平家物語
2007.12.1〜2009.7
原帖(流布本 元和九年本) 荒山慶一氏 現代語訳 木村 暉
あ ら す じ | |
第一巻 | 天承二年(1132年)の忠盛の昇殿から、安元三年(1177年)の大火による内裏の焼亡まで。前半は清盛の急速な昇進と 一門の繁栄が中心。平家はその権勢に驕り、摂関家をもないがしろにするほどで、平家への反発は徐々に高まって いきます。後半になると、いよいよ平家打倒の謀議が行われるようになります。 |
第二巻 | すべて治承元年(安元三年、1177年)のできごとです。鹿ヶ谷の陰謀は露見し、多くの院の近臣が流罪になりました。 清盛は後白河院を幽閉しようと兵を集めますが、重盛の諫言によって思いとどまります。延暦寺は内部の抗争により 荒廃していき、同じ頃善光寺も炎上しました。人々は平家の世の終わりを噂しあいました。 |
第三巻 | 徳子の安産祈願のため、鬼海が島の流人に恩赦が出されますが、俊寛だけは許されません。俊寛が、遠ざかる船に むかって叫び続けるという、「足摺」が印象的です。徳子は皇子を出産しますが平家には暗い影が忍び寄ってくる。 福原から清盛が軍兵を率いて上洛。“治承三年のクーデター”です。多くの公卿、殿上人が流され、法皇もまた同じく。 |
第四巻 | 安徳天皇が即位し、清盛は天皇の外祖父となります。高倉院は厳島御幸を決行し、反平家の空気はやがて、以仁王 から平家追討の令旨が出されます。いよいよ、反平家ののろしがあがりました。しかし平家の行動は迅速で、頼政は 自害、以仁王も流れ矢に当たって絶命します。宮に荷担した三井寺は平家の攻撃を受けて焼け落ちてしまいます。 |
第五巻 | 治承四年六月、清盛は都を京から福原に遷す。東国から頼朝謀反の知らせが飛び込み、維盛、忠度を大、副将軍と する追討軍を東国へ。しかし平氏軍は、富士川を前に敗走。また遷都は君も臣も嘆き、南都北嶺その他寺社の訴えも あり断念した。南都の叛乱は激しく、夜戦の明りのためにつけた火は寺々に燃え移り、東大寺、興福寺は灰燼に帰した。 |
第六巻 | 治承五年正月十四日に高倉上皇が、閏二月四日には清盛が相次いでなくなり、平家は支えを失い、替って木曾義仲の 登場です。富士川の合戦以降、東国経営に専念する頼朝に代わって、義仲が平家打倒の急先鋒となります。追討の ため任じられた城助長は、神罰により殺され、弟助茂も横田河原で義仲に大敗し、世の中は源氏に傾いていきます。 |
第七巻 | 寿永二年(1183年)四月、平家は十万の大軍で、義仲、頼朝を追討しようとするが礪浪山で、義仲軍に惨敗を喫する。 都に迫った義仲は比叡山を抱き込み、山門にも見限られた平家は、主上、法皇を伴って西国落ちを決意するが、法皇に 逃げられ、平家のその後の運命を大きく方向づけることになった。寿永二年七月二十五日、平家は西国へと船を出す。 |
第八巻 | 義仲と行家が京に入り、後白河は平家追討の院宣を下し、四の宮を三種の神器なしで即位させます。平家は四国の 屋島に身を寄せ、東国の頼朝は鎌倉で征夷大将軍の院宣を受けます。平家は勢力を盛り返し、没落気味の義仲は 法皇を襲って政権を掌握し、ここに東国に頼朝、京に義仲、西国に平家という三つ巴のまま、寿永二年は暮れます。 |
第九巻 | 範頼、義経を大将軍とする頼朝軍は、宇治、瀬田で義仲の軍勢を破り、法皇の身柄を確保、義仲は瀬田の方面へと落ち、 今井のすすめで自害をせんとしますが、深田に馬の足を取られ討ち取られます。平家は福原に戻り、生田、一の谷での 激戦の末、二千余人におよぶ軍勢を失い、公達は忠度、経正、知章、敦盛ら十人を討ち取られました。 |
第十巻 | 一の谷と屋島の合戦の間は、約一年の休戦の時期です。生捕りにされた重衡は、関東に下向し頼朝と対峙し立派な 態度に、頼朝や鎌倉の御家人たちは感心しました。また維盛は屋島を抜け出し、熊野へ向かい、滝口入道の先達で 熊野参詣を遂げ、出家します。維盛は那智の海に入水して果てます。諸国は源平両氏の争いが続き、疲弊していました。 |
第十一巻 | 義経は平家を攻めるため四国へ渡ります。
この合戦では名場面をいくつか生み出しました。与一の”扇の的”、義経の “弓流し”など。また源平最期の合戦「壇ノ浦海戦」が展開され、二位の尼は安徳天皇と入水、一門も身を投げ、知盛も 「見るべき程の事は見つ」と入水。宗盛、建礼門院などが生捕りになります。重衡も、奈良大衆の手により斬首されます。 |
第十二巻 | 平家滅亡後、頼朝の権力は拡大し、頼朝と義経の不和は決定的になり、義経は九州へと向かいます。義経にかわり、 北条時政が頼朝の代官として京に。北条時政は徹底的に平孫狩りを断行し、平維盛の嫡子六代も捕らわれます。 後白河法皇に続き、建久十年(1199年)に頼朝も死去。六代も、鎌倉の命により斬られ、ついに平家の子孫は絶えます。 |
灌頂巻 | 壇ノ浦で捕らえられた建礼門院は、文治元年五月一日、東山の草庵に入り、安徳天皇の形見の直衣を布施として 出家しました。その後大原の寂光院へと移ります。後白河法皇の御幸に際しては、女院は自らの一生を六道輪廻に たとえて語るのでした。建久二年(1191年)中旬、二人の尼に看取られながら、女院は静かに極楽往生を遂げるのです。 |