因果3
「因果1」で、自分の中の思い込みを良い方向に変える。「因果2」で、相手とのLUBを取って自分と一緒に相手も変える、という方法を述べました。この二つの実践を極めるだけでも、人生は劇的に変わります。それでもなかなか実践は難しいもので、一生かかってもやり遂げられる保証はありません。頭では分かっていても、現実の問題に当てはめるのは全く別問題です。
「因果1」「因果2」だけでも、いや「因果1」だけでも、教義に据えてやれば宗教ができそうなものです。実際こういう内容は、表現こそ違っても、アレフの教義にもありますし、ひかりの輪の教義にもあるようですし、恐らく他の宗教の教義にもあるでしょう。アレフの出家信者にも私は数年間そういう教えを指導させて頂いた経験があります。「目からウロコの法則ですね」とか何とか言う人も数人いました。そういう人はかなり真剣に「真理の法則」を求めていた方でした。
しかし「真理の法則」を熱心に求める人ほど、三女ら麻原家族の裏指示に忠実で、私を「悪魔」として排除して下さいました。彼らはカルトの本質を教え諭す有り難い師匠のような方々でした。要するに彼らは北朝鮮のボディーガード・囚人をいじめる立場と同じように、悪魔を排除するわけです。それをやらなければ自分がグルを裏切ったことになり、無間地獄に落ちるという恐怖があるのです。理論上は「因果1」が分かっても、実際はその逆をやっているということです。
それくらい「因果1」「因果2」に述べた内容は、実践が難しく、またトライするだけの価値があることです。実際苫米地ワークスではそれを60万とかで、触りの部分を教えるわけです。本当に習得したい人は、その何倍もお金を払って通い続けます。
以上が一般的な宗教の話です。以下からキチガイの戯言の部類に入りますので、ご興味のある方だけ覗いて頂ければ幸いです。ここからは私が今現在やっていること、「今更ハルマゲドン」と主張を掲げつつやろうとしていること、その理念的な所にも該当する所です。
上記実践もあくまで「綺麗事宗教」の範疇を超えないものです。「綺麗事宗教」とは、何か神聖な崇拝対象・礼拝対象を設置して、自分がそれに近づいて清らかになる、そんなものをイメージして頂ければ結構です。そのような「綺麗事宗教」も、社会の一部として、人間に心の安寧・安息を与える役割を果たしているのも確かなことです。しかしそれは非常に意地悪な見方をするなら、欲望をウソで固めた一般社会のドロドロ、その汚れを補償する為の「綺麗事」ということになります。「金稼ぐためにいつも営業でウソついているから、お布施しよう、奉仕作業しよう、ボランティアしよう、募金しよう」と。
それでも私は、「綺麗事宗教」でもやらないよりやった方がマシなケースが多い、と考えます。日本人多数派の考えからすれば、「宗教なんて洗脳による金儲け」となるでしょう。しかし教祖と団体のためにタダ働きする信者は、一銭ももらわないで金集めをします。少なくともその信者達は、自分自身の欲望はある程度抑制するわけです。「どうせ金儲けだろ?」と拝金主義にまみれた見方しかできない人とどっちがマシか、ということです。
「綺麗事宗教」であっても、社会に存在する以上、どうしても金を含めた汚れの部分は存在します。一方で聖なるものを提示して補償しながら、どこかに汚れの部分(大体が金)を押しつけます。それが出家信者によるタダ働きであったり、在家信者からの金集めだったり、一般の人への霊感商法だったりします。
この「綺麗事宗教」の理論が通用するのは、あくまでその宗教の範疇に留まります。一般社会にその理論を持ち込もうとすると、どこからか弁護士等々が飛んできて、「カルト宗教の悪徳商法だ!」となります。つまり信じる人の間でしか、通用しないわけです。信者を辞めれば、「騙された!金返せ!」という話になり、それも裁判等になります。
いずれにせよ「因果1、2」含めた「綺麗事宗教」の理論だけでは、全く一般社会の問題に太刀打ちできない現実があります。前述した通りその理論(因果1,2)すら実践できていないのが大多数ですから、もう話になりません。かくして「綺麗事宗教」は、みずから結界をつくってその中に収まるしかなくなります。カルトの閉鎖的・欺瞞的性質というやつです。
その欺瞞的性質について。再度もの凄ぉぉ〜く意地悪な見方をすれば、宗教そのものが人間の欲望を綺麗事のウソで固めた汚れそのもの、と言えなくもありません。要は建前として掲げる看板が、大きくて立派なのか小さくて粗末なのか、つまり「人類救済」なのか「スマイル0円」なのか単に顧客と上司の手前なのか。イエスキリスト含めた開祖・教祖の心の働きは別として、信者は入信する前は、欲望をウソで固めた社会にどっぷりつかっていたわけです。どうしたって白い部分と黒い部分が混在します。
では野田成人は何をやっているのか、という話です。結論先に述べますと、欲望をウソで固めたその汚れの部分を、引っぺがす作業をやるわけです。
(つづく)
一般人からすると、そのように見えてしまうのですが、つづきとても楽しみにしてます。