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真田まつり

 投稿者:トミー  投稿日:2012年 5月 2日(水)23時24分56秒
  T.SANADA様
お返事ありがとうございます。
今年は残念ながら、仕事でお祭りを見に行く事ができませんでした。
近くで観劇出来るようになったとの事。
来年のお祭りを楽しみにしております!

お祭りには間に合いませんでしたが、今日から上田と松代に旅行に行きます。
歴史散策と温泉を満喫したいと思います♪
 

真田まつり

 投稿者:T.SANADA  投稿日:2012年 5月 1日(火)08時46分7秒
  ご無沙汰しております。4月29日の真田まつりは無事終了しました。上田にお出での皆様に
御礼申し上げます。祭りの後、署名活動の最終報告会がありました。おかげ様をもちまして
署名数は目標を大きく上回り789千あまりを達成しました。NHKの反応も上々のようです。
トミーさん、今年はいらしたのですか。今年のお祭りはちょっと工夫をいたしまして、
大幅にとは参りませんでしたが、これまでのマンネリを打破できたような気がします。
舞台を競技場から城内と町中心部に移したことでより近くで観劇できるようになりました。
出演の人達も遠くからこの1,2か月練習に上田まで通い、それはもう熱心でしたね。
頭が下がります。
紫さん、お久しぶりでした。お会いできて嬉しかったです。29日は暑かったですね。
見ている方も大変だったでしょう。折よくくもりがちになったので暑くてフラフラという
ことにならなくて良かったです。翌日は長谷寺に行ってきました。有名なしだれ桜が満開
で素晴らしかったです。信綱寺は桜吹雪。真田の里は上田市内より2週間遅いようです。
さて、5月5日は九度山に参ります。連休中の移動になりますが、九度山真田まつりの方へも皆様お出でください。大阪天王寺の安居神社の神事もありますよ。
 

お疲れさまでした。

 投稿者:  投稿日:2012年 4月29日(日)21時28分54秒
  T.SANADAさま、今日は暑いくらいの気温の中の甲冑姿での行列、お疲れさまでした。
今年もご挨拶できて嬉しかったです。
私は上田へ行く前に小諸の懐古園に寄ったのですが、桜が満開で綺麗でしたよ。
上田の桜は残念ながら散ってしまいましたが、真田一色の楽しい一日でした。
今日はゆっくりとお休みくださいませ。

http://sanadasandai.gozaru.jp/

 

こんばんは

 投稿者:トミー  投稿日:2012年 4月21日(土)23時55分1秒
  T.SANADA様お久しぶりでございます。

1月に関西地方の真田ゆかりの地を巡って参りました。
九度山見学をして高野山の蓮華定院にも2泊して
当時に思いを馳せて参りました。

私は去年のお祭りしか見学していないのですが、
書き込みの『いつものマンネリの内容』を拝見して感想を書き込ませていただきます。

上田城のグラウンドだと観客席からは皆さんが遠すぎました。。。
安全上の問題などがあっての事だとは思いますが、もっと近くで真田軍の雄姿が見たかったです!
それと見せ場の合戦をもっと演出が出来ないかなぁと思いました。
例えば煙幕を張ったり(煙玉みたいな)鉄砲隊が参加したり
徳川軍との戦いのときに武将が目の前で戦ってくれたり。。。
グラウンドを縦横無尽に駆け回ってほしいです。

生意気なことを申しましたが、これからももっと良いお祭りにしてください。
楽しみにしております♪

P.S 甲冑が重くて暑そうですがくれぐれもお体ご自愛ください。
 

ご無沙汰です

 投稿者:T.SANADA  投稿日:2012年 4月20日(金)15時41分24秒
  TETSUさん、長い間掲示板を放りっぱなしにしておりました。ごめんなさい。
中国に赴任のこと。ご苦労様です。ご家族も一緒ですか。
こちらは春が来るのが遅く、上田の桜もやっとこの日曜日に満開とのことです。
29日は真田まつりです。今年から日程が前に戻りました。いつものマンネリの内容
で、私敵には不満なのです。お役所のアイデアのなさにはウンザリしてます。
中国の生活は健康そうでなによりです。日中関係が時々おかしくなりますが気をつけて
ください。このHPも変わり映えしません。毎月トップページだけお知らせを変えております。また書き込みを楽しみにしております。
 

(無題)

 投稿者:TETSU  投稿日:2012年 3月 4日(日)11時31分5秒
  非常にご無沙汰しております。
この書き込みは、中国の浙江省から行なっています。
実は人事異動により現在は中国法人の駐在となっており、中国で生活を行なっています。
赴任より2ヶ月少々たち、ようやく周囲の騒がしさに慣れてきたところです。
こっちに来ても、むしろ上田にいた頃よりも健康のために歩く機会は増えています。
しばらくは真田祭りにもロマンウォークにも参加できないですが、ここのサイトを見ながら懐かしく想うことにします。

それでは
 

ご無沙汰してます

 投稿者:nakazawaメール  投稿日:2011年12月30日(金)13時25分38秒
  調べ物をしていて、ひょんなところからSANADAさんのブログに継ったようです。
上田のNAKAZAWAです。お元気ですか?まだ出張が多いのですか?
地元ですがあまり真田家については詳しくありません。貴兄の掲示板で勉強させてもらいます。
まだ会社におられるのでしたら、皆さんによろしく。特に、Sさんには。

 

真田幸村の実名は幸村(6)

 投稿者:代々記  投稿日:2011年12月28日(水)10時44分20秒
  真田幸村の書状について、ここで整理しておきたい。
・年次不詳9月20日 宛先不明 「真左衛門佐 信繁」
・年次不詳極月晦日 木村土佐守宛 「真左衛入 信繁」
・年次不詳9月15日 関口角左衛門宛 「信繁」
・年次不詳6月23日 河原左京宛 「真好白 信繁」
・年次不詳2月8日 小山田壱岐守宛 「真好白 信繁」
・年次不詳12月29日 池田長門守宛 「左衛門佐」
・慶長20年(1615)正月24日 村松殿宛 「さへもんのすけ」
・慶長20年(1615)2月10日 石合十蔵宛 「真左衛門佐」
・慶長20年(1615)3月19日 小山田壱岐守・主膳宛 「真左衛門佐 信繁」
・慶長20年(1615)5月2日 蓮花定院宛 「左衛門佐 幸村」
以上にみるように、真田幸村の書状のうち、大坂入城後に「信繁」と署名しているものは、小山田壱岐守・主膳宛の1通のみであるという事実である。
一方、5月2日付け蓮花定院宛の「幸村」署名の書状についてであるが、大坂城からの後藤・真田の出発が、陸軍参謀本部編纂の『日本戦史 大坂の役』の記述とは異なり、『慶元記』によれば5月2日とされている。『慶元記』の「巻24 後藤基次最後之暇ヲ請フ附幸村之事」には、5月2日、後藤基次は秀頼公に最後の御暇を申し上げ、真田幸村も御前に罷り出て、「後藤が二ノ見」として河内路へ赴く旨を申し上げたと記載されている。この5月2日付けの書状であることについては、大坂落城そして戦死を覚悟した幸村が、蓮花定院に形見の正宗の刀を届けさせたということであり、幸村の置かれた状況を察するに、まったく肯けるものがある。(了)

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真田幸村の実名は幸村(5)

 投稿者:代々記  投稿日:2011年12月27日(火)11時20分59秒
  真田幸村の実名について、幸村の直系子孫である仙台藩士の「真田家」では、どのように伝えているのか記すこととする。
「滋野性海野氏真田氏略系」(真田徹氏所蔵)
 幸 村
  母ハ木曽氏族大庭木工国秀女阿瀧方。元亀元庚午年(1570)2月2日生ル。
  小字源二郎。(中略)
  元和元年(1615)5月6(7)日摂州大坂ニ於テ戦死ス。時年46歳。
  大光院殿日秀高白大居士ト諡号ス。
このように仙台真田家では、信繁という実名の記載はなく、あくまでも幸村と記載している。これは、最後の実名が幸村であったためと思われる。直系子孫の家において、先祖の名前が幸村と伝えられている事実は重視されてよい。軍記物に迎合して先祖の名前を変えるなどということは、有り得ないのではなかろうか。

寛永17年(1640)に真田四郎兵衛守信(幼名真田大八)が仙台藩士に列し、江戸御番組馬上役を仰せ付けられ、永代二番座御呼懸(召出)に召し出されたとき、仙台藩に幕府から系(いえすじ)調査の命があり、幕府へ書上系譜を呈出したものと同系統の系譜(大八を夭死、守信を真田信伊の子政信の子とする偽系図)が片倉小十郎家に伝えられているので、次に記すこととする。
「滋野姓真田之系略」(片倉信光氏旧蔵)
 幸 村ー幸 昌(大助)
     大 八(7歳夭死)
     女 子(石河宗雲室)
     女 子(片倉小十郎重綱室)
     女 子(於奥州白石早世)
このように片倉小十郎家に伝えられた系譜においても、信繁ではなく幸村と記載しているのである。

このほか、仙台藩内に伝来した真田家関係史料は、次のとおり、いずれも「左衛門佐幸村」または「幸村」と表記している。
①『老翁聞書』(延宝・天和年間(1673~84)成立)
②『片倉代々記』二代重長譜(初代から三代までは貞享3年(1688)完成)
③片倉辰信提出「勤功書」(仙台真田家二代辰信、宝永5年(1708)12月付)
  

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真田幸村の実名は幸村(4)

 投稿者:代々記  投稿日:2011年12月26日(月)11時04分18秒
  北条氏長が編纂した『慶元記』(寛永10年(1633)自序)は、兵学研究家の有馬成甫著『北條氏長の兵学』によれば、「同書は大坂冬夏両陣の経過を記した戦史であるが、単に事実を叙述せるに止まらないで、これに小幡景憲(甲州流兵学の創始者)、杉山八蔵(小幡景憲の高弟)及び岡本半助(小笠原流兵学の軍配者)三名の評を加え、かつ自説を述べた兵学研究録である。」としている。
しかも、この『慶元記』の「巻二十六真田幸村野村表合戦之事」には、「西村(孫之進)、後ニ江戸ニ来リ遊客ト成テ諸家ヘ出入シ、小幡景憲ト甚ダ善シ。故ニ己ガ幸村ヨリ伝授ノ兵法ヲ悉ク景憲ニ授ケシナリ。」と記しているように、真田幸村家臣の西村孫之進が重要な情報源になっているのである。その西村孫之進は、仙台藩士になった真田家の系譜「滋野性海野氏真田氏略系」(真田徹氏所蔵)の幸村次男「守信」(幼名大八)の条に、「元和元年豊臣氏亡ビ父兄戦没。大八君年甫四歳、一族三井備後守(景国)家臣西村孫之進・吾妻佐渡、幸村公ノ遺命ヲ受ケ仙台ノ先鋒片倉重綱ノ陣ニ投ズ。」と記載されている、幸村次男の大八を奥州白石(片倉氏所領)に護衛していった武士である。
『慶元記』を真田幸村家臣の西村孫之進が重要な情報源であるという観点から見直すと、「真田幸村戦記」と別称してもよいような内容になっている。『慶元記』は、国立国会図書館の近代デジタルライブラリーで閲覧可能です。
西村孫之進の実在性について確かめたい方は、岡山大学附属図書館所蔵「池田家文庫」
・先祖並御奉公之品書上 西村孫四郎(D3-1927 マイクロフィルム)
・家中諸士家譜五音奇(倉地克直編『岡山藩家中諸士家譜五音奇』1993年刊)
  代官頭   西村源五郎 高400石
  池田主税組 西村孫三郎 切米20俵扶持5人
をご覧ください。
また、『池田光政日記』の慶安3年(1650)8月晦日の件に、「一西村孫之進五十人扶持遣ス事、一同源五郎ニ三百石遣候事」とあり、明暦2年(1656)4月13日の62年の生涯に際し2歳実子への処遇についての記載もあるので、ご覧いただきたい。なお、西村孫之進を池田光政公に推挙した重臣の熊沢助右衛門とは、後の陽明学者熊沢蕃山である。
 

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