■編集元:台湾板より「日本統治時代の台湾

1 美麗島の名無桑 :02/07/09(火) 23:27
善かれ悪しかれ、その後の台湾の運命を変えた日本の植民地統治。
その時代と風物・文化・生活・出来事などをマターリと語り合いましょう。

163 美麗島の名無桑 :04/08/19(木) 20:03
質問ですが、日本統治時代の通貨は日本から持って来ていたのでしょうか?
それとも台湾で製造していたのでしょうか?
教えてください。

167 taiwanboom :04/08/20(金) 16:04
日本統治時代の通貨は一部紙幣は「台湾銀行券」だったと記憶しています。
兌換券はありません。
台湾から内地に帰えるとき、母から聞きました。

小学校の教科書も一部台湾総督府が編纂していました。
内地の小学校に転校したとき、教科書が違っていて苦労したことがあります。
小学校の先生には制服がありました。
日本海軍将校の服に似ていました。帽子には庇がありました。
背広など私服を着ている先生はほとんどいませんでした。

168 美麗島の名無桑 :04/08/20(金) 17:16
一部ということは日本人が使う通貨と台湾人が使う通貨が区別されてたということ
ですか?

170 taiwanboom :04/08/21(土) 13:49
日本統治時代に台湾では「人力車」がたくさん走っていました。
引っ張るのはすべて台湾人です。
日本人はこの職業に就くことを禁止されていたとか。
少年時代に内地に帰って、人力車を日本人が引いているのを奇異に感じました。
これに慣れるまで、乗るときは「すみません」と心の中でつぶやきました。
差別感覚でしょうね。

いまの台湾人と日本人の親密さをみると、ふと日本時代の台湾人と日本人の
関係に思いがいたります。
いまの台湾人は、日本時代の台湾人とは別の民族のようにみえます。
いまさらこのころのことをを蒸し返しても意味がないのかな、とも思います。
数年前、日本時代の台湾人の情況を、保私の経験を元に具体例をあげて
詳細にまとめたことがあります。
在台の日本人研究者(夫は台湾人)の依頼で作成したものですが、好意を
もって受け入れられませんでした。
この私のレポートについて、彼女は現在まで一言も触れません。
現状とあまりにも、かけ離れていたからかもしれません。

日本時代の台湾をみるとき、社会制度などで総括的にみるのではなく
個々の台湾人の実例を明らかにすることが、いまの日台関係を
歴史的に正しく把握することになる、といいますが、現実はなかなか
難しいものです。

168さま
台湾銀行券は、使う人に対する区別ではありません。
硬貨と50銭紙幣は日本銀行券でした。
その上の1円、5円、10円、20円の紙幣は台湾銀行券だったと記憶しています。
100円券と200円券がどうだったかははっきりしません。この2つの高額紙幣は
日常活ではめったに御目にかかったことはありません。
なにしろ大学卒の初任給が70円の時代ですから。
それに小学校4年の記憶ですから。

193 taiwanboom :04/08/24(火) 18:12

私は台湾に10年間住んで、昭和15年に小学校4年で内地に帰りました。
転校して10日ほどして先生が、国語の時間を始めるときに、その時間に
教える箇所を私に朗読させることにしました。
私としては、その分の予習を必ずしなければならないので、いやでいやで
たまりませんでした。
「なぜ先生はボクだけに読ませるのか」と不思議でした。
母も「転校してすぐから読ませるなんて、他にも同級生はいるのにね。でも自分の
勉強にもなるんだから」というだけです。
こんなこといつまで続くんだろう、と思っていたら3か月ほどで取りやめとなり、
ホッとしたが、ちょっぴり物足りなくも感じました。

20年前に戦後初めて台湾に行きました。
台南市の私が住んでいた官舎で、60歳ほどの女性に会いました。
やせて上品な人で、流暢な日本語を話します。
その日本語の綺麗なこと、方言のアクセントもなく東京弁でもなく、聞いていて
「これぞ日本語!」という感銘を受けました。
声が若々しく綺麗だったことも、助けになったのでしょう。
ひの女性は「久しぶりに日本語を話すの。懐かしいね」と喜び、以来台湾に行く
たびに会って日本語を話しました。
というより、彼女の日本語を聞くことを楽しんだといった方がよいでしょう。
彼女は台南の公学校(台湾人の小学校)をトップの成績で卒義して、日本人の
小学校の給仕として勤めました。いつも日本語だけを話していました。
このことは彼女の弟から聞きました。

台湾の日本語が「綺麗な日本語」であったことは間違いがありません。
彼女だけが綺麗な日本語を話していたとは考えられません。
彼女に日本語を教えた先生も綺麗な日本語を話していたはずです。

長い期間、10年20年も日本語を話さないと、綺麗さが失われヘンな
アクセントになってしまうのです。
言葉は日常使って常に「修正維持」をするのです。これをまったく途絶するとヘンな
言葉になってしまうのです。
それもあまりひどくないときは、話しているうちに記憶を呼び起こし「自己修正」を
して、かなり回復することが出来ます。
台湾の老人と日本語で話していて、初めはおかしな感じがしますが、長いこと話して
いると、かなり「回復」することがあります。
彼女のように「久しぶり」に日本語を話しても、完全な日本語を話す人はまれです。

彼女の日本語を聞いているうち、台湾時代には私自身もこのような綺麗な日本語を
話していたのではなかろうか、ということに気がつきました。
そこで、国語の時間に先生が私に朗読をさせたナゾが解けたのです。
先生が私の「綺麗な日本語」を聞いて、朗読をさせることにしたのでしょう。
この朗読が3カ月ほどで取りやめになったのは、私が「方言」を話すようになり、
アクセントが「綺麗」でなくなったからでしょう。
子供の環境順応力はたいしたもので、方言の言葉を覚えるだけでなく、自然に
アクセントを身に付けるのです。
3カ月で私にこの順応現象が起こったため、もはや「綺麗な日本語」が期待でき
なくなったことで「お役御免」となったのでしょう。

194 taiwanboom :04/08/24(火) 18:14

私は台湾に10年間住んで、昭和15年に小学校4年で内地に帰りました。
転校して10日ほどして先生が、国語の時間を始めるときに、その時間に
教える箇所を私に朗読させることにしました。
私としては、その分の予習を必ずしなければならないので、いやでいやで
たまりませんでした。
「なぜ先生はボクだけに読ませるのか」と不思議でした。
母も「転校してすぐから読ませるなんて、他にも同級生はいるのにね。でも自分の
勉強にもなるんだから」というだけです。
こんなこといつまで続くんだろう、と思っていたら3か月ほどで取りやめとなり、
ホッとしたが、ちょっぴり物足りなくも感じました。

20年前に戦後初めて台湾に行きました。
台南市の私が住んでいた官舎で、60歳ほどの女性に会いました。
やせて上品な人で、流暢な日本語を話します。
その日本語の綺麗なこと、方言のアクセントもなく東京弁でもなく、聞いていて
「これぞ日本語!」という感銘を受けました。
声が若々しく綺麗だったことも、助けになったのでしょう。
ひの女性は「久しぶりに日本語を話すの。懐かしいね」と喜び、以来台湾に行く
たびに会って日本語を話しました。
というより、彼女の日本語を聞くことを楽しんだといった方がよいでしょう。
彼女は台南の公学校(台湾人の小学校)をトップの成績で卒義して、日本人の
小学校の給仕として勤めました。いつも日本語だけを話していました。
このことは彼女の弟から聞きました。

台湾の日本語が「綺麗な日本語」であったことは間違いがありません。
彼女だけが綺麗な日本語を話していたとは考えられません。
彼女に日本語を教えた先生も綺麗な日本語を話していたはずです。

長い期間、10年20年も日本語を話さないと、綺麗さが失われヘンな
アクセントになってしまうのです。
言葉は日常使って常に「修正維持」をするのです。これをまったく途絶するとヘンな
言葉になってしまうのです。
それもあまりひどくないときは、話しているうちに記憶を呼び起こし「自己修正」を
して、かなり回復することが出来ます。
台湾の老人と日本語で話していて、初めはおかしな感じがしますが、長いこと話して
いると、かなり「回復」することがあります。
彼女のように「久しぶり」に日本語を話しても、完全な日本語を話す人はまれです。

彼女の日本語を聞いているうち、台湾時代には私自身もこのような綺麗な日本語を
話していたのではなかろうか、ということに気がつきました。
そこで、国語の時間に先生が私に朗読をさせたナゾが解けたのです。
先生が私の「綺麗な日本語」を聞いて、朗読をさせることにしたのでしょう。
この朗読が3カ月ほどで取りやめになったのは、私が「方言」を話すようになり、
アクセントが「綺麗」でなくなったからでしょう。
子供の環境順応力はたいしたもので、方言の言葉を覚えるだけでなく、自然に
アクセントを身に付けるのです。
3カ月で私にこの順応現象が起こったため、もはや「綺麗な日本語」が期待でき
なくなったことで「お役御免」となったのでしょう。

198 美麗島の名無桑 :04/08/25(水) 02:58
taiwanboomさんは昭和5年生まれなのかな?ご自身のホームページとか作ったら
どうでしょうか?私も最近戦前の台北に興味を持っているので、大変興味があ
ります。

199 taiwanboom :04/08/25(水) 11:20
198様
ホームページをつくらないかとは、よく勧められますが、いまいち踏ん切りが
つきません。
日本時代の台湾経験といっても、私は台南、花蓮、台東の3つの都市に住んだ
だけですから…。
それに、小学校4年までの幼少年時代の経験しかありません。
戦後は昭和58年から現在まで40回台湾に行っていますが、一回が長くても
5泊6日なので、このスレに登場する「台湾在住」の方や「台湾人」には、
情報量が及びません。
こんなわけで迷っているのです。

実はここで私は「台湾人」と書きましたが、これには抵抗感が付きまとうのです。
「台湾人」とぶちきりに書くより「台湾の人」と書くほうが、抵抗感がありません。
[台湾人]には差別感が潜在しているように感じるのです。
これに「人」が加わると、差別感がぐっと薄らぐのです。
差別感は優越感かもしれません。
みなさんはいかがですか。

203 美麗島の名無桑 :04/08/25(水) 19:06
>>199
台湾人、台湾の人とどちらも使うけど、彼らが自分達で台湾人と名乗っている
のだから、台湾人と言ってあげたほうがいいと思う。それに差別意識は全くな
い。大陸人や韓国人にはあるけどね。

200 美麗島の名無桑 :04/08/25(水) 12:26
台湾人のいまの世代は明らかに大陸人寄りの性癖を持っていますね。
一言でいうと、「奥ゆかしさがなくて自分勝手」 かな。
当時の回顧からすると、こんな性癖は以前は無かったように見受けられます。

208 taiwanboom :04/08/26(木) 11:18

15年ほど前、高雄から台東のバスに乗ったとき、原住民の青年と隣り合わせ
になり、いろいろと日本のことを訊かれました。
とくに三島由紀夫の「自決」に興味を示していました。
この青年はなかなかの日本語を話すので、どこで日本語を勉強したのか、
と訊いたら「特別に勉強したことはないが、祖父母がいつも日本語で話すので
いつの間にか話すようになった」ということです。
蒋介石が台湾に来て北京語を強制したが、祖父母は「いまさら苦労して北京語
を憶えることはない」と、日本語のまま押し通してきたのです。
日本が台湾を倭領有することになったとき、種族ごとに言葉が異なる「高砂族」
の共通語として日本語を普及させた結果でしょう。
でも最近はそんな原住民が少なくなったと聞きます。

210 美麗島の名無桑 :04/08/27(金) 15:57
taiwanboomさんに質問。
台湾には薩摩揚げ(てんぷら)がありますが、戦前の日本人は鹿児島出身の人が
多いのでしょうか?また、鹿児島以外にはどこの出身の人が多いのでしょうか?
ご存知でしたら教えてください。また、淡水の阿給は元は日本のどこか郷土料理
なのでしょうか?

212 taiwanboom :04/08/28(土) 13:07
210様

私の記憶では、台湾では九州からの人が多かったようでした。
なかでも福岡、熊本、鹿児島の人が多く、ついで大分、宮崎、佐賀といった順でしょうか。
日本時代の台湾駐屯軍も同様でした。とくに、南部を管轄していた第二連隊は九州人が
多かったようです。
これは戦後の台湾軍の戦友会のメンバーからも推察できます。
付け加えますが、台湾軍は中国大陸、フィリピン、インドネシアを転戦し、終戦を
悲惨な内戦の末に独立した「東チモール」で迎えました。

薩摩揚げ(てんぷら)は台湾ではとくに「薩摩揚げ」にこだわってはいませんでした。
「てんぷら」といって、どこにでもありました。
一枚が2銭くらいだったと記憶しています。
いまでも台湾のあちこちにありますが、とくに基隆の屋台の「てんぷら」が有名です。
巻き寿司やいなり寿司と同様に、テンプラも日本の食べ物が戦後残ったものです。

ところで「薩摩揚げ」のことですが、私の母が薩摩出身なので戦時中に母の実家から
送ってきていました。鹿児島に帰って食べたこともあります。
そのときの「薩摩揚げ」は、現在のものとはかなり異なっていました。
「薩摩揚げ」の代表は、中に人参が入ったものです。
ナマの人参は硬く、煮るとやわらかくなり、どちらもそのままではテンプラの中に
入れるわけにはいきません。
当時の人参はナマではありますが、ほどほどにやわらかくて回りのコロモに
なじんでいます。その調和はいま思うとなかなか微妙なものでした。
「薩摩揚げ」のノーハウでしょうか。
コロモの部分の魚のすり身はいまのように白くてきめ細かではありません。
黒っぽくてきめが粗く、形も手作りのため不ぞろいでした。
いまの大量生産のための機械作りで、形がそろっているものとは別のものの
ようです。
私は鹿児島の人に会うたびに、昔の「薩摩揚げ」のことを話しますが、
知らない人がほとんどです。
地方の名物が「全国的」になって、大量生産されると「元祖」とは別のもの
のようになってしまう例はいくつもあります。
よいことか、悪いことか、私には分かりません。

213 taiwanboom :04/08/28(土) 13:58
いまの台湾では料理以外にヘビに出くわすことはあまりありませんが、
私がいたころはヘビは「日常的」でした。
台湾コブラ、台湾ハブ、百歩蛇、アマガサヘビなどですが、百歩蛇に
出くわしたことはありません。
このヘビは噛まれると百歩も歩かないうちに死んでしまう、といわれる
猛毒のヘビです。
アマガサヘビはかなりの距離を飛び掛ってくるとかいわれていました。

台南の私の家の周りは草が生えて、遊んでいてよくヘビに出くわした
ものです。
そのときは棒切れで遠くからへっぴり腰になって頭を叩いたものです。
コブラとハブがほとんどです。
ある日自宅の縁に腰掛けていたら、床下の通風孔からハブが頭を出しました。
そっと立ち上がって見ていたら、ズルズルと床の下から出てきました。
「お母さんヘビがいるよ」と叫んで、棒を持ってきて叩きました。
コブラは止まって頭(鎌首)を15cmほど持ち上げ、頭から首の部分を
シャモジのように平たく膨らませ「グーッ、グーッ」と唸り声をあげて
私をにらみつけるのです。…そう思った?
そこで膨れた頭の部分を横殴りに叩いたら「シャモジ」を元に戻して鎌首を
下ろして庭の方へ去っていきました。
母が「危ないから追いなさんな」というので、縁から降りて追うことは
しませんでした。

花蓮港にいたとき、夜中に母が私をそっと起こしました。
母が指差すところに、ハブがのらりのらりと這いまわっていました。
父は大陸に出征して、母と私と姉の3人で寝ていたときのことです。
母が姉を起こそうとしたが、ハブが姉のそばに近寄ってきたので、
そのままにしました。
姉のそばをハブが這いまわるのを、私は「姉ちゃん、動かないで」と
祈りながら見つめていました。それ以外になにもできません。
私が小学校1年、姉が2年のときのことです。
このときのハブの結末…。
ハブが姉のそばを離れたとき、私が縁側のガラス戸を開けて、朱塗りの
衣紋掛けの棒でハブを外に追い出しました。
母は姉を抱きしめていましたが、このことを姉はまったく覚えていないのです。

まだまだヘビとの遭遇体験はありますが、長くなるのでここで止めます。
なお、こんなにヘビによく出会うのに、遊びに行く私に母が
「ヘビに気をつけなさい」と注意した記憶はありません。
そのかわり、原住民がヘビに噛まれて、自分の蕃刀で傷の部分を切り
取ったとか、日本人が物置で木炭を取ろうとして、かごの中にいたコブラに
噛まれたとかいった話はよく聞かされました。

214 美麗島の名無桑 :04/08/28(土) 17:04

台南に住んでいたということですが、戦前台南にあった「日本旅館」について
ご存知ありませんか?

215 taiwanboom :04/08/29(日) 12:49
214 様

台南で私が知っている日本旅館は1軒だけです。
台南駅前の成功路の入り口にありました。駅を背にして左の角のあたりです。
現在は「台南大飯店」が建っています。

この旅館は台南で最高の旅館で、台南に来る「エライヒト」が泊まっていました。
大きな旅館でしたが、名前は思い出しません。
その隣に、これも大きなすし屋の「すずめ寿司?」がありました。

217 淡水暮色 :04/08/29(日) 18:03
taiwanboom 様。
小生は、戦前台南にて銭湯と小料理屋を営み終戦を迎えることなく
日本へ帰国し、一切台湾時代について語ることなくこの世を去った
祖父母の足跡を尋ねんと、訪台を重ねている若輩者であります。
親類には花園小学校(公学校?)に奉職していたものもいるようです。
祖父は生前、よく卵とトマトの炒め物を作り小生に食べさせてくれました。
「年寄りにしては珍しい料理を作ってたな・・・」と思っておりましたが、
台湾では昔からの普通の家庭料理と知り、「確かに祖父は台湾で生活していたんだ・・」
と最近になって納得したりしております。
貴殿のご記憶に台南の銭湯についての情報はございますか。
花園小学校(公学校?)についてお聞きになったことはございますか。
小生の浅薄な知識では、暗中模索の訪台を重ねている現状で
まことに情けない限りです。
もし何かご存知の点ありましたら、ご教授いただければ幸いです。
私的な質問をこのような板に書くことを皆様にお詫び申し上げます。

299 美麗島の名無桑 :04/09/12(日) 19:32:19
>>217
初めてこのスレを読んだものですが生前に祖父が「卵とトマトの炒め物」をつくって
食べさせてくれたのですが西洋料理だとずっと思ってました。
台湾料理だったのですね。
祖父は台北に10年以上戦前に住んでいましたからその時に覚えたのでしょう。
祖父は戦前に砂糖関係の商社に勤めていたのですがその時の同僚の台湾の方達と
戦後も親しくしておりました。
昨年、初めて訪台し戦前の祖父の家と思しき近辺を現地の古老に案内していただきました。
自分より日本語がきれいで聞きほれましたが。

218 taiwanboom :04/08/30(月) 11:53
淡水暮色 様

私は昭和10年代に台南の花園小学校に通っていました。
この学校は正式には「花園尋常高等小学校」といい、尋常科と高等科がありました。
当時は義務教育は小学校6年間となっていましたが、中等学校に進学しないものは
「高等科」に2年間に行かなければなりませんでした。
入学試験があるので、中等学校に進学するものはクラスの10%ほどでした。

私は昭和11年に花園小学校付属幼稚園にはいり、半年で台東に移り台東小学校で
新一年生となり、10日後に花蓮港小学校に転校、13年に台南の花園小学校に転校
しました。「里帰り」のようなもので、幼稚園時代の友達がいました。
花園小学校は15年の9月までで、内地に帰りました。太平洋戦争開始の前年です。

花園小学校は日本人の小学校で、台湾人は裕福な家庭の子供が少しばかりいました。
私のクラスには4人の台湾人がいました。
会社のオーナーやお医者さんの子供です。勉強もよく出来ました。
日常では同級生として、差別感などまったくありませんでしたが…
ある朝、授業が始まる前に担任の先生が「このなかで今朝ニンニクを食べてきたもの
がいる。だめじゃないか」と叱ったことがあります。
このとき私は思わず台湾人の同級生の方を見たことを思い出します。
いま振り返ると、こんなときに「差別感」が出たのでしょう。

位置は「台南公園」と道路を挟んでいます。
現在は「台南市立公園国民小学」となっています。
当時は2階建て赤レンガの堂々たる校舎です。
現在も本館が残って現用されています。私が台南を去るときに学んでいた教室は、
いまも教室として使われています。
校舎は立派なものだったが、なぜか講堂は木造、スレートぶきという「バラック」に
近いものでした。
ことし訪問したときは、講堂は取り壊されてテニスコートになっていました。
校門を入って右にあった、太平洋戦争の空襲で破壊された校舎が、日本時代のものと
同じデザインで新築されていました。しかも3階建てになっていました。

教室の両側に廊下がついています。校舎内でも靴をはいたまま授業を受けました。
内地に帰って木造の校舎で靴を脱がねばならないのに驚きました。
本館を中央にして高等科の校舎と講堂で「コの字型」になって校庭を囲んでいました。
校庭の向こうに先生の官舎がずらりと並んでいました。この官舎があったところには
今ではマンションが建っています。
男子用の便所は仕切りがありました。内地の小学校にはトイレに仕切りがなくて、
初めの内は抵抗がありましたが、すぐになれました。
現在の「公園小学」は昭和57年に「世界少年棒球(野球)大会」で優勝しました。

220 淡水暮色 :04/08/30(月) 20:05
taiwanboom 様。
花園尋常高等小学校の話。ありがとうございます。
実は小生は今、非常に感慨に浸っているのです。

>現在は「台南市立公園国民小学」となっています。

2年前に初めて一人台南を訪れ、祖父母がかつて生活していた土地に降り立ち
祖父母の足跡の一端でも解かれば・・と台南の市内を歩き回りました。
もとより、日本時代の名残を一介の日本人が台湾人に直接聞くという勇気も
持ち合わせず、とにかく歩き回ったことだけ覚えております。
当時宿泊したのが「首相飯店」でした。
ホテルの近くを散策し、見つけたレンガ造りの小学校、
「祖父母、親類、こんな小学校に通ってたかな・・」としばし感慨にふけったものです。
そう、それが「台南市立公園国民小学」なのです。・・・
何のめぐり合わせでしょうか・・小生はほかならぬ「花園小学校」を
訪れていたのですね。・・・・
あまりに偶然過ぎて自分でも驚いております・・偶然過ぎて・・・・

親類は女性教師として花園小学校に奉職し、薙刀等も教えていたと聞いております。
叔父は台南時代の海軍とのふれあいから、内地に帰り海軍経理学校に進んだと聞いております。
台湾時代を語ることなくこの世を去った祖父母ですが、
いろんな思い出が詰まっていたであろう台湾について、これからも勉強したいと思います。
すばらしい貴重なお話ありがとうございました。
小生これにて「名無桑」に戻ります。
貴殿のご多幸を心よりお祈りいたします。いつまでもお元気で。
本当にありがとうございました。

221 taiwanboom :04/08/31(火) 11:52
淡水暮色 様

台南の「首相大飯店」に泊まられたそうですが、私も泊まったことがあります。
このホテルの場所は私がいた頃は原っぱで、のちに陸軍経理部の建物(木造)が
できました。
このホテルの裏に私が台湾を去る直前に住んでいた家があったのです。
「原っぱ」は草と砂で起伏があり、兵隊ゴッコに最適でした。よく遊んだものです。

それにしても、首相大飯店に泊まられたとは運がよかったんですね。
ホテルの前の道を少し歩くと「花園小学校」かあるのですから。
この道路は現在は「公園路」といっています。
昔は鳳凰木の並木がずらりと並んでトンネルのようになっていました。
季節になるとこの木に深紅の花が咲き、長さ30cmほどの太刀豆のお化けのような
実がなります。
この実が枯れて硬くなり、チャンバラゴッコの剣にもってこいです。
この硬い実が道路に落ち、それを自動車が轢いたとき「パリパリ」と乾いた音を
たてます。当時は車が少ないので、この音はめったに聞かれません。
花園小学校の前の道路も同じです。
小学校の公園の角に20台ほどの人力車が、客待ちのためたむろしていました。
面白いので下校のときこれに乗って帰って、母から「子供は勝手に乗っては
いけない」と叱られたものです。

日本時代の名残を訪ねて一人で台南市内を歩き回ったということですが、昭和58年
戦後初めて台南にいったときも同じでした。私も一人で歩き回りました。
以前住んでいたとはいっても、記憶が薄らいでいるうえに、町の様子があまりにも
変わってしまっていたから、興奮と戸惑いの探訪でした。
一昨年淡水暮色さんと同じように、両親が住んでいた台南を訪ねる方から、BBSを
通じて情報提供をたのまれ、高雄の「金典大酒店」でお会いしたことがあります。
泊まるホテルが同じだったので、時間と場所を打ち合わせて会いました。

「淡水暮色」を捨てるということですが、淡水の日没はすばらしいです。

231 黄昏的故郷 :04/09/02(木) 21:49
taiwanboom様

貴重なお話いつもありがとうございます。
唐突で誠に恐縮ではありますが、常々確認したいと思っていたことがあるのです。

訪台を重ねること十数回になります。
ほとんどが一人旅なのですが、一番最初だけツアーで参りました。
その時の年配のガイドさんが、ふと漏らした言葉が気になっているのです。


私、日本にも台湾人つれてガイドでよくいくんだヨ。そう田舎もね・・
○○へ行った時ネ、懐かしいものあってネ、一緒行った台湾のトシヨリみんなバスから
降りてネ、「懐かしい、懐かしい」ってネ・・並んで写真撮ったんだヨ・・・

懐かしい物。何だと思われますか?私も意外な物だったのでびっくりしました。
「ポスト」なんです。昔よくあった(今も田舎ではありますね)赤い、丸いポストです。
もしそうなら、戦前日本のポストが、台湾の街角に(朝鮮にもあったってことかな)
立ってたってことですよね。・・当時は日本ですから当然といえば当然なんでしょうが・・
何か、当たり前のことが新鮮な驚きでいまだに覚えています。

taiwanboom様、教えていただきたいのは当時のポストの御記憶についてなんです。
あのガイドさんの言葉が本当なら、何かすごいことのような気がするのです。
日本と台湾が日常レベルで確かに同時進行してたって言うか・・確かに日常を共有してたって言うか・・

御光臨されてから一度お聞きしたいと思っておりました。
珍妙な質問で誠に恐縮ですが、御記憶にあればご教授いただきたいと思います。
よろしくお願い申し上げます。

235 taiwanboom :04/09/03(金) 12:05
黄昏的故郷 様

「赤い郵便ポスト」は、日本時代の台湾にもありました。
直径50cmほどで高さ1.5mほどの円筒形でした。
てっぺんに帽子のような蓋(キャップ)がついていました。
色は鮮明な赤で、鋳鉄製だったと思います。鉄の鋳物なのです。鋳鋼だったかも…。
叩いても石を叩くようでした。これを破壊するのは大仕事でしょう。
大切な郵便物を守るため国家の責任として作ったものですから。
土台はコンクリートで、そのなかにしっかりと取り付けてありました。
当時はブルなどの建設機械がなかったので、ポストに「挑戦」することは
まず不可能だったことでしょう。
ポストの中央より少し下がったところに、郵便物を取り出すための
正方形の穴があいて、カギのついた扉がついています。
この扉は鋼板で作ってあり、鋳鉄製の頑丈な本体に比べて少し弱いような
感じがします。扉を押すと少し動くのです。

台湾のどこで見たかといわれても、ポストは日常的な風景の中に溶け込んでいるので、
答えることは出来ません。
記憶に残っているのは、花蓮港の郵便局(本局)の入り口にあったポストです。
現在も郵便局(郵局)です。
この郵便局の入り口で殺人事件がありました。
昭和12年で私は小学校1年でした。
私の家が近くだったので、走って見に行きました。
人だかりがしてあまりよく見えなかったが、なぜか赤いポストの印象が
残っているのです。

航空便だけを入れるポストもありました。
明るいブルーでした。空の色ですね。
このブルーのポストが台湾にあったかは自信がありません。
いまは日本では「赤いポスト」は廃止になったと聞きました。
趣味で庭に飾っているヒトがいるそうです。
台湾でも、いまはこの「赤いポスト」を見ることはありません。
日本時代の台湾のヒトにとって、赤い郵便ポストはその頃の思い出の中で
鮮明な存在となっているのでしょう。
ポストに郵便を投函すると、間違いなくあて先に届くには、国家のシステムが
しっかりしていなければなりません。
「赤いポスト」は日本国家の信頼のシンボルということかもしれません。
台湾の人々の、無意識のなかで…。

236 黄昏的故郷 :04/09/03(金) 19:41
taiwanboom 様

早速のご回答ありがとうございます。
単調な質問に対して、風景や匂いまで伝わってくるような描写の
ご回答、いつも感服いたします。
私の住んでいるところは、凄い田舎で御描写にあるような鋳鉄製の頑丈なポストが
まだ使われているんです。(郵便局が意図的にレトロを演出してるのかもしれません
一応、門前町といわれてるところなので・・・)郵便屋さんみたいなポストと呼んでます。
あれとおんなじポストがやっぱり台湾にあったんですか・・そうですか・・・。

ところで私が最近聞いた話ですが、中国語・台湾語・韓国語・日本語をまった話せなくても
日本人・台湾人・韓国人の間で大体の意思疎通ができる人たちがいるそうです。
聾唖者だそうです。
日本時代の聾学校で教えていた「手話」が残り、基本「単語」は大体同じという・・・
これも日常を共有していたことの名残の一端かもしれませんね。
私としては大変感慨深いことと思っています。

ご回答ありがとうございました。台湾に立っている赤い丸い「郵便屋さんのポスト」が
おぼろげながら頭に浮かんでくるようです。

271 taiwanboom :04/09/09(木) 13:20

日治時代の台湾での生活をを振り返ると、日本統治時代の台湾人は
 ?日本人とかかわりをもつことが多い台湾人。
 ?日本人とほとんどかかわらない生活をしていた台湾人。
の2つに分けられるように思います。

?は比較的豊かな台湾人で、日本人の学校に通ったり日本人と仕事や商売を
したり、役所や日本人の会社などに勤めていた台湾人です。
この人たちは一見日本人に近い立場にいるようですが、それだけ差別を身を
持って感じていたのではないでしょうか。上級学校進学のときの台湾人への
差別や公務員の差別など、口惜しい思いをしたことは否定できないのでは…。
だから、このグループの人たちは日本の敗戦を台湾人の解放と受け取って
歓迎したのではないでしょうか。
その結果が「親日」か「反日」になるかは、その後の国民党政権がからんで
きます。李登輝さんや蔡昆?燦さんなどは「親日」となりました。しかしその
一方で改めて「差別」を強く再確認して「反日」になった人もいるでしょう。

?のグループの台湾人についてはこれまであまり触れられていません。
台南で私が小学校に行く途中に「台湾人の住居地区」がありました。そこには
台湾人の家が密集し広場には泥水のたまりがあり、アヒルやガチョウ、七面鳥
ニワトリなどを放し飼いにしていました。
子供たちは裸足で汚れた服を着て前と後ろに穴があいたズボンをはいていました。
これならどこででも用便ができるなと思ったものです。子供らは家の入り口の
敷居に座ってどんぶりをかかえて匙でご飯を食べていました。
地区の道路は狭くて曲がりくねっていました。あちこちにゴミがあり、犬が
ウロウロして纏足の老婆が歩いていました。
喧騒と線香や汚れた匂いのする町でした。こんな地区があちこちにありました。
戦後この地区を訪ねましたが、すっきりした町になっていました。
これらの人々は日本人と日常的に接触することはなく、差別を実感する機会は
少なかったことでしょう。日本人は支配者ではあるが、雲の上の別社会の人と
受け取っていたことでしょう。
?の台湾人に比べて「差別感」は少なかったのではないかと思います。
終戦によって日本の地位が一転しても、?の台湾人ほどの開放感はなかった
でしょう。そして蒋介石政権の弾圧に会い、改めて日本時代を懐かしみ、
その日本人と対等になったことの喜びが沸いてきたのではないでしょうか。
これが「親日」となることになったのでしょう。「教育勅語」などの教えを
改めて思い出したのでしょう。
台湾で日本時代を懐かしんで日本語で話し掛ける台湾人の多くは、この?の
台湾人だった者が多いのではないでしょうか。

これらの台湾人はいまは70歳を超えています。だからこの私の勝手な分類は
現在の台湾の親日と反日を考えるお役に立たないかもしれません。
でも、いまの台湾人の(本省系)の父母や祖父母にこの体験を持った人がいる
のです。これがいまの台湾人にどのような影響を与えているか…。

312 美麗島の名無桑 :04/09/15(水) 22:23:07
前に台南に行ったのですが中山路を真っ直ぐに行った所にある
民生緑園というロータリーに銅像があったのですが日本時代は
誰か他の人の銅像が立ってたのでしょうか?
また脇に消防署があってどうも日本時代からあるような外観だったのですが
これは古いものなのでしょうか?
ご存知の方がいらっしゃいましたらご教示ください。

318 美麗島の名無桑 :04/09/16(木) 22:25:35
>>312
「台湾人と日本精神」によるとその児玉源太郎の銅像が蒋介石がえらくお気に入りで
銅像の児玉源太郎の首を自分の首の像に挿げ替えていたとか。

頭だけ蒋介石で身体は日本軍の大礼服というある意味彼と台湾を象徴するような銅像になってしまったらしいです。

313 taiwanboom :04/09/16(木) 11:28:49
>>312
台南の民生緑園にあった銅像は「児玉源太郎総督」だったと記憶しています。
この緑園は当時は「大正公園」といっていました。直径が現在より20%ほど
広かったようです。
いまは立ち入り禁止になっていますが、当時は自由に入れました。現青年路にあった
私の家から近かったので、よく遊びに行ったものです。
銅像が立っている台座の周囲は池になっていて、台座にライオンの顔がついていて、
その口から水が出ていました。池に魚がいたかどうかははっきりしません。
いろいろな木々が木陰をつくり、いつも多くの人が来ていました。涼しかったが
芝生はありませんでした。
緑園を取り巻く道路の幅はいまよりはかなり狭く、車もあまり走っていません
でした。緑園を削って道路を拡張したのでしょう。

当時の一般の乗り物は「人力車」で、台湾人が引いていました。日本人は引くことを
禁止されていたようです。
タクシーはほとんどが米国製の大型車でした。後部客室に補助席がありました。
運転席の背もたれの背面に組み込まれていました。
私はこれが気に入って、タクシーに乗ると必ず補助席を引っ張り出して座ったものです。
これに座ると父と向き合うことになるので、これも楽しかったのでしょう。
昭和15年に日産から「ダットサン」が発売され、そのちっちゃな可愛さが話題に
なりました。この年に台南にダットサンのタクシーがデビューしました。
米国車に比べて子供のような小さな車体なのに、4ドアセダンと一人前の姿を
していました。なぜか運転手はすべて女性でした。
女性の運転手の襟足に乱れかかる髪の毛の色っぽさを、今でも忘れません。
ついでに思い出を書きました。

328 taiwanboom :04/09/21(火) 13:17:06
>>312 追加
 
台南の民生緑園のそばにある消防署は日本時代の1938年(昭和13年)に完成した
「台南市消防署」です。
その隣にあるギリシャ時代の神殿のような立柱が並んだ建物は台湾土地銀行で、
日本時代の「勧業銀行(1937年完成)」です。
この銀行と道路を隔てて立っている5階建てのすすけたビルは、日本時代の
「ハヤシデパート(1932年完成)」のなれの果てです。いまでは無人のビルの
ようになっています。

「台南市消防署」にも遊びに行ったことがあります。
緊急出動で消防士が階下にすばやく滑り降りるための真鍮の棒があったことを
記憶しています。
この建物が出来た昭和13年は「日中戦争」が始まった翌年で、物資が潤沢で
なくなったのでこれまでのような「荘厳」な建物にすることが出来ませんでした。
一見して薄っぺらに見えるのはそのためです。
デザインとしては水平の横線を強調しています。
それまでは縦線が強調されていました。
近くにある「台南市政府(1916年完成)」や日本陸軍第二連隊兵舎
(1912年完成・現成功大学)台南駅(1936年完成)などは
堂々としたデザインです。
台南には日本時代の官公庁や学校などの建物が多数残っていますが、この消防署と
嘉南ダムを管理する事務所のビル(1940年完成)の2つはそれまでの
「豪華荘重」といったデザインは見られません。

335 taiwanboom :04/09/28(火) 14:04:16
日本時代の遊びについて。

インドゴムの木は台湾ではあちこちに見られます。桃園の中正国際空港にもあります。
日本でも観葉植物として普及しています。
この木は「ゴムの木」と言うとおりゴムが取れます。

台南の成功路の私の官舎の隣に直径3mを超えて見上げるような「インドゴムの木」が
ありました。根元から枝分かれして蔦や木根が垂れ下がって「ガジュマル」のようでした。
この木の幹の皮ににキズをつけると、ミルクのような汁がたくさん出てきます。
これが乾くと「乾く」とゴムになります。不透明な白っぽいゴム「生ゴム」です。
この汁をこの木のウチワのような大きな葉っぱに塗ると、広いゴムの膜が出来ます。
これで物を包むことが出来ます。
木の幹を伝って流れ出た汁が乾いてできた、長い「ゴムの紐」を丸めて野球ボール
のような「球」を作ります。
生ゴムのボールで、かなり弾みます。
ただし表面がでこぼこして不整形なので、イレギュラーバウンドをします。
紐もゴムですからよく伸びます。

ところが、お風呂の中でこの「ボール」で遊んでいたら、ボールがだんだん水に溶けて来る
ことに気がつきました。
これを利用してボールの表面の凹凸をなすことが出来ました。
が、溶ける分も多くて油断が出来ません。
台湾から内地に引き揚げる船中で風呂に入って、お土産に作った「ボール」と遊んで
いたら溶けてボールが小さくなって、お土産の迫力が減ってしまいました。

当時のゴムの生産地はマレーシア(マレー半島)でしたが、ここの「ゴムの木」は
インドゴムの木とは別の種類です。インドゴムの木は大規模ゴム園には適さないようです。
台湾では世界大戦末期にこの木からもゴムを採取するようになったと聞きました。
大きな幹のあちこちに白い汁が数十本垂れ下がっている情景は迫力があります。
でも、いま思い出すと「インドゴムの木」に対して残酷な感じがします。


336 taiwanboom :04/09/28(火) 14:08:07
>>335
初めから5行目の「木根」は「気根」の間違いです。
指先のミスです。

342 美麗島の名無桑 :04/10/01(金) 01:45:20
植民地時代、福建省から苦力が季節労働者として台湾に出稼ぎに来ていたという
台湾から日本に出稼ぎに行ったという話を聞かない。
台湾は豊かであったのだなあ。

345 taiwanboom :04/10/05(火) 10:49:04
>>342
そういえば私も台湾時代に、台湾人(本島人)が内地に出稼ぎにいく話は聴いたことが
ありません。内地には「留学」のために行く台湾人のことはよく聞きました。
内地に帰ってからも、出稼ぎの台湾人に出会ったことはありません。
これに引き換え、朝鮮人の出稼ぎの人は珍しいことではありません。
私の町内にもいました。
彼らは戦後はいわゆる「朝鮮人部落」として固まっていました。
終戦直後は東京や神奈川などでは戦勝国の「第三国人」として、元気を出していましたが、
私がいた地方都市では、その反対で相変わらずの「被虐の民」でした。
ときどき警察の手入れを受けて、密造酒などが摘発されていました。
台湾人には、戦後日本におけるこんな苦労は無かったようです。
このあたりに、現在の両国の対日観の違いの原因の一つがあるのかなと思います。

346 taiwanboom :04/10/05(火) 13:13:08
<纏足>
私がいた昭和10年代の台湾では「纏足」は珍しいことではありませんでした。
50歳以上の女性に多く見られました。
布でぐるぐる巻きにした小学生ほどの小さな足でした。この「布巻き」が直接
靴になっていて、踵に小さな木製のヒールがついていました。
布を解いてなかの足をみたことはありません。
着ている物は、黒じゅすのロングドレスで織り模様がありました。
ボタンはチャイナ式の紐を丸めたもので、別の紐で引っ掛けるようになって
いました。これが横に縦にずらりと並んでいました。

歩くときはお尻をふって、少し前かがみになってよちよち気味でした。
私の家で雇っていた「洗濯ばあさん」が纏足でした。
大きなタライのそばにしゃがんで、洗濯板で衣料をゴシゴシ洗っていました。
纏足だからといって、姿勢がとくに不安定ということはありませでした。
しゃがんでいるため、お尻の部分の布がパンパンに張り詰めていました。
こんな窮屈なものを着て不便ではないかな、なんて思ったりしたものです。
頭髪は一つにまとめて、後頭部の少し上に球のようにして載せていました。
頭髪はあまり洗髪をしていないようでした。
我が家では「纏足」が話題になったことはありません。
ごく日常的なものだったからでしょう。

355 taiwanboom :04/10/12(火) 13:19:39
台湾では「生水」は絶対に飲まないようになっていますが、私が住んでいた昭和10年代の
台湾ではそんなことはありませんでした。
学校で水道からガブガブ「生水」を飲むことは、当たり前のことでした。
なぜいまの台湾では「生水」は飲んではいけないのですか。
おなかを壊すから、とか言いますが、私の台湾時代に「生水」を飲んでおなかを壊した
ことは一度もありません。

台湾ではどんな小さなビルにも、屋上に「水タンク」があります。
友人に訊くと「政府がバカだから自分たちで水を確保しなければならんのだよ」といわれ
ました。
ビルやマンションの屋上に林立する「水タンク」は「失政」の証拠なのでしようか。

台湾の家の窓には、必ずといってよいほど鉄格子やネットを張っています。
高層マンションのベランダにネットを張っているのを見ると、鳥小屋を積み上げて
いるようです。
泥棒の侵入防止のためだそうです。
台北のマンションのオーナーの友人は、門に3つの南京錠をつけ、エレベーターの
扉にも3つのカギをつけ、部屋の扉は二重になって複数のカギがつけてあります。
奥さんはそのキーをネックレスのようにして首に掛けています。
「さんなにドロボーが心配なら、マンションでガードマンを雇ったらいいのに」と
いったら「そのガードマンが危ないのよ」と言われました。

日本時代とはずいぶん変わったものですね。

360 アメリカ人 :04/10/12(火) 14:05:50
>>355
日本に統治され続けなかった台湾に、運がなかったってことですよね。
日本が統治し続けてアゲテいたら、もっとまともになっていたでしょうね。

377 美麗島の名無桑[] :04/10/16(土) 19:57:44
taiwanboomさん

日本人学校と台湾人の通う公学校は校舎や設備はどう違いましたか?
やはり公学校はみすぼらしかったのですか?

379 taiwanboom :04/10/18(月) 13:36:24
>>公学校の校舎

私の記憶では公学校の校舎などは日本人の小学校と大差無かったようです。
花蓮港の私の官舎の前が「公学校」でしたが、私が通学している日本人小学校の
校舎とほとんど同じでした。
ここでは「夜間部」があり、夜の9時まで賑やかでした。母が「本島人の子供は
昼間に働く子が多いので夜学が大切になるのよ」と言っていました。
台南の赤嵌楼の近くの小学校(公学校)は、赤レンガ3階建ての堂々とした校舎です。
数年前、この近くの「天下大飯店」に泊まったとき、この校舎を見て「日本時代に
これが台湾人の公学校だったとは思えない」ほど立派なものだと改めて感じました。
実はこのあたりは少年時代私の遊ぶ「領域」で、この公学校をいつも見ていましたが、
当時はとりたてて「公学校としては立派だな」なんて思ったことはありません。
学校が立派なのは「小」も「公」どちらも当たり前だったのでしょう。

当時はこのように「公学校」だからといって差別をつけなかったのではないでしょうか。
ただし先生が公学校に「異動」になったときは「左遷」されたと受け取ることはありました。
校長や教頭などの役つきにならないときに、とくにそのようにいわれていました。

植民地統治の根幹の記養育にかける台湾総督府の姿勢がこのような「平等」な校舎を
作ったのでしょう。
台南の日本人の「一中」と本島人の「二中」の校舎も差別はありません。
どちらも現在では史跡に指定されてもよいほどです。
しいてあげれは「一」と「二」の順番の差別ぐらいです。
そのためか、戦後になって「一中」と「二中」の校名が入れ替わりました。
日本時代の「一中」を「二中」に変えたのです。
台湾政府の屈折感の表れですかね。

381 美麗島の名無桑 :04/10/18(月) 20:01:08
台北だと1,3,5が日本人
2,4中が台湾人だったそうで、別に卑屈になるような話でも
ないんでしょうけどね

台湾の学校費用は総督府から出ていたのでしょうか、それとも住民負担の学校収費が
あったのでしょうか
台湾は官業収入が豊富だから朝鮮と違って予算から出ていたのでしょうかね

384 taiwanboom :04/10/19(火) 11:47:12
>>381

台北での奇数Noが日本人中学だったことは、日本人の「奇数を貴し」と
する心情が絡んでいるのかもしれません。
戦前の官立の高等学校に番号が校名になっていたいわゆる
「ナンバースクール」なるものがありました。
当時はその中でも「奇数蕃校」がよいといわれていました。
第一高等学校(一高・東京)第三高等学校(三高・京都)
第五高等学校(五高・熊本)がその高等学校です。

台湾の教育は大学など上級学校については知りませんが、
小学校、中学校(現高校)などは総督府の予算でまかなっていました。
台湾経済はかなり早い時期から「独立採算」が出来るようになったと
聞いています。
本国政府に「上納金」まで納めるようになったとも聞きます。
教科書は国語や修身など基礎学科以外は、総督府の教科書でした。
このため私は昭和15年、内地に帰った当初は、教科書で苦労しました。

ただし小学校では「授業料」を家庭が負担していました。
私が花蓮港小学校のとき毎月封筒に入れた「50銭」を、授業料として
学校にもっていっていました。
初めは「50銭銀貨」でしたが、昭和13年2年のときから「50銭紙幣」
となったことを憶えています。
このお札をじっくり見つめて「隠し文字?」を見つけたりしました。
極小文字で「日本銀行」とありました。
当時は台湾の紙幣は台湾銀行が発行した「台湾銀行券」だったので、
いま思うと「50銭紙幣」は日本銀行券だったことになります。
他の百円などの高額紙幣が「台湾銀行券」だったかどうかは憶えていません。
百円券は現在の「50万円券」のようなもので、私がこれをはじめて見たのは
昭和15年小学校4年、内地に帰る船の船室で母が見せてくれました。

脱線してすみません。

386 美麗島の名無桑[] :04/10/20(水) 12:45:00
台湾の商店経営は台湾人が多かったですか?
日本人がおおかったですか?
亭仔脚のメイン通りの商店街は台湾人経営と日本人経営とどちらが多かったですか?
扱っている商品や規模は日本人と台湾人で違いがありましたか?
メインストリートの購買客の民族別割合はどんな感じでしたか?

387 taiwanboom :04/10/20(水) 14:16:53
>>386

当時小学校だった私に、この質問に答える資格はないようですが、あえて思い出を
書いてみます。
当時はほとんどの日本人は、台湾の商店街のお店の経営者が台湾人(本島人)か
日本人(内地人)かを気にしたことはなかったようです。
日本の銘菓や和菓子を売る店は日本人の店がほとんどでした。
その他の店は店内の飾り付けが「中華風」であれば、台湾人の店と推察できます。
しかし台湾人の店でも、主人や店員がなかなかの日本語を話すので、まったく
違和感がなく台湾人の店かどうかは気になりませんでした。
とくにメインストリートの商店では、その感が強かったと思います。
購買客の分類については私はまったく「無知」です。

当時はいわゆる「御用聞き」がさかんで、私の家にもよくやってきたものです。
野菜屋さんや魚屋さん、それに雑貨屋さんなどです。
そのときの言葉が「ヘン」だったので、母に訊いたら「あそこは本島人の店よ」と
いわれたことがあります。

お菓子屋さんの「御用聞き」もきました。
重箱の二倍くらいの広さの容器に5cm角の升目を切り、そのなかにお菓子の
サンプルをいれています。これを6、7段重ねて皮製の黒いかばんに入れて
あります。サンプルとはいっても本物のお菓子です。生菓子類はありません。
この容器を玄関や縁側にひろげて注文をとっていました。
私がそのサンプルをつまんで食べて、母からものすごく叱られたことがあります。
「このお菓子屋さんはよその家にも行くんだから、だれが触ったか知れないのに。
おなかをこわしたらどうするの。もうお菓子は買ってあげないっ!」と手厳しく
言われました。
いま振り返ると、このときの「御用聞き」は台湾人で、母の心の中に「本島人が
触ったかも…」ということがよぎったのかも知れません。

呉服屋さんの「御用聞き」もきました。
和服で角帯をしめ白足袋をはいた日本人です。
大きな葛篭(つづら)に反物を入れて大風呂敷で肩に背負っていました。
母はこの人は座敷に上げていました。日本人だからでしょうかね。
反物の巻物をいろいろ広げて、あれやこれや話しながら選んでいました。
近所の人を呼び集めることがあるそうですが、母はしませんでした。

いちど「蛇皮」の「御用聞き」が来たことがあります。
台湾人だったのでしょう、座敷ではなく縁側に回ってもらいました。
大きな箱からなめしただけで加工していない長い蛇の皮を縁側にずらりと並べた
ときは驚くほど迫力があり、美しいがちょっと気味の悪い感じもしました。
台湾コブラの皮でも幅が20cmもありました。ニシキヘビの皮は30cm以上も
あります。
私はこのニシキヘビの皮を体に巻きつけて、家の中を「俺は南洋の土人だあー」
といって走り回り、このときも母からものすごく叱られました。
「やめなさい! 蛇の皮は高いものよ。もし足で踏んで破ったらどうするの。この人が
心配しているではないのっ!」

当時は私たちは自分の小遣いで買い物をすることがあまりなかったので、台湾の商店に
ついての知識はそれほどありません。
内地に帰ってから小遣いで買うようになり、台湾でもっと買ったら楽しかったのに
と思いました。
台湾の商店のほうが賑やかで、品物がいろいろあったからです。
それでもいまの台湾のような「ド派手」な看板はありませんでした。

またまた脱線してすみません。

411 美麗島の名無桑 :04/12/03(金) 19:09:36
チャンコロって言葉はいつからあったんだろう。60年前の日本人が使ってたとおもうと新鮮だ

415 taiwanboom :04/12/04(土) 14:36:15
>チャンコロって言葉いつからあったんだろう。

私が台湾で物心がついたときにはすでにありました。昭和10年ごろです。
でもこれは「支那人」に対する蔑称で、台湾人(本島人)に対して使った記憶は
ありません。
元日本兵の台湾人はいまでも中国人を「チャンコロ」と言っています。
支那(中華民国)との間でトラブルが起こるようになった1920年代から
「チャンコロ」が使われ始めたのではないでしょうか。
その国や民族に対する激しい敵意がないとこんな「蔑称」は生まれないものです。
語源ですが、私は勝手に次のように理屈をつけています。
中華民国の独裁者「蒋介石総統」の「蒋」を「チャン」と読み、
これに「犬コロ」「ジゴロ」「コロチャン」などの「コロ」をくっつけた
ということです。正誤のほどは分かりません。

日本内地に初めて帰って「コリヤン」という朝鮮人に対する「蔑称」を知りました。
そして、この朝鮮人が私たちの身辺に珍しくないことに驚きました。
「朝鮮人部落」なんてものもありました。
同じ植民地なのに台湾人は、内地ではほとんど見かけませんし「台湾人部落」
もありません。不思議でした。
感覚としては、私は朝鮮人よりも台湾人に好感をもっていました。

朝鮮は国王のもとにあった「独立国」であり、それを植民地としたことは「国家」
の破壊であり、民族としての権利の収奪です。当然反抗は激しく根強かった。
台湾はご承知の「化外の民」として、清朝政府から見放され放棄されたのです。
領台直後に日本は台湾人に対して、2年間の猶予を与えて「大陸に帰る選択」
をさせました。
形式的かもしれませんが、この措置の結果台湾人は自らの意思で台湾居住
を選んだのです。
朝鮮にはこのような選択は、変えるべき「本国」がないので不可能でした。
この両者の違いが、現在の台湾と朝鮮両民族の対日感の差異となっている
のかもしれません。
話がそれましたのでここでやめます。

422 美麗島の名無桑 :04/12/06(月) 05:15:59
>>415
朝鮮半島は植民地ではないし、併合を頼んだのは朝鮮側から。
併合時もこれといった抵抗も無し。
反抗が根強かったのは、むしろ初期の台湾の方でしょう。

498 taiwanboom :2005/05/17(火) 10:38:13

日本統治時代の台湾について私の体験を連載で書きます。
生後6か月から小学校4年までの幼少年時代の体験です。
日治時代の台湾を研究している在台日本人研究者(夫君は台湾人)の依頼でまとめたものです。
いまの台湾人と日本人のふれあいでは、想像できない現実があります。統治者と被統治者の関係です。
不評なら今回限りでやめます。

植民地時代の日本人と台湾人(1)
台湾人をなんと呼んでいたか

台湾人を「本島人」、日本人を「内地人」ト呼んでいた。
私は台湾人に対して「台湾人」という言葉を使ったことはほとんどなかった。当時の台湾では
台湾人は常に「本島人」であった。「あのお医者さんは本島人…」とは言うが「あのお医者さんは
台湾人」とは言わない。
「ちゃんころ」は台湾人を指す言葉ではなく、大陸の「支那人」を指し、台湾人自身も支那人を
「ちゃんころ」と蔑称していた。台湾人は「ちゃんころ」を自分たちへの「蔑称」とは受け取って
いなかった。事実そうだった。これには異論があるかも?
日中戦争の1937年(昭和12年)11月中華民国の首都南京ガ陥落したとき、私は花蓮港街
(現花蓮市)の小学校に通っていたが、南京陥落を祝う提灯行列で街をあげて夜遅くまで興奮していた。
台湾人も日本人もいっしょになって「ちゃんころをやっつけた」と喜び、私の周囲に「祖国が負けて悔しい」
と言う台湾人は一人もいなかった。
かつて日本兵として太平洋戦争を戦って帰ってきた台湾人は、いまでも大陸の中国人を「ちゃんころ」
と言ってはばからない。戦後彼らは国民党政府から大戦中日本軍の兵士となって「祖国に銃を向けた」
として迫害を受けてきたため、日本人以上に中国人に反感を持っている。これが「ちゃんころ」という
言葉に集約されているのかもしれない。   

501 taiwanboom :2005/05/17(火) 14:18:09

植民地時代の日本人と台湾人(2)
日本人と台湾人の接触(上)

日本人と台湾人の居住区域が区別されていたとは聞いていないが、なんとなく分かれていたようだ。
日本人の居住区の方が官舎などのように集まっていた。台湾人街というものもあった。
商店街は台湾人の店と日本人の店は混在していた。買い物などは台湾人の店ですることが少なく
なかったが、台湾人と日本人が日常的に接触(交際)することは少なかったようだ。
野菜、果物、魚、雑貨などは台湾人の御用聞きが、家に来ていた。玄関ではなく台所に来ていた。
「奥さんきょうはチヌタイおいしいよ」と、ちょっとヘンな抑揚で言っていたのを覚えている。
この言い方をまねして、その台湾人の御用聞きをからかっていたから。

言葉はすべて日本語で、日本人は不自由することはなかった。
台湾に9年もいて、私が覚えた台湾語は数詞のほかは「カッキン」「ベッサイ」「ライライ」「リー」
「ゴワ」など、いま思うと「命令調」のものがほとんどだった。
当時の台湾人と日本人の関係を示唆しているようだ。
台湾の日本語は綺麗な「標準語」だった。東京弁ではない。
私が内地に帰って小学校の国語の時間に初めて教科書を読んだら、以後授業の冒頭に私が教科書を読む
ことになった。このためには予習をしなければならず、おおいに不満だった。
15年ほど前台南で会った老婦人の日本語が素晴らしかった。私も当時はこのように綺麗な日本語を
話していたのだ。内地の小学校の先生が私に教科書を読ませたナゾが解けた。

台湾人街にはよく遊びに行っていた。先生からは行かないように注意されていたが…。
台湾人街は実に面白かった。目の前で動物などを作り上げる飴細工、竹を半分に割った中でコオロギを
戦わせる賭博、鶏を殺すところなど、いつまで見てもあきなかつた。日本人の同級生に密告されて先生に
叱られたものである。

台東街(現台東市)では原住民(当時高砂族)が、上半身裸体に腰みのをつけ蕃刀を腰にして街の中を
歩いていた。わが家にきて百日紅の木を蕃刀を振るって薪につくっていた。すさまじい切れ味に見入った
ものだ。冷やかすと曲芸のように蕃刀を使って見せた。
蕃刀は鞘を縦に割っているので、なかの刀身が見える。刀身が落ちないように鞘の途中数箇所を針金で
くくっていた。鞘を割っているのは、刀身の血糊が鞘にたまらないためだそうだ。
彼らを怖いと思ったことはなかったし、母も別段注意しなかった。
高砂族の中で本島の西部に住んで蕃風を捨てたものを「熟蕃」といい、東部で蕃刀を腰にしているものを
「生蕃」といっていた。高砂族への行政対策を「理蕃対策」とかいっていた。
原住民の女性を見た記憶はあまりない。

502 taiwanboom :2005/05/17(火) 15:25:34

植民地時代の日本人と台湾人(2)
日本人と台湾人の接触(下)

台南の私の官舎の近くに台湾人の集落があった。
広場を囲むようにレンガ造りの家がくっついていた。すべて平屋だったと記憶している。
この広場の中央に直径10m足らずの泥の水溜りがあった。そこにアヒルや七面鳥それにガチョウ
などを放し飼いにしていた。
七面鳥をからかって怒らせると羽を毛羽立てて、くちばしの上の突起を伸ばしてそれがだらりと
たれさがる。面白いので棒などでからかった。
ただしガチョウは二つの羽を地面にこすり付け、嘴を突き出して襲ってくる。小学生だから
ガチョウの嘴が、顔の高さにくる。怖いのでガチョウは敬遠することにしていた。
周囲の台湾人は、この私たちのいたずらを初めのうちは黙ってみているが、いつまでもやっていると
日本語で「コラッ」とどなる。この声で私たちは逃げ散っていた。これがまた面白かった。

ここにいる台湾人の子供(学齢前)はほとんどが、長いパンツ(クーズー?)をはいていた。
そのパンツの股の部分は大きくくりぬいてあった。パンツをはいたまま用便ができるようになっていた。
(この型のパンツがいま中国で育児用にはやっているとか)
この子供たちはいつも裸足で家の入り口にちょこんと腰掛けて、ドンブリを抱えて匙でご飯を食べていた。
衣服は支那服だった。ボタンが紐の固まりになって並んでいた。
この地域は鳥の糞のにおいと、料理のにおいがごちゃ混ぜになった猥雑で不潔だった。
このような風景は、いまの台湾では見かけることはできないが、当時の台湾ではこれが普通のの風景だった。
そのそばを通って私は小学校に通っていた。台南市の現在の成功路である。

この成功路の官舎の庭に3本の大きなマンゴーの木があって、たくさんの実をつけていた。この実が台風のため
落ちて庭一面に散らばった。踏み場もないほどだった。
そこへ2人の台湾人が訪ねてきて「マンゴーの実を拾わせて」というので母が承知したら、たくさんの子供が
門から入ってきた。台湾語でわいわい騒いでいるうちに、マンゴーの実はきれいになくなってしまった。
台風になると、これはこの官舎の前住者以来の「年中行事」となっていたそうだ。

私の官舎には毎日3人の兵隊が来て、草をむしったり父の靴を磨いたりしていた。おわると木陰て一服し私たちを
からかったりしていた。
そんなある日、わが家の台所から台湾人の老人が天秤棒の前後に籠を下げて出てきた。
それを見てK一等兵が立ち上がって「おいこら、ちょっと待て」といって、籠を開けたところなかに木炭がいくつか入っていた。
とたんにK一等兵は「貴様、これ盗んだな!」と怒鳴り、拳を固めてこの老人を殴りつけ、倒れたところを蹴りつけた。
老人は鼻血を出して泣きながら転げまわるだけ。あまりの怖さに私は母を呼びに台所に駆けていった。
母が駆けつけて「やめなさいっ!」というまで、この暴行は続いた。
老人が可哀想でならなかった。父に話そうと思った。ところが母は「このことは誰にも言いなさんな」といい、
父には話さなかった。
K一等兵をかばったのか、母には聞かないままになった。  

503 taiwanboom :2005/05/17(火) 17:13:35

植民地時代の日本人と台湾人(3)
学校生活

小学校は日本人(小学校)と台湾人(公学校)に分かれていた。二つは同格と言われていたが、小学校から公学校に転勤する場合、
教頭や校長などの「昇格」出なかったら「左遷」とみられていた。
台湾人でも裕福な家庭の子供は、日本人の小学校にいっていた。台南花園尋常高等小学校の
私のクラス(総員50余人)には、3人の台湾人がいた。
医師の家庭2人と鉄工所のオーナーの家庭の子供で、日本人よりも身奇麗にしていて勉強も
よくできた。
あの不潔な台湾人街の台湾人とは、まったく別の台湾人だった。
同級生は彼らをまったく差別しなかったし、先生も平等に扱っていた。
私がこの台湾人とけんかをしたとき、先生は理由を尋ねて正しい裁きをした。
どちらが悪かったかはもう忘れたが…。
彼ら台湾人の同級生と、通学途中に通る台湾人街の汚れた裸足の台湾人とが同じ台湾人と
思ったことはなかった。まったく別のものとして受け止めていた。その「格差」を気にすることはなかった。
ただひとつ、台湾人の同級生の一人がニンニクを食べてきた日の朝、日本人の同級生が「ニンニク臭い」
といったことを思い出す。このとき初めて「ニンニク」を知った。

台湾人の公学校には「夜間部」があった。花蓮港街の私の官舎の前の公学校の夜間部は、夜9時までだった。
夜の運動場で台湾人の生徒が、にぎやかに体操をしているのを、見るのではなく家の中で「聞」いていた。母が「ここの生徒は昼は
家のために働いて、夜に学校で勉強する。日本では中学校に夜間がある」と話していた。

中学校(現在の高校)は「第一中学校(一中)」が日本人、第二中学校(二中)が台湾人となっていた。
校舎はどちらも鉄筋コンクリートの堂々たるもの。
私のクラスの台湾人は全員「一中」を受験し、二人が合格した。
最近台湾人の同級生の0くんに聞いたところ、当時は台湾人の「一中」の「枠」は2名だったという。
差別はあったのだ。彼が一人の台湾人の同級生に「一中の台湾人の枠は2名で、きみは成績がいま一歩だから
一中には通らんよ」と言ったが、それをあえて受験して落ちたと言う。
戦後は一中が「二中」に、二中が「一中」に校名が入れ替わっている。

花園小学校の教師はすべて日本人で、事務職員も日本人だったと記憶している。
給仕が台湾の若い女性だった。林さんといい、綺麗な日本語を話した。
心持顎が張った台湾人らしからぬエキゾチックな顔立ちで、いつも派手な化粧和をしていた。
彼女が通り過ぎると香水がにおった。私はそのたびに深呼吸をしたものだ。
結婚して私の官舎の近くに新居を構えた。
この新居は亭仔脚がついた鉄筋2階建で、入ったところのフロアーはコンクリートで、幾何学模様がつい
た30cm角のタイルがちりばめてあった。
突き当たりに人の背丈ほどの鏡台「スタンドミラー」があった。その鏡の周りはお札で作った花や蝶、鳥、
木の葉などで飾られていた。お札は50銭札から1円、5円、10円だった。100円札はなかった。
当時の10円札は現在の3万円以上はしていた。
100円札なんて見たことがなかった。
この飾りのお札は結婚のお祝儀でもらったもので、お客に見えるように一階の鏡台を飾ったのかな。

507 美麗島の名無桑 :2005/05/18(水) 00:36:05
taiwanvoom翁のすばらしい体験談の連載中なのに
ちょいと割り込みますね。

自分学生時代に台湾の留学生とお付き合いしていたのですが、
彼女がよく「私のおじいさん、日本人なの」と言ってました。
彼女の祖父は都内某所に住んでいたのですが、両親は
台湾。その時は?とは思いましたが、複雑な家庭事情が
あるのかと思い、その話に突っ込むことはできませんでした。
でも、聞くべきだったと後悔してます。
興味を持つべきだったと思います。
彼女や親は台湾名なのになぜ祖父は日本人だというのか?

カギとなる彼女の祖父に会って話を聞くことができたなら・・・
でも、本当に祖父が日本人ならしきりに話題にするだろうか?
実は「日本統治時代の本島人」だったのではないだろうか?
親とは北京語で話すが、祖父とは日本語で話していたというから
いつだかのビビアン・スーと祖母との関係を思い出しました。
・・彼女とは別れ、今となっては真実は知る由もないですが・・・

509 taiwanboom :2005/05/18(水) 10:40:21
>507様

留学生の祖父が日本人であることは、当時としては十分ありうることです。
戸籍上の夫婦でなくて日本男性が、本島人女性に子供を生ませることは、それほど珍しいことではありません。
数年前に高雄で乗ったタクシーの運転手が「私の父さんは日本人で、いま福岡にいるそうだが戦後会ったことは
ない」と言っていました。

恋愛関係もあるし、いわゆる「日本人が手をつけた」といった関係もあります。
原住民対策で山地の駐在所に勤務した日本人警察官は、治安対策もあって原住民の頭目などの子女と結婚をする
例が少なくありませんでした。「現地妻」です。
昭和5年の霧社事件で登場する日本人警察官も、原住民と結婚していました。それをめぐる戦中戦後の悲劇を
書いた本がいくつも出版されています。
真面目な恋愛で結婚しても、終戦による日本人の強制帰国によって裂かれた男女もあります。
私はこのような例にいくつか出会っていますが、不思議なことにこの人たちから「日本人の父」に対する恨みを
聞いたことはありません。
それでも悲劇であることに変わりはありません。

510 taiwanboom :2005/05/18(水) 12:16:18

閑話休題 ちょっと疲れましたので話題を変えて、台湾の「蛇」について書いてみます。

確かに台湾にはヘビが多い。台湾コブラ、台湾ハブを代表にアマガサヘビ、百歩蛇など毒蛇が多士済々。
いまでは台湾の日常生活でヘビに出くわすことはほとんどないそうだが、私がいたころはヘビは珍しい
ものではなかった。
ヘビに噛まれたことは新聞記事にはならないが、原住民がヘビに噛まれて、自分の蕃刀でかまれた部分を
削り取って助かった「勇気ある蕃人」の記事を見たことがある。物置にある木炭の袋に手を入れて噛まれた
ことも聞いた。

私の官舎の庭に出てきて鎌首を立てて唸る「台湾コブラ」を、遠くから旗竿でたたき殺したことがある。
花蓮港街で父が大陸に出征して留守の夜、我が家の座敷に「台湾ハブ」が這い回った。寝ていた姉のそばを
ゆっくりと這い回り、それを私と母が「姉が動かないよう」念じながら見つめていたときの恐ろしさは、
いまでもはっきりと思い出す。戦後母はこのときのことを「もしものことがあったら戦地のお父さんに
なんといってお詫びすれば」と、そのことを思っていたと話した。
同じ街で下駄を川に流して、それを岸沿いに追いかけているとき「台湾コブラ」を踏んで、必死になって逃げた。
このとき、ヘビは人間の通った後をたどって追いかけてくるということを思い出し、怖い中をジグザグに走った。
高雄の澄清湖の「九曲橋」の原理と同じだが、あの恐怖の中でこんな迷信?をよくぞ守ったものだ。

私は台湾でいろいろな官舎に住んだが、いずれも近くに川や丘、草むらなどの自然の「緑」があった。それだけ
ヘビに出会う機会が高いことになる。事実たびたびヘビに出会った。しかし遊ぶときはヘビの心配をしたことは
なかつた。よくぞ噛まれなかったものだ。
犬はヘビに敏感なので、わが家でも飼っていた。それだけが目的ではないが…。この犬が吼えるとよく庭にヘビが
出ていた。見つけたら必ず攻撃していた。犬ではなく私が。

わが家がヘビに囲まれたことがある。台南の台南公園の近くの官舎でのこと。
玄関と台所の入り口、それに庭に何匹かのヘビがたむろしていた。怖くて一歩も外へ出られない。
じっと待つうちに、掃除当番の兵隊さんがやってきた。台所の入り口で母に挨拶和にきたので、
母が「たくさんのヘビがいますよ」といつたが、兵隊さんは「そんなものはいません」て返事。
ほっとして庭に出てみたら一匹もいなかった。逃げたんだな。
ところが、お風呂の排水口から空気を噴くような唸り声が聞こえる。兵隊さんが「コブラです。
こんなとこにもぐりやがって」と言って、棒で突付いたが出でくる気配はない。そのうちに
父が帰ったきて「作戦」に加わった。
熱湯を風呂場から流したがダメ。そこでたぎりたった油を流すことにした。こんどは
出てくるだろうと、排水口にロープを輪にしてたらして待った。
作戦的中、大きな「台湾コブラ」が首を出しロープに絡めとられた。これから先は
ヘビとはいえ残酷なシーンが続くので割愛する。
隣の中隊長が「食べる」と言って、皮をはがれ背骨と内臓を抜かれても、まだビンビン
しているコブラを、草履の箱に入れて持って帰った。
その名のとおり、噛まれたら百歩も歩かないうちに死ぬ、と言われる台湾最高の毒蛇
「百歩蛇」は見たことはない。周囲でも見たと言うことを聞いたことがない。
   

511 taiwanboom :2005/05/18(水) 16:46:31

植民地時代の日本人と台湾人(4)
創氏改名

「改姓改名」ともいうらしい。台湾人の姓名を日本人の名前に変えることである。
台湾人を日本人に同化するための「皇民化政策」である。強制的だったかどうか
はっきりしないが、ほとんどが「改名」したのではなかろうか。これに日本語の使用を
加えて、協力した家庭を「日本語家庭」として、いろいろ優遇したと戦後になって聞いた。

昭和14年台南花園尋常高等小学校4年のある朝、授業を始める前に担任のM先生が、
3人の台湾人同級生の名前を日本名に変えると言った。具体的にどのような表現をしたかが
重要だが、残念なことにはっきりした記憶はない。
M先生は3人に次々と日本名を付けていった。結果は3人とも「姓」はそのまま残し
「名」だけを変えたことになった。
その間、教室内はざわざわしていた。なかには日本名のアイデアを出すものがいた記憶がある。
M先生がこの3人の「姓」を変えずに守ったことは、いま考えると評価されるのではないか。
戦時中日本軍の兵士として戦った台湾人の日本名は、台湾名とは似ても似つかないものである。
李登輝前総統の日本名も「岩間正男」だったと記憶しているが、台湾名とはなんのつながりもない。
M先生のことは評価されるのでは…。

この改名を台湾人自身はどう受け止めていたのか。昨年60年ぶりに会ったその一人のOくんは、
別に気にしなかったという。
そして、もう一人の同級生は医師となり、現在米国でこのときの日本名で開業してはやっている、
と話してくれた。彼はこのことを「あいつはあのときの日本名で開業してやがんの。もうけてるん
だって」という言い回しをした。彼は日本語が「母語」だという。
彼の家は裕福な医師家庭で、家は完全な日本式の家屋で、白木の柱に畳敷きだった。遊びに行って
驚いたものだ。両親が彼を完全な日本人にしようとしたという。
このために、あの「228事件」では徹底的に虐待され、家も仕事も失ったという。
だから徹底した「国民党嫌い」である。  

ついでにM先生のことを書く。
先生は台湾人と日本人の差別をまったくしなかった。ところがなぜか私をいじめた。この先生の体罰は
肉体的暴力ではなく、精神的なものであった。
私を教壇の前に座らせてバケツをかぶせて、それを同級生に棒で叩かせた。机を取り上げて、教壇の前に
座らせてひざの上に教科書を広げて勉強しなければならなかったことがある。音楽の時間に私をピアノの
椅子の下に押し込めた。連弾用の長椅子である。授業が終わったら講堂の廊下に立たせたまま、同級生は
教室に引き上げ、残された私は屈辱のあまり気が狂いそうだった。
昨年このことを初めて出席した小学校の「同窓会」で話したら「バケツをかぶせられたのはあなただったの。
覚えているわ」といわれたときは、嬉しいようななんともいえない気分だった。ほかの同級生はまったく
覚えていないと言う。

ところがM先生は乗馬が趣味で、なぜか私をその乗馬にたびたび連れて行ってくれた。このことを同窓会で
話したら「M先生はSMだな」と言って笑い話になった。
4月の異動でM先生は台湾人の公学校に転勤となった。一般教員で昇任ではなく、左遷とみられた。
なぜ左遷なのか。
私以外にもう一人軍人の子供がいて彼もやられていた。その彼が思い余って父親に告げたので、圧力が
かかったのだろうという噂が立った。
このM先生は侍従武官した高名な陸軍大将の甥だそうだ。それなのになぜ軍人の子供を虐待したのか…。
この虐待については私は両親に話さなかった。あまりにも屈辱だったから。戦後話したら母は、M先生から
「お宅の坊ちゃんは落ち着きがない。なにか騒動があると決まってその中心にいるといわれたのよ」
ということで、私の自業自得といまでは思うことにしている。

これに引き換え、内地に帰ってからの小学校の担任は、すさまじい暴力教師だった。
叩いて倒れないと逆上しますます暴力をふるう。叩かれて鼻血が出たぐらいでは許してくれない。
父兄会の参観授業でも暴力を振るったことがある。クラスに校長の子供がいたがおかまいなしでぶん殴る。
卒業後30年間この先生を許せないとして、同窓会を開かなかった。

話が横道にそれました。すみません。次は本道に戻します。

515 taiwanboom :2005/05/19(木) 11:59:03

植民地時代の日本人と台湾人(5)
人力車

台湾にはタクシーもあったが、主要な乗り物は「人力車」で、台湾人の車夫が引いていた。日本人には
この職業は許されていなかったようだ。このため、内地に帰って日本人が引く人力車に乗ることに抵抗
があった。
昭和15年ごろ日産の「ダットサン」が、タクシーとしてデビューした。600ccの可愛い車で、なぜか
女性(日本人?)が運転していた。彼女の襟足のほつれ毛が印象に残っている。
料金1円の「円タク」に対して、これは50銭だったと記憶している。

人力車の車夫は白い法被のようなものを着て、白い半パンツに笠をかぶって走っていた。
笠は江戸時代の侠客の三度笠か台湾独特の竹の皮の笠だったかはっきりしない。
ほとんどが裸足で走っていた。背中に番号を打ったアルミのプレートをつけていた。
鑑札のようなものだろう。

市内の交差点などに20台ほどが客待ちをしていた。台南市の私の官舎の近くで
花園小学校の角にフールしていた。
「トーチャ」と呼ぶと、2、3台が競争して駆けつけてきた。下校するときにこれに乗って、
母から「贅沢なことをしなさんな」と叱られたことがある。
私の家では特定の車夫(18番と54番)を決めていた。「自家用車」のようなもので、
18番は青年で54番は老人だった。この2台に限って子供だけで乗ることを認めていた。
官舎を移ってもこの2台はその近くの溜まり場に移ってきた。わが家の「専属」のようになっていた。
母がときどきプレゼントしていたようだが、確認したことはない。

台南公園の近くの官舎にO大尉がいた。この大尉は連隊(現成功大学)に通勤するとき人力車に乗る。
乗るとサーベルで車夫の肩を叩いて急がせる。連隊の営門で降りると料金を値切る。うまくいかないと、
衛兵を呼んで車夫を追っ払う。
だからO大尉が溜まり場に近づくと、車夫は一斉に逃げていたそうだ。
O大尉は顔面を髯でおおった豪傑のようだったが、子供は弱虫で私たちのイジメの対象だった。
ときどきO大尉が子供をかばって「コラーッ」と、私たちを怒鳴ることがあった。

車夫たちはドンブリに入れた「愛玉」に砂糖をかけて匙ですくって食べていた。これが主食だと言う人もいた。
台湾を引き上げる直前に母がこれを作ってくれた。予想外に美味しかった。いまの台湾の愛玉は水っぽくていただけない。
東京上野の谷中の墓地の近くに愛玉の専門食堂があるが、愛想がよくない。

519 taiwanboom :2005/05/19(木) 16:16:34

植民地時代の日本人と台湾人(6)
メイド(女中さん)

日本人の家庭では10歳代の台湾人女性をメイドとして雇っていた。
彼女らは「ねえや」と呼ばれ、日本人家庭の間で日本語が上手な「ねえや」を自慢しあっていた。
台南市の官舎で隣の家のメイドは22、3歳のなかなかの美人で、綺麗な日本語を話していた。
雇用主も彼女に「梅子」と日本名を付け、和服を着せて「おうめさん」と呼んで自慢していた。
彼女が台湾人であると気づく人はほとんどなかった。台湾人と知らされて、みんな羨ましがっていた。

私の家では昭和6年の渡台当初は、日本から日本人の女性を連れて行った。日本人女性を雇う家庭は
少なかったが、20歳代前半の母が2人の年子を抱えての台湾での生活を考えて、内地から連れて
行ったそうだ。
当時は昭和の大不況のため貧しい農家の子女が女中として外地に出て行くことが少なくなかった。
彼女が渡台前の内地のわが家に来たときは、古い着物に帯はなく腰紐だけだったという。
雇うときに、勤め上げたら柳コオリいっぱいの着物を作ってあげると約束したそうだ。
彼女は私が3歳のとき母と姉と内地に一時帰国したときにつれて帰って、親元に届けた。
戦後母が「あのときの着物は親が売ってしまっただろう」と言っていた。

日本人の女中がいなくなったあとは台湾人の女中を雇った。住み込みでなく通いだった。
給金は月に2円から3円というところで、日本人の女中に比べると格段に安かった。
食事は昼食だけ。朝夕食は自宅で食べていた。
出入りの商人などに頼んで雇っていた。給金は世話をした人か親元に支払っていた。本人には別に小遣いを
あげていたようだが、確認はしていない。
食事は家族とは別にとっていたが、日本人の女中のときもそうだった。内地で雇った女中も、家族の食事の給仕
をした後で、別に台所で食べていた記憶がある。

私たちはあまり彼女らと親密にはならなかった。といって差別をしていたような記憶はない。空気のような存在だったかも…。
一人の台湾人の女中は、なかなか活発で私たちの遊びによく口を出していたが、母がそれを叱ったことはない。
日本人とかわらない日本語でやりとりをするので、こっちも本気になって口論になることがある。だから彼女が叱られた記憶はない。
彼女の服装は台湾の支那服だったと記憶している。母はいつも和服だった。

洗濯だけをする台湾人がいた。「洗濯ばあさん」といわれ、年配の女性だった。
午前中に官舎にきて、風呂場にしゃがんで洗濯ダライでごしごし洗っていた。
洗濯機がない時代だから、洗濯は大仕事だった。
纏足に黒い支那服(繻子生地)を着ていた。服の生地はつや光りして、織り模様がはいっていた。
洗濯をしているとき、この服のおしりのところの生地がぱんぱんに張っていたことを思い出す。
洗濯しながらビンローを噛んでいて、口の中が真っ赤になっていた。毎日通っていたようだが、
彼女と話したことはない。
纏足の女性は当時は珍しくなかった。ビンローはその当時は流して売り歩いていたような記憶がある。「ビンローえ、ビンローえ」の
売り声で流していたようだが、確信はもてない。

528 taiwanboom :2005/05/21(土) 12:10:21

日本植民地時代の日本人と台湾人(7・完)
補遺(上)

臨海道路

台湾の東北部は台北から花蓮まで鉄路でつながっているが、日本時代は鉄路は蘇奧(二すいに奥)までで、そこから花蓮までは道路で結ばれていた。
この道路を「臨海道路」と呼んでいた。花蓮の旧駅前から蘇奥まで、定期バスが走っていた。
途中に断崖を削って道路を走らせているところがあり、スリルいっぱいのドライブができた。いまでは「清水断崖」と呼ばれて観光のポイント
になっているところだろう。
私は戦前この道路を3往復した。カーブを曲がるとき窓から下を見ると、はるか下の海面が眼下に見えるようで怖かった。5年ほど前、ここを通ったがスリルはまったくなかった。
全線の舗装はしていなかった。一部には、バスの車輪が通る箇所だけを帯状に舗装していた。簡易舗装だろう。
工事をしている現場を通ったことがある。10人ほどの台湾人が働いていた。バスが現場にあった大きな竹篭を、後車輪で引っ掛けてそのまま
走った。窓から見て気になっていたが、景色が移り変わるのでいつのまにか忘れてしまった。蘇奥で降りて母に「あの籠は本島人に戻ったのかな」
と尋ねたことは覚えているが、母の返事は覚えていない。
日本人の中には、花蓮を出発するときはタクシーか車に乗って、太魯閣の入り口の「新城」でバスに乗り換えるものがいた。見送られるときにバスに乗るのは格好が悪いから。
私たちも花蓮から台南市に転勤するとき、この手を使った。不思議に思って母に尋ねたら、タネ明かしをしてくれた。

原住民とメンソレターム

台東街の官舎に原住民が来て薪を作っていた。蕃刀の切れ味がすごいので、ほめると曲芸的な刀使いで百日紅を切りまくる。調子が出すぎて自分の左足の脛に切りつけた。
ものすごい出血に驚いて母を呼んだ。母は切り口をカーゼで拭いてオキシフルで消毒して、メンソレタームを塗り包帯をした。
それから10日ほどしてこの原住民がやってきた。正常に歩いていた。
彼は母にお礼を言って「この薬はすばらしい。みんな驚いているので、分けてくもらえないか」という。そこで母は薬の名前を言って薬屋で買うように薦めた。念のためメンソレタームの
ケースをあげて「これを見せるとよい」と言った。

高砂青年義勇隊

昭和12年支那事変が始まった年に、花蓮港街で「高砂青年義勇隊」の出征を見送ったことがある。この名称は正確でないかも…。
いまの「中信花蓮大飯店」のあたりで、日本人の婦人会など大勢が見送った。原住民の家族も来ていた。私は学校を遅出にして母についていった。
どんな行事があったかは忘れたが、青年たちに元気がなく、家族にも沈んでいたものがいた。母にきいたら「戦争するのではなく、弾運びをするんだから危険はないのにね」
と言った。
そんなことにおかまいなしに私は元気に「バンザイ」を叫んだ。帰りは小学校に通じる吊橋を、軍歌を歌いながら渡った。
「高砂義勇隊」は太平洋戦争では活躍したとなっているが、支那事変に出動したとは戦後聞かない。

529 taiwanboom :2005/05/21(土) 14:26:25

日本植民地時代の日本人と台湾人(7・完)
補遺(下)

銭湯と屋台

台湾には銭湯はないものと思っていたが、>>521で銭湯があることを知った。台湾人は儒教の影響で
他人の前で肌を見せないので、銭湯に行かず、海水浴にも行かなかった、と台湾にいた日本人から聞いた
ことがある。不明を恥じます。
私は内地に帰って銭湯が珍しくて面白いので、家の風呂に入らずもっぱら銭湯に行っていた。母は「ヘン
な子」と笑っていた。

こま遊び

台南市の清水町(現青年路)にある「城皇廟」は、巨大な算盤があることで最近観光ポイントの一つに
あげられるようになった。
私がいたころはこの廟の前の広場で、寄生虫駆除の薬を飲ませていた。台湾人が中心だった。
「海人草」といって回虫の駆除に効果があった。見た目はウXコのようで、なんともいえない味がした。
飲むのは苦痛だった。

その近くにある広場で、独楽遊びをした。台湾の独楽は芯棒が棒状でなく、平たくて鑿のようになっていた。
この刃先を研いでほかの独楽に当てて削る遊びだった。
いつも10人ぐらいで遊んでいた。台湾人も混じっていた。そのなかで少し年上の台湾人がすごい独楽をも
っていた。
水牛の角で作ったもので、少々当ててもびくともしない。黒光りのその独楽を見ると戦意を失う。母に買っ
てくれるように頼んだが「そんな贅沢なものはダメ」ととりあってくれなかった。一度借りてみたが、
ずしりと重くて感激した。羨ましかった。
この遊びでは日本人対台湾人ということにはならず、もっぱら個人プレイだった。

インドゴムの木

台南市の成功路にあった官舎の庭にインドゴムの木が立っていた。直径70cmほどで真っ直ぐの幹の枝に
大きな葉を付けていた。
この幹に傷を付けると白い牛乳のような樹液がだらだらと出る。これが乾くと「ゴム」になる。これを
幹から引き剥がしてぐるぐるに巻いてボールを作っていた。しかしこれでは幹の樹皮などのごみがくっつ
いているので汚い。そこで樹液をこの大きな葉っぱに塗ることにした。
乾くと平たい半透明の白い綺麗なゴムができる。これを細く切ってぐるぐる巻いてボールを作った。
少々不整形なのでイレギュラーバウンドをする。
水の中でいじっているとだんだん溶けて小さくなる。工業工程ではこの水溶性を防ぐため硫黄を加える。

隣の官舎には幹が直径2mもあるインドゴムの巨木があり、枝が錯綜して気根がすだれのように垂れ
下がっていた。これに上ってゴムを取っていたが、この木の下に台湾人が集まるようになった。
初めのうちは、官舎の庭にあるマンゴーや龍眼の実をあげていたが、それでは面白くないという
ことで、これらの実を抱えてインドゴムの木の高いところに登り、そこから下の台湾人をめがけて
投げつけるようになった。
台湾人は面白がって、この実を避けながら拾っていた。結構騒がしかった。
いまの成功路の「頼外科医院」があるところである。
この話は書きたくなかったもののひとつである。

                        (おわり)

530 taiwanboom :2005/05/21(土) 16:44:20

日本植民地時代の日本人と台湾人(補)

だらだらと長い拙文を読んでいただいた方に感謝いたします。厳しい「2ch」にもかかわらず、
とりたてての批判がなく、安心しています。早合点かもしれませんが…。
とにかく、肩の重荷を下ろしたようでほっとしています。
内容があまりにも現在の日本人と台湾人のふれあいと異なっているので、公表することに
踏み切れませんでした。
それに「体験」といっても、たかが小学生の体験ですから、どれだけ事実を把握し理解して
いるか、自信がありません。
当然のことですが、台湾にはいろいろな生活をした日本人がいます。それぞれが私のような
「体験」をしているはずです。
ここに書いた私の「体験」は、少年のほんの一部分の「体験」です。この点をご理解していた
だき、間違いがあればご寛恕のうえ、ご指摘してください。

私が台湾から内地に帰ってきたのは昭和15年の9月でした。帰った当初はなんだか「ヘンな
感じ」がするのです。最初はその原因が分かりませんでしたが、そのうちにどこへ行っても
「日本人ばかり」ということに気がつきました。
台湾にいたときのように、日本人でない人、つまり支那服を着た台湾人が一人も目に付かない
ことです。ここに「ヘンな感じ」の原因があったのです。
台湾ではどこへ行っても必ず台湾人の姿が目に入っていました。はっきりとは意識しなくても、
私の心の中には常に台湾人が存在していたのです。一種の潜在意識としての台湾人の存在が
あったのです。
この二重構造の社会が、台湾における私の生活の「原風景」だったのです。
日本内地は日本人以外の人種は、社会階層として存在していません。単一社会なのです。
二重構造の社会から、単一構造の社会への転入が、私を戸惑わせたのです。
その当時は「日本人ばっかり」という戸惑いのまま順応していきましたが、最近になって
このように考えるようになったのです。

ついでに内地に帰ってからの「カルチャーショック」をあげてみます。
?日本人ばっかり
?学校の校舎に入るのに靴を脱ぐこと。
?教室に綿入りのちゃんちゃんこを着た生徒がいて、袖が鼻水でぱりぱりになっていた。
?わら屋根で畳が一枚もない農家が珍しくなかった。「貧乏」に驚いた。
?小学校なのに長ズボンをはいていた。わら草履を履いてくる子もいた。
?担任の先生のものすごい暴力。中学校でもそれに近かった。
?市街地の道路が狭く人が多いこと。家と家が近い。日本家屋で二階建てが多い。
?電車が走っている。
?人力車を日本人が引いていた。

これまでに書いたことは、私のレポートにかなりの加筆、削除を加えています。


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