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「真田左衛門佐幸村」の署名のある書状の記録が存在することをご存知だろうか。それは、松代藩士の柘植宗辰が編纂した『真武内伝附録』(宝暦12年(1762)自序)である。それには、次のように記録されている。
幸村公書翰之写
宗辰が控書に、幸村公大坂落城前、高野山蓮花定院へ被送書、文に曰、
弥貴寺御安全珍重之至極、然者当城四五日之内可及落城と存候
依之正宗一振進申候 恐々謹言
五月二日
左衛門佐
幸村(花押)
蓮花定院へ
猶々未来之儀未存候間、任貴僧候 以上
右の書、今に蓮花定院に有之由、正宗の一振も有之、此末に定院の寶物等の事委く記す。
蓮花(華)定院は高野山の真田家宿坊であり、幸村が焼酎を所望した年次不詳6月23日付の河原左京宛書状を所蔵しており、筆跡の照合が可能であることから、偽書であることは考えられない。また、幸村が蓮華定院へ進呈した「正宗の一振」とは、大坂入城のとき、幸村が山伏の姿で大野修理亮を訪ねた際に、奏者の若侍が刀・脇差の目利きをすることになり、銘をみると、脇差は貞宗、刀は正宗であったので、驚き怪しんでいるところに大野修理亮が帰ってきて、幸村と知れたという『武林雑話』にある有名な挿話に出てくる「正宗の刀」であろう。
しかし、『真武内伝附録』の記録は、柘植宗辰の調査結果である。天保14年(1843)に完成した河原綱徳編纂の『真田御事蹟稿』によれば、「綱徳謹テ按スルニ、此御書(幸村公書翰)ニ因時ハ、左衛門尉ト申サセ玉ヒシカ、然レ共、高野山見聞記ノ内ニ此御書ミエス、イカニ成シカ。」とあり、河原綱徳が調査した天保年間には無くなっていたようである。現在、蓮華定院に正宗の刀は所蔵されていないことから考えれば、上記史料の80年の間に、正宗の刀に幸村所用の証として幸村公書翰を付して売却されてしまったのではないかと思われる。
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