色で全県が固まるとは思えない。立地自治体と消費自治体という関係性も、大飯と伊方では同じ構図ではなく、関西の論理を四国で応用することはできない。

戦いは続くということだ。われわれは負けてはいない。


 
by thessalonike5 | 2012-06-11 23:30 | Trackback | Comments(1)
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Commented by nyckingyo at 2012-06-11 21:58
野田妖怪の暴言は、この週末の気分を実に憂鬱にし、こみ上げてくる怒りをどこに投げればいいのか、気も狂わんばかりでした。それは世に倦む日日氏やきっこ氏、だけでなく、列島に住む全員、列島から遠くはなれて住むぼくのような者までを席巻する大きな怒りです。
それほど大きな怒りが、再稼動反対のデモの様子が、日本からのマスコミ(NHK+フジ)で報じられることはほとんどなく、それに同調するであろう世界の市民に伝わることはありません。汎地球的問題が、日本から発信されているのに、アメリカ国の原発推進姿勢と連動してなのか、地球人全体は無関心という変な現象が続いています。
おりしも、尖閣問題で都知事が中国への宣戦を布告して、極端な右傾化を進め、大阪ミナミで自殺しきれない男が通行人をメッタ刺しにしたり、狂った頭脳が横行する末世の様相を強く感じる列島に観えます。
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