紙面から(6月1日)/福島第一冷温停止への道 第3回
無人重機でがれき撤去
2012/06/06
東京電力福島第一原子力発電所は1、3、4号機原子炉建屋の水素爆発により、おびただしい量のがれきが飛び散った。 原子炉や使用済み燃料プールを冷却するには電源車や放水車の一刻も早い投入が必要だったが、構内の至る所にあるがれきがその行く手を阻んだ。 当初は有人重機による撤去を行っていたが、がれきは高い放射線を発しており、放射線防護の観点からも早急な対策が望まれていた。 絶体絶命の窮地を救ったのは、雲仙・普賢岳 (長崎県) の災害復旧でも活躍した無人重機だった。 (この記事は6月1日の電気新聞に掲載されたものです)
大成建設福島地区緊急対策 久之浜事務所統括所長 木暮睦氏
大成建設土木本部 機械部部長機械技術室長 立石洋二氏
■ 放射能帯びたがれき散乱
福島第一原子力発電所内のがれき撤去が困難になったのは、1号機が水素爆発を起こした直後から。 それまでは津波で流されたがれきが撤去対象で、通常の有人重機を使っていたが、爆発で散乱したがれきは、津波によるものとは異なり、放射能を帯びていた。
「無人重機を入れる必要がある。 有人だとオペレーターが被ばくしてしまう。 このままでは持たない」。 東電本店の建設部と原子力設備管理部などから構成されたがれき処理チームは、すぐに建設無人化施工協会に声をかけた。 同協会はゼネコン11社とメーカーなど7社が参加する無人重機の専門家集団。 「3月下旬には何とか」。 即座に力強い答えが返ってきた。
無人重機の当てはあった。 43人の死者・行方不明者を出した1991年6月3日の雲仙・普賢岳火砕流災害。 人が立ち入れなくなった場所で、復旧作業の中核を担ったのが無人重機だった。 日本にはその知見と当時使った機械が残っていた。
「重機は有人でも使える。 だから、各地の建設現場で代替機として使っていた。 果ては鹿児島などいろんな所からかき集めた」。 無人重機を知り尽くし、かつて建設無人化施工協会のトップを務めた経歴も持つ大成建設の立石洋二が、プロジェクトの牽引役となった。
東京電力原子力設備管理部土木技術グループ 金子岳夫氏
東京電力原子力・立地本部福島第一対策プロジェクトチーム土木・建築設備グループ副長 曽良岡宏氏
■ 事故収束の命運握る
福島第一の現場には立石のほか、東電東通原子力発電所1号機の建設工事に携わっていた大成建設の木暮睦、東電の曽良岡宏、東電本店がれき処理チームの金子岳夫たちが駆け付けた。
曽良岡は現場の調整役を担い、金子はがれき処理プロジェクトの東電本店と現場の橋渡し役を担当。 柏崎刈羽原子力発電所4号機の時代から原子力発電所建設に携わってきた木暮は、原子力の経験がない立石を脇からサポートした。
やがて現場には、各地でその能力を眠らせていた無人重機たちが集結した。 集まった無人重機はクローラーダンプ3台、ブルドーザー1台、バックホウ4台の計8台。 任されたのは 「復旧のための資材や作業車両を入れるための露払い」 (曽良岡)。 事故が収束するかどうかの命運を握っていた。
東電との間で契約が交わされたのは3月26日。 その日からものの10日足らずで、無人重機たちは活動を開始した。