いろいろあって、ちょっとニュースに乗り遅れてしまったが、危惧していた、大変残念なことが起きた。
元伊藤忠社長で、私も多少のご縁のあった丹羽宇一郎駐日大使が、東京都の尖閣諸島購入計画について「実行された場合、日中関係に深刻な危機をもたらす」との見解を英紙に述べたことが明らかになったのだ。
これが丹羽さんの真意ならとんでもないことである。
私が10数年前から現在に至るまで参加させていただいているネイビー会があって、その座長が元伊藤忠専務で、慶大出身の海軍夜間戦闘機搭乗員・水木泰中尉だった関係上、会場にはいつも伊藤忠地下レストランの役員席を使っていた。2007年9月に水木さんが亡くなり、いまは水木さんの腹心の部下で伊藤忠副社長だった三田さんが座長を務めている。気のおけない、居心地のいい集いである。
そこでお会いした人も多いが、水木さんは、財界の「偉い人」たちに積極的に私を引き合わせてくださった。会計監査法人トーマツの富田岩芳海軍主計大尉らとアメリカンクラブで会食し、ペンタックスをHOYAが買収する、まさにその買収を仕掛けた人から、「カメラ事業は一日も早く止めたい」と本音を聞かされたこともあったし、日銀総裁との会食という、まさに縁(円)遠きはずの機会も作っていただいた。
かつて、水木さんの部下だった丹羽社長もご紹介いただき、知遇を得た。
非常にハッキリした大胆な経営改革で、危機的状況にあった会社を立て直した名経営者として、憧憬の念で見ていたものだ。
水木さんが亡くなった時、「死ねば無に帰する」との水木さんの御遺志から無宗教で行われた千日谷会堂での通夜、葬儀、告別式で、伊藤忠の会社代表として丹羽社長が弔辞を読み、僭越にも当時44歳の私が「友人代表」として弔辞を読ませていただいた。
かねがね公言していることだが、私は台湾こそ本来の中国であり、中共との日中親善など、まっぴら御免だと思っている。
しかし、そんな支那の大使に丹羽さんがなり……時おり漏れてくる発言に、ありゃ、この人はどこの国の大使かいな、一国の国益を代表する立場でありながら、自分のいた会社の利益を気にしてるんじゃないか、といぶかしく思ったことが再々ある。
そしてついに、こんなニュースになってしまった――。
【主張】尖閣発言 国益損なう大使は更迭を
http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/column/opinion/567648/
2012/06/09 03:11更新
丹羽宇一郎駐中国大使が東京都の尖閣諸島購入計画について「実行された場合、日中関係に深刻な危機をもたらす」との見解を英紙に述べたことが明らかになった。
日本固有の領土である尖閣諸島を守り、実効統治を強めるための計画を真っ向から否定する発言は国益に反しよう。中国による不当な領有権主張を後押ししかねず、更迭すべきだ。
藤村修官房長官は「個人的な見解であり、政府の立場を表明したものではない」と否定した。外務省は「政府の立場とは異なる」と丹羽氏に注意し、丹羽氏は「大変申し訳ない」と謝罪した。
しかし、それで済まされる問題ではない。丹羽氏は先月、訪中した横路孝弘衆院議長と習近平国家副主席の会談に同席した際にも、石原慎太郎東京都知事の「尖閣購入」発言を国民の大半が支持していることに「日本の国民感情はおかしい」などと述べている。
尖閣購入資金として、都へ寄せられた10億円を超す善意の寄付を貶(おとし)めるものだ。外務省は丹羽大使を召還し、一連の発言の詳しい経緯を問いただした上で、厳しく処分すべきだ。
丹羽氏は伊藤忠商事の社長や相談役を務め、中国政府とのパイプを持つ財界人として、菅直人前政権下の平成22年6月、初の民間出身の駐中国大使に起用された。
一時は尊敬していた人、それも、畏敬する水木さんのつながりのあった人だけに、残念でならない。丹羽さんは、晩節を汚さぬよう一刻も早くお辞めになって、詰め腹を切るべきだ。
丹羽さんは社長を離れているとはいえ、伊藤忠は一方で、アメリカからAWACSやPAC3、ヘリコプターなど重要な兵器を輸入している。いま、FX問題で、決まったF35の開発が仮に遅れてFA-18になるようなことがもしあれば、取扱い商社は伊藤忠になる。最近、中国のスパイも新聞をにぎわしていたが、大丈夫なのだろうか。
さて。水木さんに話を戻すと、水木泰さんは大正9年生まれ、慶応大学出身、学生時代はレスリング部の強豪として知られ、「幻の」1940年の東京オリンピックでは代表になるはずだったという、スポーツマンである。予備学生13期として海軍に入隊、艦上爆撃機、次いで夜間戦闘機の搭乗員になり、本土上空に飛来するB-29と激しい戦闘を繰り広げた。
戦後は伊藤忠商事で主に鉄鋼の仕事に任じ、豪州、中南米駐在を経て北米総支配人、専務となった。
私にとっては縁あって交詢社ネービー会の会員に推挙いただいたり、大変お世話になった大恩人である。シャープな人で、怖いようで優しく、周囲の人にもきめ細やかな心遣いをされる、とても剛毅なジェントルマンであった。
以下、水木さんが87歳で亡くなられた際に、告別式で僭越にも私が読んだ弔辞である。
水木泰さんの思い出
私は、戦争体験者のインタビューの本を上梓したことがきっかけで、縁あって元海軍戦闘機搭乗員を中心に、若い世代が慰霊行事のお手伝いをしております、「零戦の会」副会長を務めさせていただいております(注:当時)。
水木さんとお会いしたのは、もう10年ほど前になりましょうか、そんな私の取材活動の一環として、伊藤忠本社内で行なわれていたネイビー会でお会いしたのが最初でした。
水木さんは、「群れるのは好きじゃない」と仰って、ぶっきらぼうを装っておられましたけれど、それはたぶん照れがそう言わせていたのだと思います。本当はとても仲間・後進を大切になさる人でした。
私もずいぶん人に引き合わせていただいたり、いろんなことで便宜を図ったりしていただきましたが、水木さんは、人に何かしても、押し付けがましいこと、恩着せがましいことがお嫌いで、何ごとも自然体で、本当に「ぶらない」方でした。私も、水木さんのように年を重ねられたらいいな、と憧れておりましたし、今もその気持ちは変わりません。
水木さんは、海軍時代は夜間戦闘機の搭乗員として、本土上空で空襲にやってくるB-29の邀撃戦に参加、二人乗りの夜間戦闘機の、前の席で水木さんが操縦、後ろの席に乗っていた偵察員の同期生が、B-29の弾丸を腹に受けて戦死するような、壮絶な戦いをされてこられたわけですが、つねづね、
「人間、死ねば無に帰る。戦死した連中の魂が、本当に靖国神社の桜になって咲いているかなんてわからないし、慰霊というのは生きてる側の気休めに過ぎないんだよ」
……と仰っていました。
4年前でしょうか、小泉総理の靖国神社参拝で世論が揺れたときも、
「慰霊なんてのは一人一人の心の問題。みんなで行きましょうという問題じゃないんじゃないか」
と、ちょっと醒めたご意見でした。ところが、終戦記念日に私たち「零戦の会」の数名が靖国神社にお参りに行ってみたら、なんと人ごみの中で水木さんとバッタリ出会ったのです。
「あれ、水木さん」と声をかけると、「やあ」って、いつもの、ちょっとはにかんだような照れたようなお顔をなさいました。ご家族にお聞きすると、お正月と終戦記念日のお参りは欠かされなかったとのこと、それを誰にも言わずに、ご自分一人の心の問題として、あの戦争に向き合っておられたのですね。水木さんはそういう方でした。
水木さんが仰っていた通り、本当に無に帰ってしまわれたのか、それとも意に反してあの世に行かれてこの光景を見ておられるのか、お聞きするすべがないのが残念でございますが、水木さんは、八十七年のご生涯で、接した人すべての心の中に生き続けていかれることと確信します。
水木さんとお会いできて本当に私は幸せものでした。水木さん、有難うございました。
平成十九年十月一日 神立尚紀
再度、丹羽さんに申し上げる。どこの国の政府から任命されたかよく考えて、立派な先輩の墓碑銘に泥を塗るような媚中の醜態を晒されることのないよう、自ら身を処されんことを。