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坊門忠信

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2010/12/17 15:44 UTC 版)

目次

経歴

建永2年(1207年参議建保6年(1218年)権大納言。後鳥羽天皇・順徳天皇の寵臣として仕える。承久元年(1219年)正月、義弟である源実朝の右大臣拝賀式のため鎌倉へ下向し、実朝暗殺の現場を目の当たりにしている。

承久3年(1221年)6月、実朝亡き後の鎌倉幕府と対立した後鳥羽上皇が幕府打倒の兵を挙げた承久の乱では、上皇方の大将軍として出陣した。しかし、上皇方の敗北により首謀者して捕らえられ、千葉胤綱に身柄を預けられる。処刑のため関東へ連行されたが、妹・信子の嘆願により助命され、遠江国よりへ戻って、同年7月出家した。その後幕府の処置により越後国流罪となる。まもなく赦免されて帰京し、太秦の辺りに籠居した。寛喜2年(1230年)の春には都へ戻り、一条大宮に居住している。

勅撰歌人として新勅撰和歌集(5首)以下の勅撰和歌集に11首が入首しており[1]嘉禄2年(1236年)の後鳥羽院の遠流歌合に道珍の法名で参加している。

没年は不明だが、暦仁元年(1238年)年までは存命している。

系譜

  • 父:坊門信清
  • 母:藤原定能の娘
  • 妻:舞女
    • 男子:坊門基信(1208-?)
  • 生母不詳の子女
    • 男子:坊門長信
    • 男子:坊門範信
    • 男子:坊門信朝
    • 男子:清乗
    • 女子:
  • 養子女
    • 男子:藤原信成(1197-1262) - 実は藤原親兼の子。子孫は水無瀬家

参考文献


  1. ^ 『勅撰作者部類』


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