写真家「神立尚紀(こうだち・なおき)」のブログ ※禁無断転載

2011年8月最新刊『特攻の真意~大西瀧治郎 和平へのメッセージ』(文藝春秋)刊行! 2010年新著『祖父たちの零戦』(講談社)7刷好評発売中! ジャーナリズムの現場から単行本出版、大学の教壇まで、写真家(&ノンフィクション作家)の日々。

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 いろいろあって、ちょっとニュースに乗り遅れてしまったが、危惧していた、大変残念なことが起きた。

 元伊藤忠社長で、私も多少のご縁のあった丹羽宇一郎駐日大使が、東京都の尖閣諸島購入計画について「実行された場合、日中関係に深刻な危機をもたらす」との見解を英紙に述べたことが明らかになったのだ。

 これが丹羽さんの真意ならとんでもないことである。


 私が10数年前から現在に至るまで参加させていただいているネイビー会があって、その座長が元伊藤忠専務で、慶大出身の海軍夜間戦闘機搭乗員・水木泰中尉だった関係上、会場にはいつも伊藤忠地下レストランの役員席を使っていた。2007年9月に水木さんが亡くなり、いまは水木さんの腹心の部下で伊藤忠副社長だった三田さんが座長を務めている。気のおけない、居心地のいい集いである。

 そこでお会いした人も多いが、水木さんは、財界の「偉い人」たちに積極的に私を引き合わせてくださった。会計監査法人トーマツの富田岩芳海軍主計大尉らとアメリカンクラブで会食し、ペンタックスをHOYAが買収する、まさにその買収を仕掛けた人から、「カメラ事業は一日も早く止めたい」と本音を聞かされたこともあったし、日銀総裁との会食という、まさに縁(円)遠きはずの機会も作っていただいた。

 かつて、水木さんの部下だった丹羽社長もご紹介いただき、知遇を得た。
 非常にハッキリした大胆な経営改革で、危機的状況にあった会社を立て直した名経営者として、憧憬の念で見ていたものだ。

 水木さんが亡くなった時、「死ねば無に帰する」との水木さんの御遺志から無宗教で行われた千日谷会堂での通夜、葬儀、告別式で、伊藤忠の会社代表として丹羽社長が弔辞を読み、僭越にも当時44歳の私が「友人代表」として弔辞を読ませていただいた。


 かねがね公言していることだが、私は台湾こそ本来の中国であり、中共との日中親善など、まっぴら御免だと思っている。
 しかし、そんな支那の大使に丹羽さんがなり……時おり漏れてくる発言に、ありゃ、この人はどこの国の大使かいな、一国の国益を代表する立場でありながら、自分のいた会社の利益を気にしてるんじゃないか、といぶかしく思ったことが再々ある。


 そしてついに、こんなニュースになってしまった――。


【主張】尖閣発言 国益損なう大使は更迭を
 
http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/column/opinion/567648/


2012/06/09 03:11更新
 丹羽宇一郎駐中国大使が東京都の尖閣諸島購入計画について「実行された場合、日中関係に深刻な危機をもたらす」との見解を英紙に述べたことが明らかになった。

 日本固有の領土である尖閣諸島を守り、実効統治を強めるための計画を真っ向から否定する発言は国益に反しよう。中国による不当な領有権主張を後押ししかねず、更迭すべきだ。

 藤村修官房長官は「個人的な見解であり、政府の立場を表明したものではない」と否定した。外務省は「政府の立場とは異なる」と丹羽氏に注意し、丹羽氏は「大変申し訳ない」と謝罪した。

 しかし、それで済まされる問題ではない。丹羽氏は先月、訪中した横路孝弘衆院議長と習近平国家副主席の会談に同席した際にも、石原慎太郎東京都知事の「尖閣購入」発言を国民の大半が支持していることに「日本の国民感情はおかしい」などと述べている。

 尖閣購入資金として、都へ寄せられた10億円を超す善意の寄付を貶(おとし)めるものだ。外務省は丹羽大使を召還し、一連の発言の詳しい経緯を問いただした上で、厳しく処分すべきだ。

 丹羽氏は伊藤忠商事の社長や相談役を務め、中国政府とのパイプを持つ財界人として、菅直人前政権下の平成22年6月、初の民間出身の駐中国大使に起用された。



 一時は尊敬していた人、それも、畏敬する水木さんのつながりのあった人だけに、残念でならない。丹羽さんは、晩節を汚さぬよう一刻も早くお辞めになって、詰め腹を切るべきだ。

 丹羽さんは社長を離れているとはいえ、伊藤忠は一方で、アメリカからAWACSやPAC3、ヘリコプターなど重要な兵器を輸入している。いま、FX問題で、決まったF35の開発が仮に遅れてFA-18になるようなことがもしあれば、取扱い商社は伊藤忠になる。最近、中国のスパイも新聞をにぎわしていたが、大丈夫なのだろうか。



 さて。水木さんに話を戻すと、水木泰さんは大正9年生まれ、慶応大学出身、学生時代はレスリング部の強豪として知られ、「幻の」1940年の東京オリンピックでは代表になるはずだったという、スポーツマンである。予備学生13期として海軍に入隊、艦上爆撃機、次いで夜間戦闘機の搭乗員になり、本土上空に飛来するB-29と激しい戦闘を繰り広げた。


 戦後は伊藤忠商事で主に鉄鋼の仕事に任じ、豪州、中南米駐在を経て北米総支配人、専務となった。

 私にとっては縁あって交詢社ネービー会の会員に推挙いただいたり、大変お世話になった大恩人である。シャープな人で、怖いようで優しく、周囲の人にもきめ細やかな心遣いをされる、とても剛毅なジェントルマンであった。


 以下、水木さんが87歳で亡くなられた際に、告別式で僭越にも私が読んだ弔辞である。


水木泰さんの思い出

 私は、戦争体験者のインタビューの本を上梓したことがきっかけで、縁あって元海軍戦闘機搭乗員を中心に、若い世代が慰霊行事のお手伝いをしております、「零戦の会」副会長を務めさせていただいております(注:当時)。

 水木さんとお会いしたのは、もう10年ほど前になりましょうか、そんな私の取材活動の一環として、伊藤忠本社内で行なわれていたネイビー会でお会いしたのが最初でした。
 水木さんは、「群れるのは好きじゃない」と仰って、ぶっきらぼうを装っておられましたけれど、それはたぶん照れがそう言わせていたのだと思います。本当はとても仲間・後進を大切になさる人でした。

 私もずいぶん人に引き合わせていただいたり、いろんなことで便宜を図ったりしていただきましたが、水木さんは、人に何かしても、押し付けがましいこと、恩着せがましいことがお嫌いで、何ごとも自然体で、本当に「ぶらない」方でした。私も、水木さんのように年を重ねられたらいいな、と憧れておりましたし、今もその気持ちは変わりません。

 水木さんは、海軍時代は夜間戦闘機の搭乗員として、本土上空で空襲にやってくるB-29の邀撃戦に参加、二人乗りの夜間戦闘機の、前の席で水木さんが操縦、後ろの席に乗っていた偵察員の同期生が、B-29の弾丸を腹に受けて戦死するような、壮絶な戦いをされてこられたわけですが、つねづね、
 「人間、死ねば無に帰る。戦死した連中の魂が、本当に靖国神社の桜になって咲いているかなんてわからないし、慰霊というのは生きてる側の気休めに過ぎないんだよ」
 ……と仰っていました。

 4年前でしょうか、小泉総理の靖国神社参拝で世論が揺れたときも、
 「慰霊なんてのは一人一人の心の問題。みんなで行きましょうという問題じゃないんじゃないか」
 と、ちょっと醒めたご意見でした。ところが、終戦記念日に私たち「零戦の会」の数名が靖国神社にお参りに行ってみたら、なんと人ごみの中で水木さんとバッタリ出会ったのです。

 「あれ、水木さん」と声をかけると、「やあ」って、いつもの、ちょっとはにかんだような照れたようなお顔をなさいました。ご家族にお聞きすると、お正月と終戦記念日のお参りは欠かされなかったとのこと、それを誰にも言わずに、ご自分一人の心の問題として、あの戦争に向き合っておられたのですね。水木さんはそういう方でした。

 水木さんが仰っていた通り、本当に無に帰ってしまわれたのか、それとも意に反してあの世に行かれてこの光景を見ておられるのか、お聞きするすべがないのが残念でございますが、水木さんは、八十七年のご生涯で、接した人すべての心の中に生き続けていかれることと確信します。
 水木さんとお会いできて本当に私は幸せものでした。水木さん、有難うございました。

               平成十九年十月一日  神立尚紀



 

 再度、丹羽さんに申し上げる。どこの国の政府から任命されたかよく考えて、立派な先輩の墓碑銘に泥を塗るような媚中の醜態を晒されることのないよう、自ら身を処されんことを。





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 今日も、ブログを書いているどころではないので、写真を一枚アップします。

  
 

 

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 映画の打ち合わせを深夜に終え、帰宅したら思わぬ事件が。

 とりあえず文章を打つ暇がないのでこれにて。

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 大戦末期に採用された「特攻」の発想自体は、ソロモンでの航空作戦が劣勢に立たされた昭和18年6月頃からあったとされる。

 19年2月、米機動部隊の空襲でトラックの日本海軍泊地が壊滅した時から、具体的な兵器開発などの動きが始まっている。

 マリアナ失陥を経て同年10月、比島決戦で図らずもそれを実行する立場になった一航艦司令長官大西瀧治郎中将の真意を要約すれば、以下のようになる。

 「一度でいいから敵をレイテから追い落とし、講和の機会を作りたい。日本本土に敵を迎え撃つことにならないため、フィリピンを最後の戦場にしないといけない。特攻という手段をとることで、天皇陛下御自らが戦争をやめることをご判断くださるだろう。
 その結果が仮にいかなる形の講和になろうとも、日本民族がまさに亡びんとするときに身をもってこれを防いだ若者たちがいたという事実と、これをお聞きになって陛下御自らのお心で戦争を止めさせられたとの歴史の残る限り、五百年後、千年後に必ずや日本民族は再興するであろう」

 「特攻隊」については人それぞれに受け止め方が違うと思う。
 現在の視点で歴史上の事実を検証することは大切だが、それには常に当時の価値観を俎上に乗せてそれと比較するのでなければ、事実が真実から遊離してしまう。
 ――特攻は、ガダルカナル戦以降で唯一、日本側の犠牲に見合うだけの戦果が得られた戦法でもあった。

 ラバウル、ソロモンで戦った二〇四空(特攻ではない)の零戦搭乗員の戦死率80パーセント超、戦死者の、着任してから戦死までの平均余命3ヵ月なのに対し、昭和20年2月、特攻専門部隊として台湾で開隊した二〇五空搭乗員は、沖縄戦を通じ特攻出撃を重ねたが、戦死率35パーセントという、意外なデータもある。

 もちろん、戦況も条件も全く違うから、これをもって何がどうとは言えないが。




 六月六日、「ソ」作戦に向けて、二〇四空零戦三十二機がブインに、二五一空零戦四十機がブカ基地に進出した。五八二空零戦隊二十四機は、すでにブインで作戦中であった。

 戦闘機だけで行くと敵機が邀撃に上がってこないので、宮野の発案で零戦の一部に爆装(六番―六十キロ爆弾二発)させ、艦爆を装って敵戦闘機を誘い出すことになった。しかし戦闘機に爆装することは、鈍重になる上に、爆弾投下後も爆弾架が空気抵抗となるので、非常に危険な任務である。しかし宮野は、自ら進んでこの役目を引き受けることになった。

 宮野直卒の二個小隊八機が爆装、敵機をおびき寄せて、残る戦闘機がそれを叩きつぶすという算段であった。爆装するのは、宮野小隊・二番機・辻野上上飛曹、三番機・大原二飛曹、四番機・柳谷二飛曹、二小隊一番機・日高義巳上飛曹、二番機・坪屋八郎一飛曹、三番機・山根亀治二飛曹、四番機・田中勝義二飛曹。


 六月七日午前七時十五分、発進。総指揮官・進藤三郎少佐以下、五八二空二十一機、二五一空・向井大尉以下三十六機、二〇四空・宮野大尉以下二十四機、あわせて八十一機の大編隊は、空を圧して進んだ。この日は二〇四空のみが一個小隊四機編成をとり、五八二空、二五一空は三機編成のままである。在ラバウル・ブインの戦闘機隊搭乗員中、最先任である進藤少佐は、五八二空では飛行隊長であると同時に、司令の相談役のような立場にあって、よほど大きな作戦でなければ出撃することはなかったが、いざ出撃する時は、万が一にも総指揮官機が故障で引き返したりすることのないよう、乗機を入念に整備させた上に必ず予備機を用意して、出撃当日は朝早くから試飛行を行うことを常としていた。

 「ルッセル島に向かって南から北へ、爆撃のために緩降下を開始した時、グラマンが二機、向かってくるのが見えました。私は三番機で隊長機の右後ろについているので、左側はよく見えています。逆に四番機の柳谷機は、右側を見ているから敵機は見えてない。隊長、早く爆弾落としてくれないかな、早く、早く・・・と思いながら、やっと投弾したその時、グラマンがダーッと頭上を通り過ぎ、見ると柳谷機が、グラッと傾いて墜ちて行きました」

 柳谷二飛曹は、墜落状態の中で意識を取り戻した。破れた風防から風が轟々と入っていた。柳谷は無意識のうちに右手を伸ばして操縦桿を引こうとした。が、操縦桿がつかめない。見ると、右手の親指一本を残して、他の四本が吹き飛び、血がドクドクと噴き出していた。柳谷は左手で操縦桿を握ると、たくみに機を水平飛行に戻した。操縦席の中は、鮮血で真赤に染まっている。出血で、ともすれば意識が薄れていった。右手と右足には、重い鈍痛が広がっていた。そんな中、柳谷はどうにか、不時着場として使われているムンダの飛行場に着陸することができた。ああ、地面に着いたと思ったとたん、柳谷は意識を失った。

 「ムンダには味方の陸戦隊がいて、気がついたときには、私は小屋の板の上に寝かされていました。そこで、このまま放置すると破傷風で生命が危ない、ということで、名も知らない軍医に、麻酔もかけないまま鋸で右手首を切断されました。暴れるといけないからと、三人の看護兵に押さえつけられ、口には脱脂綿を詰め込まれて、叫ぶこともできませんでした。手術が始まったとたん、ドンッと殴られるような激痛が体中を走りました・・・」

 手首から先がなくなった右手にはグルグルと包帯が巻かれ、血と脂汗にまみれた柳谷は、ふたたび意識を失った。


 柳谷機が編隊を離れた後も、空前の規模ともいえる激しい空戦が続いていた。この空戦の模様は、二五一空分隊長・大野竹好中尉の当時の手記と、二〇四空三中隊一小隊四番機・中澤政一二飛曹の日記でうかがい知ることができる。まずは大野中尉の手記から――。

 「ルッセル島とその西北のブラク島の中間、高度六千メートルから海面に至るまで、恐るべき凄烈なる大空中戦が展開された。そして、我々は今やその巨大な闘争の、荒れ狂う旋風の真っ只中にいた。グラマンがいた。エアラコブラがいた。ボート・シコルスキー、ロッキード・ライトニング、カーチス・トマホーク、おおよそ航空雑誌に出るほどのアメリカの戦闘機のすべてが、総数百二十~百三十機あるいはそれ以上もいたであろうか、次々と雲霞の如く襲いかかってきた。
 今や味方は顕著な四つのグループに分かれ、そのうち二つが最も激烈な死闘を続けていた。二〇四空の二十四機がルッセル島とイサベル島の中間海上で、我々二五一空の二中隊、三中隊の半数、四中隊がルッセル島とブラク島の中間海上で、そして二五一空残余の十二機が隊長・向井大尉の指揮下に、高度七千メートルでこれら死闘する味方の支援に任じ、五八二空の十数機は更に敵を求めて西方にあった。
 敵は刻々数を増して、味方もようやく苦戦の色が見えてきた。深町二飛曹機はP-39一機を仕止めたが、食い下がった他の一機の猛射を浴びて自爆した。遠藤一飛曹はP-38を追い詰めて撃墜した瞬間、急を救わんとがむしゃらに前上方より襲いかかってきた敵P-39をかわし得ずと見るや、猛然体当たりを敢行、自らも微塵と砕けて散った」

 次に中澤二飛曹の日記――。
 「六月七日 ルッセル島航空撃滅戦(ソ作戦第一次)
 予想通り邀撃に舞上がりたる敵G戦、P戦、ボ戦よりなる我々と同勢力の敵機群と遭遇、ルッセルの空を覆う大空中戦を展開す。
 惨敗に屈せぬ敵は戦法を変えて、十機ぐらいずつの分散兵力にて、かつてなき苦戦となり。本隊のみにても、老練なる日高上飛曹を始め、山根二飛曹、岡崎一飛曹等歴戦の勇士が壮烈に戦死す。柳谷二飛曹に至りては降爆中前上方より右腕及び右足に炸裂弾命中、鮮血に座席を染めて左手にて着陸、右腕第一関節より切断するも、不屈の搭乗員魂により万死の中に一生を得て十五日無事に帰還す。我神田二飛曹とシコルスキー協同にて一機撃墜」

 二〇四空は、空戦で十四機(うち不確実二)の撃墜を報じたが、中澤日記にもあるように、爆装隊の日高義巳上飛曹と山根亀治二飛曹(丙三期)が未帰還となり、岡崎靖一飛曹がおそらくF4Uとの空戦中に被弾、自爆戦死した。山根二飛曹は、六空第一陣でラバウルに進出したうちの一人で、これまでに三機撃墜の功があった。他に柳谷二飛曹が右手を失う重傷を負ったのは先述の通りである。これで、山本長官護衛の六機のうち三名が、一挙に欠けることとなった。爆撃のほうは、爆弾一発を飛行場至近に命中させたものの効果のほどは不明であった。

 五八二空はグラマンF4F四機の撃墜を報じ、全機無事帰還。二五一空は合計二十三機(うち不確実五)の撃墜を報じたが、増田勘一二飛曹(乙十一期)、中島良生二飛曹(甲七期)、深町豊二飛曹(丙七期)が自爆、遠藤枡秋一飛曹(乙九期)、松吉節二飛曹(丙三期)、関口俊太郎二飛曹(甲七期)が未帰還と、計六名の戦死者を出している。その他四機が被弾、向井大尉はP-38に撃たれて燃料タンクに被弾、不時着水している。

 日本側の戦果を集計すると、撃墜は四十一機(うち不確実七)にのぼり、わが方の自爆・未帰還も九機を数えた。行動評点は、二〇四空・B、五八二空・C、二五一空・Aであった。連合軍側の記録では、百十機の戦闘機で邀撃し、零戦二十四機を撃墜、七機を失ったと述べている。

 
 南東方面艦隊兼第十一航空艦隊航空甲参謀、三代一就中佐の回想によると、この日、クラスメートの二五一空司令小園安名中佐から、
 「おい三代、ラバウルへ出てきたら最後、生きて帰る搭乗員がいないというのでは士気に影響すると思う。宮野なんかは、もう帰していいんじゃないか」
 と意見され、開戦以来前線に出ずっぱりの宮野大尉の経歴を思い、もっともと思い、宮野の転勤の手続きをとったという。十一航艦司令部が内地転勤の「手続きを取った」からには、宮野には近日中に次の任地が言い渡されるはずであった。

 


 


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 戦後、学制改革で新制中学校ができたとき、教科書は文部省が用意した。そのいくつかを、戦争から帰ったばかりの、まだ20代の元零戦搭乗員の予備士官が執筆したことはあまり知られていない。

 数学の教科書は、戦闘三〇三飛行隊で沖縄、九州上空で戦った、土方敏夫大尉(豊島師範学校―東京理科大)が書いた。

 また、英語の教科書は、神風特攻筑波隊指揮官だった木名瀬信也大尉(東京高師)が書いた。
 木名瀬さんは「英語のできない日本人を大量生産したのは私の責任かも」と、時に自責の念をもらされることがある。

 当時、文部省と業者が癒着して、原稿が事前に流出し、教科書が出る前に「虎の巻」が売り出されてしまい、嫌になって文部省を辞めたとも。


 私が中学生の頃には、もちろん教科書は代替わりしているが、主要五教科の中でも私が大いに苦手にしていた数学と、苦手意識のあった英語、これら二教科の中学教育の基礎となったのが、よりによって敬愛する土方さんと木名瀬さんだったとは、世の中ほんとうにおもしろい。

 中学校の先生に土方さんや木名瀬さんがいれば――つまり、いまこのお二人に接するのと同じぐらい真剣に数学、英語の授業を受けていれば――二教科とももっと好きになって、違う道を歩んでいたかもしれない。


 写真は、土方さんにいただいたR32スカイラインGTS-tTypeMの今日の姿。登録から22年経つが、コンピューターや燃料タンク、ブレーキなどの部品を新品に取り換え、いまも絶好調である。走行距離はまだ76000キロほど。希少なフルノーマル車でもある。

  


 このスカイラインのステアリングを握るたび、数学に苦戦した中学時代を思い出し、不思議なご縁だなあ、とつくづく思う。




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 敬愛する元零戦搭乗員・土方敏夫大尉の「予備学生のつぶやき」より。

 こんなシーンが映画で再現されればキレイなのではないかと思うのだけど・・・・・・。


予備学生のつぶやき・円形の虹

 予備学生の土方です。例によってとりとめのないつぶやきです。

 皆さんは、虹は半円形のものと思っていらっしゃる方が、殆どではないでしょうか。あるいは、旅客機に搭乗され、窓から丸い虹をご覧になった方もおられると思います。
 私が丸い虹を見たのは、沖縄戦で鹿児島基地を飛び立ち、屋久島の上を過ぎ、そろそろ奄美大島が左手に見える頃でした。下の方は、真っ白な雲の絨毯で、所々に雲の峰が立ち美しい光景に見とれているときでした。飛んでいる下方に、円形の虹が見えました。

 へー、虹は上から見ると丸いものなのだ、ということをその時に始めて知りました。自分の眼が、円錐の頂点にあって、そこから底面を見ている具合ですから、虹が丸く見えるのが本来の姿なのですね。地上にいる私たちは、円錐形の底面の半分を、地平線もしくは、水平線によって区切られますから、半円の虹しか見られないわけです。
 この丸い虹を見たときは、ヒコーキ乗りになって本当に良かったと思いました。これから行く先は地獄の3丁目とは知りつつも、円形の虹は実にきれいに見えました。

 陸軍の方達のように、血だらけの姿態を目の当たりに見ることはなく、青空と雲と海の中で、火を噴いた飛行機は狂女が髪を振り乱して踊りまわるような姿で落ちていきます。海の上には、撃墜されたヒコーキから漏れたガソリンが作る大きな縁の輪が広がって、海の紋章を描いています。

 戦闘機の搭乗員が、思い出す空中戦には、あまり血生臭いものがないのです。いつかはああなるとは思っても、そんなに悲惨という感じはないのです。
 これから熾烈な戦いがはじまると思っても、丸い虹はすごく綺麗に見えました。戦闘機乗りになって本当に良かったと思いました。



 


 


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 留守番電話に入るメッセージには、その人の個性が現れる。

 留守番電話がめずらしくなくなった最近はそれほど感じなくなったが、29年前、私が初めて留守番電話を自室の電話に取り付けた(受話器と別の、Wカセットタイプの大きな機械だった)頃から10年ほど前、テープがICに変わるころまでは確かにそうであった?。

 私が、零戦搭乗員を始めとする元海軍さんの取材を始めた頃は、個人の携帯電話を持ったばかりでそれには留守電機能がなく、取材相手との連絡手段としては自宅電話の留守番電話が頼りであった。だが、まだ留守番電話というものが世の中に浸透しきっていない。

 はじめは、歴戦の中攻搭乗員Hさんのように、
 「なんじゃこりゃ、あー、あー、何も言わんわ。おい婆さん、こりゃどうすりゃ・・・・・・」プープープー・・・・・・というのもあったし、進藤少佐のように、
 「本日、貴信拝受。原案通りで異存なし。終り」ガチャリ
 とまさに海軍の電文調の人もいたし(話の最後を「終り」で〆るのは海軍士官に身についた特徴の一つである)、志賀少佐のように、かけてこられるたび、
 「海軍の志賀です」「志賀少佐です」「ハアイ神立さん、シ・ガ・です」「え、いつも部下たちがお世話になっております。飛行長の志賀少佐です」
 とバリエーション豊富な方もいた。

 シンプルでカッコよかったのが、
 「零戦の小町です。電話ください」ガチャリ、
 というメッセージ。小町さんのキャラクターにピッタリであった。

 知らない人は知らないだろうが、元気な頃の小町さんの迫力は半端ではなかった。私が、過労や胃潰瘍でしばらく動けなかった時にそんなメッセージを頂き、恐る恐る電話をかけると、小町さんは、「おう、あんた最近ちっとも顔出さないと思ったら体調崩してたんだって。大原から聞いたよ。若いんだから大事にしてくれよ。元気になったら顔出せよ」
 …これには感激した。会えば文句ばかり言われるのに、時おり見せるこんな暖かさが、私が小町さんを敬愛してやまない理由であった。

 そんな、留守電のメッセージが楽しみであった頃が懐かしい。

 いまはどうして、どうでもいいような、できれば避けたい用件のメッセージしか入らないのだろうか。




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 元零戦搭乗員を始め、のべ500名を超える戦争体験者(元軍人、技術者など。「子供の頃空襲に遭った」人などは「戦争体験者」とは呼べないと思う)のインタビューをしてきたが、ほとんどの方が、家族にさえも戦争の話をせず、沈黙を守ってきた人たちだった。

 沈黙の理由はいろいろある。体験があまりに凄惨であったり、亡き戦友に対する慙愧の念もあるのだろう。最前線に出た零戦搭乗員は8割が戦死しているのだから。「敗戦国の軍人が手柄話をするなどもってのほか」という声もしばしば聞かれた。


 しかし、「話を聞く側」の姿勢の要素も大きいと思う。インタビュー中、横で聴いていて、「でも負けたんでしょ?」と一言でご主人を黙らせてしまった、ある飛行隊長の奥様がいらっしゃった。
 息子や娘だと、「戦争体験者」ではなく肉親としての父親だから、どうしても反発や複雑な感情が生じる。といって、「人」にはあまり興味のないミリタリーマニアが、零戦は何色だ、とか、あれが欲しい、これが欲しいと言ってくるのも迷惑だ。


 いまようやく、孫の世代になって、虚心坦懐に話を聴きたいという人が増えた。とてもよいことだと思うが、ちょっと遅かった。


 概算で、1995年1100人がご存命だった元零戦搭乗員は、2002年には800人になり、2012年現在250人である。最年少が86歳、最年長は96歳だ。

 しかも、そのほとんどは日米開戦後の入隊入団で、大東亜戦争初期からの搭乗員はごく少ない。
 真珠湾攻撃参加搭乗員でいうと、全機種合わせた参加搭乗員777名中戦争を生き残ったのは約150名、それが2001年の60周年には30人になり、2011年の70周年には一桁になっていた。いま私が把握しているのは3人のみである。













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 今日、6月5日は、ミッドウェー海戦から70周年の日である。
 戦争が終わって67年になろうとしているが、この失敗から日本人が学ぶべきことはまだまだ多いと思う。いまの民主党内閣など、まさに当時の聯合艦隊司令部と同様の過ちを犯しているようにも思える。
 長文になるが、拙著『零戦隊長~二〇四空飛行隊長宮野善治郎の生涯』(光人社)から抜粋する。禁・無断転載。




 日露戦争で、東郷平八郎司令長官率いる聯合艦隊がロシア・バルチック艦隊を撃滅した日本海海戦より三十七年目の海軍記念日にあたる昭和十七年五月二十七日、第一機動部隊各艦は広島湾を出撃した。翌日、翌々日にかけて、支援部隊、主力部隊と称する大艦隊も、続いて瀬戸内海を出港した。まさに威風堂々。しかしその内実は、ハワイ作戦の時とちがって、非常に心もとないものであった。

 艦の乗組員は南方作戦の疲れが癒えず、しかも飛行機隊搭乗員の補充交替が完了したばかりで、その訓練内容は基礎訓練の域を脱していなかった。戦闘機隊の訓練も、単機空戦と単機射撃を実施しただけで、編隊空戦は一部の熟練者にとどまり、それも三機対三機までである。艦攻、艦爆も合わせて、開戦直前の練度には程遠く、戦力の低下は目に見えていた。水上艦艇も同様。機動部隊の総合力そのものが、知らぬ間に大きく目減りしていたのである。

 それでいて、鎧袖一触であったこれまでの戦果への過信が緊張感を欠如させ、機密保持にも作戦にも緩みを生じさせていた。

 日本側は、敵の動向を探るため、二式大艇で真珠湾を偵察、米空母の存在を確認するK作戦を計画したが、これは、中継地点になるはずであったフレンチフリゲイト礁に敵水上艦艇や飛行艇がいたために、燃料補給ができなくて中止された。また、ハワイとミッドウェーの中間海域に十一隻の潜水艦を配置したが、時すでに遅く、ハワイを出撃した米機動部隊は、そこを通過してミッドウェー北東海域に進出した後で、何らの有力な情報も得ることはなかった。

 ところが、米海軍は日本海軍の暗号書Dをほとんど解読し、全力をもって反撃態勢を整えていた。エンタープライズ、ホーネット、ヨークタウン、三隻の空母を中心とする米機動部隊は、日本艦隊を虎視眈々と待ち構えていた。



 それでも、戦力において勝る日本艦隊は、戦いようによっては勝てたかも知れない。しかし、過信、慢心で緩んだ作戦には、あちらこちらにほころびの種が潜んでいた。
 一つは、六月四日、機動部隊のはるか後方にいた山本聯合艦隊司令長官座乗の旗艦大和で、敵空母らしい呼出符号を傍受しながら、先任参謀黒島亀人大佐が「機動部隊の赤城でもこれを傍受しているだろう」と握りつぶし、機動部隊に伝えなかったこと。実際は、機動部隊ではこの敵電波をとっていなかった。

 もう一つは、作戦目的が「島の攻撃・攻略」か「敵機動部隊の誘出・撃滅」かということが実施部隊に徹底されていなかったこと。機動部隊の航空作戦は、上陸予定のN日マイナス二日の六月五日に開始されることになっていた。この日、ミッドウェー島攻撃に出撃した攻撃隊指揮官・友永丈市大尉は、戦果が不十分と見て「第二次攻撃の要あり」と打電、機動部隊でも、それに応じて、敵艦隊攻撃のために準備していた第二次攻撃隊の兵装を転換する騒ぎになった。これは、作戦目的が明確にされていれば避けられたはずの事態であった。

 次に、索敵と情報の分析。
 当初の予定では、艦攻のうち十機を索敵に回し、万全の索敵態勢をとって臨むはずだったが、機動部隊司令部の状況判断の甘さから、索敵機の機数を大幅に減らし、しかも発進時刻を遅らせてしまっていた。

 空母加賀と第八戦隊の巡洋艦利根、筑摩から出した索敵機は七機(うち九七艦攻一)、一段索敵で七本の索敵線である。これはあまりにも少なかったし、しかも、索敵機発進は対潜哨戒機を出した後のことで、付近に敵空母は存在しないという先入観に支配されていたととられても仕方のない生ぬるさであった。

 その上、各索敵線で発進が遅れがちになり、特に利根四号機の発進は三十分も遅れてしまう。その、遅れて発進した四番索敵線の利根四号機(機長兼偵察員・甘利洋司一飛曹・甲飛二期)が、予定索敵線から北に百五十浬もはずれた方角で、十隻の敵艦隊を発見するのである。さらに約一時間後、粘り強く触接を続けた同機はついに「敵空母らしきもの」一隻の発見を報じてきた。

 「らしきもの」という表現については、確認しているうちに撃墜されると元も子もないので、それらしきものを発見したらまずそう通報するように、偵察員は教育されているのである。「まず第一報を入れよ、その解釈は司令部が考える」というのが、洋上索敵の大前提なのであった。


 低速の甘利の水偵が、敵戦闘機や防御砲火を避けつつ、ここまで触接を続けられたのは大変な努力の賜物であった。(甘利機が予定コースを大幅に外れていたことについては、甲飛同期生の小西磐少尉が戦後、精密な類推を試みている。これは甘利の航法ミスではなく、日米の記録を照合すると、この時、利根航海士が天測で出して、搭乗員に伝えた出発位置そのものに誤りがあり、実際の出発点から索敵線を引けば、甘利機のコースとピタリ一致するという)


 戦後書かれた戦記では、敵艦隊発見の殊勲を讃えられるべき甘利機に対し、赤城飛行隊長・淵田美津雄中佐(のち大佐)が、奥宮正武中佐と戦後著した「ミッドウェー」をはじめ、あたかも同機の出発の遅れが決定的な敗因であったかのような記述が幅をきかせている。甘利一飛曹を、まるで役立たずの未熟者のような書き方をしているものもある。しかしこれは、「甘利をスケープゴートに仕立てて、作戦失敗の責任をかぶせるために狙い撃ちにした、悪質な欺瞞」(飛行科予備学生六期の水偵搭乗員・戸澤力大尉)なのであった。

 敵艦隊発見の一報から数十分遅れて、南雲司令長官は、ふたたび第二次攻撃隊の雷装を命じる。一刻を要する戦いの最中に、機動部隊のとった行動は、ことごとくとろくさいものであった。南雲中将はもともとは水雷屋だから、航空戦についてはいわば素人である。その判断の鍵を実質的に握っているのは、航空参謀・源田實中佐であった。艦隊の隊員たちが、自らの機動部隊を公然と「源田艦隊」と呼ぶほど、その影響力は強大であった。その源田中佐が、大切な時に判断を誤った。陸用爆弾でも命中しさえすれば敵空母機の発着艦を封じることはできる、あの時、兵装転換などさせずに即座に攻撃隊を出しておけば……というのは、戦後延々と言われ続けている繰言である。


 甘利機の話題に隠れて見落とされているのが、甘利機の北隣り、五番索敵線を飛んだ、筑摩一号機(都間信大尉・海兵六十六期)の失態である。同機は甘利機より先に、敵機動部隊のちょうど上空を通過しながら雲の上を飛行していて発見できず、しかも敵艦爆と遭遇しながら報告もせず、索敵機としての任務をいわば放棄していたのである。

 加賀を発進し、二番索敵線を担当した、九七艦攻としては唯一の索敵機の機長、吉野治男一飛曹(甲飛二期、のち少尉)は、今も憤りを隠さない。

 「雲の上を飛んでいて、索敵機の任務が果たせるはずがない。私のこの日の飛行高度は六百メートルです。低空を飛んで、水平線上に敵艦隊を発見した瞬間に打電しないと、こちらが見つけたときには敵にも見つけられていますから、あっという間に墜とされてしまう。敵に遭えば墜とされる前に、どんな電報でもいいから打電せよと私は教えられていました。たとえば、『敵大部隊見ゆ』なら、『タ』連送、『タ』『タ』『タ』そして自己符号。それだけ報じれば、もう撃ち落されてもお前は殊勲甲だと言うんですよ。それなのに、雲が多くて面倒だからと雲の上をただ飛んで帰ってくるなんて、言語道断です。本人は生きて帰って、戦後そのことをしゃあしゃあと人に語っていたのですから、開いた口がふさがりませんね」

 甘利機に続いて敵艦隊との触接に成功した利根三号機(九五式水偵)、筑摩五号機(零式水偵)は、ともに未帰還となっているだけに、都間大尉のとった行動は、悪く言えば敵前逃亡ととられても仕方のないものであった。



 ……いくつもの過失や怠慢がほころびとなり、それがついに大きく裂ける時が来た。
 日本の機動部隊が第二次攻撃隊の準備に追われている間に、ミッドウェー島を発進した敵機が相次いで来襲していた。

 蒼龍乗組の原田要一飛曹(操練三十五期)はこの日、上空哨戒の戦闘機小隊長として、二番機岡元高志一飛曹(操練四十三期)、三番機長澤源蔵一飛(操練五十期)をしたがえて、暁闇をついて発艦した。上空からミッドウェー島攻撃隊の発進を見送り、所定時間を終えて一旦着艦、艦橋脇の飛行甲板で朝食の握り飯を食べ始めた頃、対空戦闘のラッパがけたたましく鳴り響いた。原田は語る。

 「落下傘バンドをつける間もなくふたたび愛機に乗り発艦すると、水平線すれすれに敵機の大群が見えました。これは雷撃機だと直感、一発も命中させてなるものかと、各艦から発艦した戦闘機は一斉にそれに襲いかかりました。当時のわれわれの常識では、艦にとっていちばん怖いのは魚雷、ふつう、二百五十キロ爆弾ぐらいで軍艦が沈むことはない、ということになっていましたから、急降下爆撃機のことはまったく念頭にありませんでした。無線が通じないので、上空直衛の間、母艦からの命令や連絡は一度もなく、自分の目で見える範囲で対処するしかありませんでした」

 戦闘機隊は敵雷撃機のことごとくを撃墜、わずかに放たれた魚雷も巧みな操艦により回避される。弾丸を撃ちつくした原田一飛曹は敵襲の合間を見て着艦。愛機には、敵の機銃弾で無数の弾痕があり、使用不能と判断されて即座に海中に投棄された。一服する間もなく、またも敵襲で予備機に乗り換えて発艦。敵はふたたび雷撃機、原田は列機とともに敵機の後上方から反復攻撃をかける。


 「その時、三番機の長澤が、私の目の前で敵雷撃機の旋回銃の機銃弾を浴び、火だるまとなって戦死しました。あれは、私の誘導が悪かった。私が一機を撃墜して次のを狙う時に、内地で訓練している時と同じようにスローロールを打って連続攻撃をかけようとして、二番機、三番機もそれにならってきたんですが、それが敵に大きく背中を見せる形になってしまった。それで、敵が私を狙って撃った機銃弾が、同じコースを遅れて入ってきた列機に命中したんです。……本当に、列機がやられるのを見るほど、辛いものはありません」


 長澤機の最期を見届けた原田が、気を取り直して周囲を見渡すと、そこには信じられない光景が広がっていた。
 つい先ほどまで威容を誇っていた加賀、赤城、蒼龍、三隻の空母から空高く立ち上る火柱。零戦隊が海面すれすれの敵雷撃機を攻撃している間に、上空から襲ってきた急降下爆撃機の投下した爆弾が、相次いで命中したのである。母艦の格納庫では、作戦の混乱による雷装、爆装の転換作業で信管をつけたままの魚雷や爆弾がごろごろしており、それらが次々に誘爆を起して大火災になった。



 最初に被弾したのは加賀である。

 索敵任務を終えた吉野一飛曹の九七艦攻が味方艦隊を水平線上に認める位置まで帰ってきたところ、はるか前方を、小型機が一機また一機、低空を東の方向に飛んでゆくのが見えた。味方機ではない。吉野は胸騒ぎを感じた。

 「加賀の上空に着いて着艦の発光信号を母艦に送ると、間もなく着艦OKの旗旒信号があり、着艦しました。七時五分頃と思います。着艦できたということは、この時点では飛行甲板は空の状態ということです。つまり、よく言われる『運命の5分間』など存在しなかった。
 報告のため艦橋の下まで行くと、艦橋から飛行長が、『敵機の編隊が近づいている。報告は後にしてくれ』と大声で言うので、そのまま艦の後部、飛行甲板の下にある搭乗員室に向かいました」(吉野談)

 搭乗員室に入るところの、飛行甲板脇のポケットに、仲間の搭乗員が大勢出ていた。口々に、吉野が着艦する直前に敵雷撃機の攻撃を受けたが、敵の雷撃技術は拙く、魚雷は全部回避したこと、敵機の殆どを上空直衛の零戦が撃墜したことなどを、興奮状態で話してくれた。

 「搭乗員室に入って、飛行服を脱いでいると、突然、対空戦闘のラッパが鳴り響き、搭乗員室の真下にある副砲が、轟音を上げて発射されました。敵雷撃機の来襲です。私は、飛行服の下に着ていた白い事業服のまま、あわてて先ほどのポケットに飛び出しました」(吉野談)


 対空機銃は懸命に応戦している。すると、機銃指揮官が、指揮棒を上空に向けて、何かを叫んだ。見上げると、敵急降下爆撃機が雲の間から突っ込んでくるところであった。初弾が、艦橋に近い飛行甲板に命中した。時に、七時二十三分。艦橋が炎に包まれ、艦長は即死したと伝えられるが、この時、艦橋の近くにいた艦攻隊分隊士・森永隆義飛曹長(乙飛四期)は、「天皇陛下万歳」を叫ぶ艦長・岡田次作大佐の声を確かに聞いたという。

 加賀には四発の爆弾が命中したが、そのうち一発が艦橋下の搭乗員待機所を直撃して、そこにいた艦爆分隊長・小川正一大尉(海兵六十一期)をはじめ、六十五期の艦攻分隊長・福田稔、三上良孝両大尉が戦死するなど、大勢の搭乗員が命を落とした。

 米軍の搭乗員は、ほとんど全てが飛行経験二年未満の、未熟な若いパイロットであった。撃墜された米軍搭乗員の戦死者の六割は、満二十三才以下の若さであったという。しかし、その若者たちが、日本艦隊に目に物を言わせようと、本気で、死にもの狂いで戦いを挑んできたのである。日本側の少なくとも艦隊司令部は、気迫の面においてまず、この米軍搭乗員たちに遠く及ばなかった。

 加賀の被弾から二分後、赤城、蒼龍にも相次いで敵艦爆の爆弾が命中した。
 旗艦赤城の被弾は二発で、爆撃そのものによる被害は比較的少なかったが、一弾は後部飛行甲板を貫いて下甲板で爆発し、舵機故障を引き起こした。やがて、火災が敵機動部隊攻撃のために用意されていた九七艦攻に引火、誘爆を起こし、大火災となる。

 蒼龍も、加賀、赤城と同様の運命をたどった。蒼龍偵察機分隊長として、新鋭の十三試艦爆(のちの彗星)二機を所管していた大淵珪三大尉(のち少佐、海兵六十六期。戦後、本島自柳と改名)は語る。十三試艦爆は、高速偵察機としての用途のために、機動部隊に二機だけが搭載されていた。大淵大尉はこの時偵察員であったが、ミッドウェー海戦後、横須賀航空隊で操縦員としての転換教育を受けた。戦後は慈恵会医科大学に入って外科医となり、総合病院を経営する。

 「利根索敵機の敵発見の報を受け、午前五時半に十三試艦爆二〇一号機(操・飯田正忠一飛曹、偵・近藤勇飛曹長)を敵艦隊触接のため発艦させました。私は、その次の直で出ることになっていました。私の飛行機の操縦員は、染矢岩夫一飛曹です。
 すでに、敵の艦上機らしいものが、入れ替わり立ち替わり攻撃に来ていました。飛行長・楠本幾人中佐に、おい分隊長、そろそろ出番だぞ、と言われて、航空図に必要事項を書き込んで、飛行服に着替えようとしたところでバーンとやられたんです。
 敵の急降下爆撃機は、雲量四~五の雲をうまく利用して爆撃を加えてきました。艦首に第一弾、続いて第二弾が飛行甲板中央に命中しました。私は発着艦指揮所にいましたが、爆風で飛ばされて転倒しました。幸い雨衣をつけていて、露出部分がなかったので負傷はありませんでしたが、雨衣の背中は黒焦げになっていました」

 初弾の命中が七時二十五分。三発の命中弾が艦内の誘爆を呼んで、蒼龍は大火災となった。艦長・柳本柳作大佐は、七時四十五分、「総員退艦」を下令した。



 最初に沈んだのは蒼龍であった。生存乗組員は午後三時までに、駆逐艦濱風、磯風に移乗を終えたが、四時十二分、蒼龍は艦首を上げ後部から沈んでいき、八分後、水中で大爆発を起した。柳本艦長は、艦と運命をともにした。

 加賀は、味方魚雷で処分されることになった。
 「私は海に飛び込んで二時間後、駆逐艦萩風に救助されました。夕日の沈む頃、萩風は加賀に近づきました。加賀の、艦首から艦尾にかけての格納庫は焼け落ちて、ほんの数時間前までの威容はまったくありません。それでも上甲板以下はしっかりしていて、元は戦艦として建造された面影をとどめていました」(吉野一飛曹談)

 吉野を救助した萩風と舞風の二隻の駆逐艦が、二本ずつの魚雷を加賀に放った。この時、静止状態の、しかも味方艦を処分するのに、舞風の魚雷は命中しなかったという少々お粗末な余談が残っている。午後四時二十六分、加賀沈没。救助された加賀乗組員たちは、挙手の礼でこれを見送った。すでに単なる鉄塊と化して沈んでゆく加賀の姿に、吉野は涙も出なかったという。


 赤城は機関部には何らの損害もなかったが、鎮火の見込みがなく、夜になって艦長・青木泰二郎大佐は「総員退艦」を命じた。第四駆逐隊の駆逐艦嵐、野分、萩風、舞風から一本ずつの魚雷が発射され、翌朝、赤城も海面から姿を消した。


 たまたま、魚雷回避のため転舵して、他の三隻と離れていたために無傷で残った飛龍は、ただ一隻で反撃を試みた。飛龍は第二航空戦隊の旗艦で、司令官は山口多聞少将であった。

 加賀、赤城、蒼龍の被弾から約三十分後の午前七時五十七分、飛龍では小林道雄大尉(海兵六十三期)率いる艦爆十八機を、一部(五機)は陸用爆弾を積んだまま、六機の戦闘機とともに敵空母攻撃に発進させる。この艦爆隊の一部は敵空母の攻撃に成功、六弾を命中させ(実際には三発)、大破炎上を報じたが、帰艦できたのは戦闘機三機、艦爆五機に過ぎなかった。

 十時二十分、艦爆隊が艦隊上空に帰ってくる。十時三十分、友永大尉率いる艦攻十機(雷装)、戦闘機六機の、後世言われるところの「友永雷撃隊」が、司令官以下の見送りを受けて発進。飛龍艦攻隊の丸山泰輔一飛曹(のち少尉、甲飛三期)は、
 「周りで三隻の空母がボーボー燃えている中でね、山口司令官はわざわざ艦橋から降りて、われわれ出撃搭乗員三十六名、一人一人の手を両手で握って、仇を取ってくれと見送ってくれました」
 と回想する。進撃高度三千メートルで飛ぶこと一時間、敵艦隊発見。友永大尉が「トツレ」(突撃準備隊形作れ)を下令する。雷撃隊は友永大尉の第一中隊五機と、橋本敏男大尉(海兵六十六期)の第二中隊五機に分かれ、敵空母を挟撃する態勢に入った。この敵空母は、わずか数時間前に艦爆隊の命中弾で大破したはずのヨークタウンであったが、驚異的な復旧作業により、日本側が新手の米空母と誤認するほどの快走を続けていた。

 敵戦闘機や対空砲火の反撃は熾烈を極めたが、結果的に、友永中隊が敵戦闘機を引きつける形になり、射点につく前に五機全機が撃墜されたものの、橋本中隊が雷撃に成功、二本の魚雷命中を報じた。飛龍では、なおも残存機を集めて第三次攻撃の準備に入った。


 「帰艦すると、艦橋のあたりは騒然としていました。報告もそこそこに、搭乗員室で戦闘配食の握り飯を食べ始めました。考えてみたら、朝から何も食べていなかったんです。ところが、一息つこうとしたその途端に対空戦闘のラッパが鳴って、来たな、と思ったらダダダーンと爆弾が命中しました。あとは他の三隻と同じ運命です」(丸山一飛曹談)

 蒼龍戦闘機隊の原田要一飛曹は、蒼龍が被弾したために唯一無傷でいた飛龍に着艦していたが、被弾の直前、整備のできた零戦で、上空哨戒のためただちに発艦するよう命じられた。

 「早く上昇して敵機を墜とさなければ、と気は焦るばかり。高度が五百メートルに達した頃、ふと後を振り返ると、飛龍にも火柱が上がるのが見えました。その時私は、日本は負けた、と思って目の前が真暗になりました」(原田一飛曹談)

 原田は、期せずして第一機動部隊を最後に発艦した搭乗員となった。原田は燃料が切れるまで上空哨戒に任じ、夕闇迫る海面に不時着水、四時間の漂流ののち、探照灯を照らして生存者を探していた駆逐艦巻雲に、奇跡的に救助された。

 日が暮れて敵機の空襲がやむと、飛龍には駆逐艦が横付けして、ホースで飛龍の弾火薬庫に注水を始めたが、やがて機関が停止、日付が変わった六月六日未明、山口司令官は艦の処分を決定する。
 「生存者総員飛行甲板へ、という命令で上がっていきましたが、機銃のポケットには焼け焦げた死体がごろごろしていて、ものすごい臭気を放っていました。飛行甲板の真ん中は焼け落ちて、まるで大きな盥のようになっていました」(丸山一飛曹談)

 総員退艦の命令が出て、丸山たち生存者は、夜明け前に短艇で駆逐艦に移乗、飛龍は自ら艦に残った山口司令官、艦長加来止男大佐を乗せたまま、味方魚雷で処分された。

 「遠ざかってゆく飛龍を見ながら、女々しいとは思いましたが、止めどもなく涙が溢れてくるのを抑えられませんでした」(原田一飛曹談)

 実際には飛龍はその後しばらく浮かび続けていて、後方の主力部隊から状況偵察に飛来した空母鳳翔の九六艦攻がそれを発見、しかも飛行甲板上には生存者の姿もあって聯合艦隊司令部があわてることになるのだが、この時、機関室からやっとの思いで脱出し、飛龍沈没後は短艇で漂流、米軍に救助され捕虜になった萬代久男機関少尉(海機五十期。平成十六年歿)の話によると、萬代たちが飛行甲板に上がった時には艦橋に人影は見えず、司令官も艦長もすでに自決していたのではないかという。
 山口司令官は、かつて伊勢艦長時代に、「迷った時は死を選べば武人として間違いはない」と若手士官に教えていた通り、事ここに及んで、自ら死を選んだのである。



 ミッドウェー海戦は、日本側は主力空母四隻と巡洋艦三隈が沈没、母艦搭載の全機、二百八十五機(戦史叢書の推定)と水偵二機を失った。対して、米側の損害は、大破して漂流中の空母ヨークタウンが、日本の伊号第百六十八潜水艦の雷撃に止めをさされて、駆逐艦一隻とともに沈没、飛行機喪失百五十機であった。