男子の旧友って・・・・・
今日はちょっと専門的な話をしますね。それは今年亡くなった吉本隆明についてです。
私は吉本の『共同幻想論』は読んでいないのですが、家には『語りの海 吉本隆明①幻想としての国家』という本があります。私はこの本だけは読んだのですが、吉本の言い回しというのは非常にわかりにくく、これを読むだけで疲れちゃいました。でもたまに、いろんな状況で、吉本の言っていることが割りと当たっていると思うってことがあります。
私は現在、高校・大学時代の友人とは年賀状のやりとりをするくらいで、ほとんど会いません。社会人になると会社がらみの付き合いのほうが多くなるということもあると思うのですが、私自身、会社の同僚の誘いもたまにしか参加しないですね。なぜ参加しないのっていうと、多分そんなに楽しくないからだと思います。
一方、私には小学校のときからの友人がいます。そしてその友人は男の子です。彼とは大学はいっしょだったのですが、高校は別でした。そして高校時代は近所の同じ塾に通っていて、どちらかが塾を休むときは電話をかけて「先生に休むって言っといて」って頼むような関係でした。彼とは今でもたまに遊びますが、決して彼氏ではなく、彼も私を彼女とは思っていません。この旧友の男子も、小・中学校とたくさんの友人がいたのですが、現在小学校時代からの友だちは私だけです。
吉本は父と娘、母と息子、兄と妹、姉と弟、といった関係がどんどん広がって国家を作るといっています。なぜなら父と娘、母と息子、兄と妹、姉と弟には「性的な」交渉があるからです。この「性的」というのは実際の肉体的性交渉ではありません。むしろ幻想としての性交渉とでもいうのでしょうか。吉本はこれを対幻想と呼びました。
つまり男女間には「性的な」交渉、つまり対幻想が生まれやすいのです。吉本は共同幻想が人間を不幸にするから、この共同幻想から逃れるために対幻想を強化するのだと述べています。
吉本によると家族も対幻想の領域です。実際の性交渉も確かに行われますが、夫婦間には「性的な」交渉も行われます。対幻想ですね。老夫婦が肉体的性交渉がなくてもずっと仲がよいのは、この対幻想のおかげなのでしょうね。
なぜ私たちは男女なのに今でも友達なんだろう?しかも二人とも一人っ子。小学校の頃からお互いの家に行き来して姉弟(同い年ですが)のように遊びました。多分、二人の間に「性的な」交渉があるのかな?二人の対幻想が二人の友人関係を長いものしているのかも・・・・でも肉体的性交渉なんて滅相もありません。そんなの考えられません。
吉本隆明はポスト・モダン系の人たちからは、結構バカにされています。これは多分、共同幻想から逃れるための対幻想の強化という吉本の方法論に対する批判なのでしょう。柄谷行人は、一つの共同体で考えるのがいけないって言っていますが、毎日日本の1地方で生活していれば世界のことなんて自然に考えなくなりますね。そういう意味では吉本の方法論はそれなりの現実的な有効性があるのかもしれません。
私は会社にも男子の仲のいい人がいます。これも彼氏じゃないですよ。でもこういう関係って結構重要なのかも・・・・
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