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(無題)

 投稿者:那田尚史  投稿日:2012年 6月 7日(木)14時27分55秒
返信・引用
  この二つの投稿は、スペルも間違っているし、リモートホストも海外です。
討論をするならきちんとした日本語で行って欲しいものですね。

 

raeNEkIbst

 投稿者:UhDDuEfe  投稿日:2012年 6月 7日(木)14時02分31秒
返信・引用
  This iinsght's just the way to kick life into this debate.  

Re: (無題)

 投稿者:nTLBAhFS  投稿日:2012年 6月 7日(木)13時21分2秒
返信・引用
  > No.266[元記事へ]

An intelligent answer - no BS - which makes a pleasant chgane
 

寝禅について

 投稿者:那田尚史  投稿日:2012年 6月 4日(月)18時07分55秒
返信・引用
  私が一番苦手、と言っていた寝禅(眠る前、起きる前の無念無想方法)がどうにか工夫の末に出来るようになりました。
 臍下丹田(臍の下9.5センチぐらい)に、5円玉を置く、とイメージします。そこへ自意識を起き、10円玉で蓋をします。もちろんこれもイメージです。そして出口のなくなった自意識を丹田のなかに沈めます。

闘病生活をしながら禅の呼吸法を続けてみよう、という人でないと、バカじゃないの?と思われるでしょうが、これが今のところ見つけた最も効果的な方法ですね。

それから、あるサイトでちょっとした議論になって分かったのですが、ほとんどの人間は「自分」というものが可愛くて仕方ないようです。私は批評の分野で、自分の理解できる範囲に作品を矮小化して解釈するのを「トコロテン批評」と軽蔑してきました。30歳の頃からです。自分を消して作品の世界に合わせるのが初歩中の初歩です。が、大半の人が、自分に理解できない部分は斬り捨てる。だからトコロテンなのです。

「父母が生まれる前の自分とは何か」という有名な公案がありますね。微笑禅は曹洞系なので公案は重視しませんが、これぐらいは突破できなくてどうするんでしょう。

前から言っていますが、公開討論大いに歓迎です。但し、調べて分かる程度の質問や、「ためにする」質問は時間の無駄なので返答しません。あくまでも菩提心を持った上でなら大いにやりましょう。



 

(無題)

 投稿者:那田尚史  投稿日:2012年 6月 3日(日)20時16分4秒
返信・引用
  相変わらず、一枚書類を書き終えればまた3枚ぐらい来て、電話連絡、来訪などあっというまに一日が過ぎます。

慧可の思想は大変興味深いですね。5~6世紀にかけてこんな思想を持つ人がいたとは驚きです。一読すれば、差別観を徹底排除して、絶対的人間肯定に進めばこうなるでしょう。キリスト教と逆で「悔い改めるな」ですから面白い。
 現実的適用は不可能でも、思想の純粋さという点では非常に稀有です。慧可がなぜこのような思想になったかもう少し調べてみます。山本玄峰師の提唱にも善悪を否定する、と受け取れる文章が出てきます。というわけでこのテーマはもう少し調べて再度考えることにします。
 

(無題)

 投稿者:那田尚史  投稿日:2012年 6月 1日(金)20時44分31秒
返信・引用
  下の日記、水曜日に書いたのですね。ビックリです。毎日が矢のように過ぎて、時間の感覚が変になっていますね。医者に聞いたら、この陽気は普通の三寒四温じゃなくみんな自律神経をやられてるので、なるべく無理せず休んでください、とのことでした。結構難しい話を進めているので、ぐっすり休んで明日にでもまた続きを書きます。  

慧可とは

 投稿者:那田尚史  投稿日:2012年 5月30日(水)20時28分32秒
返信・引用
  少しでも禅をかじった人なら知ってるので省略しました。
下の「 」の中の言葉は慧可の非常に興味深い危険思想、といったものです。慧可についてはウィキから以下を参照してください。
___________________
慧可(えか、太和11年(487年) - 開皇13年3月16日(593年4月22日))は、俗姓は姫氏(きし)。幼名は神光。中国禅宗の二祖。正宗普覚大師。
略歴 [編集]

洛陽武牢(河南省栄陽郡)生れ。はじめは儒教や老荘思想を学んだが得心せず、香山の永穆寺で得度した。出家後は問法のため各地を放浪し、さらに香山に戻り8年間修行を続けた。しかし、ついに疑念を解明することが出来ず、嵩山の少林寺で面壁していた達磨に面会し弟子入りを請うた。達磨は断ったが慧可はあきらめず、自らの腕を切り落として弟子入りの願いが俗情や世知によるものではない事を示し、入門を許されたと伝えられている(雪中断臂)。実際は元から臂がなかったため、後からこの伝説が作られたともいわれている。達磨の法統を継ぎ、禅宗第2祖となったとされる。
弟子の鑑智僧璨を育て法統を伝えたが、布教には困難が多く常に迫害や妨害にさらされていた。周武廃仏では都を出て安徽省の皖公山に避難を余儀無くされた。城安県での布教中、慧可の説法に聴衆を奪われた匡救寺の僧弁和が慧可を憎み、「講席を打破した邪見の道人」であると讒訴した。弁和の訴えを聞いた県令は慧可を捕らえ、取調べなしに処刑した。
 

(無題)

 投稿者:那田尚史  投稿日:2012年 5月30日(水)14時10分52秒
返信・引用
  検索をかけたら「eka no3」に次のような文章が載っていました。とりあえずコピペします。

8)善惡を超える思想の危険性

 空思想の「煩悩を断ぜずして涅槃を得る」「煩悩即菩提」は、文字面 を受け取れば、煩悩をそのまま涅槃とする悪い現実肯定となる。それを回避しようと、事に即して経験することを強調した慧可であるが、観念によって引き起こされるあらゆる感情を「自心現量 」として斬って捨て、時間的統覚を否定する時、それは因果の撥無になりかねず、さらに分別 による二見を超えることも、一歩を誤れば、善悪双方の肯定になり、全てが許される自由へとエスカレートしかねない。次の説示はそのような危惧を抱かせるのに充分である。

十九「燃し、法仏、法僧に依って行道する時は、善惡好醜・因果 是非・持戒破戒等の見有ることを得ざれ。・・・・若し、人、戒を破り殺を犯し、淫を犯し盗を犯して、地獄に堕することを畏れんとき、自ら己れの法王を見れば、即ち解脱を得ん」。

 たしかに罰を恐れて、戦々兢々としていた心も、壁観に凝住すれば鎮まって安楽となろう。しかし、それは悪を止める力になるだろうか。また、すでに犯した悪はそれで果 たして清算されるのだろうか。さらに殺・淫・盗・妄語には、それによって深く傷付く他者がいる。その他者の問題はどうなるのだろうか。

 達摩の思想には、「我が宿殃にして、悪業の果 の熟するのみ」というように、自分の過去の罪とそれに関わる因果の論理が貫徹されていた。しかし慧可の場合は、宿業や罪という観念は、きっぱり捨てられている。

四一「痴人は亦た言う、我は罪を作れりと。智者が言う、汝の罪は何物にか似たる、と。此れは皆な縁より生じて自性無し。生ずる時に既に我無きことを知れば、誰か罪を作り、誰か受けん。経に云う、凡夫は強いて分別 して、我は貪り、我は瞋恚すという、是の如き愚痴の人は、すなわち三悪道に堕つ、と。また経に、罪性は内に非ず外に非ず、両つの中間に非ず、というは、此れは罪の処所無きことを明かすなり。処所無しとは、即ち寂滅の処なり。人の地獄に堕つるは、心に我を計して憶想分別 し、我は悪を作して我が受け、我は善を作して亦た我が受くと謂うに由る。此れは是悪業なり」。

 罪業の呵責は、たしかに過去に為したことに囚われた心の作用であろうし、その果 である地獄の苦しみを思い描くことも想像に過ぎなかろう。しかし、この慧可のように二見を持つことの方が悪業であるとまで説けば、悪因悪果 ・善因善果は否定されてしまう。次の言葉はそのことを危惧させずにはおかない。

十六「若し禁戒を犯したる時は忙怕せんも、もし怕るる心の不可得なるを知れば亦た解脱を得る」。

 これは文字通りとれば、戒律を無視することにもなりかねない。時あたかも戦乱の時代で、戦いのため、他者を殺し、傷つけ、あるいは物を奪って生きていかざるを得なかった人々が大勢いたに違いない。彼等は慧可の説くところを行じて安楽を得たかもしれないが、果 たしてそれが真の解決であろうか。

 自己(我)を幻とすることは、他者をも幻とすることである。自他を含む仏法のリアリティが慧可には言表されていない。もし敬虔な綿密な仏道としての日常生活を欠落させた時、慧可の説く道は因果 を撥無した無戒非道のあり方に堕さないであろうか。慧可は七仏通戒をも妄想として斬る。

五九「又た経にいう、一切の悪を断ち、一切の善を修めて、成仏することを得、と。答う、此れは是れ妄想して自心に現ずるのみ」。  禅宗が武人の宗教という趣きを呈するとき、その危惧はさらに増す。
 

(無題)

 投稿者:那田尚史  投稿日:2012年 5月30日(水)13時55分34秒
返信・引用
  おかしな陽気の連続で、サッシを開いて空気の入れ替えをしながら膝掛けをしている状態です。体温の調節が壊れたのかと思ったら、みんなそうらしいですね。

このごろずっと考えていることは「善因善果 悪因悪果」という仏教と道徳の根本思想の捉えなおしです。私が中年になって様々な体験をしたためか、世相が乱れているせいか、どうも悪い奴ほどよく眠る時代になっているとしか思えません。また去年の大震災以来、罪の無い人が苦しむ事件が多すぎます。
 あれこれ考えると、善悪の概念を見直すべきではないか、と思うようになりました。

有名な話ですが「健全な肉体に健全な精神が宿る」というのは、本来はこの言葉のあとに「であったらいいなぁ」と続きます。健康だが魂が腐っている人はいくらでもいますからね。
 同様に「善因善果 悪因悪果」は、普通に考えると、そういう法則がないと人間はとことん悪いことをするので、これが絶対の事実である、ではなく、一つの戒めと考えるべきではないか、という思いが一つあります。

次いで、善悪の彼岸、ではありませんが、かつて日蓮教学の大家・今成元昭先生が言われたように、災害にあい死ぬのが×で生きるのが○という考えが間違い、という発想です。幼子が車に轢かれて死んだ、とか清廉潔白な人が異常者に殺された、とかは日常茶飯事に起きています。とすれば結果の善悪を期待せずに、というか考えず、ひたすらこの一瞬を生きるべきでしょうか?善悪を二項対立と考えず、諸行無常の真理の中で、なすべきことをなす、ということでしょうか?
 しかしこれは凄まじいニヒリズムと紙一重ですね。

ちょっと用事があるので、続きはまた
 

(無題)

 投稿者:那田尚史  投稿日:2012年 5月28日(月)14時18分13秒
返信・引用
  整体の先生に、寝る前3時間はパソコンをしないように、と言われ、その通りにしていると、どうしても日記が書けなくなる。電磁波の影響で脳が休まらないとのこと。
 そうでなくても、パソコン、イス、キーボードパットの位置関係でやたら腕が疲れ肩がこる。
今日の八王子は夕方から、雷と雨の警報が出ている。今日明日はそういう不安定な天気らしい。

ではまた。
 

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