2011-02-24 17:30:00

高橋大輔「もう1人のお母さん」

テーマ:高橋大輔
この記事もバンクーバー五輪直後の記事で、山田コーチのインタビューと同じ文芸春秋2010年4月号に掲載されていました。


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男子フィギュア銅
育ての親が語るメダリスト秘話

高橋大輔「もう1人のお母さん」

中学生の頃から生活をともにした
コーチと二人三脚で歩んだメダルへの道

松原孝臣(スポーツライター)

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 先ほどまで緊張に包まれていた場内は、今は照明が落とされている。スポットライトの白い光が氷にまぶしく映る。
 首にメダルがかけられ、国旗の掲揚が始まる。するするとポールをのぼっていく日の丸を見つめていると、目に涙があふれてきた、
「大ちゃん、おめでとう」
 観客席のあちこちで日の丸がゆれる。歓声と拍手に手を振りながら、バンクーバー五輪フィギュアスケート男子の銅メダリストとなった高橋大輔は、喜びをかみしめていた。
 日本男子がオリンピックのこの種目でメダルを獲得するのは、史上初めてのことだ。まぎれもなく快挙である。
 その高橋が、「第二のお母さんと言っていいくらいの存在です」と、全幅の信頼を寄せる存在がいる。
 コーチを努める長光歌子(58)だ。
「先生がいなければ、今のボクは無い。」と高橋は、日ごろからよく口にする。
 長光は、高校時代の1966年に、全日本フィギュアスケートジュニア選手権女子シングルで優勝。のちにコーチ兼振付師として活動を始めた。
 2人の出会いは、高橋選手が中学2年、1999年の夏にさかのぼる。長光は大阪で子供どもたちにフィギュアスケートを教え、高橋は岡山でスケートスクールに通っていた。毎年夏になると、長光は自分の生徒を連れて仙台で合宿をしていた。高橋のその年、別のコーチに秋に始まる新シーズンのショートプログラム作りを依頼するために仙台を訪れていた。だがそのコーチが仕事の都合で上京し、急きょ長光が代役を努めることになった。出会いは偶然だった。
「『ワルソー・コンチェルト』というピアノ曲を使って、フリーのプログラムを作るように頼まれました。私は昔から、男の子もジャンプぱかりではなくスピンやステップなども踊って当然と考えていたので、彼にとっては初めてとなるような芸術的なプログラムを作ったんですね。『まだ小さなこの少年に、このま美しい曲は滑れないだろう』と思っていました。
 でも大輔は、一から十まですぐにできてしまった。十を要求しても、子供たちに滑らせると一や二になってしまうのが普通なのに、大輔だと二十にも三十にもなると驚いたのを覚えています。乾いたスポンジが水をあっという間に吸収していくような、見たことのない素晴らしいセンスだとびっくりしました」
 ショート用のプログラムもできていないという高橋を長光が誘い、高橋は岡山から大阪に通って指導を受けるようになった。高校生になると、高橋は毎週末、長光が夫と暮らす尼崎市の自宅に滞在し、試合の前には一週間ほど泊まりこんだ。その時間の中で、2人は信頼を築いていった。


開花していく才能

 それは成績にも現れた。2001年に中学3年生で全日本ジュニア選手権に優勝すると、高校一年で日本人の男子選手としては初めて世界ジュニア選手権を制し、順調にステップアップしていった。ところが、翌シーズン、実績を残したことでジュニアの大会を卒業し、シニアの大会にでるようになると突然成績が伸び悩んだ。
「そこから2年くらいはさっぱりでした。レベルが高いシニアでは週末に練習しているくらいの大輔では点数も出ない。私からみれば、スケーティングも非常にいいし、表現力もある。当時から四回転ジャンプも跳べた。
 それなのに、もっと上を狙えると言っても『僕なんかまだまだです』とちっとも乗ってこなくて、モチベーションも上がらない。横にいて、強いジレンマがありました」
 高橋が高校3年になると、長光は一年かけてアメリカ、ロシア、カナダなど海外を連れて歩いた。さまざなな国の優秀なコーチの指導を受けさせれば、転機になるはずだ。そんな思いがあった。ロシアでは、満足にお湯もでないホテルで二人で自炊生活を送った。「大輔がもう一度モチベーションを取り戻して欲しい」という思いがあれば苦ではなかった。
 その後、高橋は関西大学に進学し、長光の家で下宿生活を始める。「本人は1人暮らしがしたかったようですが」と長光は笑う。吹っ切れたように、ようやく高橋は再び成長の階段をのぼり始めた。
 05年からは、トリノ五輪で荒川静香に禁メダルをもたらした世界的振付師、ニコライ・モロゾフの指導も受けるようになってた。
「優れたコーチの指導を受けさせたい」
 長光の"親心"も、高橋の成長を助けた。
「ニコライが大輔を見るようになってからは、技術的なことを中心に任せ、ニコライの方針に沿って、私はもっぱら大輔の愚痴の聞き役でしした。ときどき『疲れた』などと、弱音を吐いていましたから」
 06年にはトリノ五輪に出場、オリンピックならではの緊張に失敗はあったものの8位入賞。翌年には世界選手権で日本男子史上最高の銀メダルを獲得するなど、順風満帆に見えた。


突然襲った2つの危機

 ところが、危機が立て続けに高橋を襲う。
 一つはモロゾフが高橋のライバルである織田信成の指導も引き受けたこと。「ライバルと一緒に練習するのはキツイ」と、高橋自身が申してで、師弟関係を08年5月に解消した。高橋にとってはショッキングなできごとだった。
 長光は語る。
「ニコライと別れて自信もなくしたでしょうし、私も含めてこれからどうやって戦っていこうか、手探りの状態がしばらく続きました。本人も疲れたと思います。
 大輔の頭の中には、バンクーバーのキス&クライ(演技後に得点を待つ場所)では、横にニコライが座っているというはっきりとした青写真があったと思います。それを修正していかなければならないのはかなり大変でした。」
 再び、長光が指導の中心になった。だか高橋は、いつまでも練習にも身が入らないままだった。バンクーバー五輪は、翌シーズンに迫っている。このままでは戦えない。いかに気持ちを盛り上げてやればよいのか、長光にとっては難問だった。
「私にはニコライのような強い牽引力はない。やらなければと気負いだけがあった。でもなかなかうまくいかず、苦しい思いをしました」
 さらにもっと大きな危機が訪れた。同じ年の十月の練習で、ジャンプで着氷した際に高橋は右膝に強い衝撃を覚えた。精密検査の結果は右膝の前十字靭帯断裂と半月板損傷。スケート界では、この怪我の前例はほとんどなく、現役に戻れるかどうかわからない重症だった。周囲はまるで腫れ物にさわるように2人に接した。
 だが2人の気持ちは周りの気遣いからかけ離れたとこめで重なりあっていたという。
「これで強い心を取り戻すことができると、なぜか私は納得していました。低いモチベーションのままでは五輪を戦えないと心配していたので、怪我をして『あっ、こういうことだったんだ』と不幸なのに納得したという感じ・・・・皆様にはご迷惑をおかけし、すごく心配して頂きましたが、私も大輔も『救われた』とという気持ちが強かった。それだけ2人とも悩んで落ち込んでいたということでしょうね。
 あとで聞いたら、大輔も『これで休める』とほっとしていたようです。話し合ってはいませんが、気持ちは不思議に一致していたのだと思います」
 高橋はバンクーバー五輪を考えて、回避することも可能な手術をあえて選択した。当時の取材には「だましだましやることもできるかもしれないが、不安を残したまま試合に臨むことは僕のスタイルではない」とその決意を語っている。その後に控える、長くて辛いリハビリも覚悟ていたはずだった。
 手術を受けた右足の筋肉はすっかり衰え、以前とは比べ物にならないくらい細くなった。毎朝ラッシュ時に京都の病院まで尼崎から通えば、再断裂の危険もある。リスクが大きすぎると病院の近くにアパートを借り、そこから毎日病院へ通院した。
 長時間続く厳しいリハビリの日々に高橋は一度だけ背を向けたことがある。
「その数日前に、大輔は友達と久しぶりに会っていたんです。『いっしょにご飯を食べにきてます』と、とても明るい声で電話があってので、まさかあんな行動に出るとは、全く予想できませんでした」
 長光の記憶によれば、電話を受けたののが木曜日か金曜日。週末を超え月曜日になると、長光の元に病院から電話が入った。高橋がリハビリに来ていないという。
「そう言えば、前々から、リハビリは長くて耐えられないかもしれないと冗談めかして言っていたのを思い出して、どうして察知してあげれなかったんだろう、そうか、SOSの信号を出していたんだと・・・・。情けなさに落ち込みました。リハビリをボイコットすれば、スケーターとしての将来がなくなることをわかった上で逃げ出したのですから、最悪の事態まで想像しました」
 1日、また1日と日が過ぎる。高橋からは一向に連絡がない。「もしや」と思いあたる先に連絡をとってみても、行方は知れない。焦燥感に駆られた。
 高橋が戻ってきたのは十日ほどたってからだった。
「私が家に帰ったら、前に暮らしていた部屋で布団をかぶって寝ていました。それを見たら足から力が抜けて。正直、ああ、生きていてよかったなと思いました」
 帰ってきた高橋に長光はこう語りかけた。
「スケートを辞めたいのなら、辞めていい。迷惑をかけるところには私が謝るから」
 その言葉は高橋のエネルギーとなった。
「先生にこんな思いさせちゃいけない」
 朝から夜までつづく厳しい利は美に戻った高橋は、もう二度と逃げようとはしなかった。
 決まって同じメニューを繰り返す単調な毎日は、逃げ出す前とかわらない。
 トレーナーが膝の周囲に両手で圧力をかければ、耐え難い激痛が襲う。思わず悲鳴をあげることもあった。それでも歯を食いしばり、拳を握り締めて耐え抜いた。
 つねに見守りつづけてくれた長光との十年余の大きさを、高橋はしみじみと語る。
「先生から受けた影響はあまりにもありすぎて思い出せないくらいです。過ごしてきた期間があまりにも長いですからね」


メダルは確信していた

 強い絆で結ばれ、ともに歩んできた2人が長年の目標としてきたのが、今回のバンクーバー五輪だった。
 長光には確信があった。
「(昨年末の)全日本選手権までは、体の軸がぶれてくにゃくにゃしていました。ステップもいい点はいただけるのですが、私から見るとこんなの大輔じゃないとなんともいえない気持ちでした。けれどバンクーバーにきてから、ステップの切れなど以前の良さが戻ってきていました。ショートプログラムは滑走順が早いことだけが心配でしたが、きちんとやってくれるだろう、ステップも今までで一番いいものを滑りきってくるはずだと確信していました」
 二月十六日(現地時間)、ショートプログラムは行われ、高橋は首位のプルシェンコ(ロシア)と0.60差の3位につける。中1日の休みを挟み、フリーを迎えた。
 ところが冒頭の四回転ジャンプで転倒、高橋はリンクに両手をついた。
「ああいう転び方をするとは思っていませんでした。最近の練習ではみたことがありませんでした。やってしまったと思ったけれど、失敗の後の立て直し方も練習してきたので、あまり心配することもなく見ていました」
 続くトリプルコンビネーションジャンプをきれいに決める。すると高橋は波に乗った。映画『道』のテーマ曲にあわせ、「世界一」とも称されるステップ、華麗なスピンを披露する。
 技ばかりではなかった。『道』の世界観を再現しようと磨き上げ、指先にまで神経の行き届いた演技は、まさに表現者とも、演者とも言って良かった。観客から自然にわきあがった拍手は、さらに大きくなっていく。
 演技を終えた高橋は、満面の笑みを浮かべて、二度、三度とガッツポーズを繰り返した。「やり抜いた」、そんな気持ちが伝わってくるようだった・
 笑顔を浮かべながらも、キス&クライで点数を待つ高橋はどこか落ち着きがなかった。その背中に長光はそっと触れた。
 得点は、156.98。この時点で2位となり残る選手は2人。その結果に高橋のメダルも左右される。
 興奮の中、高橋の次に滑ったジョニー・ウィアー(アメリカ)が高橋の得点を下回りメダルが確定した。表彰台に上ることが決まった瞬間、控え室にいた高橋は横にいた渡辺文緒トレーナーと抱き合って涙をこぼした。
「2人の姿にこちらももらい泣きというか・・・報われたな、と。いろいろな方が力を貸してくださったので、少しでもお返しができてよかったと嬉しかった」
 高橋は銅メダルについて、「五輪の三番は、これからも頑張っていけるモチベーションになる。ここは通過点」と話した。五輪の前には「バンクーバーが集大成の場かも」と言っていたにもかかわらずだ。
 そんな高橋に長光の声も弾んだ。
「そう言ってくれることは嬉しいです。去年はバンクーバー五輪で引退しようと思っていたようですが、私はずっと『続けて』と言ってきた。まだ十分に大輔には伸び代が残っていると思いますから、それをきちんと皆様にみせてからやめればいい。
 時に勝負弱い一面を見せ、"ガラスの心臓"などと言われてきたように、大輔には気が弱い一面がある。でも、負けることが大嫌いという勝気な一面も持っています。その両面がスケーターしての高橋大輔の取り柄です。もちろんもっと気持ちの強い選手のほうがコーチは教えやすいかもしれません。でも大輔の演技は、あれだけの繊細さがあるからこそできること。今まで出会ったことのない素晴らしい感性をもった選手です。必ず表彰台の一番高いところに立てると、私は思い続けていますから。すごい選手に出会えたと感謝しています」
 高橋が発した「第二のお母さん」という言葉を聞くと、長光は照れたように笑った。
「本当の親にはなれないですし、なるまいと心に決めています。岡山には、ご両親がきちんといらっしゃいますからね。ただどんなことがあっても、後ろに立っていてやろうとは思っています・
 いい時はみなさんが褒めてくださるのですが、落ち込んだり困ったり、大輔が悪い局面に立たされた時は、私がつねに後ろにいて同じ方向を向いていてあげようと」
 長光はキス&クライで、「まだ演技で泣かせてもらってないわよね」と高橋に声をかけた。
「新しいハンカチもひそかに用意してハンドバックの中にひそませていたんですけど、それを取り出す間もなかった(笑)。『三月の世界選手権で四回転を決めてちょうだいね』と言っておきました」。ソウ笑った。
 答えるように高橋は言う。
「まだ先生に恩返しできていません。2人そろって満足しないと、やめられないんじゃないですかね」
 喜びはつかのまのこと。さらに高みを求める二人の道は、まだ半ばにすぎない。



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