源義忠
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
凡例 源義忠 | |
---|---|
時代 | 平安時代後期 |
生誕 | 永保3年(1083年) |
死没 | 天仁2年2月3日(1109年3月6日) |
別名 | 河内判官、源大夫判官、大夫判官 |
官位 | 従四位下[要出典]、帯刀長、検非違使左衛門尉、 河内守兼検非違使尉、 右衛門権佐兼検非違使権佐[要出典] |
氏族 | 清和源氏、河内源氏 |
父母 | 源義家、藤原有綱の娘 |
兄弟 | 義宗、義親、義国、義忠、義時、義隆 |
妻 | 平正盛の娘 |
子 | 経国、義高、忠宗、義清、義雄、為義 |
源 義忠(みなもと の よしただ)は平安時代後期の武将。清和源氏の中の河内源氏四代目棟梁。源義家の死後河内源氏の家督を相続、伊勢平氏と和合して勢力の維持を図ったが、同族に暗殺された。
義忠はこの時代の源氏の棟梁でありながら暗殺されたことから存在感はあまりない。書籍などでは記載がないことが多い人物で、棟梁でありながら略系譜などでは割愛されることすらある。
目次 |
生涯
河内守任官
河内源氏三代目棟梁・源義家の四男[1]として香炉峰の館で誕生。兄弟に「悪対馬守」といわれた猛将の源義親、「荒加賀入道」といわれた猛将の同母兄弟源義国らがいる。河内源氏の棟梁の中で河内守に任官した最後で、以降の棟梁は河内守にはなっていない。
義忠は義家の父頼義に似ていたと義家に評された。若年より帯刀長・河内守・検非違使などを歴任したが、その背景には父源義家の力があったものと思われる。朝廷も義家を抑圧しつつも恐れ、懐柔策として義忠を河内守などの要職に就けたともいわれる。
近年まで、義忠は兄の義親・義国の二人が謀反や乱暴などの理由で朝廷から討伐されたり流罪に処されていた為に、父義家の死後急遽家督を継いだとされてきた。しかし近年の研究の結果、義忠が義家の後継者に選ばれた時期は今までの説より早いという説が有力になってきている。義忠が上国の河内守[2]であるのに、今まで家督に最も近いのに謀反を起したとされていた義親は下国の対馬守[3]でしかなく、義国は後年、加賀介[4]になるが、それでも河内守に比較すると遥かに下位の官職である。このことからして、義家が早い時期から義忠を河内守として河内源氏の本拠地たる河内国の長官になる運動をしていたと考えると、義忠後継が早い時期に決まっていたものとされる。
しかし一方で、朝廷が源氏内部に事件を起すために兄を差し置いて弟に高位要職を与えたという説もある。義親の謀反も、弟の方が中央に近く河内源氏のゆかりの地である河内守になったことへの不満が原因であったという説もあり、この説もこの後の源氏の衰退を考えるうえで重要である。
家督継承
1106年に源義家が死去すると、河内源氏はその勢力を縮小せざるを得なかった。また、義忠の兄、義親が西国で叛乱を起こし新興勢力で義忠には舅にあたる伊勢平氏の平正盛が討つという事態となり、河内源氏より伊勢平氏が優勢になり始める。朝廷でも白河上皇が院政を行い、摂関家とゆかりの深い河内源氏に替えて伊勢平氏を露骨に登用するようになる。明らかに河内源氏は衰退期を迎えた。
義忠は若年ながら河内源氏の屋台骨を支えるべく、僧兵の京への乱入を防ぐなど活動する。また、新興の伊勢平氏と折り合いをつけるべく、平正盛の娘を妻にし平家との和合をはかり[5]、平忠盛の烏帽子親となるなど、親密な関係を築いた。そして、院政にも参画しつつ、従来からの摂関家との関係も維持すべく努力した。その結果、「天下栄名」と評せられる存在となった。しかし、河内源氏の中では新興の伊勢平氏との対等の関係を結んだ義忠のやり方に不満も多く、また、伊勢平氏と和合することで院政に接近した義忠が勢力を伸ばしたことを快く思わない源氏の一族の勢力も存在した。また、義家にくらべ武威に劣る義忠を軽んじ、自らが義忠に取って代わろうとする勢力も存在した。
暗殺
義忠の叔父の源義光は義忠の権勢が高まるのに不満を感じ[6]、自らが河内源氏の棟梁になることを望み、家人鹿島三郎に義忠を襲わせた。義忠は鹿島三郎との斬りあいで重傷を負い、それが元で死去した。享年27。鹿島三郎は義光の弟の園城寺の僧侶快誉の下へ逃げて保護を求めたが、快誉によって殺害された。
義忠の暗殺は当初、叔父源義綱の子・源義明とその家人藤原季方の犯行とされたため、義忠の養子源為義は義綱の一族を甲賀山に攻め、義綱の子らは自決し、義綱も捕らえられ佐渡へ流された。しかしその後になって、もう一人の叔父源義光の犯行であったことがわかった。
これにより河内源氏は義忠・義綱という二人の実力者を失い、義光も暗殺事件の黒幕であることが発覚したため常陸国に逃亡。都には幼い為義が残されることとなり、後見人のいない源氏は衰退した。
死後
義家・義親・義忠・義綱と実力者を失い、河内源氏は源義光・源義国・源義時・源義隆を残すだけになった。義国は事件を起し関東の地で蟄居の身であり、また関東で常陸から勢力を広げる叔父義光と合戦に及ぶなど、義光との仲は険悪であった(義忠と義国は連合して叔父義光に対抗していたとする説もある)。そのため、河内源氏の勢力は関東でも徐々に衰え始める。義時は義忠から河内国の石川庄を与えられていたがその勢力は小さかった。義隆は無位無官で幼少でもあった。よって義忠の死後は為義が河内源氏の棟梁となった。
しかし、為義も幼少であったことと、実父の源義親ほどの武勇も養父義忠ほどの政治力もなかったために、河内源氏は伊勢平氏の蔭に隠れてしまう。河内源氏の復興は為義の子源義朝に託されることになるがそれも叶わず、その義朝の子源頼朝を待たなくてはならない。義忠の死後は平氏全盛となり河内源氏は雌伏を余儀なくされた。
子孫
- 養子:源為義(義親の五男、河内源氏五代目棟梁)
- 長男:源経国(河内源太経国) 源義国の家人、源義朝の側近として保元の乱に参陣。河内氏。
- 次男:源義高(従四位下左兵衛権佐兵庫助)この系統は代々源姓を名乗り、江戸時代の資料等にも苗字が源であり、姓も源とある。明治維新以降もこの系統は源を今日的な意味の姓としている。[要出典]
- 義高の長男:従五位上河内守源義成
- 義成の長男:伊予権介左衛門尉源義俊
- 義高の長男:従五位上河内守源義成
- 三男:源忠宗(飯富源太忠宗) 上総国望陀郡に飯富庄を設立。
- 四男:源義清(従五位下左京権大夫)この系統は代々源姓を名乗り、江戸時代の資料等にも苗字が源であり、姓も源とある。明治維新以降もこの系統は源を今日的な意味の姓としている。[要出典]
- 義清の長男:因幡介左衛門尉源義久
- 義久の長男:従五位下宮内少輔源義高
- 義清の長男:因幡介左衛門尉源義久
- 五男:源義雄この系統は代々源姓を名乗り、江戸時代の資料等にも苗字が源であり、姓も源とある。明治維新以降もこの系統は源を今日的な意味の姓としている。[要出典]
義忠の子孫に稲沢氏(経国の末裔)・飯富氏(忠宗の末裔)などがある。
義忠の子孫の多くは北面の武士または近衛府や東宮舎人となった。一部には関東や河内にあって源平の戦いに参戦した者もいた。
義忠の末裔は河内源氏棟梁の子孫でありながらその地位を継承できなかったためか、反源氏的な行動が見られる(奥富敬之の説)。また、義忠の妻が平忠盛の姉であることから、義忠の死後その子らが平忠盛の邸で養われていたとする研究もあり、それが事実であれば義忠の子孫が源氏ではなく平家に従った行動も理解できるだろう。
また、鎌倉時代初期の文人政治家で歌人・源氏物語の研究者の源光行・源親行親子も彼の子孫で、文人として繁栄した。
いずれにせよ、彼の子孫は河内源氏諸氏の中で異端な存在であったといえよう。
史料:『尊卑分脈』
年表
- 1083年 義忠誕生。後三年の役が勃発。
- 1086年 白河上皇の院政が始まる。
- 1087年 後三年の役が終了。
- 1091年 源義家への荘園寄進を停止。源義国が誕生か?
- 1092年 源義家の荘園設立を禁止。
- 1095年 北面の武士を置く。
- 1096年 義忠、帯刀長となる。
- 1097年 平正盛、荘園を上皇に寄進。
- 1098年 源義家、院への昇殿を許される。義忠、左衛門尉となる。
- 1100年 義忠、河内守に任官。[要出典]
- 1101年 源義親、乱暴狼藉を働き、召還される。
- 1102年 源義親、隠岐に流される。
- 1104年 義忠、左衛門権佐となり帰京。[要出典]
- 1106年 源義国と源義光が常陸国で合戦し、両名に捕縛命令が出る。義家は出家し、その後死去。
- 1107年 平正盛に源義親追討の命令が下る。義忠、検非違使兼務。
- 1108年 源義親が平正盛に討たれ、叛乱が鎮圧される。
- 1109年 義忠が暗殺される。
注:義国の誕生であるがこの年に生まれたとする説も有力で、この説を採用すると義忠は義国の兄となる。義家の子は、義宗・義親・義国・義忠・義時・義隆という順であるとするのが通説であるが、個別に誕生年度を調べると、義宗・義親・義忠・義国となる。また、義宗・義親の誕生の年は不明である。義家の子で誕生した年がわかっているのは義忠だけである。
脚注
- ^ 一説には三男、五男ともいう
- ^ 河内国は「大国」、その守は従五位上相当で、義忠は家督相続以前にこの官位。
- ^ 対馬国は「下国」、その守は従六位下相当で、義親は義忠の河内守在任と同時期にこの官位で、義忠と同時期。
- ^ 加賀国は「上国」、その介は従六位上相当で、義国は後年にこの官位を極官としている
- ^ 『尊卑分脈』によると義忠の室は平忠盛の娘とされるが、年齢が忠盛の方が義忠より年下であることと、義忠が27歳で暗殺されることから、近年は「平忠盛女」という記載は「平正盛女」と解釈するとの説がある。
- ^ 「甥判官義忠の嫡家相承、天下栄名を猜んだ」(『尊卑分脈』)、「叔父義光は鬱憤を含み」(『系図纂要』)、「叔父義光、(義忠)声価を忌む」(『続本朝通鑑』)
関連項目
|
|
|