写真家「神立尚紀(こうだち・なおき)」のブログ ※禁無断転載

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 2月29日の記事「70年前の青春」
 http://ameblo.jp/zero21nk/entry-11179124037.html
 が好評につき・・・・・・。

 70年前(前後)の若い戦闘機搭乗員の姿である。

 昭和12年7月、支那事変の勃発とともに、佐伯空で十二空、大村空で十三空、二つの特設航空隊が急遽編制され、大陸に派遣された。
 この写真は、十二空戦闘機隊(九五艦戦)戦闘機隊の編制にあたって、別府の料亭で撮られたもののようだ。料亭で、士官と下士官兵がこのような宴席を持つことは非常に稀であった。
 この写真のように名前が書かれていると助かるが、姓だけだとどの○○さんかわからなかったりする。

 わかる範囲で書くと、前列左から二人目酒井敏行(操練25)、三人目小林巳代治空曹長(操練9)、女将をはさんで分隊長潮田良平大尉(海兵57)、中居さんをはさんで飛行隊長岡村基春少佐(海兵50)、後列左から山下小四郎(操練17)、二人置いて岩本徹三(操練34)、一人置いて北畑三郎(操練21)、一人置いて芝田千代之(操練18)、岩瀬毅一(操練34)、橋本勝弘(操練25)、山本旭(操練24)。
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 岩本一空(一等航空兵、のち中尉)はこのあと大村空に転勤となり、十三空で中支に出るから、歓送迎会のような集いだったのだろう。
 このなかで私がお会いしたのは橋本勝弘さんだけである。

 
 これは昭和13年、中支戦線に出た岩本徹三一空。
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 ぐっと時代が下がって、昭和19年3~6月頃、トラックで撮られた二五三空の搭乗員たち。
 前列右、小町定上飛曹、後列左から岩本徹三飛曹長、熊谷鐡太郎飛曹長。 
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 これらの写真はそれぞれ別の元搭乗員の手元にあったものだが、3枚ともに、岩本徹三氏が写っている。
 「撃墜202機」という手記を遺して早くに亡くなられた岩本氏の「戦果」については、「眉唾」「大法螺」というのが、一緒に戦った古参搭乗員の衆目の一致するところだけれど、そして、岩本氏の戦法については「人の戦果の横取り」という批判の声も当事者の間にあったのは事実だけれど、これだけ長期にわたって第一線の搭乗員であり続けたというのはすごい。

 ある元搭乗員の重鎮の方が、戦没搭乗員の、戦地(外地)に出てから戦死するまでのことを調べられたところ、終戦までの戦死率約80パーセント、初出撃から戦死までの平均生存時間3ヵ月、出撃回数8回、というデータが出たそうだ。
 このデータの裏付けはとっていないが、私が六空―二〇四空全搭乗員の消息を調べたときもこれに近い数字が出た。

 足かけ8年にわたって第一線の搭乗員でいることがいかに大変なことか、生きて戦い抜くことがどれほど偉大なことか。検証不能な「撃墜機数」などより、そっちを強調したほうが、よほど人生の教訓になると私は思う。
 エンターテインメントの具にするには、あまりにも惜しい人である。