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2012年6月6日22時25分

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ヒゲの殿下、型破り人生 ラジオDJ・「月給生活」2年

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写真:英国王立バラ協会友好庭園開園式に出席した寛仁さま=2002年6月5日、岐阜県可児市の花フェスタ記念公園拡大英国王立バラ協会友好庭園開園式に出席した寛仁さま=2002年6月5日、岐阜県可児市の花フェスタ記念公園

 寛仁さまが6日、逝去された。親交のあった人たちが、思いを語った。

 「はっきり自分の意思を表示される方。昨年5月に新しいがんが見つかったときは『これ以上の手術は嫌だから緩和ケアに』とおっしゃったのを説得し、手術を受けてもらった」

 1991年からの16回の手術で、その大部分を担った杏雲堂病院の海老原敏医師は6日夕、記者会見で過酷な闘病の一端を明かした。

 寛仁さまは手術を繰り返しながら、活動に力を注いできた。

 寛仁さまは震災2カ月後の昨年5月、自ら総裁を務める仙台市太白区の社会福祉法人「ありのまま舎」を訪れた。障害者や難病患者が生活する施設で、不安がる入居者を励ました。

 震災直後には白江浩・常務理事(57)の携帯に「何かあれば言って」と電話が入り、佃煮(つくだに)や水を使わないドライシャンプーなどが届いた。「じっくりと腰を下ろして難病の人の話を聞くまじめな方。残念だ」と話す。

 同じく総裁を務めていた日本ビリヤード協会の西尾学専務理事(80)は、「粋で、ざっくばらんな方でした」と振り返る。98年のバンコク・アジア大会で「私は格好悪いことが嫌いで、格好いいことが好き。メダルを取ってください、金色の」と激励された。

 75年には、ラジオの深夜放送「オールナイトニッポン」にディスクジョッキーとして出演したことがある。約2時間、好みの女性を語ったり、ギターの弾き語りをしたり。後に自著で「天皇制と皇族の概念の一部でも理解され始めるとするならば、やった価値はあった」と振り返っている。番組ディレクターだった元ニッポン放送編成部長の中川公夫さん(68)は「皇室の広報マンという自覚があったのでしょう」と話す。

 高校では応援団長、大学ではスキー部でキャプテン。卒業後は英オックスフォード大学に留学し、70年からは約1年半、札幌冬季五輪の組織委員会事務局に勤務する「サラリーマン生活」も経験した。「(皇族として)有史はじまって以来のヒラ主事のペーペー」と自ら語っていた。

 80年11月に故吉田茂元首相の孫で、麻生和子さんの三女の信子さんと結婚。将来三笠宮家を継ぐ含みから「宮号」は持たなかった。

 「庶民派」の顔もある。2010年、自ら設立にかかわった考古学施設の落成式でトルコに行くとき、「みなさんの税金を無駄にできない」とエコノミークラスを利用した。同行した元前橋市長・萩原弥惣治氏(78)によると、「(移動するという意味では)どっちみち一緒だ」とあっけらかんと言ったという。「ちゃめっけのある人だった」と惜しむ。

 おしゃれで知られ、若い頃はファッション誌に取り上げられた。40年以上、洋服をつくり続けてきた金洋服店(東京都渋谷区)の服部晋さん(82)は、「はっきりと好みを言うので仕立てやすかった」。成人した際は「礼服をアイビー(米国東部の上品な学生をイメージしたファッション)風にできないか」と相談されたこともある。今回の入院前に背広を仕立てて届けた際の言葉が耳に残る。

 「病院から戻ったら、またつくってもらうからな」

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