では引用しよう。
創価学会の戦い
1941年3月、「治安維持法」が改悪され「国家神道」による思想統制が強化。創価学会の座談会さえも特高警察の監視の下で行われるようになった。
この圧力に宗門は屈し、全国の末寺住職檀家に伊勢神宮遥拝を命じた。
しかし、創価学会創始者、牧口常三郎はこれに反発し、43年5月、遥拝のために配られた伊勢神宮大麻(お札)を拝むどころか、焼き捨ててしまった。牧口は「神道は邪教である」と叫ぶ。(神札事件)
全国民が、軍国主義とアマテラスにひれ伏していた時代の話であった。信仰に支えられていたとは言え恐るべき精神力である。この時代、投獄されたクリスチャンは多くいたが、これほど明確に真実を述べる事ができた人間はいなかった。
かねてから、牧口を狙っていた特高思想警察は、牧口以下幹部数名を「不敬罪」で逮捕した。牧口は拷問を受け、敗戦を前に責め殺された。幹部達も次々と転んでいく中、しかし2代目会長となる戸田城聖ともう一人が信心を守り通した。
この3人による信仰は、戦後、創価学会が爆発的に広まる蕩減条件となったのでした。
統一教会の真実
神社は悪霊(魔)の住家だ・・・と日蓮は言ったより。
http://kurokango.blog50.fc2.com/blog-entry-71.html
統一教会の信者でもないかんご氏が統一教会カテで何故創価の話をするのか疑問である。それに創価の広まる蕩減条件を書かれても統一教会に創価を押し付けているようにしか見えないのだが。
gout氏がコメントに下記のようなことを残されていた。
引用しよう。
牧口常三郎は戦争推進していた
伊勢神宮の大麻(神札)に対する不敬罪と治安維持法違反で逮捕された牧口の考え方は、特攻警察による取調記録(牧口常三郎尋問調書)などに明確に記録されており、牧口が大東亜戦争の指導理念として国家神道ではなく、法華経を据えることを主張していることなどが分かる。
もちろん、その場合の指導理念とは、戦争勝利と戦争遂行のための指導理念である。要するに牧口は大東亜戦争に反対したのではなく「神道を戦争遂行の指導理念としたのでは戦争は負けるが、法華経を指導理念とするならば勝つ」と主張していたため、国家神道を中心に国民精神を総動員して戦意の昂揚をはかろうとしていた軍部政府と対立したがゆえに投獄されたというのが、牧口、戸田、野島、岩崎、本間、西川、難波英男、稲葉伊之助などの逮捕につながった創価教育学会幹部総逮捕の実態なのである。
こうした歴史的事実を隠ぺいし、あたかも牧口率いる創価教育学会が「侵略戦争に反対」した「反戦・平和の団体」であったかのように歴史を偽造する創価教育学会。
過去の歴史に不誠実なるものが、現在、そして未来に対して誠実であるはずのないことは、すでに歴史の証明するところである
http://22448866.seesaa.net/article/273015428.html#comment
更に調べてみると下記のような内容もあった。
(文中敬称略)
学会員が尊敬してやまない宗門離脱僧・松岡幹夫氏(創価大学卒)も「牧口常三郎の戦争観とその実践的展開」(*1)という論文の中で、以下の事実については認めていますね。
1)戦時下に出された牧口の諸論文には戦争協力的な表現がしばしばみられる
2)幹部に戦争肯定発言が目立つ(*2)
3)当時の学会行事の一部に好戦的な面があった
4)昭和戦時期において創価教育学会による反戦運動が展開されたことを示す資料は見当たらない
松岡論文はこうした事実を承認しつつもなお、「それをもって牧口個人が戦争協力的であったとは断定できない」としています。上記1)〜4)の事実を認めておきながら何をかいわんやでありますが、「学会は創立以来ずっと戦争に反対してきた」といった嘘を言っていない分、まだましと言えます。
参考:
(*1)松岡論文(東洋哲学研究所紀要第18号)5章あたりから読むといいでしょう。
ttp://www.totetu.org/h/pdf/k018_022.pdf
(*2)「大善生活実証録(第五回総会報告)」〜創価教育学会〜
ttp://www.butujoji.jp/hashaku/antiwar01.htm
かんご氏の記事とgout氏のコメント更に最後の記事と読み比べていただきたい。かんご氏は神道は邪教と書いてはいるが上記1〜4の内容については書いていない。
都合の悪い所は書かないわけだ。「都合の悪い所は書かない。」これをわれわれは歴史修正論者と言う。
gout氏は続けて引用している。
異流儀めざした牧口氏――獄死は「誹謗の罪」
さて、弾圧時の牧口氏の信仰の中身はどうであったかというと、ここに驚くべき資料が存在している。それは、逮捕後の牧口氏に対する特高警察の尋問調書である。その中で牧口氏は、
「私は正式の僧籍を持つことは嫌いであります。僧籍を得て寺を所有する事になれば、従って日蓮正宗の純教義的な形に嵌った行動しかできません。私の価値創造論をお寺に於いて宣伝説教する訳には参りませんので、私は矢張り在家の形で日蓮正宗の信仰理念に価値論を採入れた処に私の価値がある訳で、此に創価教育学会の特異性があるのであります」として、純然たる日蓮正宗の教義に沿った修行はしたくない(言い換えれば、日蓮正宗の教義を自分流に曲げていきたい、ということ)、また、日蓮正宗の信仰と価値論を結び付けるところにこそ学会の特異性がある、などと述べているのである
http://22448866.seesaa.net/article/273015428.html#comment
このこともかんご氏は書いていない。
今回は探し出すことは出来なかったがかんご氏も自信のサイトにコメントかなにかで統一教会に入らないのかと質問され時だと思うが「私が統一教会信者でないことが後になって重要な意味をもたらすのです。」と言う意味合いの事を述べていたように思う。探せなかったのでうろ覚えだがほぼ正解に近いと見ていいだろう。
上記の牧口氏の発言と非常に似通っているのだ。
つまり牧口氏流に言えばかんご氏は原理の教義を自分流に曲げていきたいと言うことであろう。
それゆえ610年という原理では言う所の数理性 3 4 7 8 12 21 30 40 43のどれにも当てはまらない数字を持ち出してきているのだ。
そもそも610と言う数字 61は原理で言う所の数字ではない。こじつけそのものである。かんご氏は言うだろう。「原理の応用だ。」と・・・。
結局 応用=自分流なのであろう。その目的は殊更神道を邪教扱いして神道をなくし牧口氏の代わりとして頂点に立ちたいのだろう。2013年以降はかんご氏は講演会をしていると明言している。
講演会を開催した場合事実上のかんご教の伝道集会なのであろう。
私の言葉は神から来ていると明言しているかんご氏。ニセ飯屋も失礼メシアも出てくる終末である。かんご氏の言葉に惑わされないようにしたいものだ。
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かんご氏に惑わされて人生を無駄に過ごしたくないものだ。自称日本人なのですから。
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