牛犬氏から3度目のご寄稿

牛犬氏から再々反論を頂戴したのでHTMLに変換のうえアップロードしました。こちらからどうぞ。


当方の再々々反論(以下煩雑なので、牛犬氏の議論はすべて「反論」、当方の議論は「再反論」と略記)はまた別記事にて。

Posted: Wed - August 25, 2004 at 09:03 PM Apes! Not Monkeys! Lockheed Affair Previous Next Comment (0)


牛犬氏の再々反論(続き)

残りの論点についての牛犬氏からの再々反論を頂戴したので、こちらにアップロード。


当方の反論は今週末中にアップいたします。

Posted: Sat - August 28, 2004 at 10:31 AM Apes! Not Monkeys! Lockheed Affair Previous Next Comment (0)


牛犬氏の再反論について(その1)

「残りの論点「4.証明力について」に対する再反論」へのコメント。

2と3は密接に関連しているので、別途改めてコメントしたい。


これは(牛犬氏も認めておられるように)、要するに「相対的不可欠性」をどう理解するかの問題である。立花隆の表現でいえば「いやしくも何らかの意味で」をどのように理解すべきか、ということである。牛犬氏の主張は、「たとえ相対的不可欠性であっても、不可欠性である以上それがなければ有罪判決は書けない、ということになるはず」ということであり、立花隆の主張は「不可欠性とはいえ、それあくまで相対的なものなのだから、それがなければ有罪になるはずのものが無罪になってしまうというほどのことはない」ということである。

まずは氏の「確認事項」についてお答えしておこう。ただし、後の便宜のため番号を振っておくことにする。

1) 立花さんは調書には相対的不可欠性がある、と主張している。

2) 相対的不可欠性があるとは「いやしくも何らかの意味で犯罪の証明に必要」ということである。

3) 犯罪の証明の議論が構成要件の議論で充分ならば、構成要件の議論の段階で調書は「何らかの意味で犯罪の証明に必要」とされなければなりません。

4) 立花さんは構成要件の立証に調書は必要ない、と主張している。

5) 構成要件の議論だけで充分ならば、この立花さんの主張は調書の相対的不可欠性すら否定していることになる。

当方の答えは

1) その通りである。

2) その通りである。

3) 「犯罪の証明の議論が構成要件の議論で充分ならば」という前提が偽であるので厳密にはこの問いそのものが成立しないのだが、「ロッキード裁判の場合には違法性、有責性については実質的に問題になる事情が存在せず、もっぱら構成要件を満たすかどうかが焦点となったので」という前提をさらに付け加えておくならば、その通りである。

4) その通りである。ただし、場合によってはもう少し微妙な表現(「技術的には可能」など)を用いているし、嘱託尋問調書を刑訴法328条に基づく証拠として採用するという可能性についても言及している。

5) そうではない。これは「絶対的不可欠性」と「相対的不可欠性」を混同した議論だ、と立花隆自身が反論している。

「不可欠性」や「相対性」という語の語義をめぐる一般論としてはどちらが正しいともいえない。したがって、実務においてはこの「不可欠性」要件がどのように理解されているのか、また嘱託尋問調書の場合はどうであったのかをみていかなければ水掛け論に終わってしまうだろう。本来の問題は「相対的不可欠性」という語句の一般的な語義ではなく、嘱託尋問調書が「不可欠性」要件を満たしていると同時に、有罪判決にとっては不可欠でないという主張に矛盾があるかどうか、だからである。

判例において「不可欠性」要件がかなり緩やかに介されているということについては、同じく『ロッキード裁判批判を斬る』の第49章で、田中弁護団のメンバーである本田正義弁護士の著作を引いて立花隆が論じている。一部を孫引きするなら

 本号の書面は供述の再現不能と言う必要性の第一の要件によつて極度にしぼられているのであるから、第一の要件を充す限り、第二の要件である必要性をしかく厳格に解するのは妥当ではなく、(…)裁判の実情も、この要件は殆ど問題とされず、極めて緩やかに解されているのであつて(…)。

となる。さらにロッキード事件(丸紅ルートに限定)に即して考えてみよう。すでに繰り返し述べてきたことだが、丸紅側の被告は程度の差はあれ起訴事実の一部を公判でも認めている。特に大久保被告は捜査段階での自供のほとんどを公判でも肯定している。さらに、一審判決は榎本三恵子証人の証言を援用しないという「余裕」さえもっているのである。大久保被告の証言に高い証明力を認めるなら、嘱託尋問調書はなくても有罪判決が書けるだろう、という立花隆の主張はこうした事態をふまえているわけである。

他方で、大久保被告の証言が他の被告の公判証言と食い違っているのも事実で、どちらの証言により高い信頼性を認めるかが判決のカギとなるのはいうまでもない。嘱託尋問調書がものをいうのはこの点についてである。同じく49章で立花隆が述べているように、一審判決は事実上嘱託尋問調書を刑訴法328条による「証明力を争うための証拠」と同じようなかたちで援用している。つまり大久保被告の証言が他の被告の証言より信頼性を持つという判断の根拠の一つとして用いられているということである。このような場合、321条の「不可欠性」要件を満たしているのは上の本田弁護士からの引用に照らして明らかであろう。そして、大久保被告の証言の証明力に関する他の判断材料が皆無ならともかく、そうでない以上、嘱託尋問調書がなければ有罪判決が書けないということもないのである。

最後にもう一度まとめておくなら、この問題は321条の「不可欠性」要件が、「それがなければ有罪のものも無罪になってしまう」ほどの高度な必要性を意味しているのかどうか、に尽きる。もしそこまでの必要性が求められていないなら、立花隆の主張になんの矛盾もないのである。

次に牛犬氏の

ところで、Apemanさんは私が「構成要件、違法性、有責性の三つを独立の同じレベルの要件であるかのように扱っているのも牛犬氏の議論のおかしなところである。」と述べられていますが、これらは一体のものではありません。基本的には独立しています。以下に団藤重光さんの「刑法綱要 総論」から二箇所引用します。

という議論について。ここにあるのは見せかけだけの対立である。私は3つが「一体」だとは主張していない。他方、牛犬氏も3つが「基本的には独立」している(下線は引用者)としておられることからも分かるように、実質的には私の言い分を認めているのである。引用されている団藤氏の文章から孫引きするなら、

この三つの要件はたがいに前者が後者の前提となりながら、もっとも外面的なものからもっとも内面的なものにいたるまで、いわば立体的に重なり合う関係にあるのである。

がポイントとなる。どちらの側に重点をおくかによって「一体ではない」とも言えるし、「独立ではない」とも言えるのである。この場合はどちらの側面に重点をおいて理解すればよいのかが問題なのである。そして、これはもともと「立花隆は構成要件以外の二つをネグっている」という牛犬氏の批判から出てきた論点である。しかしながら、そこで牛犬氏が導かんとしている結論は、

構成要件、違法性、有責性のいずれの議論においても調書が必要とされた痕跡を発見できなかったことになります。

ということであるわけで、これが意味を持つのは「構成要件において調書が必要とされた痕跡を発見できなかった」という前提が成り立っている場合に限られる。これは前半で取り上げた問題であって、牛犬氏の確認事項5)についての当方の立場はすでに明らかにした。ここで後半の「確認事項」についてもこちらの立場を明らかにしておこう。同じく、番号を付しておいた。

6)「犯罪の証明」は構成要件、違法性、有責性の三点セットで行なわれる。

7) 調書に相対的不可欠性がある=「いやしくも何らかの意味で犯罪の証明に必要」ならば、構成要件、違法性、有責性のいずれかの議論において「犯罪の証明に必要」とされなければならない。

8) 調書には相対的不可欠性があるのだから、たとえ「必要性は低くとも必要である」のであって、「必要がない」とは相対的不可欠性すら否定している。

9) 立花さんは構成要件に必要ないと主張していたので、調書が「いやしくも何らかの意味で犯罪の証明に必要」ならば、残る二つの議論、違法性、有責性の議論のどちらかにおいて、調書は「犯罪の証明に必要」とされなければならない。

10) 立花さんは残り二つの違法性、有責性について明示的に議論していない。

11) しかし、立花さんは調書がなくても有罪判決は書けたと主張している

12) 有罪の判決とは犯罪の存在が証明され、その責を被告人に負わせ、刑罰に服することを命じたものである

13) 有罪の判決が書けたなら、先の三点セットの議論のプロセスを経て、犯罪の存在は証明されている。

14) 調書なしでも有罪判決が書けたなら、立花さんが明示的に議論していなかった違法性、有責性の議論においても「いやしくも何らかの意味で犯罪の証明に必要」とされた調書が必要なかったことになる。

確認事項ととは矛盾する。

6) 形式的にはその通りである。

7) 正確ではない。3つのいずれかにおいて「いやしくも何らかの意味で犯罪の証明に必要」なのである。

8) これも要するに「絶対的不可欠性」と「相対的不可欠性」の違いをめぐる問題。したがって同意しない。

9) これも正しくない。立花隆は構成要件に関して「相対的不可欠性」を主張している。

10) これはその通り。

11) 上の4)への答えと同じ。

12) その通りである。

13) その通りである。

14) 8)、9)の前提が正しくないため、これも正しくない。

以上で分かるように、違法性、有責性をめぐる議論はここでは実質的な意味を持たないのである。立花隆はなるほどこの二つについて言及していないが、それは実質的に構成要件だけを問題にすれば足りたからである。そして彼は構成要件に関して嘱託尋問調書が「相対的不可欠性」を備えていたと主張しているのであり、その度合いはまさに「321条の要件を満たす程度には必要だが、有罪判決のためになくてはならないというほどではない」というものなのである。もしここに「不可欠」という言葉の使い方をめぐる矛盾があるように見えたとしても、それは立花隆の議論の過ちに由来するものではない。321条の条文における「証明に欠くことができない」という表現と、この要件が実務において理解されている実態との間に乖離がある、ということに過ぎない。つまり条文には「欠くことができない」とたしかに書いてあるが、実際にはそれは「有罪判決のために欠くことができない」という意味には解されていない、ということである。これは立花隆に責任のある事態ではないのであって、立花隆の議論の間違いであるとするのは筋違いであろう。

最後に

ですから、要約の意味で確認しますと、「調書は何らかの意味で犯罪の証明に必要とされていますが、一体それはどこで必要とされているのか」ということなのです。

という点について。丸紅ルートについていうなら、立花隆の主張は「丸紅側被告の証言の証明力を評価するための証拠の一部であった」というものである。

こちらも改めて要約しておくなら、牛犬氏の議論が成り立つのは321条の「不可欠性」要件が、「それがなければ有罪の証明が不可能になってしまう程度の必要性」を意味している場合だけである。したがって牛犬氏が論証すべきは、そのような解釈が法実務の実態に即しているものだということか、あるいは憲法その他に照らしてそう解釈すべきだ(その場合、立花隆以外の多くの法律家も誤っていることになる)、ということか、このいずれかであろう。

Posted: Sun - August 29, 2004 at 01:01 PM Apes! Not Monkeys! Lockheed Affair Previous Next Comment (0)


牛犬氏の再反論について(その2)

「2.大野判事の補足意見について」

「3.嘱託による反対尋問について」および残りの論点

について


まずは「2.大野判事の補足意見について」から。牛犬氏が最初のご投稿で引用された団藤重光、『新刑事訴訟法綱要』をまだ入手できていないので、3つの最高裁判例に依拠した牛犬氏の議論への最終的な反論は来週まで保留させていただきたいのだが、現時点でも氏の議論に反論する余地は充分あるので、まずは今できる分だけでもすませておきたい。

まず最初に、私が大野判事の補足意見を「たしかにそういう意見もアリだろうが…」と評した点についての牛犬氏の反論についてである。まず一般に、ある問題について意見が分かれるという場合にもいろいろなケースがある。大雑把に類型化すると

a) 専門家の見解はほぼ一致しており、少数意見は実質的に無視できる。

b) 専門家の見解は分かれているが、なにが通説かははっきりしており、学問的にはともかく実務上は少数意見を無視できる。

c) 一応通説とされているものもあるが、実務上も無視できない程度に異論を唱える専門家もいる。

d) 専門家の間でも議論が分かれており、なにが通説かも容易には決めがたい。

といったところであろうか。前回は明確にしなかったが、大野判事の補足意見はb)ないしc)のレベルでの少数意見であろう、と私は判断したわけである。さて、牛犬氏と私との間の議論に即していうなら、ロッキード裁判一、二審が(そしてそれを擁護した立花隆の議論が)間違っていると言えるのは大野判事の意見がa)ないしb)のレベルでの多数意見(通説)である場合、である。そのことを論証できれば、牛犬氏は全面的に正しいということになる。もし大野判事の見解がc)レベルの通説であるとすれば、ロッキード裁判及び立花隆の裁判擁護論には批判されるべきところはあるにしても、破綻しているとまでは言えないことになる。逆に私(および立花隆)の立場からすると、大野判事の意見がc)のレベルの少数意見であるところまでは譲ってもなんの問題もないし、仮にd)まで譲ったとしても、少なくとも「ロッキード裁判は暗黒裁判だ」という議論を批判することは充分可能、なのである。

ではこの点について、牛犬氏はどうおっしゃっておられるだろうか。

このように法律的には「捜査段階での証人の供述に対して二二八条二項を適用して被告人、被疑者又は弁護人の立会を制限するのは後の公判段階における被告側の審問の機会がなければ妥当ではない」と論争のあった当時においても決着がついていたのです。

まさに大野判事の意見はa)ないしb)のレベルでの通説だと主張しておられるわけである。しかしながら、牛犬氏が依拠している3つの最高裁判例はいずれもロッキード裁判以前のものであり、それゆえ牛犬氏のおっしゃる通り「当然論争がなされた当時においても踏まえていなければならない議論」である。とすると、立花隆の議論がどうこうと言う以前に、一、二審の裁判官が嘱託尋問調書の証拠採用を認めたのはなぜか、という問題が当然生じてくる。彼らは当然ふまえるべき最高裁判例をふまえなかった、無能な法律家なのか? それとも、たまたまこの論点に関する少数意見の持ち主ばかりが裁判を担当したのだろうか? あるいは、誰かが言っていたように、世論の圧力に負けて法を枉げたというのだろうか? 

もちろん、他の可能性がある。つまり、大野判事の意見はa)やb)レベルの通説ではなく、b)やc)レベルの少数意見であるか、せいぜいd)における一意見である、という可能性だ。

まず牛犬氏が最初のご投稿「サルでもわかる立花説の誤り」で『新刑事訴訟法綱要』を援用して議論している部分から引用してみよう。

さて、以上に見たように一つ目の判例は例外規定の合憲性を、二つ目の判例は二二八条の合憲性を保障しています。そして、先の団藤さんの説において、三つ目の判例によると一つ目の判例と二つ目の判例が矛盾しないとされていました。そのポイントは、後半部分「しかし、証人尋問の~違憲であるということはできないと考える」というところにあります。「後の公判において反対尋問の機会が与えられるならば、証人の供述の際に被告人等を立ち会わせなくてもよい」ということなのです。

下線は私が付したものである。団藤氏の説によれば、3つめの判例は1つめと2つめの判例は矛盾しない、と解している。これは団藤の議論そのままである。しかし「そのポイントは、後半部分(…)にあります」というのは牛犬氏の解釈である。さて、1つめの判例と2つ目の判例が矛盾しないという以上、3番目の判例は2番目の判例を否定してはいないことになる(あたりまえのはなしだが)。その2つ目の判例について団藤がどう述べているかを牛犬氏の文章から孫引きすると、

その後の判例は、公判廷で被告人の反対尋問にさらすことをも要件としない趣旨かとおもわれる。最判〔大法廷〕昭和二七年六月一八日刑集六巻八〇〇頁(二二八条の合憲性をみとめる)、最判昭和二八年四月二五日刑集七巻八七六頁参照。

となる(下線は私が付した)。当然、3つめの判例もこの判断を踏襲しているわけである。団藤氏の議論に即して言えば、3つめの判例は1つめと2つめの判例の間に一見矛盾があるかのように思われる(公判において被告側の反対尋問に晒すことが必要であるか否かに関して)ため、両者が矛盾しないという判断を示すために援用されているのである。つまり、「そのポイントは…」という牛犬氏の解釈はあくまで牛犬氏の議論にとって都合の良い観点からの強調であり、団藤氏の議論の「ポイント」は別のところにあるといわざるを得ない。つまり、牛犬氏自身が援用した団藤氏の説によれば、「公判廷で被告人の反対尋問にさらすことをも要件としない」という最高裁の判例があるわけである。したがって、3つめの判例は「公判廷で被告人の反対尋問にさらすことをも要件としない」という趣旨を否定しないものとして読まねばならないわけだが、牛犬氏が「ポイント」であるとしている後半部分にしても

後の公判期日において、その証人が再び尋問され、その際に曩にした証言部分について、被告人側に反対尋問の機会か十分与えられているならば、結局反対尋問の機会が与えられたことになるから、曩の証人の証言又はその供述調書を証拠とすることは必ずしも違憲であるということはできないと考える。


となっていることに留意されたい。ここでは「公判期日において再び尋問されるならば、供述調書の証拠採用は違憲ではない」とされているわけだが、これが「公判期日において再び尋問されることがないならば、違憲である」と同値でないことは論理学の基本である。つまり牛犬氏が引用している部分に限ったとしても、2つ目の判例の「公判廷で被告人の反対尋問にさらすことをも要件としない」という趣旨は揺るがないわけである。自ら進んで引用しておられるのに、なぜこの部分を無視した議論をされるのか、理解に苦しむ。

以下は単なる傍証であって、直接こちらの主張を裏づけるものではない。まず第一に、上でも述べたようにロッキード裁判一、二審の裁判官がやはり嘱託尋問調書の証拠採用を認めているという点である。陰謀説を無視するとするなら、これだけでも大野判事の意見がa)レベルでの通説である可能性はなくなるし、b)レベルの通説であるとするのにも疑問が生じる。もしb)レベルで通説となっている最高裁判例を無視した判決が出たとしたら、専門家からもっと幅広い批判論が出たはずであろう。大野判事の意見に関する牛犬氏の主張が正しいとすれば、事は立花隆の議論の妥当性どころではなく一、二審の判決が最高裁判例に反していることになってしまうからである(しかし2つめの判例に従えばそうでないことはすでに示した)。さらに、以前に刑訴法の解説書を15冊ランダムに選んでチェックした際、嘱託尋問調書の証拠採用を明示的に支持する文献は2冊あったのに対して、大野判事と同じ立場で証拠採用を批判したものはゼロであった。

さらに、最高裁判決では嘱託尋問調書の証拠採用にかかわる論点以外にもいくつか補足意見がついているが、大野判事の問題の補足意見をのぞけばすべて職務権限に関するものである。興味深いのは、職務権限に関しては3名ないし4名が連名で書いている補足意見が3つあり(そのうち一つには大野判事も加わっている)、のべ12人が補足意見を書いているのに対し、嘱託尋問調書の証拠採用をめぐっては大野判事の補足意見ただ一つ(ただ一人)だという点である。もちろん、最高裁判決は「免責」という論点でもって調書の証拠採用を斥けたため、その他の論点については言及する必要がなくなっている。それゆえ大野判事以外の判事がこの論点に関してなにものべていないということは、直ちに彼らがこの論点に関して大野判事に反対しているということを意味しているわけではない。しかしながら、職務権限に関しては12人が補足意見を書いていることと対比するなら、大野判事の意見が法律家全体の間でも決して多数意見ではないという傍証にはなるのではなかろうか。

さらに、繰り返しになるのだが別の観点から大野判事の意見(およびそれを援用した牛犬氏の議論)に反論しておこう。そのためにもまずは氏の「確認事項」について確認しておくことにする(例によって番号を付加)。

1) 大野さんは三二一条を否定していない。

2) 大野さんの補足意見は三二一条一項を問題視していない。

3) 大野さんの議論においても三二一条は成立しうる。

4) 大野さんの議論において三二一条一項三号を適用させるための必要条件は捜査段階=供述段階において被告人、被疑者又は弁護人の立会を認めることである。

5) 被告人、被疑者又は弁護人を立会わせるかどうかは二二八条二項の問題である。

6) 大野さんの議論でも捜査段階=供述段階で二二八条二項による立会の制限を行なわなければ、三二一条一項三号は三要件の吟味後に適用可能である。

7) 大野さんの補足意見はこの二二八条二項の適用による立会の制限を問題視している。

8) 二二八条二項による立会の制限はかつて違憲ではないかと疑われたことがある。

9) 二二八条二項による立会の制限は条件を満たせば合憲であるという最高裁の判例がある。(前に引用した判例の三つ目参照)

10) その条件とは「審問の機会を与える」である。

11) ここで言う「審問の機会を与える」とは「供述段階において被告人、被疑者又は弁護人を立会わせること」と「公判段階において反対尋問させること」の2つであるとその判例に書かれている。

12) その判例における「要旨」において「刑訴法二二七条二二八条により被告人、被疑者または弁護人に審問の機会を与えずに作成された証人尋問調書を、その証人が公判廷において尋問され、被告人側の反対尋問にさらされ、その証人尋問調書につき尋問を受けている場合に、証拠とすることは憲法第三七条第二項に違反しない。」と書かれている。

13) 三二一条は「反対尋問なしで証拠能力あり」と判断され証拠採用される条件を書いたものだが、「反対尋問なし」なら「反対尋問なしの調書の証拠能力を云々する」以前に、供述段階での二二八条二項による立会の制限の適法性が否定され、その調書は証拠能力なしとされる。

14) ロッキード裁判においては上記の2つの「審問の機会」は与えられなかった。

15) Apemanさんの仮定のケース、実際のロッキード裁判の経過においては共に二二八条二項を適用して「供述段階における被告人、被疑者又は弁護人が立会うこと」を制限した以上「公判段階において反対尋問させること」がなければ二二八条二項の適用による立会の制限は妥当でないとなり、証拠能力を否定される。

さて、1)から3)までは(大野判事の真意は私には分からないものの、一応)その通りである。4)から7)の、大野判事の議論の中心的なロジックについてはのちほど触れる。9)から13)は上で私が反論したことに対応している。牛犬氏の解釈に反して、団藤氏は「公判廷で被告人の反対尋問にさらすことをも要件としない」という最高裁判例を紹介しているのであり、12)で言及されている判例にしても「公判廷で被告人の反対尋問にさらさなければ違憲」であるとしたものでないことは上で示した通り。13)は申し訳ないが意味不明である。「反対尋問なし」なら「反対尋問なしの調書の証拠能力を云々する」以前に(…)証拠能力なし、とは一体どういうことであろうか? 14)は、「供述段階」においてはその通りであるが「公判段階」においてはそうではない。田中側はコーチャンらの嘱託尋問を行う機会を有していたのに、その機会を利用しなかったのである。

さて、当方の積極的な反論を展開するには15)をきっかけにするのがよさそうである。ここで言及されている私の「仮定のケース」とは、要するにコーチャンらがまずは国内で証言を行って調書を残し、その後公判段階では供述不能になった場合、ということである。井上弁護士始め、当時のロ裁判批判派もこうしたケースなら「供述不能」要件を満たすと主張していたことを念のため申し添えておく。

さて、わたしはこの「仮定」に際して普通の参考人として検察の任意の取り調べに応じた場合と刑訴法226条に基づき証言した場合の両方を挙げておいたのだが、なぜか牛犬氏は後者だけを念頭に置いているようである。しかし任意の取り調べに応じたのであれば、228条2項は関係なくなるのである。4)から7)における大野判事のロジック、および15)の結論に私が疑問を持つのはここである。

321条1項3号は1項1号および2号とは違って、証人が公判廷において供述不能である場合に限り公判期日外に作成された調書類の証拠採用を認める、という趣旨のものである。つまり、3号の場合公判廷において供述者が被告側の反対尋問(的な趣旨の証人尋問)を受けることはあり得ないわけである。したがって捜査段階で任意の事情聴取に応じた場合や宣誓供述書、上申書の類いを作成した場合など、被告(ないし後に被告となる人間)側による反対尋問的プロセスを経ずに作成された文書が、公判においてその証人が再び尋問されることなしに、証拠採用されるわけである。にもかかわらず、226条にもとづいて行われた証人尋問の調書の場合には、228条2項があるがゆえに証人尋問段階で被告側が反対尋問をしていなければならなかった、というのが大野判事の主張なのである。321条1項3号によれば、検事が密室で事情聴取したその調書が証拠採用されうるというのに、裁判所が主体となって行った証人尋問の調書はその段階で被告が立ち会っていなければダメだ、というのである。問題の嘱託尋問調書はアメリカで行われた証人尋問の記録であるため3号書面として採用されたが、もし日本の裁判所で行われていれば1号書面として証拠採用されたはずのものである。一般論として考えた場合、検事が密室で作成した調書より裁判所が行った証人尋問の記録の方が証拠能力が高いことは明らかで、だからこそ1号と2号とでは証拠採用のための要件が異なっている(2号の方が厳しい)のである。これはどう考えても倒錯と言うべきではないのだろうか? 大野判事のロジックは結局321条否定論に繋がるのではないか、と私がのべたのはそのためである。

次に「3.嘱託による反対尋問について」および残りの論点について。

ここでの論点は、公判が始まってから仮に嘱託訊問が行われた場合、そこでの証言がいかなる法的地位をもつことになるのか、というものである。実施には公判段階で嘱託尋問が行われることはなかったため、これまでのロッキード裁判論争ではこの点が議論されたことはなかったのではないだろうか。いずれにしても、注意しなければならないのは「公判段階における証言」と「公判における証言」とは異なる、という点である。牛犬氏は仮に公判段階で嘱託訊問が行われた場合、その調書は刑訴法326条に基づいて証拠採用されることになる、と主張している。もしそうだとすれば、326条は320条(および321条)に対する例外規定であるので、やはりその嘱託尋問は公判における証言としては扱われないということになる。したがって、牛犬氏の

そこで、次に確認したいのは、この嘱託尋問が公判期日において行なわれるということです。この嘱託尋問は被告側が反対尋問を申請して日本の裁判所がアメリカの裁判所に嘱託するわけですから、当然公判期日においてなされるものなのです。そして、嘱託尋問形式の反対尋問はコーチャン氏らがアメリカの裁判所に出てきて供述するわけですから、検察側嘱託尋問調書の<供述不能>要件は満たされず、検察側嘱託尋問調書に三二一条一項三号を適用して証拠採用することはできません。

という主張(下線は引用者)は、牛犬氏自身の(326条に基づき採用されるという)主張に照らして間違っているわけである。公判段階において行われた嘱託尋問の記録が刑訴法326条に基づいて証拠採用されるならば、そのことは公判準備ないし公判期日において供述不能であるという事態になんらの影響も及ぼさないことになる。したがって、仮に弁護側がコーチャンらへの(嘱託による)証人尋問を申請してそれが実施され、その記録が刑訴法326条に基づいて証拠採用されたとしても、問題の検察側嘱託尋問調書が321条1項3号に基づいて証拠採用されることは妨げられないわけである。

また、「免責をめぐるジレンマ」についてはすでに反論しておいたのだが、牛犬氏はここでも再反論抜きで同じ主張を繰り返しておられる。

これほど簡単な嘱託尋問形式による反対尋問が実施不可能に追い詰められたのは先に述べた免責のジレンマのせいなのです。

嘱託尋問調書が321条1項3号書面として証拠申請された以上、その証拠能力を争うために反対尋問をさせろというのは意味がない議論なのでジレンマは存在せず、免責の問題を含めて調書を証拠採用するという決定が(最高裁まで争ったうえで)決着した時点以降なら、「弁護側の主張は別として免責が有効という裁判所の決定を前提として」嘱託尋問を申請し、証明力に関して争うことができたのでやはりジレンマは存在しない。さらに、どうしても免責が有効という裁判所の決定を前提として証人申請するのがいやだというのなら、全日空弁護団が行ったようにコーチャンらに宣誓供述書の作成を依頼し、それを証拠として申請するという手もある。この手ならば免責をめぐるジレンマはそもそも存在しないわけである。しかしながら田中弁護団はそのような試みをしなかった。公判段階における「反対尋問」は、その機会が奪われたのではなく、存在したのに利用しなかった、と私が主張するのは以上のような根拠による。

次に、牛犬氏がこれまでの議論をまとめておられる部分について。こちらもこの機会を借りて主張を整理しておこう。

そこで、あらためて整理しますと、「2.大野判事の補足意見について」で述べたように捜査段階において二二八条二項を適用して被告人、被疑者又は弁護人の立会を制限したのなら公判段階において上述したような形で反対尋問がなされなければなりません。逆に、捜査段階において二二八条二項を適用せずに、被告人、被疑者又は弁護人の立会を認めておけば三二一条一項三号の適用は三要件の吟味の後、適用可能であったといえるのです。私はそれら二二八条二項の適用による立会の制限と三二一条一項三号の適用という両方が成立することはないと主張しているのです。

228条2項に関する最高裁判例(2つめの判例)は、捜査段階での立ち会いもなく公判における尋問もない場合でも、捜査段階で作成した調書を証拠採用できる場合がある、と認めている。公判において証人が再び尋問されることがない場合でも検事調書が証拠採用されうることを考えれば、これが刑訴法320条や憲法37条に反する解釈ではないことは明らかである。また、いわゆる「免責をめぐるジレンマ」も成立していない。

さて、次に「憲法三七条二項で保障された被告人の権利について」という見出しの下に展開されている反論について。

まず、ここで牛犬氏が引用している判例が、少なくとも引用されている部分に関する限り、「公判での尋問をうけなかった証人が、公判期日外に行った供述を記録した調書を証拠採用することは違憲である」とする根拠にならないことはすでに述べておいたことを確認しておきたい。次に、この判例を引用することで牛犬氏は

与えられるべきは「321条1項3号の要件を満たすか否かについての1年間にわたって争う機会」ではなく、「証人の証言及びその供述調書に対する審問の機会」であるわけです。

と主張しようとしている。しかしながら、「証人の証言及びその供述調書に対する審問の機会」が与えられることによって結局なにが吟味されることになるかと言えば、証言ないし調書の証拠能力および証明力が吟味されることになるわけである。そして刑訴法321条1項3号に基づいて証拠申請された調書に関しては、「321条1項3号の要件を満たすか否か」が吟味されれば、その証拠能力が吟味されたと言えるのである。そしてこの調書の証明力に関しては、田中側は証人申請なり宣誓供述書の作成依頼なりによって争う機会が与えられていたのに、その機会を放棄したと当方は主張しているわけである。

Apemanさんが「321条1項3号の要件を満たすか否かについての1年間にわたって争う機会」をもって憲法三七条二項における被告人の権利を保障したものと解釈するのであれば、その法律上の根拠、最高裁による判例又はそのように主張する学説等を引用してその根拠を示して頂けないと議論のしようがありません。

と牛犬氏はおっしゃっているが、これは当方の主張を不当に単純化している。調書の証明力に関して争う機会が弁護側にあったという当方の指摘を無視しているからである。そして証拠能力の面だけに限って言えば、「法律上の根拠」は明白である。牛犬氏は刑訴法321条1項3号に基づき適法に証拠採用された調書は証拠能力を持つこと、また刑訴法321条が合憲であることを認められるはずである。とすれば、ある調書が「刑訴法321条1項3号の要件を満たすか否か」について公判で吟味されたのであれば、その調書の証拠能力に関しては吟味されたと言えるのであり、したがって憲法37条2項が保障する被告人の権利が侵害されたとは言えない。

さらに、

こちらとしては上述の判例にしたがって「証人の証言及びその供述調書に対する審問の機会」の保障をもって三七条二項における被告人の権利の保障と考えています。


というのはおかしな議論である。「上述の判例」はもともと「228条2項」と「321条1項3号」の両立可能性、という論点に関連して引用されたものであるはずである。この文脈を無視して一般に「証人の証言及びその供述調書に対する審問の機会」が与えられなければ37条に反するというのであれば、要するに321条全否定論になってしまう。ここで、私も「確認事項」を提出させていただく。

・「228条2項の問題をとりあえず棚上げにするならば、公判で被告側の反対尋問を受けなかった証人が公判期日外に行った供述の記録が証拠として採用される場合があり、その証拠採用にあたって必要な要件を刑訴法321条は規定している。刑訴法321条は憲法37条2項に反しないというのが通説である。」以上についてご異議はあるのか?

もしこれに対するお答えが「ない」であるなら、論点は228条2項と321条1項3号との両立可能性、要するに大野判事の補足意見をめぐるものに集約されることになる。

最後に、

付け加えておけば、証明力に関する機会も与えられて当然の機会なのです。憲法三七条二項では刑事被告人は、すべての証人に対して審問する機会を充分に与へられるとされているのですから、問題はあくまで、ある証人(コーチャン氏ら)の供述調書に対して与えられて当然の「証人の証言及びその供述調書に対する審問の機会」を二二八条二項と三二一条一項三号の併用というありえない組み合わせと免責をめぐるジレンマによって奪われたことが問題なのです。

という部分についての当方の立場は、繰り返しになるが、次の通りである。嘱託尋問調書の証明力に関して審問する機会は田中側に与えられていた(だが利用しなかった)。228条2項と321条1項3号の併用が「あり得ない組み合わせ」だというのは通説ではない。免責をめぐるジレンマは存在しない。

Posted: Sun - August 29, 2004 at 05:05 PM Apes! Not Monkeys! Lockheed Affair Previous Next Comments (10)


牛犬氏からのコメントについて

「牛犬氏の再反論について(その2)」に対してコメント欄でいただいたコメントについて。


まずはじめに、手続上の問題について。第三者が当ブログをご覧いただいた場合、当方の記事は一覧できるのに対してコメント欄で行われた牛犬氏の反論は新しい投稿ほど上にくるというシステムゆえに非常に見づらくなっている。牛犬氏が希望されるのであれば、コメント欄でのご投稿を編集(順序を投稿順にただし、重複部分を削除)したうえでHTMLコンテンツとしてアップロードさせていただくので、ご意向をこの記事へのコメントでお知らせいただきたい。取りたてて手間のかかることでもないので、遠慮なく申し付けていただければご希望に添うつもりである。

また、なにやら妙な誤解があったようだが、私が牛犬氏のご投稿に対して「不適切」に感じたなどということはまったくない。当方が反論をはじめるまでは「あのブロガー、馬鹿過ぎ」などと豪語していながらいざ反論が議論が始まると「引き写しで十分」などとのたまったあげく議論を放棄するような相手と違って、大野判事の補足意見に関する考察を深めるきっかけを与えていただくなど、意義のある議論をさせていただいていることには感謝している。ただ、牛犬氏が援用している団藤氏の著作をまだ当方が参照できていない(これは当方の落ち度なわけだが)段階でも、本来引用というのは自説の論証のために行われるものであるのだから、牛犬氏が引用した範囲でのテクストに即して反論させていただくということを申し上げただけのことである。つまり、牛犬氏が引用している箇所は牛犬氏の主張を証明していないのではないか、と主張しているだけのことであって、それ以外になんら含むところはないのでどうかお気遣いなく。

今回いただいたコメントで、当方としては問題の所在が大方整理できたように思う。私の主張は大野判事の補足意見が荒唐無稽だということではなく(当初の見解を訂正した)、「異論の余地のない通説ではなく、たぶん賛否両論が拮抗するケースの一意見でもなく、おそらく少数意見であろう」というものであった。これに対して牛犬氏は、大野判事の意見が当然ふまえるべき最高裁判例をふまえていればあたりまえに導かれるはずの結論である、と主張しておられる。とすれば、牛犬氏の主張は単に立花隆だけでなく、ロッキード裁判一、二審の判決を下した判事(そしてもちろん検事も)、さらには私がランダムサンプリングで調べた結果嘱託尋問調書の証拠採用を支持する記述をしている法律家がそろって「サルでもわかる」間違いをしているということを含意することになる。私は「立花隆のみならず嘱託尋問調書の証拠採用を支持している法律家は間違っている」という議論が成り立たないと主張しているのではなく、そう主張する立場もあり得るだろうが、それが異論の余地のない通説ではないし、そこそこ蓋然性のある多数説でもないだろうと主張しているのである。他の論点はともかく、この論点に関する限り牛犬氏の側の論証の方が高いハードルを越えねばならないことをご理解いただきたい。

さて、改めて整理してみると、最高裁判例を援用した牛犬氏の主張はすべて次のような構造をもっている。

「○○ならば、228条2項に基づき被疑者側の立ち会いを認めなかった証人尋問の記録を証拠として採用しても違憲でない」

ここから牛犬氏は、「○○でないならば、228条2項に基づき被疑者側の立ち会いを認めなかった証人尋問の記録を証拠として採用することは違憲である」という結論を導いておられるわけである。2つめの判例の場合「○○」の部分には「三二六条に規定する場合である」が入り、3つめの判例の場合なら「後の公判において反対尋問の機会が与えられる」が入るわけである。しかしながら、

(1) AならばBでない

から

(2) AでないならばBである

を導くことはできない。(1)から直接導くことができるのは

(3) BであるならばAではない

である。この場合Bに該当するのが「違憲である」であり、Aに該当するのが上で「○○」と記号化した要件である。つまり、牛犬氏は「これを満たせば合憲である」という要件を判例から指摘しておられるわけであるが、それを「これを満たさなければ合憲ではない」要件として(意図的にか誤ってかは分からないが)主張しておられるわけである。これまで牛犬氏が引用されたどの文章にも「○○の条件を満たさなければ違憲(合憲ではない)」というものはなく、「○○の条件を満たせば違憲ではない(合憲)」というものばかりだったはずである。つまり「○○」は違憲でないことの十分条件でしかなく、必要条件ではないのであって、したがって「○○」という要件を満たさないからといって直ちに違憲であるとは言えないのである(もちろん、形式的にではなく実質的な意味においては、違憲論のそれなりの論拠とはなりうる)。

以降の論点については稿を改めて論じさせていただきたいと思うが、最後に

確認事項13)にある『三二一条は「反対尋問なしで証拠能力あり」と判断され証拠採用される条件を書いたものだが、「反対尋問なし」なら「反対尋問なしの調書の証拠能力を云々する」以前に、供述段階での二二八条二項による立会の制限の適法性が否定され、その調書は証拠能力なしとされる。』となるのです。お分かり頂けましたでしょうか?

という点についてのみ、改めて確認させていただきたい。あいかわらず、この「確認事項13)」の内容が私には理解不能である。321条は「反対尋問なしでも証拠能力あり」とされる例外を規定しているわけである。その321条に基づいて証拠申請された調書について「反対尋問なしなら…」という仮定に基づいて論じることは無意味であることがお分かりいただけないだろうか? 321条に基づいて証拠申請される調書は反対尋問的なプロセスを欠いているのが普通なのである(だからこそ、伝聞法則への例外として扱われているのである)。にもかかわらず「反対尋問なし」なら「その調書は証拠能力なしとされる」というのであれば、321条全体が無意味になってしまうとしか思えないのだが…。

確認事項:牛犬氏は、いったいどのような場合であれば刑訴法321条1項3号に基づく証拠採用が可能だと考えておられるのか?

Posted: Thu - September 2, 2004 at 01:34 AM Apes! Not Monkeys! Lockheed Affair Previous Next Comments (2)


9月1日付けの牛犬氏のコメントを編集、また当方の反論もアップ

9月1日にコメント欄でいただいていた再反論のHTML化について許可をいただいたので、こちらにアップロード。

あわせて、当方の反論も。


今回はコメント欄でのご投稿を私の手によって編集したものであるので、過去の4つとはレイアウト等が異なっている。編集ミスがあればお手数ですがご一報ください。

さて、前回(9月2日)の投稿ではこちらの反論が中途半端に終わっていたので、以下で前回のポイントを再確認したうえ、残りの点についても触れておきたい。

まず「刑訴法228条2項にもとづき被疑者側の立ち会いを制限して行われた証人尋問の調書を、後になって行われた公判において321条1項にもとづいて(つまりは公判でその証人を尋問することなしに)証拠採用することは違憲かどうか」という論点について、牛犬氏が援用しておられる判例はいずれも直接「違憲である」としているわけではない。もし直接この論点について「違憲である」とした最高裁判例があるのなら大野判事も補足意見においてそれを援用できたわけであるし、それ以前に一、二審の弁護団がそれを援用しなければおかしい。牛犬氏が示された判例はいずれも、上記のケースにおいてある条件が満たされれば合憲、としたものであり、ロッキード裁判の場合にはその条件が満たされていないから違憲である、というのが牛犬氏の主張である。しかしながら、「○○の条件が満たされれば合憲」という判例から、論理的(形式的)には「○○の条件が満たされなければ違憲」という結論を導くことはできない。もちろん、援用された判例に基づく実質的な推論によって「○○の条件が満たされなければ違憲」と主張することはできるだろう。しかしそれは最高裁判例から直ちに帰結する、異論の余地のない主張ではない。以上が前回の要約である。

さて、次は刑訴法326条の問題、もし公判段階で嘱託尋問が行われていた場合の、その調書の法的地位に関する問題である。たしかに320条が言及しているのは321条と328条だけであるが、326条が321条(および325条)に対する例外であることはその条文から明らかであり、321条が320条の原則に対する例外である以上、326条も「320条への例外」という文脈の中で理解されるべきものである。なにより、公判における供述であれば326条を援用するまでもなく証拠として採用されるのであって、326条が援用されるということ自体、嘱託訊問による証言が公判証言として扱われない(つまり「供述不能」という事態を動かさない)ものであることの証しである、というのが当方の主張である。これに対して牛犬氏は「外国の執行官の面前で書かれる調書」だから326条に基づき証拠採用されるのだ、と主張しておられる。確かに嘱託先の裁判所が国内にあれば、そこでの証言は公判期日における証言として扱われることになる。しかし嘱託先が外国の裁判所であるから326条が必要になるのだというのであれば、まさに同じ理由によってそこでの証言は公判期日における証言としては扱われない、と考えるべきではないのだろうか?

最後に免責をめぐるジレンマについて。「(一)証拠能力の吟味と証明力の吟味を混同してはならない。(二)証明力の吟味をもって証拠能力の吟味とすることはできない」と指摘しておられるが、このご指摘をうけて反論しておいたように、321条1項は反対尋問を経ていない調書の証拠採用を規定した条項なのであるから、321条1項に基づいて証拠申請された調書の証拠能力を反対尋問によってチェックするというのは本末転倒なのである。反対尋問によって証拠能力が吟味されたのなら、それはもはや伝聞証拠とは言えないからだ。したがって、調書の証拠能力が問題になっていた段階において、弁護側に証人尋問を申請できない(免責という論点のために)事情があったとしてもこれは調書の証拠能力を損なうものではなく(伝聞証拠であるというもともとの瑕は別とすれば)、他方証拠採用が決定した後、調書の証明力を争う段階であれば「免責は有効」という裁判所の決定を盾にとって自らの主張を留保しつつ証拠申請することができるわけで、やはり免責をめぐるジレンマは成立していないのである。

Posted: Sat - September 4, 2004 at 12:15 PM Apes! Not Monkeys! Lockheed Affair Previous Next Comment (0)


9月5日付けの牛犬氏の再反論をアップ

牛犬氏からまた再反論を頂戴したので、例によってMS WordでHTML文書に変換してアップロードしました。こちらからどうぞ。


なお、メール本文では論理記号の表記に問題があればコメント欄で修正する予定であること、またこれまでで一番読みにくい文章であると思われる、という旨のメッセージをいただいている。ご覧になる方へのご参考までに付記しておく。

Posted: Sun - September 5, 2004 at 05:20 PM Apes! Not Monkeys! Lockheed Affair Previous Next Comment (1)


9月5日付け再反論への反論(その1)

9月5日付けでいただいた再反論への反論


さて、今回の牛犬氏の議論には、当ブログおよび当ブログでの議論の目的、趣旨に関する誤解ないしは逸脱があると思われるので、まずはその点から再確認をさせていただきたい。

当ブログ(の当カテゴリー)にとっての主たる関心事はロッキード事件でもロッキード裁判でもなく、ロッキード裁判をめぐる言説である。このことはこれまでも何度か明確にしてきているし、牛犬氏にもその旨ご了解いただいていたはずである。いいかえればここで重要なのはロッキード裁判丸紅ルート第一審の判決を批判するにせよ支持するにせよ、その議論がデタラメである(事実誤認に基づくとか、論理的に破綻しているとか、法解釈を著しく誤っているといった意味で)かどうかであり、その議論が最高裁の判決に一致しているかどうかではない。この点からすると、今回の再反論における「免責に関して法律的に疑義のある問題に関する解釈の最終的な判断決定権のある最高裁において証拠採用が認められなかったわけですから、彼らの議論が間違いであることは証明する必要がありません」「肝心なことは判決に影響を与えるのは判例であって通説ではありません」といった箇所にはまったく同意できない。ここでは模擬裁判をやっているのではなく判決をめぐる言説を評価しようというのであるから(判決をオブジェクトレベルとすれば、メタ・メタレベルの議論)、場合によっては最高裁の判決を「不当な議論」とすることもあり得るし(この件に関して私はそのような主張は行わないが)、議論の妥当性を測る物差しの一つとして「通説」は「判例」と同じく重要性をもつ。言い換えれば、当ブログで私が行っている議論においては、ある議論が最高裁の判決と結論において一致しているからといってその議論が「妥当」であるとは必ずしもならず、逆に結論において一致していないからといってその議論が「妥当でない」とは評価しない、ということである。ある調書を証拠として採用するかどうかについては採用する・しないの二者択一になるのに対して、議論の妥当性に関する評価はその度合いなどについて多様であり得る(「一分の隙もない」「極めて妥当」から「ある程度妥当」、「妥当性がまったくないとは言えない」「一分の理もない」といったグラデーションがあるうえ、「この部分については妥当」といった部分的な評価も問題となる)。

そもそも「免責」の問題が検察側主張及び下級審の判決においてもっともプロブレマティックであろうことは当初より明らかであって、それゆえ私が「免責」をめぐる言説を自ら進んでとりあげたのも「コーチャンらは免責されていたから偽証罪に問われず、嘘のつき放題であった」とか「検察が免責を要求した」といった、議論としてデタラメなものについてだけのはずである。立花隆も「明文規定のないことは一切できない」といった議論を批判してはいても、免責の有効性を否定する議論が直ちにデタラメであるなどと主張しているわけではない。

なにより、「法律的に疑義のある問題に関する解釈の最終的な判断決定権のある最高裁」の判決に一致しているか否かでロ裁判を巡る議論を評価するというなら、「ロッキード裁判は暗黒裁判であった」という主張は間違っていることになり、したがってその主張を批判している立花隆および私の主張は基本的に正しい、ということになる。立花隆の(そしてそれをふまえた私の)主張は免責の有効性が揺るぎないものであることを前提しておらず、「嘱託尋問調書を刑訴法328条で証拠申請する手もあった」「嘱託尋問調書が証拠採用されなくても有罪判決は書ける」という予備的な議論をきちんとしているからである。(さらに、大野判事の主張が法廷意見ではなく補足意見に過ぎないことも付け加えておこう。)

さて、以降は前回いただいた再反論の各論点に即した反論である。

まずは「(a)わたしの論証構造について」について。ここで牛犬氏が説明しておられる氏の「論証構造」が異論の余地なく正しい結論を導くのは、「法定手続きの集合」が明確になっている場合、このケースに即して言えば「(A)反対尋問があれば証拠とする(B)反対尋問がなくとも三二六条に基く同意があれば証拠とする」という2つの条件のいずれか(非排他的選言)が満たされているとき、かつそのときに限るという場合だけである。しかしながら、前回私が主張したように、牛犬氏はこの件に関する「法定手続き」について十分条件を指摘しているにとどまり、必要条件を(述べた判例を)提示してはおられない。同じく(a)中で氏は「二二八条二項を適用したら反対尋問させなければならない、という判例がある=法定手続とされています」と主張されているが、これはすでに必要条件と十分条件の混同として反論しておいた主張である。それゆえ、依然として牛犬氏の主張は少なくとも「異論の余地のないもの」ではないわけである。

さて、私が牛犬氏の議論を論駁するためには「「二二八条二項を適用して立会制限した調書を三二一条一項三号でしてもよいということが判例等によって法定手続として認められている」と証明すれば良い」としておられるのは、「そこまでできればこの論点に関する限り私の完勝」という意味においてはなるほどその通りである。しかし、上でも述べたような当ブログでの私の立場からすると、私は(i)大野判事の意見が「異論の余地のないもの」ではないことを示すことができれば自説を最低限擁護することができ、さらにその意見が(ii)法律家の間での多数意見でないことを示すことができれば自説を十分に擁護することができるのである。(i)については前段落をご参照いただきたい。(ii)についてはすでにいくつかの状況証拠を提示したが、牛犬氏は十分に反論しておられない。念のため要点だけを改めて記すと

・牛犬氏が依拠しているのは大野判事一名のみによる補足意見であるが、一、二審の裁判官およびロ事件にかかわった検察官をのぞいたとしても大野説に反対する法律家を(わずか15冊の調査で)二名みつけている。

・証人が刑訴法223条に基づいて任意の事情聴取に応じ、その後公判までの間に死亡するなどして「供述不能」要件が満たされれば、その事情聴取の調書は刑訴法321条1項2号ないし3号によって証拠採用されうる。このような調書を刑訴法226条に基づき行われた証人尋問の調書と比較した場合、たとえ後者が228条2項により被疑者等の立会を認めずに行われたものであったとしても、前者の調書と較べて証拠能力において劣ると考える理由はない。

の2点である。実は先日某書店でより積極的な反論の根拠をみつけたのだが、立ち読みですませたもののそれをネット上の資料及び手持ちの資料で verify できなかったので、これについては稿を改めて展開したい。

次に(b)の後半部分について。これは実質的には(a)での牛犬氏の主張と同じであるので、当方としても同じ主張を繰り返さざるを得ない。すなわち、226条に基づく証人尋問において被疑者側が立ち会うことがその調書の証拠採用の十分条件(321条の他の要件は満たされているとして)であることは証明されているが、必要条件であることは証明されていない。

また、立花隆の『論駁』第2巻第26章からの引用について

このように立花さん自身も先の(あ)の捜査段階で二二八条二項を適用するなら(い)の公判段階での立会権・尋問権が保障されていることを認めているのです。もっとも、公判段階での立会権・尋問権が保障されているから捜査段階での立会権・尋問権は与えられなくてもよいといいながら、自身の公判段階での議論において上の条項で保障されている立会権・尋問権が行使されていないことをすっかり忘れています。

としておられるのは不当である。立花隆が認めているのは公判における証人尋問においては被告側の立会権・尋問権が保障されているということである。捜査段階で228条2項に基づき立会が認められなかった場合(そしてその調書が証拠として採用される場合)には公判段階での立会権・尋問権が保障されねばならないということは認めていない。それゆえ、ここにはいかなる「ゴマカシ」も存在しない。

以降については稿を改めて反論させていただく。

Posted: Tue - September 7, 2004 at 02:43 AM Apes! Not Monkeys! Lockheed Affair Previous Next Comment (0)


なんとも恥知らずなコメント!

すっかり見落としていたのだが、8月19日の記事に対して8月26日にコメントがついていた。


例の掲示板も2チャンネルで晒された影響か、さっぱり動きがなくなっていたので今度こそ本当に「撤退」したのかと思ってすっかり見逃していた。「法律家の大部分が渡部昇一支持」というのは「考えない訳じゃない」といういいわけである。もしそうした可能性も考えていたのだとすれば、にもかかわらず「引き写しで十分」として他人に議論を吹っかけるわけだから、知的不誠実さはますます明確になるばかりである。

「別の論争での別の論客とのやり取りの話に何故噛み付くの?」というご質問に対しては次のようにお答えしておこう。(1)私とは無関係に投稿したいのなら、同じ記事中に私のブログへのリンクを貼るな。(2)私はもともとAngelix氏を対象にしてロ裁判に関する記事を書き始めたわけではない。そこへ勝手に「噛み付」いて来た(そのこと自体を非難しているわけではない)人間が、自分の投稿に関しては「噛み付」くために満たさねばならない条件を付けるというのか?

最後に、「刑事訴訟法の本から英米法における例外を沢山挙げて,私の予想とは違いなどと書かれているけど,それは違う.(そもそも何の予想も明確には示していなかったはず.)」(2つのコメントにまたがった部分を統合)というのはなんとも無責任な発言である。

私の7月29日付け記事に対する「07.29.04 - 12:50 pm」付けのコメント(ただし、このコメントシステムは時刻表示がおかしいので、実際にコメントした時刻とはずれている可能性が高い)にこうある。

P.S.立花氏が挙げている NY州刑事訴訟法の伝聞例外条項って何の事?

伝聞例外があるのは予想出来る(自分の誕生日などについての証言とか)けど,一体具体的に何?

これが「予想」でなければなんだというのか? しかも「自分の誕生日などについての証言」という、ロ裁判論議にはまったくと言ってよいほど関係のない些末な事例をわざわざ「予想」しておいてぬけぬけと「 前にどこかのサイトで読んでいたので,大して驚かない」などというのだから、恥知らずとしかいいようがない。

恥知らずといえば、待望の「助太刀」が現れて久しいというのにそこでの論争には沈黙を守っているというのも、当方を「馬鹿過ぎ」と評した人物にしてはあまりに無責任ではないか。

Posted: Tue - September 7, 2004 at 03:19 AM Apes! Not Monkeys! Lockheed Affair Previous Next Comment (0)


9月5日付け再反論への反論(その2 Updated Version)

確認事項

(a)、(b)が関わる「228条2項と321条の両立可能性」の問題について

昨晩書ききれなかった(c)以降の論点に対する反論を追加。



牛犬氏からの4度目のご投稿における「残りの論点「4.証明力について」に対する再反論」に対して、当方は「嘱託尋問調書が有罪判決のためになくてはならないものではないという主張と、321条が要求する不可欠性を満たしているという主張は、絶対的不可欠性と相対的不可欠性の区別を認める限り矛盾しない」という趣旨の反論をしておいたのだが、その後のご投稿ではこの論点には触れておられない。今後さらなる再反論を予定しておられるのか、それともこの論点に関しては当方の反論をもって諒とされるのか、次にご寄稿いただく際にでもご意向を表明していただければ論点の整理に資すると思うのだが、いかがだろうか。

さて、以前に牛犬氏が援用しておられた団藤重光の『新刑事訴訟法綱要』を当方も入手して228条2項に関する部分を参照したのだが、判例については牛犬氏が引用しておられる通りのごく簡単な記述しかなく、それ自体としては双方にとって決定的な論拠となるものではないようである。次に、前回の記事で予告した、当方の主張を裏づける判例について。最高裁判所判例調査会刊の『最高裁判所裁判集(刑事)主要裁判例要旨集』の「刑事訴訟法編(一)」、325−326頁でみつけて事件番号や判決年月日を記憶しておいたので、最高裁判所ホームページの判例集コーナーで検索できると思っていたのだが、この判例は最高裁判例集には収録されていないようで(紙媒体のものをあたったがやはり収録されていなかった)、一字一句を正確に引用することが現時点ではできない。したがってこの点については後日さらに正確を期すとして、ポイントだけでも述べさせていただくことにする。昭和四八(あ)一七五九、最判五〇・三・二五(第三小法廷)において、刑訴法227条および228条2項に基づいて被疑者(被告人)側の立会を認めずに作成された証人尋問調書を、その調書の作成後に証人が死亡したため、検察官の請求により321条1項1号により証拠採用したことに関し、被告側がその証人を反対尋問する機会を与えられずに終わったとしても、憲法37条に違反しない、という判決がでている。この判決が、牛犬氏が自説の根拠として援用しておられる判例と矛盾しないことは、後者が「合憲であるための十分条件」を明らかにしているに過ぎないという当方の主張に従えば明らかである。

もちろん、この判例が321条1項1号書面についてのものであるのに対して、ロッキード裁判で問題になったのは3号書面であるという違いは残る。しかしながらこの違いは、刑訴法226条に基づき行われた証人尋問の調書は通常321条1項1号書面として証拠採用される(もちろん、326条により採用されることもあるが)のに対し、ロ裁判においては証人尋問が日米司法共助に基づきアメリカで行われたために3号書面として証拠採用された(当初検察は1号書面として証拠申請していた)という事情によりもたらされたものである。321条1項3号は同1号より厳しい要件を証拠採用にあたって課していることを考えるなら、1号書面の証拠採用を可能とするのと同様な事情が3号書面の証拠採用を妨げないことは明らかであろう。

(c)以降の論点への当方の反論

次に「(c)免責をめぐるジレンマ」について」への反論。この点に関する牛犬氏の主張のポイントは

重要なことは「事実問題として実施不可能→三二一条適用→証拠採用」という流れです。三二一条一項三号の三要件の一つ<供述不能>要件は免責をめぐるジレンマによって反対尋問不可能に追い込まれたからこそ成立したのであって、先に引用したとおり、もし弁護側が検察側の意見を取り入れて免責を許していたら反対尋問できたのです。

という点にあると思われる。この議論が意味を持つのは、この段階で弁護側が嘱託による証人尋問を申請してそれが実現していれば、それが公判期日(ないし公判準備)における証言として扱われるという前提が成立していなければならない。この前提が成立しなければ、「供述不能」という要件が満たされていることに変わりはないので依然として嘱託尋問調書の証拠採用に問題はないことになる。これは結局(d)の論点に帰着することになるので、後に改めてとりあげることにしたい。もう一つ当方として補足的な議論を付け加えておくなら、「供述不能」要件における「国外にいるため」という障害に関して、証拠請求する側(この場合検察)ないし法廷がどの程度の努力を要求されるかという問題がある。具体的に言えば、外国の裁判所に証人尋問を嘱託することまでが要求されるのか、それとも証人が日本の主権の及ばない外国におり、来日して証言する意志のないことを確認すればそれで足りるのか、ということである。しかしこれも結局は公判段階で申請され外国に嘱託された証人尋問の調書が公判期日における証言として扱われるのかどうか、という問題に帰着する可能性が高いと思われる。

なお蛇足であるが、引用されている立花隆の文章中の「裁判所の〜判断でもあるわけです」が指す「判断」とは、ここでの議論が昭和57年に弁護側から行われたコーチャンらへの証人尋問申請が却下されたことを確認して始まっていることから、この証人申請を「必要性なし」とした判断のことであろう。

次に、

先に引用したように立花さんも検察側も「調書の証拠能力を反対尋問によってチェックするというのは本末転倒」などとは言っていません。それどころか「免責を認めれば反対尋問可能ですよ」と暗に含んだ言い回しをしています。

という部分について。この直後に氏は「事実に基づかない議論をされては困ります」と私を非難しているわけであるが、当方はこの段階で弁護側が嘱託による証人尋問を申請しそれが実現したとしても、その調書は公判証言としては扱われず、それゆえ「供述不能」という要件が満たされていることに変わりはないと主張しているのであるから、この非難は不当である(ただし、この点に関して立花隆と私の主張が異なっている可能性はある。結局公判段階における嘱託尋問は実現しなかったため、その証言の法的地位に関しては明示的な判断が下されていないので断定しがたい点ではあるが)。

また、ここでは「反対尋問」という言葉の曖昧さが混乱を招いているようでもある。「主尋問に対する反対尋問」という意味での、狭義の反対尋問は嘱託尋問がすでに終了している以上問題になりえない。次に、公判段階でコーチャンらへの嘱託尋問が(検察側、弁護側どちらの請求によるものであれ)実現し、それが牛犬氏の主張とおり公判供述としての価値を持つと考えた場合、この場合には「供述不能」要件が崩れるわけであるから3号書面たる嘱託尋問調書は証拠として採用されず、それゆえ調書の証拠能力という問題は消滅してしまうのであって、やはり形式的には「調書の証拠能力を反対尋問で吟味する」ことにはならない。さらに何度ものべているように、公判に出廷しない証人の供述調書を321条1項によって証拠採用したからといって、「証拠能力が吟味されていない」ことにはならない。321条1項が規定する要件を満たすかどうかを吟味することが、すなわち証拠能力の吟味となるのである。

次に、調書の証拠採用に対して田中側が異議を唱え、特別抗告までして争ったという点について、牛犬氏は次のように主張しておられる(下線は私が付した)。

最終的な救済手段であり、法律的に疑義のある問題に関する解釈の最終的な判断決定権のある最高裁から免責の妥当性を否定し調書の証拠能力を認めない旨の判例が出た以上、「9月1日付けの牛犬氏のコメントを編集、また当方の反論もアップ」において述べられていた「調書の証拠能力が問題になっていた段階において、弁護側に証人尋問を申請できない(免責という論点のために)事情があったとしてもこれは調書の証拠能力を損なうものではなく(伝聞証拠であるというもともとの瑕は別とすれば)」というような、免責など証拠能力に影響を与えないとする見解は成り立ちません。免責という法定手続にない手段の妥当性は最高裁で否定されました。したがいまして、免責をめぐるジレンマによって反対尋問する機会が奪われたことも不当なのであります。

これは奇妙な議論である。最高裁において免責の妥当性が否定されたことを根拠に、「免責をめぐるジレンマによって反対尋問する機会が奪われた」ことは不当だと主張しておられるわけだが、最高裁は嘱託尋問調書の証拠採用を否定したのであるから、その調書に対して反対尋問する必要性も同時に消滅しているわけである。田中側の希望とおり調書は証拠採用されなかったのだから、「免責をめぐるジレンマ」もまた(それが当初成立していたと仮定すれば)消滅するのである。

これもまた、「時間」というファクターを議論に際してどう扱うかにまつわる問題のようである。最高裁判決までを一つのプロセスとして眺めるなら、上に述べたように結局「免責をめぐるジレンマ」は存在しないことになる。他方、裁判の各段階を「時間」というファクターを考慮に入れて評価するなら、一審のある段階(嘱託尋問調書の証拠採用が決定するまで)で弁護側が法廷戦術上のジレンマを抱えていたことは確かである。そのことが嘱託尋問調書の証拠能力を損なうものではないと私が主張しているのは、後者の観点に従ってのことである(さらにいえば、模擬裁判を行うためではなくロ裁判をめぐる言説を評価するためにそう主張しているのである)。私は別に最高裁判決を批判しているわけではないのだから、前者の観点からは「嘱託尋問調書の証拠能力には問題があった」ことを認めるのにやぶさかではない。

「(d)三二六条について」に対して。

冒頭で引用されている判決では、刑訴法326条だけでなく324条2項、321条1項3号が「参照・法条」として挙げられている。324条2項とは

2 被告人以外の者の公判準備又は公判期日における供述で被告人以外の者の供述をその内容とするものについては、第321条第1項第3号の規定を準用する

というものである。「被告人以外の者の供述をその内容とするもの」というのは要するに「伝聞」ということであるから、原則として証拠採用されない。それを例外的に321条1項3号を準用して証拠採用できると規定しているのがこの324条2項なのである。つまりこのケースも伝聞法則によって原則として排除されている伝聞証拠が例外規定によって証拠採用されていることに変わりはないのである。刑訴法320条によって排除されない証拠であれば、326条をもち出すまでもなく証拠として採用されうるのであり、逆に言えば326条によって採用される証拠とは320条によって原則として排除され、例外規定によって証拠採用されているということである。それゆえ、そのような証拠が「供述不能」要件を覆すことはない。

「(e)大野判事の補足意見について」に対して。

これについては、前回の投稿の前半ですでに反論済みである。一つだけ補足しておこう。牛犬氏が「大野判事の補足意見は最高裁の判例をふまえた、異論の余地のないものである」という主張を裏づけようとするなら、「228条2項の適用により被疑者・被告側の立会を認めずに行われた証人尋問の調書を、公判において反対尋問にさらすか被告側の同意がある(326条)場合以外のケースで、証拠として採用することは違憲である」という趣旨の判例を提示されればよいのである。繰り返し述べているように、牛犬氏が援用しておられる判例は合憲であるための十分条件を述べたものばかりである(これは、証拠採用を合憲とする判決文であることを考えれば当然であろう)。違憲となるための十分条件=合憲であるための必要条件については前回(a)に関して反論しておいたように、依然として明らかにされていないのである。

なおこの問題について、私は321条1項2号との関連で大野判事の補足意見への疑義を表明しておいた。ロ事件の場合嘱託尋問調書は3号書面として証拠採用されたが、226条にもとづき行われた証人尋問の調書は通常321条1項1号によって証拠採用されることになる。2号書面の場合、検事の取り調べの際に被告(被疑者)側が立ち会わず、証人が公判で尋問を受けることがなくても証拠として採用され得るのに対して、1号書面の場合には証人尋問の段階か公判段階かのいずれかで被告側が反対尋問していなければ証拠採用できないというのであれば、1号書面に対して2号書面よりも厳しい条件を課すことになってしまう。そのような解釈は合理性を欠くのではないか、というものである。これについてはどうお考えなのだろうか?

Posted: Wed - September 8, 2004 at 01:32 AM Apes! Not Monkeys! Lockheed Affair Previous Next Comments (9)


刑訴法282条2項による立会制限と刑訴法321条1項の両立可能性を示す判例について

コメント欄で急報したものを記事として再編集。その他。


刑訴法228条2項に基づき、被告側の立会を認めなかった証人尋問の調書の証拠能力に関して、次のような判例を発見した。ソースは最高裁判所判例調査会刊の『最高裁判所裁判集(刑事)主要裁判例要旨集』の「刑事訴訟法編(一)」、325−326頁である。

昭和四八(あ)一七五九、最判五〇・三・二五(第三小法廷)

刑訴法二二七条、二二八条に基づき、被告人及び弁護人に立会の機会を与えることなく証人尋問調書が作成されたのち、当該証人が死亡したため、第一審が、検察官の請求により、同法三二一条一項一号により右証人尋問調書を証拠として採用したため、結局、被告人には証人尋問調書について証人を反対尋問する機会を与えられずに終わったとしても、憲法三七条二項、三項に違反するものでないことは、最高裁判所の判例[判例の列挙を省略]の趣旨に照らし明らかである。

判決中で援用されている判例の判例集巻号頁はそれぞれ「三・六・七八九」、「四・一〇・一八六六」、「六・四・五八四」。なお、最高裁のホームページで検索できる「最高裁判例集」はすべての判例を収録しているわけではないので、最判五〇・三・二五が検索できなくても「解せない」ということはない。また、『最高裁判所裁判集(刑事)主要裁判例要旨集』の記載は上記の引用の前に「【刑訴法二二七条一項二二八条二項に基づき被告人及び弁護人に立会の機会を与えず作成された証人尋問調書を同証人の死亡を理由に同法三二一条一項一号により証拠として採用することと憲法三七条二項三項】」という見出しがついているだけなので、同書をあたられてもこの判例の存在自体は確認できるが、それ以上の情報は得られない。念のため、申し添えておく。

さて、牛犬氏は前回の記事へのコメント欄で、最判五〇・三・二五が援用した3つの判例について検討しておられる。前回、免責の有効性に関して、最高裁の判決を盾に立花隆や一、二審の判事の「議論が間違いであることは証明する必要がありません」とおっしゃった方にしては解せないことである。むろん、最判五〇・三・二五の存在とその内容を自分で確認するまで結論はペンディングしたいとおっしゃるなら、それはもっともなはなしで私にも異存はない。しかしこの判決の存在を前提とするなら、もはや牛犬氏がご自分の説を擁護するには321条1項1号と同3号との違いを論点とするしかない。そして「228条2項に基づき被疑者側の立会を排して作成された証人尋問調書を、刑訴法321条1項3号によって証拠とすることは憲法37条に違反する」という意見ではなく、「228条2項に基づき被疑者側の立会を排して作成された証人尋問調書を、刑訴法321条1項3号によって証拠とすることは憲法37条に違反しない」という意見こそが過去の最高裁判決をふまえた場合に素直に導かれる意見であるということが明らかになれば、それ以上大野判事の補足意見について当ブログで議論する意味はなくなる。牛犬氏が最判五〇・三・二五を批判して大野判事の補足意見を支持されるのはかまわないが、それはロ裁判批判論や立花隆の反論の妥当性という問題からは逸脱した議論になるからである。

さて、「相対的不可欠性」と「絶対的不可欠性」の問題についても牛犬氏は再反論を予定しておられるとのことである。それをお待ちしてもよいのだが、せっかくの機会なので論点の整理のため付言させていただく。8月28日付けでHTML化してアップロードさせていただいた牛犬氏の議論における5つの「確認事項」に対して、私はその4番目が間違っているために結論にあたる5番目も間違っているのだと主張した。つまり牛犬氏は「相対的不可欠性」を「構成要件、違法性、有責性のすべてを証明するために不可欠なわけではないが、そのうちのいずれかを証明するには(絶対的に)不可欠なもの」と解釈し、この解釈に基づいて立花隆の議論は矛盾している、と主張されているわけである。うえの解釈が「相対的不可欠性」の可能な一つの解釈であることは確かだが、それは唯一の解釈ではないし、また立花隆が意図した解釈でもない。立花隆は(ロッキード事件の場合違法性と有責性が問題になる余地はないことを前提として)構成要件の証明に対して嘱託尋問調書は「相対的不可欠性」をもつと述べているのである。したがってこの場合の「相対的不可欠性」とは、「それがなければ有罪判決が下せないというほどの不可欠性ではないが、321条1項3号の要件を満たす程度には不可欠」というものでしかあり得ない。「相対的不可欠性」という日本語をパラフレーズするなら、「ある観点からは不可欠であるが、別の観点からは必ずしも不可欠ではない」ような不可欠性、ということになる。立花隆の用法も立派にこの意味での「相対的不可欠性」足りうるのである。したがって、構成要件に加えて違法性、有責性を問題にする議論は立花隆の議論を評価するうえで意味がないことを再確認させていただく(嘱託尋問調書の内容から考えても、違法性や有責性といった論点は無関係である)。

さて立花隆のこの点に関する主張にはいかなる「矛盾」も存在しないので、残る問題はこのような解釈が321条1項3号の解釈として正しいのかどうか、あるいは嘱託訊問調書がなくても有罪判決は書けるというのが本当であるかどうか、である。後者については最高裁判決が「本当である」と認めているうえに、牛犬氏の関心はおそらく前者にあると思われる。したがって私が理解する限り、この問題に関して実質的に残っている論点は3号書面の「不可欠性」要件の解釈に関わる、前者の問題だけである。なおこれに関して、私は立花隆が田中弁護団のメンバーの著書を援用して行った反論があることを紹介しておいた。『論駁』(『ロッキード裁判批判を斬る』)の第49章である。


Posted: Fri - September 10, 2004 at 10:30 AM Apes! Not Monkeys! Lockheed Affair Previous Next Comments (18)


大野判事説への積極的反論

これまでは当ブログの趣旨に鑑み、大野判事の補足意見については消極的なかたちで反論するにとどめていたが、もう少し積極的に反論してみる。


本来必要がないことをやろうと思い立ったのは、前回の私の記事に対する牛犬氏のコメント中に、当方として看過できない非難があったからである。もし当事者以外でこの論争をご覧いただいている方がおられたら、お手数だがコメント欄を参照のうえ当記事をご覧いただきたい。

さて、まずは

被告側の反対尋問権が行使されたのか、放棄されたのか、という私が知りたい情報について何も述べていない不完全な情報を引用された(後略)

という非難についてである。まず、私が援用したのが判決「要旨」でしかないというのは確かだが、しかしその要旨には証人が「死亡」したため、被告にはその証人に対して公判で「反対尋問する機会を与えられずに終わった」ということ、そしてその尋問調書は刑訴法326条によって採用された(つまり被告側が実質的に反対尋問権を放棄した)のではなく同321条1項1号によって証拠採用されたこと、はきちんと書いてある。つまりこの判決要旨を執筆したのが相当程度日本語能力に難のある人物でない限り、牛犬氏が「推測」しているように実は326条に基づき採用されていたとか、実はその証人が公判で尋問を受けていたといったことはないのである。

さらに、私が判決「要旨」しか引用しなかったことをもって「不完全な情報」に基づき議論をしたというのであれば、そもそもこの判決の存在に言及せずに議論をされた牛犬氏もまた「不完全な情報」に基づいて議論したことにはならないのだろうか?

さて、この判決が最高裁判例に収録されていないのが「解せない」というのは、牛犬氏によれば「先に私が挙げた二二八条二項の適用に関する判例に対して新しい第三の適用条件を示した」ことになるから、だとのことである。これに対してはすでに、牛犬氏が援用されている2つの判例は228条2項に基づき被告側の立会を禁じた証人尋問の調書を証拠採用するための必要条件を述べたものではない、と反論しておいた。したがってこの判決が「新しい第三の適用条件を示した」ということもないから、最高裁判例に収録されていなくてもなんの不思議もないということになる。この点を最判二七・六・十八、刑集六・六・八〇〇についてもう少し詳しくみておこう(すでにコメント欄で書いたことなのだが、これについても反論を予定しておられるということなのであらためて論じておく)。

まず問題の判決を引用してみよう。

◆ S27.06.18大法廷・判決昭和25(あ)797臨時物資需給調整法違反、昭和二二年政令第一六五号違反

判例S27.06.18 大法廷・判決 昭和25(あ)797 臨時物資需給調整法違反、昭和二二年政令第一六五号違反(第6巻6号800頁)

主文

本件上告を棄却する。

         

理由

 弁護人加藤謹治の上告趣意について、

 (1)憲法三七条二項の規定は、刑事被告人に対し、受訴裁判所の訴訟手続において、すべての証人に対して審問する機会を充分に与えられ、又、公費で自己のために強制的手続により証人を求ある権利を保障した規定であつて、捜査手続における保障規定ではないと解するのが相当である。そして、刑訴二二八条の規定は、前二条の規定とともに、同一九七条一項に基き規定された検察官の強制捜査処分請求に関する法律規定であつて、受訴裁判所の訴訟手続に関する規定ではなくて、(2)その供述調書はそれ自体では証拠能力を持つものではない。(3)されば、刑訴法が同二二八条二項において、「裁判官は、捜査に支障を生ずる虞がないと認めるときは、被告人、被疑者又は弁護人を前項の尋問に立ち会わせることができる。」と規定して、同条の証人尋問に被告人、被疑者又は弁護人の立会を任意にしたからといつて、前記憲法の条項に反するものではない。(4)刑訴法は、受訴裁判所の訴訟手続に関する規定として右二二八条等の規定にかかわらず更に刑訴三二〇条の規定を設け前記憲法の条項に基く刑事被告人の権利を充分に尊重しているのである。(5)そして、本件第一審の訴訟手続においては、被告人及び弁護入は前記刑訴二二八条に基く尋問調書を証拠とすることに同意したものであること記録上明白であるから、刑事被告人の前記憲法上の権利を尊重した右刑訴三二〇条所定の同三二六条に規定する場合であるというべく、(6)従つて、第一審の採証手続に何等の違憲違法をも認めることができない。それ故、所論は、全くその理由がない。

 よつて裁判官全員一致の意見を以つて刑訴四〇八条により主文の如く判決する。

なお、(1)〜(6)の番号は私が付したものである。牛犬氏はこの判例に言及した団藤氏の著書から次の箇所を引用しておられる(下線は引用者)。

憲法第三七条第二項の関係で、被告人・被疑者の立会のなかったばあいの供述調書を証拠とすることは、疑問の余地がある。しかし、判例は、少くとものちに公判廷でその証人を尋問し被告人の反対尋問にさらしたときは、これを証拠とすることを認める趣旨のようである(最決〔大法廷〕昭和二五年一〇月四日刑集四巻一八六六頁)。その後の判例は、公判廷で被告人の反対尋問にさらすことをも要件としない趣旨かとおもわれる。最判〔大法廷〕昭和二七年六月一八日刑集六巻八〇〇頁(二二八条の合憲性をみとめる)、最判昭和二八年四月二五日刑集七巻八七六頁参照。もっとも、最判昭和三五年一二月一六日刑集十四巻一九四七頁(奥野裁判官の少数意見がある)によれば、前の判例と後の判例とは矛盾しないものと解されているようである。

(『新刑事訴訟法綱要』、354頁、注1)

この下線部について私がただしたところ、牛犬氏は最判二七・六・十八をひきあいに出して「公判で尋問されていない場合には、326条による採用が条件になる」と主張されたわけである。だが、判決をよく読んでみるならば、牛犬氏の解釈が間違っていることは明らかである。まず(1)の部分で言われているのは「捜査」段階と「公判」段階を区別する必要性である。そのような証人尋問の調書は公判証言と違ってそれ自体直ちに証拠として採用できるわけではない、というのが(2)である。そしてそうした調書が自動的に証拠採用されるわけではないのだから、刑訴法228条2項(に基づいて被疑者側の立会を制限すること)が憲法37条2項に反するものではない、というのが(3)である。次の(4)に注目していただきたい。これは牛犬氏がこの判決に関して引用しなかった部分である。これが述べているのは、問題の調書がそれ自体としては証拠能力を持たないのは、刑訴法320条に語られている原則(伝聞法則)によるということであるが、と同時に、もしそのような調書が証拠採用されうるとすればそれは321条以下で列挙されている320条への例外としてである、ということでもある。そしてこの事件の場合、具体的にはどのような「例外」として採用されたのかを述べているのが(5)である。牛犬氏はまさにこの(5)に依拠して、「326条による同意が条件になる」としておられるわけであるが、判決文では「右刑訴三二〇条所定の同三二六条に規定する場合」(下線は引用者)となっていることに注目していただきたい。言うまでもなく、321条による証拠採用も「右刑訴三二〇条所定」の場合である。この事件ではたまたま326条による採用であったが、他ならぬ326条でなければ採用できないという主張はここにはない。そのことは、「三二〇条所定の」という一句をよく読めば明らかである。つまりこの判決が(1)で述べているのは228条2項に基づき被疑者側の立会を排したかどうかの問題と、その調書を証拠として採用するかどうかの問題は切り離して考えてよいということであり、(5)で述べているのは320条への例外を規定した321条以下によって適法に証拠採用されうる、ということなのである。なぜ326条のケースにあてはまれば証拠採用できるのかという理由について、この判決は「右刑訴三二〇条所定」としか述べていない。そしてこの「右刑訴三二〇条所定」は、321条1項1号にも3号にもあてはまるのである。

こうして、私が援用した最判五〇・三・二五は特に新たな「適用条件」を述べたものではなく、最判五〇・三・二五をもち出すまでもなく牛犬氏の主張が成り立たないことが明らかになった。団藤氏がこの判例について「その後の判例は、公判廷で被告人の反対尋問にさらすことをも要件としない趣旨かとおもわれる」とその趣旨を述べている箇所は、額面通りにうけとればよいわけである。

さて、実は私は大野判事の補足意見への積極的な反論をすでに提示しているのだが、2度同じ内容を繰り返したもののまだ牛犬氏からご返答をいただいていない。すなわち、

証人が刑訴法223条に基づいて任意の事情聴取に応じ、その後公判までの間に死亡するなどして「供述不能」要件が満たされれば、その事情聴取の調書は刑訴法321条1項2号ないし3号によって証拠採用されうる。このような調書を刑訴法226条に基づき行われた証人尋問の調書と比較した場合、たとえ後者が228条2項により被疑者等の立会を認めずに行われたものであったとしても、前者の調書と較べて証拠能力において劣ると考える理由はない。

というものである。どう考えても2号書面より高いハードルを1号書面に課すのは不合理だ、ということである。つまり大野判事の補足意見は過去の最高裁判例に反しているだけでなく、321条1項1号と同2号との扱いの整合性を無視してまで被告側に有利な議論をひねり出したものだ、ということである。調書の安易な証拠採用に反対しようというのが大野判事の意図だったのだとすればその意図には同意できるが、そのロジックには同意できない。

さて次に

私は立花さんらの議論の「免責に関する法解釈が著しく誤っている」という意味で法解釈の最終判断権の最高裁の判例に言及したのであって、彼らの議論の妥当性は「極めて不当」と評価するものです。

以下の、「免責」という論点を巡る牛犬氏の議論について。ここでも実質的に「妥当性の程度」は無視されている。牛犬氏は免責を巡る立花隆の議論が「極めて不当」だとする論拠をこれまでのところまったく示しておられない。提示されてもいない議論に反論せよと言われても無理なはなしである。また「何年にどこから出版された誰の何という本か紹介して頂きたいもの」とおっしゃるが、私は例の15冊についてすでに著者・書名・出版社といった書誌情報と内容の要約をちゃんと書いてある。そちらをご参照いただきたい。

また牛犬氏は

Apemanさんは立花さんの議論や一、二審判決を妥当とされているのですから、免責に関する彼らの意見も妥当とされているはずです。立花さんは免責は異例だが適法かつ妥当と主張しているのですから、この議論の妥当性についての挙証責任がApemanさんにはあるのです。

とされているが、当ブログで私が第一義的に挙証責任を負うのは渡部昇一や小室直樹のロ裁判批判論が「デタラメ」であるという主張に対してである。これに対して牛犬氏は「立花隆の誤りを論証する」として当ブログへのご寄稿をはじめられたのであるから、まずは「免責」に関して立花隆がどうデタラメを言っているのかを論証する責任は牛犬氏にあるはずであり、この点についてまだ牛犬氏は実質的な議論をしておられない。当方には免責という論点について積極的に議論するつもりがないこととその理由はすでに明らかにしているのであるから、まずは牛犬氏が「立花隆の誤り」について立論すべきではないだろうか?

最後に

ロッキード裁判が暗黒裁判であると言われるゆえんは「免責付与下の嘱託尋問調書が反対尋問なしに証拠採用された」ことにあるわけですから、免責を理由に調書の証拠能力を否定したこの判決はむしろ暗黒裁判論による批判のとおりの判決です。

という点について。まずロ裁判批判論に関して立花隆が指摘した「デタラメ」は「免責付与下の嘱託尋問調書が反対尋問なしに証拠採用された」こと以外の多くの論点に及んでいる。特にロ裁判批判派は嘱託尋問調書の証拠採用がなければ田中は無罪だ、と主張していたのである。また、上級審が下級審の判決を(部分的にでも)覆したからといって下級審の裁判が「暗黒裁判」だということにはならない。「間違い」にもいろんな程度があるのであって、すべての間違いが直ちに「暗黒裁判」と批判されねばならないということはない。つまり最高裁の判決はどう考えても大筋でロ裁判批判論を否定しているのである。

なお最高裁の審理が8年もかかったということについては、具体的な審理経過について情報をもっていないため当方として積極的に主張することはない。牛犬氏はこの事実を原判決が「妥当」でなかったことの「傍証」として理解しておられるわけであるが、これについてはまったく同じロジックで「免責」に関する検察側主張および下級審判決の判断が一定の妥当性をもっていたことの「傍証」として理解することができる。つまり免責の有効性を認めた議論が箸にも棒にもかからないものであるなら、この点に関する審理に時間がかかるはずがないからである。

Posted: Mon - September 13, 2004 at 12:00 PM Apes! Not Monkeys! Lockheed Affair Previous Next Comments (3)


牛犬氏との論争総括


こちらの記事へのコメント欄で牛犬氏が論争の中断を申し入れられた。主観的には牛犬氏の提出された論点のほとんどについて論駁し得たとは思っているが、「もし公判の段階でコーチャンらへの嘱託尋問が実施されていた場合、その供述調書は刑訴法上どのような扱いを受けたか」という点についてのみ当方としても十分議論を詰め切れていないという印象が残る。また、最判五〇・三・二五について牛犬氏が当局に問い合わせをされたとのことであるが、その結果についてご報告いただけなかったのは非常に残念である。ロ裁判批判論の検証という作業はこれからもしばらく続けてゆく予定であるので、もし時間の都合が付くようになれば再登場していただけるよう、牛犬氏にはお願いしておく。

当カテゴリーの目的上、大野判事の補足意見についてはきちんとした調査もしてこなかったのだが、なにごとも調べてみれば成果があるものである。大野判事の補足意見については当初「バカしか言わない議論」と早合点し、その後「一理あるが当ブログの趣旨にとってはあまり重要性がない」というかたちで位置付けていた。しかし今では「調書裁判を批判するためであるにしても、かなり無理のあるロジック」であるという評価を固めつつある。この点にある程度自信をもてるようになったのは牛犬氏とのやりとりがきっかけで最高裁判例を調査し、大野判事の補足意見についても改めて読み直してみたからであり、牛犬氏には感謝している。

Posted: Mon - September 20, 2004 at 04:55 PM Apes! Not Monkeys! Lockheed Affair Previous Next Comment (0)


ロッキード裁判丸紅ルート最高裁判決を読む

判決文はこちらで閲覧できる。

また、一つ上の階層のこちらからは計5つの補足意見も読むことができる(「平成七年二月二二日大法廷判決昭和六二年(あ)第一三五一号外国為替及び外国貿易管理法違反、贈賄、外国為替及び外国貿易管理法違反、議院における証人の宣誓及び証言等に関する法律違反各被告事件」)


この夏はロッキード裁判批判論について相当の量の文章を書いたので、牛犬氏が議論から離脱されて以来やや脱力気味。以前に集めた資料についての分析は今後も続けていく予定だが、ちょっと一休みというところ。

さて、牛犬氏との議論では大野判事の補足意見について検討する機会を得たので、この際最高裁の判決及び補足意見からロ裁判論争について言えることをまとめておきたい。

丸紅ルート被告のうち、最高裁判決を受けたのは榎本、檜山の両被告のみである。その他の被告については死亡により公訴棄却になったり、控訴(ないし上告)を行わなかったため被告として名を連ねてはいない。しかしながら、仮にすべての被告がそろって最高裁まで争ったとしても同じ結果になったことは明らかであろう。

最高裁判決の主文は「本件各上告を棄却する」。問題はその理由である。

まず上告趣意書の「嘱託尋問調書」に関する主張に対して、最高裁判決は次のように述べる。

右各上告趣意は、アーチボルト・カール・コーチャン及びジョン・ウイリアム・クラッターに対する各嘱託証人尋問調書の証拠能力を肯定した原判決を論難するが、本件嘱託証人尋問調書を除いても、原判決の是認する第一審判決の挙示するその余の関係証拠によって、同判決の判示する本件各犯罪事実を優に認定することができるから、所論は、原判決の結論に影響を及ぼさない主張というべきである。

当ブログでたびたび私が主張してきたように(そしてもともと立花隆が主張していたように)、丸紅ルートに関する限り嘱託尋問調書が証拠採用されなかったとしても有罪判決は書ける、ということを最高裁が認めているわけである。ロ裁判批判派がしばしば趣旨を誤解して引用している、調書の証拠採用を批判した議論はそのあとに

しかしながら、所論の重要性にかんがみ、本件嘱託証人尋問調書の証拠能力の有無について、以下判断を示すこととする。

 本件嘱託証人尋問調書の証拠能力を肯定した原判決は、是認することができない。

という書き出しではじまっている。証拠採用を斥けた理由は最終的には

2 以上を要するに、我が国の刑訴法は、刑事免責の制度を採用しておらず、刑事免責を付与して獲得された供述を事実認定の証拠とすることを許容していないものと解すべきである以上、本件嘱託証人尋問調書については、その証拠能力を否定すべきものと解するのが相当である。

というものである(下線は引用者)。この判断の妥当性についてあまり立ち入るつもりはないが、基本的にはロ裁判の一審当時からあった議論を踏襲したものと言える。要するに免責に関する明文規定がない(最初の下線部)ことが免責による証言の証拠採用を排除する(第二の下線部)根拠となるかどうかの問題、である。たしかに刑事免責制度の有無は司法制度にとって非常に大きな違いであり、最高裁が慎重になることも理解できないではないし、逆に消極的に過ぎるという批判も可能だろう。しかしここで注目しておきたいのは、このような結論に達するまでのプロセスにみられる次のような記述である。

 1(一) 刑事免責の制度は、自己負罪拒否特権に基づく証言拒否権の行使により犯罪事実の立証に必要な供述を獲得することができないという事態に対処するため、共犯等の関係にある者のうちの一部の者に対して刑事免責を付与することによって自己負罪拒否特権を失わせて供述を強制し、その供述を他の者の有罪を立証する証拠としようとする制度であって、本件証人尋問が嘱託されたアメリカ合衆国においては、一定の許容範囲、手続要件の下に採用され、制定法上確立した制度として機能しているものである。

このあとの(二)、(三)において調書の証拠採用を退けるべき理由が考察されるのであるが、ここではアメリカ合衆国において免責が確立した制度であることが改めて確認されている。これは嘱託尋問調書をめぐるいわゆる「特信情況」の論点に関係する問題である。ロ裁判批判派はコーチャンらが免責ゆえに嘘をつきまくったかのような主張を行ったわけであるが(なかには、免責された以上偽証罪には問われないと考えていたバカまでいた)、免責制度が偽証を構造的に誘発するようなものではないことが最高裁によっても確認されているわけである。

この嘱託尋問調書の証拠採用問題に関してただ一人補足意見をつけたのが大野判事であり、その内容については牛犬氏とのやりとりにおいて一部検討しているのだが、そこでまだ触れられていない部分について見てみよう。

このように、刑事免責を与えて自己負罪拒否特権を消滅させた上証言を強制する手続は、アメリカ合衆国では合憲合法とされているが、我が国の刑訴法は、そのような規定を設けず、これを採用していないのであって、適法とすることはできない。しかしながら、嘱託を受けて証人尋問を行うのはアメリカ合衆国の裁判所であるから、嘱託証人尋問は、受託国である同国で認められた合法的手続で実施されることになるのは当然である。もっとも、受託国においてされる捜査資料収集手続が、嘱託国である我が国の憲法に違反し、あるいは法律の明文の規定に反するような重大な違法があると評価される場合には、そのような方法による捜査資料収集手続を嘱託することは許されず、そのような方法によって収集された資料は違法収集証拠としてその証拠能力を否定され(最高裁昭和五一年(あ)第八六五号同五三年九月七日第一小法廷判決・刑集三二巻六号一六七二頁参照)、それに基づいて収集された証拠も原則として証拠能力がないと解すべきである。

 そこで、本件嘱託証人尋問にそのような重大な違法が存するといえるかどうかを検討すると、刑事免責による証言強制の許否は、日米両国の法制度のずれから生じている問題であって、前記のとおり、我が国の刑訴法はこの制度を採用していないため、我が国内では行うことができないものの、憲法に違反するとまで解することはできず、我が国の裁判官による嘱託に基づきアメリカ合衆国の裁判官又はその命ずる者によって実施されている点において司法上の統制を受けているということができ、捜査機関が国際的犯罪の捜査資料を収集するために、アメリカ合衆国において合法として行われた強制捜査手続について、重大な違法があるものということはできない。

いずれも下線は引用者によるものである。調書の証拠採用に関しては退けているものの、捜査の手段としての違法性は認められていない。この意見を斜め読みして早合点し、最高裁判決が嘱託尋問を「違法」だとしたとぬか喜びしたロ裁判批判論者もいるようだが、事実はまったく異なるのである。法廷意見も、この補足意見も、捜査のプロセスにおける免責付与(およびその後の証人尋問)については否定していないのである。したがって、コーチャンらの証言から得られた知識に基づく捜査によって集められた証拠が「毒の樹の果実」だという議論もあたらないのである。

大野判事の補足意見の後半は、228条2項に基づき被疑者側の立会が認められなかったことをもって321条1項3号に基づく証拠採用を否定する議論であるが、これについてはすでに反論しておいた。

判決理由の後半は弁護側のその他の論点を「憲法違反、判例違反をいう点を含め、その実質は単なる法令違反〔、事実誤認〕の主張であり、刑訴法四〇五条の上告理由に当たらない」としてばっさり切り捨てている。具体的に問題になっているのはいわゆる「職務権限論」である。これについても最高裁の判断が示されており、

一 本件請託の対象とされた行為のうち、田中角榮が内閣総理大臣として運輸大臣に対し全日本空輸株式会社(以下「全日空」という。)にロッキード・エアクラフト・コーポレイションの大型航空旅客機L一〇一一型機の選定購入を干渉するよう働き掛ける行為が、田中の内閣総理大臣としての職務権限に属するとした原判決は、結論において正当として是認できる。

(中略)

 (三) 以上検討したところによれば、運輸大臣が全日空に対しL一〇一一型機の選定購入を勧奨する行為は、運輸大臣の職務権限に属する行為ということができるから、田中が内閣総理大臣として運輸大臣に前記働き掛けをすることが、賄賂罪における職務行為に当たるとした原判決は、結論において正当として是認することができるというべきである。

と、結論として職務権限を認めている(総理大臣には運輸大臣を介したかたちでの職務権限があることが認定できるので、総理大臣が直接全日空に働きかけることが職務権限にあてはまるかどうかについては判断を下さない、としている)。なお、この判決には5つの補足意見がついているが、そのうちの4つ(計12人)は職務権限論に関するものであり、そのいずれもがロジックは違えど「職務権限あり」という趣旨である。嘱託尋問調書の証拠採用に関しては法廷意見よりさらに被告寄りの補足意見を書いた大野判事も、職務権限論に関しては「職務権限あり」とする補足意見を述べた判事のなかに名を連ねている。のちに述べるような留保をつける必要はあるにせよ、ロ裁判批判論のうち「職務権限なし」論は事実上完膚なきまでに打ち砕かれたと言ってよいだろう。

以上のように、最高裁判決は弁護側及びロ裁判批判論者の数多くの主張のうち、嘱託尋問調書の証拠採用に関わる論点(のさらに一部)を支持したに過ぎない。一部のロ裁判批判論者が鬼のクビでもとったように最高裁判決に言及しているのは滑稽と言わざるを得まい。

さて、牛犬氏とのやりとりのなかでも明らかにしたように、「裁判批判論」ないし「裁判擁護論」の妥当性は最高裁判決との一致・不一致によって単純にはかることはできない。とはいえ、少なくとも「ロッキード裁判=暗黒裁判説」はもはや成立する余地がないといってよいであろう。もしこの期に及んで強弁するとするなら、最高裁判決の出た平成7年まで「角栄憎しの空気」ないし「角栄潰すべし」というアメリカの陰謀が継続していた、というウルトラ陰謀論に依るしかない。ロッキード裁判が東京裁判以上の暗黒裁判であると主張した渡部昇一は、今後もロ裁判を「暗黒裁判」と主張し続けるか、あるいは東京裁判が公正な裁判であったことを認めるか、どちらかを選ばねばならないわけである。

Posted: Sun - September 26, 2004 at 02:53 PM Apes! Not Monkeys! Lockheed Affair Previous Next Comments (2)