●「板付式壺形土器(いたづけしきつぼがたどき)」
弥生時代のはじまりは従来の説より五百年も古い紀元前十世紀か。昨今、最新の炭素年代測定法によって弾きだされた弥生時代の開始年代は、考古学界に新たな論争を巻き起こしている。今回紹介する壺形土器は弥生時代がはじまるころの、まさに渦中の土器である。
弥生時代のはじまりについての研究は、考古学では論争が絶えない。米を主食とする日本人にとって弥生時代のはじまりとは、自分たちのルーツを探るという特別な想いにかられるからであろうか。特に九州は、弥生文化の故地である朝鮮半島に近いこともあって、最古の弥生土器をめぐる研究が繰り広げられてきた。
一九三一(昭和六)年秋、場所は福岡県遠賀郡水巻町伊佐座。遠賀川で投網を打つ光景につられて川辺に降り立った人によって、一つの遺跡が発見された。この川の中州に位置する立屋敷遺跡からは、九州では珍しく文様のついた弥生土器が出土し、注目を浴びることとなる。
今は投網を打つ風景はなく、休日には釣りや河川敷でランニングをする人々が集まるこの遠賀川は、考古学を勉強する者にとってはノスタルジアを感じさせる河川名である。
立屋敷遺跡の発見と同じころ、はじめて全国的な視野で弥生土器研究を進めていた関西の研究者は、近畿地方の遺跡でも立屋敷遺跡と同様の文様を持つ土器が出土していることに注目し、これらを一つの関連ある土器と考え、「遠賀川式土器」と命名した。この様式の土器が出土する遺跡では水稲耕作の証拠となる遺物が伴うことから、弥生文化のはじまり、ひいては農耕社会のはじまりを告げる土器として認識されたのである。
弥生文化がどこからはじまったものなのか。弥生土器研究はその後、最古の弥生土器の探求がはじまる。舞台はやはり朝鮮半島に程近い北部九州。先の立屋敷遺跡出土土器よりも古い弥生土器の存在が指摘されてはいたが、五〇(昭和二十五)年の福岡県粕屋郡新宮町の夜臼遺跡や、五一(同二十六)年の福岡市板付遺跡の調査によって、最古と目される弥生土器と、縄文時代晩期末の土器が共存することを確認し、ついに弥生土器の始源に到達した。これらの調査成果から、遠賀川式土器の中でも最も古い北部九州の土器として「板付式」(板付1式)が設定されたのである。
さて、今回紹介する九州国立博物館所蔵の壺形土器は、先の立屋敷遺跡より約二十キロ上流、福岡県飯塚市鯰田大橋上流二百五十メートルの遠賀川の河床から出土したものである。遠賀川には多くの遺跡が存在し、昔から土器や石器がよく出土するものの、明確な遺構が確認できない場合が多い。上流から遺物が流れてきたのではないかとも想像されるが、それにしては本例のような完形の土器も多く、今なお多くの遺構が遠賀川に眠っている可能性は高い。
土器を詳しく見てみよう。口縁部に明瞭(めいりよう)な段差が見られる。この段は遠賀川式土器の大きな特徴の一つであり、この段から上の部分が直線的で外側に開かない本例は、その中でも古く、まさに板付式の特徴を有する。胴部上半部に重弧文(じゅうこもん)が展開し、底部は厚く平たい。この板付式の祖形は朝鮮半島青銅器時代の土器に求められる。
米などを貯蔵する用途と想定される壺形土器は、縄文時代には基本的に存在しないものであり、板付式成立前に水稲耕作の技術とともに朝鮮半島から北部九州に伝わる。貯蔵以外にも、真っ赤に塗って祭りに使用したり、小型のものは墓に副葬したりと、朝鮮半島の風習をも丸ごと受け入れた北部九州の人々にとって、この新来の文化はこれまでの生活や社会を一変させる衝撃的なものであったにちがいない。
ただし朝鮮半島の壺形土器の口縁部には段はなく、文様も持たない。底部も丸いものもある。遠賀川式土器に特徴的な段は縄文土器の中にその要素が認められ、文様は瀬戸内地方以東の縄文土器に見られる構図である。平たい底部は同じく朝鮮半島から伝わった甕(かめ)形土器の平たい底部を、北部九州の人々が壺形土器にも採用したものだろう。このように板付式壺形土器は朝鮮半島から伝わった壺形土器を基礎として、北部九州において、瀬戸内地方以東の影響も受けながらアレンジして成立したものであり、弥生文化の成立事情をよく物語る。
今では北部九州の水稲耕作の証拠は遠賀川式土器よりも古い時期までさかのぼり、その時期を弥生時代早期と呼ぶようにもなった。しかし西日本一帯に目を向ければ、弥生時代のはじまりを告げる土器はやはり遠賀川式土器であり、その中でも最も古いとされる板付式土器の重要性は今なお変わらない。
●遠賀川式土器(おんががわしきどき) 西日本に分布する弥生時代前期土器の総称。段を持つ壺、口縁部が外反する甕(かめ)、それと少量の高坏(たかつき)からなり、壺の胴部に山形文や重弧文(じゅうこもん)などの文様が描かれるのも特徴である。西日本一帯にほぼ似た特徴が見られることから、急速に伝播した土器と理解されるが、その一方で地域による違いも存在し、成立過程に多元説も存在する。もともと伊勢湾沿岸までの分布が考えられていたが、東北地方でも水稲耕作の証拠とともに似たものが見つかっており、水稲耕作の伝播を象徴する土器として知られている。
▼みやじ・そういちろう 1972年生まれ。香川県出身。立命館大学大学院博士前期課程修了。(財)大阪府文化財調査研究センターを経て、福岡県教育委員会文化財保護課で遺跡の発掘調査に携わる。現在は九州国立博物館展示課主任技師。専門は考古学。特に縄文時代から弥生時代への変革期に関心をもつ。