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真田幸村の実名は幸村(3)

 投稿者:代々記  投稿日:2011年12月25日(日)10時24分31秒
  真田幸村の実名を「信繁」とする説においては、「文献上初めて「幸村」という名前が使われた軍記物の『難波戦記』が成立したのが寛文12年(1672)と推定されている。」としている。
寛文12年成立の『難波戦記』とは、流布本の三宅可参が増補したものであり、内容としても寛永3年(1626)徳川家光上洛時までを記している。『難波戦記』の原著者は、京都所司代板倉重宗の門客である万年頼方と老中阿部忠秋の家臣である二階堂行憲であり、最も古体を示すものは、その内容が元和元年(1615)末の家康の江戸入りまでのものと、元和2年(1616)4月家康の死までのものとが存在する(中村幸彦執筆『日本古典文学大辞典』)ことから、『難波戦記』の成立は寛文12年を遡り得ることは間違いない。
また、北条氏長(北条流兵学の創始者)が編纂した『慶元記』は、寛永10年(1633)の自序をもっており、『難波戦記』の書名を特記したうえで、凡例において「三年ニシテ成レリ」と記していることから、『難波戦記』の成立は少なくとも寛永7年(1630)より以前に遡ることになる。ということは、『難波戦記』は大坂夏ノ陣から僅か10年程度後に成立した可能性があり、ほぼ同時代史料といってよいように思われる。

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真田幸村の実名は幸村(2)

 投稿者:代々記  投稿日:2011年12月18日(日)13時47分31秒
  「真田左衛門佐幸村」の署名のある書状の記録が存在することをご存知だろうか。それは、松代藩士の柘植宗辰が編纂した『真武内伝附録』(宝暦12年(1762)自序)である。それには、次のように記録されている。
幸村公書翰之写
宗辰が控書に、幸村公大坂落城前、高野山蓮花定院へ被送書、文に曰、
 弥貴寺御安全珍重之至極、然者当城四五日之内可及落城と存候
 依之正宗一振進申候 恐々謹言
   五月二日
                  左衛門佐
                     幸村(花押)
    蓮花定院へ
  猶々未来之儀未存候間、任貴僧候 以上
右の書、今に蓮花定院に有之由、正宗の一振も有之、此末に定院の寶物等の事委く記す。
蓮花(華)定院は高野山の真田家宿坊であり、幸村が焼酎を所望した年次不詳6月23日付の河原左京宛書状を所蔵しており、筆跡の照合が可能であることから、偽書であることは考えられない。また、幸村が蓮華定院へ進呈した「正宗の一振」とは、大坂入城のとき、幸村が山伏の姿で大野修理亮を訪ねた際に、奏者の若侍が刀・脇差の目利きをすることになり、銘をみると、脇差は貞宗、刀は正宗であったので、驚き怪しんでいるところに大野修理亮が帰ってきて、幸村と知れたという『武林雑話』にある有名な挿話に出てくる「正宗の刀」であろう。
しかし、『真武内伝附録』の記録は、柘植宗辰の調査結果である。天保14年(1843)に完成した河原綱徳編纂の『真田御事蹟稿』によれば、「綱徳謹テ按スルニ、此御書(幸村公書翰)ニ因時ハ、左衛門尉ト申サセ玉ヒシカ、然レ共、高野山見聞記ノ内ニ此御書ミエス、イカニ成シカ。」とあり、河原綱徳が調査した天保年間には無くなっていたようである。現在、蓮華定院に正宗の刀は所蔵されていないことから考えれば、上記史料の80年の間に、正宗の刀に幸村所用の証として幸村公書翰を付して売却されてしまったのではないかと思われる。
 

情報ありがとうございます

 投稿者:遠山の金さん  投稿日:2011年12月14日(水)15時56分54秒
  情報ありがとうございます。当家の資料に1631年に上田から新潟に来住したとの記録が残っており、当家筋の者が過去に2人ほど上田に調査にいっていますが手ががかりをつかむまでには至っておりません。3番手として私が最終調査に上田に行く計画をしています。お寺以外にも調査する場所などあれば(図書館など)お教え願いたいと思います。こちらのサイトをお借りして恐縮ですが、掲示板をご覧になっている皆様で真田氏の家臣に「遠山」姓を名乗る者がいたとの情報をお持ちの方がおられましたら是非お教え願いたいと思います。  

お元気ですか

 投稿者:T.SANADA  投稿日:2011年12月13日(火)11時53分42秒
  金さん、ご無沙汰しております。お元気ですか。お仕事お忙しくてなによりです。
真田氏は旧真田町がルーツであることは間違いのないことです。そこから上田に
城を構えたのですが、1600年にはご承知のごとく昌幸、幸村父子は九度山へ配流、
替わって兄信之が上田にはいるわけですが、数年で松代へ転封されました。
その後、上田は仙石氏、松平氏と領主がかわります。こんなわけで、真田の痕跡は
あるようでないのが実情だと思います。松代は転封後江戸通期を無事に守りましたので
記録等もしっかり残っているのではないでしょうか。その場合でも当然信之系統が主流と
なりますが。上田でお寺を調査なさるのであれば次のようなお寺が代表的なものです。
長谷寺(真田地区)/信綱寺(真田地区)/芳泉寺(上田地区)/大輪寺(上田地区)
上田の領主は替わっておりますが、農民や町民自体はなんら替わっておりませんので
できるだけ土着された人々のお墓を調査すればよいのでしょうか。なかなか難しいことですね。
 

ご無沙汰しております。

 投稿者:金さん  投稿日:2011年12月12日(月)23時29分41秒
  SANADA様、ご無沙汰しております。3年前東京、神田の歴史バーでお会いしました遠山の金さんです。私の先祖は真田家の家臣で戦に敗れて落ち延びてきたとの言い伝えがあり、調査していただいた者です。おわかりでしょうか。社業も忙しく先祖調査も中断しておりましたが、来年は上田のお寺に調査に出向いて何か手がかりを探してみようと思っています。アドバイス願いたいのですが、もし先祖が真田家家臣であったならば上田のどの地区のお寺を回ったら効果的でしょうか。よろしくお願いします。  

追記

 投稿者:代々記  投稿日:2011年12月11日(日)14時40分52秒
  『滋野通記』の引用中、「我ラ弟」の次に「左衛門」を追加し、「我ラ弟左衛門佐実名ハ」とお読みください。失礼いたしました。

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真田幸村の実名は幸村

 投稿者:代々記  投稿日:2011年12月11日(日)14時27分14秒
  近年、慶長20年(1615)3月19日の小山田壱岐守・主膳宛の署名が「真左衛門佐 信繁」とあることから、真田幸村の実名を「信繁」とするものが多く見られるようであるが、「幸村」とする説もあるので、次に紹介することとしたい。
その一つは、松代藩士の馬場政常が編纂した『滋野通記』(寛政7年(1695)自序)である。それには、
 一、真田左衛(門)佐信繁ハ同安房守昌幸之次男也。(中略)常ニ伊豆守物語有シハ、我ラ弟佐実名ハ武田信玄ノ舎弟典厩ト同名ニテ信繁ト唱ヘ、文字モ同シ事成ルヲ、高野山蟄居ノ折カラニ幸村ト改シト物語有リ、此外ノ説アレ共用ユヘカラス。
とあり、幸村の兄の真田伊豆守信之公が近習に語り残した話が記録されている。この信之公の話は、①信繁から幸村への改名の事実と、②信繁から幸村への改名の時期との二つの事実を伝えている。このうち、②の改名時期の「高野山蟄居ノ折カラニ」については、高野山蟄居中の「信繁」直筆書状が複数現存しており、「大坂入城ノ折」の誤伝ではないかとも思われるが、信之公の話の主眼は、あくまでも「信繁から幸村へ改名した事実」である。もし、信繁から幸村へ改名していないことが事実であれば、信之公は虚言を述べられたことになるが、如何だろうか。この『滋野通記』の信之公の話の前半部分は、真田信繁説で度々引用されている箇所であるだけに気にかかるところである。

http:

 

(無題)

 投稿者:庄九郎  投稿日:2011年11月14日(月)23時03分45秒
編集済
  真田幸村の父親も凄かったらしいですね。
幸村は大阪の陣がなければ隠居生活で終わってた男と思ってます。

http://bbs9.aimix-z.com/mttbbs.cgi?room=dankazu
 

ありがとう

 投稿者:T.SANADA  投稿日:2011年 9月28日(水)09時16分1秒
  トミーさんはじめまして。
上田へお運びくださってありがとうございました。
今度はお声をおかけください。
いよいよ、紅葉の季節です。お城の紅葉も素敵ですよ。
 

お疲れ様でした!

 投稿者:トミー  投稿日:2011年 9月23日(金)19時43分29秒
  T.SANADA様はじめまして。
トミーと申します。上田真田まつりお疲れ様でした。
甲冑姿の行列は皆さんとても格好良かったです。

ただ残念だったことは、終了後の慰労会会場のフロントに偶然居合わせたのですが
緊張して声を掛ける事が出来なかった事。。。

また紅葉のころ上田に遊びに行こうと思います。
それでは失礼いたします。


 

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