◇佐々木如水盛信の碑
佐々木如水盛信は享和3年(1803)小諸藩御神宮小諸藩御持筒役(砲術に熟練の士から選任され、藩主に近侍する親衛隊的
な性格を有する役職)の小竹半太夫の長男として生れる。学問、武道に精錬し、家督を継いで小諸藩に仕える。武芸者として
特に弓術に秀で和歌の才能もあり、門弟千人を教えた。天保年間に眼病を患い、嘉永5年(1852)職方御免とされ家督を養子に
譲り隠居した。
文久3年(1863)清川八郎の主導する浪士組に参加し、将軍家警護の先鋒を承り、近藤勇と同じ、道中先番宿割役を担当する。
浪士組への参加は近藤勇、山岡鉄太郎(鉄舟)、高橋精一(泥舟)などと知り合い交流する。新微組で江戸市中取締後、庄内へ
向かい維新を迎え、酒田県の士族になる。明治6年(1873)東京に住み、故郷小諸にも訪れ門人と交流する。
明治10年(1877)に北国街道に筆塚が建てられ、平成7年小諸城本丸内に移される。
如水の碑の撰文は湯島学問所教授で小石川に「日新堂」を開いた白井篤治で、題額は山岡鉄舟、書は高橋泥舟である。左側
には勝海舟の筆による「懐古園の碑」が建ち、同じ場所に幕末三舟の海舟・鉄舟・泥舟の筆が揃っていることは興味深く、
貴重な文化遺産である。

佐々木如水の筆塚
題額は山岡鉄舟の筆である。
勝海舟の筆による題額「懐古園の碑」
懐古神社の境内にはつやつや輝いた黒い岩がある。武田信玄は小諸の城を碓氷峠、中山道、北国街道の交通の要と考え、山本勘助
と馬場信春に命じて、縄張り、石垣を立てたと言われている。石垣にするのはもったいないと言う綺麗な石があって、勘助は其処に
顔を映して、毎朝策略を練ったと言われている。正直者は綺麗に映ると言われるが、果たしてその映り具合は如何であろうか
懐古神社は明治13年(1881)に小諸城が懐古園として整備した際に、旧小諸藩の士族らにより小諸城の本丸跡に建てられる。
小諸藩を治めた牧野氏の歴代藩主の霊を藩政時代から城内の鎮守神として祀られている。
天明3年(1783)浅間山大噴火は「天明の浅間焼け」とも言われ、すさまじい勢いで噴火し火柱が立ち、大量の犠牲者が出て
回向院(墨田区)にも供養墓もある。土地柄、浅間山の火を鎮めることもこの神社の大きな役割を担っている。
◇懐古神社
◇鏡石
徳川の一国一城令一国(大名が居住あるいは政庁とする一つの城郭を残してその他の城はすべて廃城にする)というもの
であるから天守台のまま残った。下に覗きこんで見ると、中腹あたりからはらんでいるように見える。建物があると雨や雪が
外に流れるが、何もないと地面が吸ってしまって、石垣を押し出して行く様な力が働きこんな形状になってしまう。
天守台から紅葉が見えるが、桜も海が眺められるようで素晴らしい炯眼が確かめられる。
◇天守台
綺麗に石積みされた天守台
天守台から、目の前を油絵を見る様な、豊かな色彩に彩られたの素晴らしい眺望を確かめられる。
<<戻る 次へ>>