三笠宮寛仁さま、ご逝去 天皇皇后両陛下や皇族方が弔問される
天皇陛下のいとこで、「ヒゲの殿下」として親しまれ、がんとの闘病が続いていた三笠宮寛仁さまが、6日午後、多臓器不全のため亡くなられた。66歳だった。寛仁さまのご遺体は、6日夜、赤坂御用地にあるお住まいの宮邸に戻られ、天皇皇后両陛下や皇族方が弔問された。
午後8時すぎ、天皇皇后両陛下を乗せた車が、赤坂御用地へと到着した。
6日夜、赤坂御用地にある寛仁さまのお住まいで、ご遺体と対面された天皇皇后両陛下。
皇太子ご夫妻と秋篠宮ご夫妻、眞子さまは、弔問後、皇居を訪れ、両陛下にお悔やみを伝えられた。
また、寛仁さまの義理の兄にあたる麻生元首相も、弔問に訪れた。
日野西 光忠宮務主管は「寛仁親王殿下には、本日午後3時35分、公益財団法人・佐々木研究所付属杏雲堂病院において薨去(こうきょ)されました。謹んで哀悼の意を表する次第であります」と述べた。
6日午後3時35分、天皇陛下のいとこで、「ヒゲの殿下」として親しまれた三笠宮寛仁さまが、入院先の病院で亡くなられた。66歳だった。
病院に駆けつけた長女の彬子さまや次女の瑶子さまが、「お父さま」と呼びかける中、息を引き取られたという寛仁さま。
度重なるがんの転移で手術を繰り返し、2012年3月にも16回目の手術を受けられ、入院中だった。
午後6時前、千代田区にある病院を出た寛仁さまのご遺体を乗せた車は、皇居を半周ほど回り、お住まいのある赤坂御用地に到着した。
寛仁さまご逝去の知らせに、街の人からは、「『ヒゲの殿下』って、スポーツいっぱいやる人でしょ。だから、すごく記憶に残っている」、「庶民的で、なんとなく親しみがあってね、(亡くなられて)残念」といった声が聞かれた。
野田首相は、「引き続き積極的なご活動を望んでいたところ、思いもむなしく薨去されましたことは、誠に痛惜の思いにたえません」という謹話を発表した。
学習院大学を卒業後、イギリスのオックスフォード大学に留学された寛仁さま。
1980年には、麻生太郎元首相の妹・信子さまと結婚。
1980年、寛仁さまは「いろいろな女の人と、僕はつきあいましたけどね。ずっと、こちらの年代も上がってきたし、いろいろトータルに考えてみて、やっぱり彼女が一番いい」と話されていた。
その後、彬子さま、瑶子さまの2人のお子さまに恵まれた。
寛仁さまが、特に力を尽くしたのがスポーツ振興で、中でも、体に障害を持つ人たちがスポーツを楽しめるように、積極的に取り組まれた。
一方、1982年には、自らの行動が皇族としての身分に制約されることを悩み、皇籍離脱を宣言されて話題となった。
1991年に食道がんを発病し、その後、入退院を繰り返された寛仁さま。
2007年、寛仁さまは「ご紹介をいただきました、アルコール依存症の寛仁親王です」と話されていた。
2007年には、自らアルコール依存症であることを公表された。
寛仁さまは、再発を繰り返すがんとの闘いで、自力で声が出せなくなったあとも公務を続け、人工喉頭を使って、あいさつされることもあった。
2010年、寛仁さまは「世の中では、3人に1人が、がんで亡くなると言われておりますから、何とか早く、がんの撲滅を実現していただきたいと思います」と話されていた。
長年のがんとの闘病の末、寛仁さまは6日午後、ご家族に見守られながら息を引き取られた。
ご葬儀は、皇室の伝統にのっとって進む予定で、7日にも、一般の入棺にあたる「お舟入り」や、皇族方が最後のお別れをされる「拝訣(はいけつ)」が行われる見通しとなっている。