“山東半島→西朝鮮→南部朝鮮”伝播の軌跡
前節で、“水田稲作農耕技術”が菜畑や曲り田など西北九州へ伝播したが、それは朝鮮半島南部からの伝播であった可能性が、極めて高いことを確認した。
そこで、順序が逆になったが、遡って稲作の発祥から、山東半島経由、南部朝鮮までの伝播(いわゆる第2ルート)の様子を調べておきたい。それは、そのルート上から“渡来人”がやって来たかもしれない、その可能性が十分あるからである。
次図は、中国大陸での稲作の面的広がりおよびその時期から、山東半島を経由して西朝鮮に稲作が伝わった様子を、関連遺跡を含めて図示したものである。

@中国国内における稲作の拡散は、王在徳らが提示したデータ(第2部02節)に基づくもの
で、すでに4,000〜5,000年前には、
淮河(中国の畑作・米作境界ライン)を越えて山東半
島まで稲作が到達していた。
それは、山東半島の揚家園の竜山文化の遺跡から、短粒米が出土したことによっても確認
されている。
A山東半島の先端まで稲作が広がっていたことが明らかになると、“山東半島→西朝鮮”と
いう伝播が想定されることは自然である。
これに応えるように、西朝鮮の初期無文土器時代の遺跡・平壌市南京遺跡から、揚家圏と
同形の短粒米が出土した。
また、柱状片刃石斧や扁平片刃石斧は、山東半島から遼東半島へ伝わり、そこで洗練されて南下し、さらに朝鮮南部で“抉り”が施されるようになり、それが抉入り柱状片刃石斧として、菜畑や曲り田に伝わったことが分かっている。 |
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B朝鮮半島の稲作遺跡、南京遺跡を北限として、 欣岩里・松菊里・大坪里遺跡などから出
土するコメは、すべて短粒米で、中国大陸の
淮水(=
淮河)以北の古代米が、すべて短
粒米であることと呼応している。
これは、稲作の伝播が、“山東半島→西朝鮮→南部朝鮮”というルートであることを強く
示唆している。
C大陸・長江ルートについては、次節で検討する。
突帯文土器段階の水田稲作の東進
このようにして到達していた南部朝鮮の稲作が、さらに海を渡って、菜畑や曲り田の西北九州の地をはじめとして、玄界灘沿岸の早良平野(筆者の住地)、福岡平野、粕屋平野に伝播した。このとき、北部九州をはじめ西日本地区は、縄文土器の最終型、突帯文土器文化の時代であった。暦博の新年代観によると、3,000〜2,800年前の200年間のことである。
そしてこの期間は、いまや縄文晩期後半ではなく“弥生早期”と区分されることが多い。
愛媛大学の下條信行は、「古代を考える 稲・金属・戦争−弥生−」(佐原 真編 吉川弘文館)のなかで、玄界灘沿岸部に伝わった稲作は、東北部九州を経由して、 中部瀬戸内に伝播し、さらにそれ以東の瀬戸内、近畿地区に伝わったが、その水田稲作との関わり方がそれぞれ違うので、第1地帯から第2・第3地帯と分けて捉えることを提唱している。
第1地帯で特徴的なことは、稲作の出現を直接的に証明する水田遺構が出土することである。
他地域では、津島江道遺跡で認められる1例を除いて水田遺構は出土していない。
これは、西北九州や北部九州の
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人々は、地理的な近さからも、過去の長い交流の歴史からも、彼らが現地すなわち朝鮮南部で、最新の“水田稲作技術”の優秀性を実際に目で見、体験していた。だから、先祖からの生活パターンである縄文カレンダーに大変革をもたらす、水田稲作というシステムを、それほど躊躇することなく受け入れたのであろう。
その点で第2・第3地帯の人々とは、水田稲作に対する知識も取り組み姿勢も、全く異なっていたのであろう。
(なお、津島江道遺跡の水田遺構は、筆者がかねて指摘していた縄文稲作の二大ブロックのひとつ、岡山ブロックに見出されたものである。この地方の人々の長きに亘る稲作との関わりが、素早い水田稲作導入の決断に繋がったのかも知れない。)
第2・第3地帯からは、水田稲作に伴う農具や堰、畔や炭化米、籾の圧痕、プラントオパールなどが、出土している。しかし不思議にも水田遺構そのものはまだ発見されていない。また農具なども第1地帯のモデルから退歩した形で変容しているケースがある。
おそらくこれは、第2・第3地帯の人々がこの時期、それ程水田稲作を渇望していたわけではなく、試行程度に導入していた、といったところが実態であったのかもしれない。
(詳しくは、研究ノート09.「突帯文期の稲作遺跡について」を参照ください。)
本格的水田稲作文化の渡来
菜畑・曲り田段階の水田稲作技術が、瀬戸内から近畿へ伝播していた頃、より高度な画期的技術水準の水田稲作が、突帯文期の終わりに今度は福岡平野の真中に上陸した。
菜畑・曲り田のそれは既に指摘したように、実は縄文人が主体となって導入したものであった。
しかし、福岡平野や粕屋平野、早良平野の、板付段階の水田遺構は次に挙げる諸理由から、“渡来人”が残したものと考えられる。
この時期、中国大陸では周王室の力が弱まり、550年に及ぶ群雄割拠の時代、いわゆる春秋戦国時代に突入する時期であった。戦乱から逃れて新天地を求めようとする人々が、大陸には発生しつつあったことだろう。
それは玉突きのように朝鮮半島に及び、南部朝鮮から福岡平野や粕屋、早良平野などに及んだに違いない。
1.高度な水田稲作農耕技術
板付ムラの水田は、低い平地に大きな河川から幅2m、深さ1m、長さは1キロ以上に及ぶ大
水路を築いて引水し、堰を設けて水位を調節し、小水路を通じて水田1区画が400uという大区画の耕地に導水し、それをふたたび大水路に回水するという、極めて高度な灌漑技術を駆使した“乾田”であった。
乾田とは水を注いだ時はまさに水田であり、水を
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抜いたときは乾いた田圃になるという現代と全く同じ高度な水田技術である。
それに対し菜畑の水田は、右のジオラマのように谷の勾配地に開田されたため、区画は18〜54uと小規模で、いわゆる “湿田”(水はけが悪く、一年中水の抜けない田)と呼ばれるものである。
区画の中央の水路は |
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排水を主目的にし、板付遺跡の水路のように色々な機能を持ったものではない。
このように明らかに進歩した農耕技術が、新たに伝播した。
2.環壕集落
つぎに、ムラの形成に環壕集落という新しい概念が持ち込まれた。板付遺跡ではまず弥生早
期(夜臼式期)の段階で台地全体(370m×170m)を囲む外壕が造られた。外壕といっても灌漑用水路が主目的で、環濠として明確な目的があったかは疑問があるが・・。
(板付遺跡弥生館発行のパンフレット参照)
つぎに弥生前期(板付T式期)に内壕(110m×81m)が掘られた。(下の写真は内壕)
考古学の 寺沢薫は、環壕の目的を防御機能におくのではなく、ムラの団結力の維持・強化にあったのではないかとしている。
すなわち外壕は居住区域と水田区域を分けるという意味だけでなく、“身内”を認識し「うち」と「そと」の世界を明確にしようという意図があったという。
また内壕は首長などの特定の人々と一般のヒト、あるいは聖なるものと俗なるものを分ける境界の意味があったのではないかと寺沢は言う。すなわち階層差が発生し始めたのである。
(環壕が戦いのバリケードの役割をもつのはもう少し後の時期になる)
1990年、慶尚南道蔚山(いざん)市で韓国無文土器時代中期の検丹里遺跡が発掘された。
この遺跡を初めとして、朝鮮南部で15箇所以上の環壕集落が見つかったことにより、板付遺跡のような環壕集落が水稲農耕とともに朝鮮半島南部から伝来したことが確実視されるに至っている。
すなわち、水田稲作農耕技術だけでなく、 |
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人を支配するという思想や統治能力を持った、集団の渡来が考えられるのである。
3.生活用具
生活用具にも大きな変化が現れた。菜畑・曲り田段階には、縄文土器に新しい器種として壺や高杯が加わったが、製作技術は縄文土器のままだった。
それがこの板付段階になると、縄文土器に代わって焼成温度が高く、文様の少ない素焼きの所謂“弥生土器”が誕生する。この弥生土器は朝鮮南部の無文土器から形や製作技術を取り入れて造られたものである。
 土器作りは、縄文土器も、朝鮮半島の無紋土器も、女性の仕事であった。
その土器が器種だけでなく形や製作技術まで変ってしまうということは、渡来人たちが、集団で、且つ女性を伴って渡来したことを物語るものであろう。
4.松菊里型竪穴住居
板付遺跡の北東、約7kmのところに江辻遺跡(福岡県粕屋町江辻)という縄文晩期から弥生早期の遺跡がある。
その遺跡の中に第2地点と言われる板付遺跡と同時期の環壕集落がある。
その環壕の中には7つの掘立柱建物と11軒の竪穴住居が見出されたが、この竪穴住居がすべて「松菊里型」と呼ばれる、
中央の炉の両脇に柱
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を配する、南部朝鮮独自のものであることが判明した。

このことから、この環壕集落は、朝鮮半島南部から来た“渡来人の集落”であったことが明らかであり、菜畑・曲り田段階の水田稲作が縄文人主導であったのに対し、板付段階のそれは渡来人が主体であったことが、証明された。
(筆者注:江辻遺跡の記述を、初版とこの改訂版とは変えている。文献によって内容に喰い違いが認めら
れたので、実際に江辻遺跡の展示館である粕屋町歴史資料館に出向き、確認して、記述した。)
遠賀川式土器を伴う水田稲作の拡散
従来、北部九州に伝播した水田稲作は2〜3世代、ほぼ半世紀で西日本一帯に広がった、すなわち驚異的な速さで西日本一帯を縄文世界から弥生世界に変えたというのがこれまでの一般的考えであった。当然いわゆる渡来人も恐ろしいほどの勢いで列島の西半分を席巻した、という歴史観が支配していた。
しかし菜畑・曲り田段階の水田稲作が確認され、日本列島への伝播時期が2〜300年遡るとその歴史観は少々緩和された。そして今回の歴博の500年におよぶ年代見直しである。
いまや日本列島に伝播した水田稲作は徐々に、あるときは急速に、あるときは息をつきながら列島各地に広がっていったと言い直さなければならないだろう。
これまで検討してきた水田稲作伝来の年代を簡明に纏めると次のようになる。

この年代観の変更にもかかわらず遠賀川式土器の拡散はかなり早かったようである。
1931年、福岡県中央部を南から北に流れ響灘に注ぐ、遠賀川の川底(水巻町立屋敷遺跡)から紋様豊かな弥生土器が発見されて注目された。それまで北部九州では紋様を持つ弥生土器はほとんど知られていなかったからである。
この立屋敷の土器と共通する土器が中国・四国から 近畿地方に至る各地の遺跡に存在することが注目され「遠賀川式」と命名された。そしてこの遠賀川式土器が弥生土器の中でも古い位置を占めることが明らかとなり、その時期を「前期」と呼び、遠賀川式土器は前期弥生土器の別称となった。
しかも遠賀川式土器が出土するムラこそ、その地方の最初の水田農耕のムラであって、米そのものだけでなく農具類なども付随して出土するのである。 |
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(遠賀川式土器の記事:http://www.nishinippon.co.jp/news/museum/special/051206.html)
そしてこの遠賀川式土器は、下図分布地域内で較べると、各地で出土したものが驚くほど似ているという特徴がある。
土器というものは、時間的・空間的に非常に変化し易いという性質を持っている。にもかかわらず遠賀川式土器が変化せずに北部九州から愛知県西部まで分布していることは、少なくとも2,3世代のうちに、すなわち約半世紀ほどの短期間に拡散したことを物語る。
またこのことは現地の縄文人が、大きな文化的摩擦を惹き起こすことなく、スムーズに遠賀川式土器を作り、使った人々と新しい農耕文化を、受け入れたことを示唆している。
さらにこの地図は西日本地区に、先に説明した突帯文期の水田稲作が伝播し、その後の、弥生期の水田稲作の受け入れの素地すなわち事前の知識があったことが、スムーズに水田稲作文化を受け入れた背景としてあることを示している。
逆の理由で、東日本の亀ヶ岡文化圏では、水田稲作に対する知識が不足していただけに、水田稲作を受け入れる地域は少なかった。受け入れるムラがあったとしても激しい葛藤があったに違いない。
したがって東日本地区では、遠賀川式土器ないしは遠賀川系土器の出土地は、この弥生前期時点では“点在”しているに過ぎないのである。
ただその中で、青森ないし東北地方には、研究ノート05.
で検討したように稲作に関する伝統(言い伝え)があ |
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り、中部・関東地方を飛び越えて、早い時期の水田稲作遺跡があることは注目される。
遠賀川式土器を作り使った人々とは先着の渡来系弥生人乃至その子孫(含む縄文人との混血)であり、あるいは新規に渡来してきた人々であった。
この時期、周知のように大陸では既に周王朝が衰え(東周の時代)、春秋の覇権争奪の時代に入っており、朝鮮半島や中国大陸からの渡来圧力がかなり強かったと思われる。したがってかなり多数の渡来人が日本列島にやってきたと考えてよいであろう。
それは、米の増産がもたらした人口急増中であった北部九州で、深刻な耕地不足を生じさせ、耕地獲得競争が渡来人および渡来系弥生人の東進を促進し、西日本の各地に遠賀川式土器の拡散をもたらしたと考えられるのである。
松菊里型住居の東進
遠賀川式土器に加えて、渡来人および渡来系弥生人の東進を明確に示すのは、松菊里型竪穴住居の分布である。
松菊里型住居が江辻遺跡(弥生早期)に現れてから弥生中期前半まで、この形式の竪穴住居は西日本各地の弥生集落にその痕跡をとどめている。朝鮮南部からの渡来人やその子孫達が東へ移住しながらも、故郷の住居構造を大切に守っていたのであろう。
右図は松菊里型竪穴住居が出土した遺跡の分布図である。渡来人が北部九州から西日本全域に進出して行った様子が良く判る。
そればかりでなく堅田遺跡などでは、弥生前期前半に松菊里型住居が見出される。渡来人やその子孫が弥生時代の非常に早い段階で近畿地方まで達していた確かな証拠と言えるだろう。 |
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以上調べてきた水田稲作文化の痕跡から、菜畑・曲り田段階の小規模な渡来につづき、板付段階すなわち弥生早期末〜弥生前期初めの時期に、渡来人が本格的にかなりの規模で、北部九州の地に現れたことが確認されるのである。


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