三笠宮寛仁さま ご逝去6月6日 20時29分
天皇陛下のいとこで「ひげの殿下」として知られる三笠宮寛仁さまは、のどのがんの手術を受けたあと入院を続けていましたが、容体が悪化して6日午後3時35分亡くなられました。
66歳でした。
三笠宮寛仁さまは、平成3年の食道がんの手術以来、のどなどにできたがんのため、これまでに16回の手術や治療を受けられました。
ことし1月には、東京・千代田区の杏雲堂病院でのどのがんを切除する手術を受け、入院を続けられていました。
宮内庁によりますと、寛仁さまは容体が悪化して危篤になり、6日午後3時35分、母親の三笠宮妃の百合子さまや長女の彬子さま、次女の瑶子さまなどに最期をみとられ、多臓器不全のため亡くなられたということです。
寛仁さまのご遺体は午後6時すぎ、赤坂御用地にあるお住まいの宮邸に戻され、天皇皇后両陛下をはじめ皇族方が6日夜、弔問に訪れられました。
寛仁さまは、昭和21年1月5日、三笠宮家の長男として誕生されました。
天皇陛下のいとこにあたられます。
みずからを「福祉の現場監督」と呼び、福祉団体の会長を務めて障害者の自立を支援したり、学生時代に磨いた技術を生かして障害者のスキーの指導に当たったりするなど、障害者福祉に積極的に取り組まれてきました。
昭和55年11月に信子さまと結婚され、翌56年に長女の彬子さま、58年には次女の瑶子さまが誕生されました。
また、日英協会や日本ノルウェー協会の名誉総裁として国際親善に務める一方で、がんの研究基金の総裁としてがんの撲滅運動にも取り組まれてきました。
ご自身もがんとの闘病が長く、平成20年の手術では声を出すことができなくなり、人工喉頭と呼ばれる器具をのどに当てて会話をされるようになりました。
このほかアルコール依存症や不整脈の治療のためたびたび入院されました。
一方で、去年5月には、東日本大震災で甚大な被害を受けた宮城県を訪れて被災した人たちを励ますなど、去年まで精力的に公務を続けられていました。
寛仁さまが亡くなられたことを受けて、天皇ご一家は、6日から5日間の喪に服されることになりました。
このほかの皇族方も、寛仁さまの3人のご家族を最長に、90日間から5日間の喪に服されます。
これに伴って、皇宮警察の護衛官の拝謁など、期間中に行われる予定だった天皇皇后両陛下の公務の一部が取りやめになりました。
7日から弔問の記帳受け付け
赤坂御用地にある寛仁親王邸では、7日から当分の間、一般の人たちの弔問を受け付ける記帳所が設けられます。
記帳は、▽7日は午前10時から午後7時まで、▽8日以降は午前9時から午後7時まで受け付けられます。
記帳を希望する人は、赤坂御用地の南門から徒歩で入門することになっています。
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