日本人の源流を探して

            第3部 弥生文化と渡来人の登場

01.弥生始期の実年代はいつか


  縄文晩期後半の水田発見

 福岡空港南端に程近いところに、板付遺跡はある。
 福岡平野を潤おす御笠川と那珂川に挟まれた、水田耕地としてはまたとない適地にそれはある。また、下の写真からも見て取れるように、水田の隣の小高い台地には環壕集落が築かれている。

 この遺跡は以前から発掘が行われていたが、1978年、縄文晩期の標準的な土器とされてきた突帯文土器の一種、夜臼(ゆうす)式土器だけが出土する層から立派な水田址が発掘された。
 その水田は1区画が400u(20m×20m)と推定される本格的なものであった。
          
 この発見は当時、「農耕」はすべて弥生時代(2300〜1800年前)になってからはじまると信じられていた学界から大変な驚きをもって迎えられた。

 その驚きも覚めやらぬ1980年、さらに古いと思われる2600年前の「日本最古の水田跡」が玄界灘にのぞむ唐津市菜畑で発見された。最古の水田は1区画が4×7m程度と板付遺跡のそれに較べれば小ぶりなものであったが、その土木技術は決して見劣りのしない高度なものであった。   

 その後も縄文晩期後半の水田址発掘が各地でつづき、農耕は弥生時代からという常識は完全に否定された。いまや水田稲作の発生は縄文晩期後半からということが定説化し、縄文晩期後半を弥生時代に組み入れ、弥生前期の前に早期を設定しようという意見も強くなっている。(事実、これから学ぶ国立歴史民族博物館(歴博)の説明などは弥生早期を使っている。)

 弥生始期の実年代はいつか

 考古学などの分野の宿命は、どんなに精緻な論理を展開しても、ただ一片の小さな発見でそれまでの全ての理論体系が瓦解することがあるということであろう。
 水田稲作は弥生前期からとあれほど固く信じられていた学説も、板付遺跡の弥生前期の層のわずか40cm下の層から縄文時代の水田が現れた時、一気に崩れ去った。

 青森県埋蔵文化財調査センターの岡田康博によれば三内丸山遺跡は、江戸時代初期から知られていたし、これまで何度も発掘調査が為されていた。その遺跡から1992〜1994年の調査で思いもかけぬ巨大な都市と膨大な遺物が発見されたのである。
 それまでの縄文観、すなわち縄文文化=狩猟・採集、移動の文化だけでは規定できない、豊かで安定した「文明」とも言える大規模で計画的な集落(都市)が、そこには1,500年の長期間に亘って繁栄していたことが確かめられたのである。
 この発見はそれまでの縄文観や縄文学を完全に覆すものであった。

 これから後も、こうした予想もしない発掘や発見がそれまでの学説や理論を脅かすことであろう。
 国立歴史民族博物館(歴博)が2003年7月25日の特別講演会で発表した「弥生時代の開始年代- AMS年代測定法の現状と可能性 -」は、また、別の角度から学界に衝撃を与えた。
 
 講演会の冒頭、その概略を説明した藤尾慎一郎は
「九州北部の弥生早・前期の土器である、夜臼U式と板付T式の煮炊き用土器に付着して

いた煮焦げやふきこぼれなどの炭化物を、AMSによる炭素14年代測定法によって計測し、得られた炭素14年代を年輪年代法にもとづいた国際標準のデータベース(暦年較正曲線)を使って暦年代に転換したところ、11点の試料のうち10点が前900〜750年に集中する結果を得た。
 このことは本格的な水田稲作の始まりが、これまでより500年近くさかのぼることを意味している。しかも私たちは、本格的
   
な水田稲作が始まった時代を弥生時代と考える立場なので、弥生時代も500年近くさかのぼることになるのである。」こう述べたのである。

 これは歴代の学者が積み上げた「土器の編年」も「中国(既に歴史書が存在する)や朝鮮との国際的関係」もすべてご破算にしてしまうほどの衝撃的発表であった。
 朝鮮半島の年代観の見直しも含めて、歴博は次の年代表を提示した(筆者が一部改変)。
     

 筆者はこの歴博の考えを支持する。筆者は過去の遺産にこだわらず、AMS法(加速器質量分析法)や年輪年代法など最新の技術や研究の成果を正面から受け止め、これまでに構築された学説を再構築し直すことが最善であると考えるからである。徒に過去の手法に拘るべきではない。

 なお、この歴博の特別講演会の詳細については次のURLを参照いただきたい。
 
http://www.rekihaku.ac.jp/kenkyuu/0725/index.html#01

 以上、水田稲作のはじまりは板付、菜畑の発見で200〜300年遡り、弥生早期(縄文・弥生移行期と呼ぶ学者もいる)という時代観を生み出し、C14測定技術の革新や年輪年代法研究の進歩は古年代の較正を精密なものとして弥生早期を3000年前からという、さらに400〜500年遡る年代観に位置づけた。
 これから、この新しい年代観を前提に「基層人」と「渡来人」との関わりを調べてゆこうと思う。

 当然のことながら古年代の較正は、弥生時代だけに適用されるものではなく縄文時代あるいはそれ以前の旧石器時代にも適用される。したがって第1部、第2部で使った年代も今や修正を迫られているのが実情である。 しかし、その修正を筆者が恣意的に行うことは、

 徒に読者の方々と筆者自身の感覚を狂わせることになり、また、修正を加えることが「日本人の起源」を探究するのに寄与することは、少なくとも旧石器時代〜縄文時代まではほとんどない。
 したがって、較正年代をこれまで使ってこなかったのである。
 
   

 しかし、弥生早期からの時代では話が全く異なってくる。
 弥生時代を2,300〜1,800年前とするのと、3,000〜1,800年前とするのとでは、弥生時代の期間が2倍以上違うことになるではないか。
 この違いは歴史観を全く変えてしまうほどである。たとえば、水田稲作の列島全体への伝播速度は、前者では“一気に!”であり、後者では“ゆっくりと”ということになる。
 そういうことから、縄文時代までは従来の年代観を使用し、弥生早期からは新年代観を使うことにしたのであり、また、“使わねばならぬ”と考えるのである。 

 

 *歴博の新年代観が、2009年2月4日の毎日新聞の東京夕刊に取り上げられている。
  (ココをクリックして参照してください)
 
 *歴博は、文部科学省・科学研究費補助金 学術創成研究「弥生農耕の起源と東アジア」と題し
 ニューズレター1号〜10号を発刊しているので、興味のある方は参照してください。
  http://www.rekihaku.ac.jp/research/subsidy/gakujutsu.html
 

     

         
         
         


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