過激3
前回の続きです。
ニーチェの「怪物と戦う者は怪物とならぬように注意せよ」。この問題をどう解決するか、ということになります。
結論を言えば、この問題は人間にとっては永久に解決不能なのです。その理由は、我々は対象を認識するという世界の中にあるからです。認識することは、その瞬間、相手の要素を自分の中に取り入れてしまっているからです。
以前、「なぜ人を殺してはいけないのか?」に対する問題と回答を解説しました。オウムの教義に「物事に善悪はない」というのが殺人に結びついたと言われています。同じことをいうと、「『空だから善悪ない』っていうなら、おまえも殺人教義だな」と言われることへの反論です。答えは、人間はデフォルトで存在の世界にあるから、でした。
存在の世界を越えると、「存在する、でもない、存在しない、でもない」世界に入ります。しかし次にはまた新しい世界になります。それは「認識する」という世界です。
この「認識する」を越えると、「認識する、でもない、認識しない、でもない」世界に入ります。そこまで行くともう地獄だとか天国だとか死んだらどうとか、一切悩む必要はありません。
人によっては理解頂くのが難しいかもしれませんが、人間の存在よりも深い問題である、認識の問題なので、到底人間には解決できないと言うことになります。問題・怪物を認識する以上、その要素を内在させてしまうことは不可避です。
では野田成人はどうしているのか、というところになります。認識の問題を越えることはできません。そこで採っている方法は、どっち転んでもいい、立場を採ると言うことです。
私は資本主義国家の足下をみています。資本主義でぜいたくわがままに慣らされた国民が選ぶ政治は、結局国家財政を全員で食いつぶす結果になるだろうと予測します。
私の収入の半分程度は店子が生活保護で受給する住宅扶助です。食費も月1万しか使わないのですから、資本主義国家が機能する限り、金持ちまっしぐらです。たまったお金は人助けの手段になります。世の中お金で困っている人は星の数ほど存在します。その人たちの支援に回せばいいだけです。
予想通りに資本主義が破綻したら、「ほらいわんこっちゃない」と言えます。勿論これはこれで大変な事態になるので、農業他準備をしています。今までやってきた人助けで、それなりの人脈もできつつありますから、力を合わせれば何とかなるでしょう。困った人の人助けが、非常時の準備になっているのです。
「乗るか、反るか」ではなく「乗らず、反らず」です。この背景にある思想は、自分の足場を作らないという思考です。
以前誰かが「不動心」について言及していたので、それに絡めて言いますと、私の考える「不動心」は「浮動心」です。
オウムやアレフの現役・元信者がよく言っていました。
「グルへの帰依が固まった。」
大体の人が勘違いするのが、その凝り固まった考えの先に不動心がある、というものです。しかしこれは単に壊れるものを構築したに過ぎません。上記の言葉を吐いた信者らの9割が、作った物を既に壊しました。残り一割も同じ運命にあります。全ては無常だからです。
心が壊れるのを経験したくなければ、何も作らなければいいのです。2割冗談ですが、それが「浮動心」です。バカとはさみは使いよう、みたいなものでしょうか。
これは、「自信を持って」でもなく、「自信を持たないで」でもなく、言えることです。
(つづく)
両天秤なんてあだ名が付かないように、
気をつけてくだせえ。