牛犬氏のコメントについて その1

一つ前の記事でご紹介した牛犬氏のコメントについて

(「二.「国外にいる」の二つの意味」に対して)


まずは、ご丁寧なご投稿をありがとうございました。立花隆による論点の整理についても非常に丁寧に紹介してくださっているので、他の方がご覧になっても参考になると思います。以下はいつもの文体で書かせていただきますが、あしからず。

さて、「一.はじめに」では丁寧に論点を整理していただいており、私としても全く異論はない。(A)、(B)、(C)のうち牛犬氏は(C)について立花説を妥当とし、(A)、(B)には反対という立場をとっておられるが、私のほうも三つのうち一番問題がないのが(C)であり、議論の余地があるのが(A)、(B)だと考えているので、この点でもそれほど見方が食い違っているわけではない。

ただ、牛犬氏のコメントとは論点がずれることになるが、嘱託尋問調書をめぐってはもう一つの大きな論点があるので、それを一応補足しておきたいと思う。即ち、丸紅ルートの裁判におけるこの調書の重要性、という問題である。裁判批判論者はこの調書が田中有罪の決め手となったかのような議論を行っているわけだが、立花隆はこれにも異議を唱えている。つまり、クラッター等の嘱託尋問調書なしでも有罪判決は下せる、というのである。実はこれは最高裁の判断でもある。丸紅ルートの最高裁判決はこの調書について、「違法収集証拠」とまでは言えないとしながら「免責」の法的根拠を問題にし、この調書の証拠採用を斥けたが、他方で(すでに死亡していた田中以外の被告について)上告を棄却している。つまり事実上「嘱託尋問調書抜きでの有罪」判決を下しているわけだ。したがって私も、「なにがなんでも嘱託尋問調書の証拠採用は妥当だった」と主張しているわけではない。ロッキード裁判それ自体よりもロッキード裁判批判論の言説が当ブログの主題なので、証拠採用を批判する議論がデタラメであれば(たとえ結論で一致しても)それを指摘する、というのが当ブログの方針であることをご理解いただきたい。

さて、「二.「国外にいる」の二つの意味」で牛犬氏は論点を「供述不能」要件に絞っておられる。そして氏の主張の中心になっているのは、「捜査段階では国外にいる証人から証言をとっておいて、公判では「供述不能」と主張するのはおかしい」というものだと思われる。

つまり、立花さんの議論では、コーチャン氏らが「国外にいる」という意味が二つの意味をもって解釈されているのです。

要するに、立花さんの説が正しいなら、コーチャン氏らは初めから国外=主権の範囲外にいたから供述に証拠能力がある

ワケがないのです。

という箇所が氏の立論のポイントを集約していると言えるだろう。さて、実はこれは嘱託訊問の法的根拠、特に刑訴法226条に基づき申請された証人尋問をアメリカの裁判所に嘱託することの法的根拠に関わる問題と重なっている。これに関して牛犬氏にも微妙な誤解があると思われるのは、「逆に免責下の嘱託尋問が日本の裁判権の行使とされるなら」という箇所である。これは確かにややこしいポイントではあるのだが、嘱託訊問(裁判ではなくて証人尋問)はアメリカの裁判所の権限によって行われているのである。当時日本とアメリカの間には日米司法共助と呼ばれる協定があり、日本の裁判所からアメリカの裁判所への嘱託は外交ルートを使って行われた。(したがって、嘱託尋問が「主権の放棄」だという批判論も、「主権の拡張」だという立花隆の議論も間違いであり、主権国家同士が相手の主権を尊重しあった結果の協力によってこの嘱託尋問は可能になった、と言うべきだろう。ただ、立花隆の議論は批判論への反論としてたてられており、相手がつくった議論の土俵に乗っているという点は考慮に入れるべきであろう。)

それはともかくとして、捜査段階では国外にいても証言させることができたのだから、公判では供述不能というのはおかしい、という主張には確かに一理ある(そしてあとに述べるようなジレンマがある)。ただ、これはただちに「矛盾」ということにはならない。というのも、検察は確かにコーチャン等に証人尋問を行うことはできたが、それはあくまでアメリカの裁判所においてであって、日本国内で証言させたわけではないからである。321条が問題にしているのは「公判準備若しくは公判期日」において証言することができるかどうかであって、ただ証言できるかどうかではない。日米司法共助に基づきアメリカ国内でコーチャン等に証言させることはできても、贈収賄は日米犯罪人引き渡し条約の対象外であるため、コーチャン等を日本に来させることはできないのである。つまり嘱託尋問は主権国家間の協力によって可能になるが、コーチャン等に日本の法廷での証言を強制することはできない、ということになる。日本の主権が及ばないことであってもアメリカからの協力が得られれば可能になるが、コーチャン等の身柄を日本に送還することにアメリカが同意しなければ(実際、しないだろう)公判で証言させることはできない。

要するに、「国外にいる」が「二つの意味」で用いられているのではなく、「主権の範囲外」だというのはかわらない。ただ、同じく「主権の範囲外」にあることでも、相手国の協力を得て実現できることと、相手国から協力が得られないこと、の二つがあるということなのだ。嘱託尋問は前者であり、公判での証言は後者なのである。牛犬氏の主張の「日本の主権がコーチャン氏らに及んだとすれば、三二一条の<供述不能>要件が満たされないから、裁判所がコーチャン氏らに行なったのと同様の嘱託尋問形式で反対尋問を行えばよいのです」という箇所にどのような誤解があるかも、上記同様に説明することができる。日米司法共助による嘱託尋問はコーチャン等に対して日本の主権が「及んだ」からではなく、「及ばなかった」からこそとられた形式だからである。

以上は立花説の擁護というより、牛犬氏の議論への反論というかたちになっている。したがって立花隆の議論が裁判擁護論として妥当かどうかはまた別の問題ということになるが、後者の判定はなかなか難しい。上でも述べたように、立花隆は裁判批判論の存在を前提してそれに対する反論として議論をたてている。反論であるから、相手の議論のたて方に依存して議論の仕方が変わってくるのはあたりまえで、牛犬氏のような批判論があればまた違った反論をしただろう。私としてはまず「当時の批判論への反論としては有効」であり、「裁判擁護論としてはやや言葉足らず、ないし勇み足なところがある」が、それでも「自説の中において破綻」してまではいない、と考える。嘱託尋問が行われたといってもコーチャン等に来日を強制できたわけではないのだし、嘱託尋問が日米司法共助によって実現したこともきちんと書いているからである。

以上をふまえて、牛犬氏が「立花さんの説を支持する人は次の命題を証明しなければなりません」としておられる

コーチャン氏らは供述段階において主権の範囲内にあった。しかし、公判段階においては主権の範囲外にあった。

という命題は、証明する必要のないものであると私は考える。必要なのは

主権の範囲外のことがらについては実現可能なことと不可能なことがあり、嘱託訊問の実施は前者、コーチャン等を公判で証言さ

せることは後者に属する

であって、これはすでに論証した。さらに、国外にいて日本の主権が及ばなくても相手の協力があれば実行できることは他にもある。例えば全日空ルートの弁護団はエリオットに対して、小佐野ルート控訴審の検察側はクラッターに対して宣誓供述書の作成を依頼したが、この依頼は受け入れられてそれぞれ証拠申請された。

つづいて、「ありうる一つの解釈として免責下の嘱託尋問は妥当であり、証拠採用段階で田中側が反対尋問権を放棄したから三二一条が適用されたのだとする解釈」を前提とした議論について。牛犬氏はその議論を

では、これをもって、田中側が反対尋問権(ここでいう反対尋問権が何を意味するかは後で説明します)を放棄したといえるでしょうか?

というかたちではじめておられるが、これは少しおかしいのではないだろうか? 牛犬氏が引用している部分で、立花隆が問題にしているのは「反対尋問を実施できない状況」であって、田中側が反対尋問権を「放棄した」とは主張していない。この時点では免責に関して検察側は「有効」、弁護側は「無効」と主張が分かれており、弁護側がジレンマに陥ってしまった、ということを指摘しているわけである。権利の放棄とは「権利の行使が可能であるにもかかわらず、自身の意思で行使しないと宣言する」ことだというのは確かにその通りだが、弁護側はいっぽうで「権利の行使」を主張しつつ、その権利の行使が可能になる前提を否定してしまっているということであり、立花隆が指摘しているのもそういうことなのであって、「弁護側が放棄した」とは言っていないのである。ここに関してはもう少し細かい議論も残っているが、牛犬氏の議論の中心部分についてはすでに反論したのでこれ以上立ち入らないことにする。

いま一度別の表現で申し上げるなら、私の反論は次の通りである。牛犬氏は「供述段階/公判段階」と「主権の範囲内/範囲外」という二つの区分をもとに議論をされているが、これに加えて「主権の範囲外だが相手(国)の協力により実現可能/主権の範囲外で、しかも相手(国)の協力が得られないので実現不可能」という区分を考えるなら、氏の主張するような矛盾は消滅する。立花隆は明示的にそのような主張をしていないが、彼の議論の中にはこうした主張を可能にする材料がすでにあり、また相手のたてた議論をもとに組み立てられた反論だという点を考慮すれば、「破綻」しているとまでは言えない。

最後に供述不能要件に関する私の調査結果についてのコメントに対して。

牛犬氏は私が「立花さんの説に依拠して<供述不能>要件を解釈するならば、国外=主権の範囲外で得られた供述でも良いとする本、もしくは、国外=主権の範囲外で供述が得られたケースを紹介している本を探さなければならないと思います」とおっしゃっておられるが、こちらをよく読んでいただければわかるように、私は実際そうした文献を見つけてきている(リンク先のA)、E)、I)、J))。また、こちらでも書いたことだが、たしかに

それらの本に供述段階で国内=主権の範囲内にいなければならないと書いていないのは、そもそも供述が日本の国内=主権の範囲内で得られ

たことはあまりにも当然過ぎる前提なので書いていなかったのだと思います。

という推理も成り立つが、同時に「めったに問題にならない事態なので、類型としてとりあげられていない」といった解釈もまた可能であり、「供述時には国内にいたケースに限られる」という主張にとっては非常に弱い傍証にしかならない。それに対してこちらは、明示的に「供述時から国外にいたケースも含む」と主張した文献を挙げているのである。



Posted: Fri - August 13, 2004 at 11:26 AM Apes! Not Monkeys! Lockheed Affair Previous Next Comments (6)


牛犬氏のコメントについて その2

「三.二二八条二項と三二一条一項三号の両立不可能性問題」、「四.証明力について」について。


まず冒頭で「反対尋問」ということば遣いを整理しておられるが、私はかねがねこの裁判に関する論争が紛糾する理由の一つがこの「反対尋問」ということばをめぐる混乱にあると思っていたので、このような整理はもろ手を上げて賛成したい。ひとつだけ付け加えるなら、コーチャン等はロッキード裁判の公判に出廷していないので、普通の意味での「反対尋問」はそもそも問題にならない。問題になるのは実質的に反対尋問と同じ意味を持つ、調書の証拠能力をチェックするためのプロセスである、ということだ。

まず『新刑事訴訟法綱要』を援用しておられる部分でよくわからない点があるので、よろしければご教示いただきたい。団藤氏が「判例は、少くとものちに公判廷でその証人を尋問し被告人の反対尋問にさらしたときは、これを証拠とすることを認める趣旨のようである」として参照している最高裁の判例を引用していただいているのだが(『S25.10.04 大法廷・決定 昭和25(し)16証拠調決定に対する異議申立却下決定に対する特別抗告』)引用箇所を読んだ限りでは「のちに公判廷でその証人を尋問し被告人の反対尋問にさらしたときは」という条件が加えられているとは思えない。省略された部分にそのような記述があるのだろうか。

さて、牛犬氏の議論は最高裁での大野判事の補足意見に依拠したものである。これについてもいずれはきちんと考えておかねばなるまいと思っていたところなので、いい機会を与えていただいた。

大野判事の補足意見が「228条2項」と「321条1項3号」とは両立しないとする際にカギになっているのは、「前記両証人について、我が国の法廷において、被告人及び弁護人がこれに対質して反対尋問をする機会がないことは、嘱託した当時からあらかじめ明らかであった」という事情である。これについてはたしかにその通りである。しかしそこからただちに「228条2項」と「321条1項3号」とが両立不可能だという結論が出てくるとは思えない。大野判事の補足意見が過去の最高裁判例の流れに沿ったものなのか、それとも判例よりも検察側に厳しい意見になっているのかは、「反対尋問」をどう理解するかにかかっている。あくまで「主尋問に対する反対尋問」という形式を重視するならば、なるほど弁護側にそのような機会がないことは当初から予測されたことである。しかし「反対尋問」を「相手側による証拠能力の吟味」というその機能に重点をおいて理解するなら、「主尋問に対する反対尋問」にかわって同じような機能を果たすような手段が弁護側に与えられないことが「当初から予測」されていたとはいえない。現に全日空ルートの弁護団はそうした手段をとったし、田中弁護団も証人申請はしたのである(これについては牛犬氏の分類によるところの(C)ないし(う)の問題が関わってくる)。さらに321条はそもそも供述者が公判で証言できないケースも想定してつくられているから、そのために「特信情況」要件が加えられているわけである。つまりこの裁判の場合憲法37条2項に基づく被告人の権利はまず嘱託尋問調書が「特信情況」を満たしていることによって、ついで公判で嘱託尋問を新規に申請する機会が与えられてたことによって、二重に保障されていると考えることができるのである。

もう一つ、別の観点から考えてみよう。大野判事の補足意見のロジックをたどると、要するにコーチャン等が日本国内で取り調べを受けて(田中側の立ち会いなしで)供述書を残し、その後出国したというのであればその供述書を証拠として採用してよいということになる。さて、そのようなケースと実際の経過とを比較した場合、後者のほうに被告人の権利を実質的に侵害するような事情があるだろうか? 言い換えれば「供述不能」という事態が「当初から予測」されていたものか、当初の予測に反して生じたものかでどのような違いが生じるのか、ということである。もし実質的な違いがあるなら、「日本で取り調べ→出国」というケースと「当初から国外→嘱託訊問」というケースとはなるほど区別されねばならないことになる。しかし私には実質的な違いがあるとは思えないのである。この点について、牛犬氏のご意見を伺いたい。

なお、大野判事を「バカ」呼ばわりした点については点についてはすでに撤回している。そもそも法学的な議論では専門家の間でも見解が分かれるものがいくらでもあるわけで、裁判批判にしても「少数意見だが傾聴に値する」ものがあることはむしろ健全であるし、最高裁で上告が棄却されているという事情を考えるなら、こちらとしてはことさらロッキード裁判を擁護する必要もない。ただ、当初大野判事の補足意見が田中側による(コーチャン等の)証人申請にまつわる事情を無視した意見であるように思えたので、いい加減な裁判批判論と混同してしまった次第である。

したがって、「三.」に関する限り、私は牛犬氏の主張に対しても全面的に対立しているわけではない。公判での反対尋問がなかったことを持ってただちに228条2項と両立しないとするのは早計だとは思うが、そうした主張も成立するだろうとは思う。氏が立花隆の誤りと主張される限りにおいてのみ反論するつもりである。

つぎに「四.証明力について」について。

これはおそらく「コーチャン等はロ裁判における最重要証人である」という議論への立花隆の反論、あるいは「嘱託尋問調書がなくても有罪判決は書けた」とする立花隆の主張に対する議論だと思われるのだが、そのような理解でよろしいだろうか? あるいは「本来採用されるべきではなかった証拠が裁判官の心証に影響を与えた」ということを問題にされているのだろうか? お手数だがこの点、ご教示いただきたい。

とりあえず、以上をもって当方の反論とさせていただく。見落としている論点などがあれば随時補足させていただくつもりである。


Posted: Fri - August 13, 2004 at 12:16 PM Apes! Not Monkeys! Lockheed Affair Previous Next Comments (3)


雑記

牛犬氏との議論はお盆で一休みということになったので、それ以外の話題について。


撤退宣言をだしたはずのAngelix氏だが、例の掲示板で投稿している。私は宣言した通り今後あちらに書き込む気はないのだが、勝手な言い分をそのまま放置しておくほど人間ができていないため、こちらでコメントさせていただく。

>ブロガー本人が来る事はあまり考えられない状況なので,ここで訊くと言うのが,第三者の意見を求めているのは自明のはずだけど?

>大体,この掲示板をそんな前のまで読んでいるのなら,私が議論に勝っているなんて見られていないのも自明なはず.どう大本営発表

>していると言うのさ?

あいかわらず([3368]での失態にも懲りず)ひとの書いたものをちゃんと読んでませんねぇ。だれも「第三者の意見を求め」ていることについて文句なんて言ってないでしょうが。裏では二人で示し合わせながらこちらでは無関係であるかのように書き込みをし、それに対して別々にコメントしたら「各個撃破」だなどと愚痴っているのが逆恨みもいいところだ、と言ってるんですよ。

それに、「大本営発表などするな」とは書いたが「大本営発表している」とは書いていない。こちらで撤退宣言したあとのことを問題にしていたのであって、過去の投稿(そちらの掲示板での)を問題にしていたのではない。

>例示列挙だというのが通説だというのが有効な反論だとは嗤わせてくれますな.

>確かに,私が初めに制限列挙だと言った事だし,反論といえば反論かも知れないけど,“国外にいる供述者”の解釈に影響を与えるものではない.

>大体,例示であるという前提に立っても影響がないと反論したのに,その後に及んで例示であるというのが通説だと示すだけで有効な反論をした

>気になるとは呆れて物が言えぬ.

これなどは「大本営発表」といわざるを得ないでしょうな。ロッキード裁判に明示的に言及し、なおかつ嘱託尋問調書の証拠採用を明示的に「妥当」とした文献が二つあったことには目をつむるわけですか。だれか注意してやれよ。私が「有効」と言ったのはこの二つを柱としてのことなんですがね。それ以外のものについてはちゃんとこちらの主張を「消極的に」裏付けているとしか書いていない。他方、そちらの主張にとっても「傍証」になると書いてある。つまり、「当初から国外にいるケースには言及していない文献」をいくら集めても、それはどちらの主張が正しいかという決め手にはならない、と書いているではないか。こちらは少なくとも二つ、自説を積極的・明示的に裏づける文献を提示したのに、そちらが提示したのは傍証へのリンクを含むと称するGoogleの検索結果だけ(笑)だ、という事態にはなんの変わりもない。なにしろ氏はロッキード裁判関係者以外はほとんどの法律家が渡部昇一を支持していると豪語していたのだが、15冊中2冊もロ裁判を明示的に支持する文献が見つかったという事態はどう説明するのだろうか? 2冊で足りないというのならまた探してくるが、その場合いったい何冊見つかれば誤りを認めるのか、あらかじめ予告しておいてもらいたい。「まだ足りない」を永遠に繰り返されても困るので。

さらに、そもそも石島弁護士が「当初から国外にいる場合は除く」とした根拠が「例示列挙ではなく制限列挙」だというものだったのだから、例示列挙が通説であることを示せば石島説への反論として十分であることは明白だ。なぜなら、この場合なにを「例示」しているかと言えば「供述不能」なケースである。とすれば、「供述不能」であるという本質を外さない限りこの要件を柔軟に解釈することは許されるということだ。

もう一つの香ばしいコメントは2ちゃんねるの例の「小室直樹☆統一スレッド」。まあ、彼が当ブログにある程度の質・量の文章を書くのに「人生」を賭けねばならない人間だということはよくわかった(笑)




Posted: Fri - August 13, 2004 at 08:14 PM Apes! Not Monkeys! Lockheed Affair Previous Next Comments (13)


雑記 その2

「角を縛る法は…」論法について。その他(23時更新)


さて、すでに私が「小室直樹文献目録」掲示板を見ていることを承知のうえでAngelix氏は投稿しているのであろうし、2ちゃんねるでは双方のURLがすでにさらされてしまっていることもあるので、必要があれば当ブログへのコメントでなくてもとりあげていくことにする。

さて、氏の最新の投稿であるが、

> その癖,田中角栄氏の弁護人の本を読み返して,嘱託尋問調書が読み上げられた時に嘱託反対尋問を請求していた

> (その次が遅すぎたという請求)という話にぶつかったりしていますけど.

(改行位置を変更)

これは木村喜助弁護士のロ裁判批判本のことであろうか? もしそうなら、それに対する立花隆の反応についてはすでに紹介済みである。その本がどういう記述をしているかは知らないが、実際には「請求する予定」と「宣言」はしたものの、結局そのときには申請しなかったというのが事実である。もし申請したというのが本当であれば、裁判所がそれを却下したという記録が残っているはずだが、それを提示する(せめて何年何月に却下されたかを示す)ことはできないだろう。だいたい、証拠調べの直後に反対尋問を請求してそれが却下されていたのだとしたら、85年当時のロ裁判論争で批判派がそれをもち出していなければおかしい。3年後の証人申請が立花隆に「時間稼ぎ」と一蹴されたのに対して「時期は問題じゃないんです」といった開き直りの反論しかできなかったのである。

ちなみに、『諸君』に掲載された立花隆の「大反論」から関連する部分を引用しておこう。ただし、いまとなってはロ裁判批判派にとっても『諸君』のバックナンバーを手に入れるのは難儀であろうから、単行本『巨悪 VS 言論』の301〜302頁(第17章)から引用する。

 編集部 確か嘱託尋問調書の証拠調べが行われた直後の昭和54年3月28日の公判で、田中側は口頭で反対尋問を請求していますよね。

 立花 あれは請求じゃないんです。「請求するつもりがある」といっただけで、結局請求しなかったんです。ぼくなんか、あ、これはもしかしたら、アメリカ取材になるかもしれないなんて、心ひそかに喜んでいたんで、正式に請求しなかったことにガッカリしたんですよ。本気でそれを望んでいるなら、どうしたってここで請求しなければおかしいんです。反対尋問は主尋問のすぐあとに継続してやるのが原則ですからね。(後略)

 編集部 つまり田中側に、何が何でも反対尋問をさせろという迫力がなかった?

 立花 そういう事実経過を抜きにして、反対尋問がなかったという一点だけを取り上げて、そこをカネタイコではやしたてるという論法は、ぼくは全くおかしいと思うんです。(後略)

私の知る限り、その後ロ裁判批判派から「いやそんなことはない、昭和54年の○月○日に正式に請求し、それが同年○月○日に却下されている」といった反論がなされたことはなかった。もしあったというならぜひともご教示いただきたいものである。

もし木村弁護士の著作であるなら、幸い自宅近所の大型書店に二冊とも店頭在庫があったので、近いうちに確認しておくことにしよう。

さて、当ブログは匿名で運営しているのであるから、コメント欄で「ボケ」と言われようが他の掲示板でバカ呼ばわりされようがいっこうに腹もたたないのだが、一つだけ腹に据えかねることがある。ロ裁判批判派がなにかといえば当方を「憲法知らず」だとか「法の下の平等という原理を知らない」と誹ることである。もし当方が「裁判の手続きに問題があったって、角栄は悪いやつなんだからかまわないじゃないか」というロジックでロッキード裁判を擁護しているのだとすれば、なるほどそうした非難ももっともだろう。だが当方が初めから一貫して主張しているのは「ロッキード裁判は暗黒裁判ではない」ということである。そして暗黒裁判ではないものを暗黒裁判呼ばわりすることによって、あたかも被告人一般の権利を擁護しているのだと自己認識するのはおかしい、ということである。この点でロ裁判批判論がどれほどの倒錯に陥っているかを、「角を縛る法は丸も三角も縛る」論法を例に明らかにしてみよう。

さて、以前に私は次のように書いた。

裁判批判派が好んで口にする「角を縛る法は丸も三角も縛る」という論法について考えてみよう。だれもそんなことは否定していないのである。(中略)問題なのは、じゃあ「丸や三角」もが縛られることになると困るような法運用が「角」に対してあったかどうかなのである。こちらはそれがなかったと主張しているのであり、角についてだけ法を曲げて有罪にせよなどと言っているのではない。さらに、裁判批判派は「丸や三角を縛る法が角を滅多に縛らない」という現実の方にはほおかむりをしている。どこの国でも金と権力を持っている人間が法の裁きを免れることはしょっちゅうある。(中略)つまりデタラメな裁判批判論に反論するのは「丸や三角を縛らない法で角だけ縛る」ことを目指すためでも、「角を縛った法で自分のクビを縛る」ためでもなく、「丸や三角を縛る法がちゃんと角も縛る」ことを願えばこそ、なのである。

ここでの「丸や三角を縛る法が角を滅多に縛らない」をAngelix氏は「角を縛る法律は丸や三角までも滅多には縛らない」と誤読した上で私を「馬鹿過ぎ」と呼んだのである。誤読についてはすでに本人が認めているのでこれ以上あげつらうつもりはないが、その誤読のしかたが非常に興味深い。というのもずいぶん昔の掲示板の過去ログで次のようなやりとりを見つけたからだ。ここでは主として「樽」というハンドルの投稿者が立花隆に依拠してロ裁判批判論を批判しており、ここで渡部信者としてがんがん書き込んでいるのがAngelix氏である。ここでのやりとりと当ブログでのやりとりとを比較しつつ読めば、氏がいかに「相手の反論をふまえたうえで自分の議論を立て直す」ことをしないか(できないか)、がよくわかる。まあ、「引き写し」でかまわないという信念の持ち主だからしかたないのだろうが。で、投稿番号7955と7963をご覧いただきたい。前者において樽氏は「角を縛る法は丸も三角も縛る」ことが「原則としてはそう」であることを認めたうえで、「一方では「特別公務員職権濫用罪」や「特別公務員暴行凌虐罪」といった、いわば「角のみを縛る」法律もあることを指摘」している。ちなみに収賄罪もまたそうした法律の一つである。これに対するAngelix氏のコメントは「ロッキード裁判の判例にそんな但し書きがあるのでしょうか?反論として意味を為しません.」というものであった。「反論として意味を」なさないのはまさにこの後者であって、なんで「ロッキード裁判の判例にそんな但し書き」があるかどうかが問題になるのか、さっぱりわからない。樽氏が指摘しようとしているのはおそらく、「特別公務員職権濫用罪」や「特別公務員暴行凌虐罪」(そしてここでは挙げられていないが収賄罪の場合も)に問われる被告は、一方で一個人としては被告人としての権利を保障されねばならない存在であると同時に、他方でかつて国家権力の側に身をおき、自らの権力を不当に行使した疑いで断罪されている人間でもある、ということであろう。いいかえれば、これらの犯罪を規定した法律は市民に対する権力の不当なふるまいを禁じることを目的としているのである。なるほど捜査や裁判の手続きに看過できない瑕疵があるなら、他の被告人と同様にその被告人の権利を擁護すべく、その捜査や裁判は批判されねばならないだろう。また、一般市民が被告人になっている場合なら、些細な瑕疵を重大な違反であるかのように誇張して裁判を批判するのも、強大な権力に対するカウンターバランスとしてまあ理解できなくもない。しかし権力による犯罪が裁かれている裁判に関して、暗黒裁判ではないものを暗黒裁判であると事実をねじ曲げた批判を行うことは、結果として権力の不当なふるまいを推奨し擁護することになってしまうのである。

私が「丸や三角を縛る法が角を滅多に縛らない」によって言わんとしていたのも、結果的には同じ趣旨のことである。例えば同じ収賄罪でも小役人に比べて高級官僚や政治家はしばしば罰を逃れる。一般的な犯罪にしても、権力者自身やその身内のものがしばしばもみ消されているというのは常識に属することであろう。権力者が裁かれている裁判において、法を枉げてまで有罪判決を支持するというのであればともかく、暗黒裁判などではないことを主張することが「法の下の平等」を踏みにじっているどころか、普段踏みにじられているこの原理を貫徹するための努力である、というのはこういう意味においてである。

ロ裁判批判派は日本の刑事裁判一般を批判しているのだと言いつつ、具体的に批判しているのは田中角栄という飛び抜けた権力者が裁かれている裁判である。仮にロ裁判が本当に暗黒裁判であるならともかく、「暗黒裁判」論のデタラメぶりはすでに当ブログでもかなり明らかにしてきたはずだ。ロ裁判批判論者は白を黒と言いくるめることによって権力者の不当行為を結果的に擁護するという倒錯に陥っているのである。その自覚を欠くがゆえに、ロ裁判擁護派(裁判批判論批判派)が「法の下の平等」や「国家権力の制限」という目的のために議論しているということが理解できない、ひょっとしたらそうなのかもしれないと想像することすらできないのである。うえで紹介した二つのとんちんかんな反応はそうとでも考えなければまったく理解できないのである。

Posted: Mon - August 16, 2004 at 06:28 PM Apes! Not Monkeys! Lockheed Affair Previous Next Comments (9)


雑記 その3

木村弁護士のロ裁判弁護団弁護論について。その他


さて、この掲示板でのMayson氏の発言で一つ不可解だったものに、8月13日付け[3398]での「悪ふざけがすぎました」というものがある。というのも、氏はそれまでしばらくその掲示板でも私のブログでも投稿していなかったからだ。これについて、最近一つの仮説に到達したのだが、情況証拠以上のものがあるわけでもないので胸の内に収めておくことにする。

さて、元田中弁護団の著書を書店でチェックしてきた。『田中角栄の真実—弁護人から見たロッキード事件』と『田中角栄—消された真実』という似たようなタイトルのものがいずれも弘文堂からそれぞれ2000年、2002年に刊行されている。このうち、弁護団によるコーチャン等への証人申請についてより詳しい記述があるのは後者のほうである。そしてそちらをみると確かに第2章の終わりに次のような記述があった(記憶をもとにした引用だが、細部はともかく本筋に間違いはない自信はある)。曰く、「第六八回公判では、もしコーチャンらが来日して証言しないのなら、検察官と同じく嘱託訊問によってコーチャンらに対する反対尋問をするよう申請した。第一五三回公判では、証人尋問請求の書面を提出している。ところが裁判所は一、二審を通じて弁護人の請求を却下した。」

事情をまったく知らない人がこれを読めば「そりゃぁえらいこっちゃ」と思うかもしれない。しかしながら小佐野裁判についての渡部昇一の小論と同じく書いてあることではなく書いていないことに注目すれば、特に二つの下線部を比較していただければ、この一節にあるいかさまが明らかになるはずである。

まず、コーチャンらへの(嘱託訊問による)反対尋問が絶対に必要だと弁護団が確信していたのであれば、証人申請の却下に対して特別抗告まで徹底的に争ったはずである。そしてもしそうしたのなら、そのことを含めて書いておいたほうが弁護団の奮闘ぶりと裁判所の判断の不当さをより読者に印象づけられたはずだ。しかし実際には、証拠調べ直後の証人申請は結局正式にはなされなかったし、3年後の証人申請も却下されると異議を唱えたものの、その異議が却下されるとそれっきりであった。もう一つ「書いていない」ことは、第六八回公判と第一五三回公判の間に3年のギャップがあり、それがいったいどういう意味を持っているかということである。

第六八回公判の件についていうと、たしかに「申請する」という動詞は行為遂行動詞の一種であるから、文脈によっては「申請します」と宣言することがただちに「申請した」ことを意味する。その意味で、木村弁護士のこの記述は「嘘だ」と言われないギリギリの線を狙ったそれなりに巧みな宣伝であるとはいえる。しかし現実には弁護団の「申請するつもりがある」という宣言は正式な申請としては機能していなかったのであり、その証拠に裁判所がその申請を却下したという記録もその却下に弁護団が異議を唱えたという記録も残っていないはずである。さすが弁護士、といいたいところだが、やはり悪質な手口と言うべきであろう。

もう一つの嘘は、最高裁が嘱託尋問調書を違法収集証拠だとした、というものである。すでに何度も書いたように、最高裁は単に調書の証拠採用を斥けただけであり、より弁護側に有利な補足意見を書いた大野判事でさえ、「違法収集証拠とは言えない」としているのである。立花隆の酷評以上にひどい本であった。

Posted: Wed - August 18, 2004 at 03:34 PM Apes! Not Monkeys! Lockheed Affair Previous Next Comment (0)


牛犬氏からの再反論

牛犬氏から再びメールを頂戴しました.こちらからご覧下さい。前回同様、MS WordでHTML形式にコンバートしたものをファイル名のみ変更してアップロードしてあります。


当方からの再々反論は別途アップロードいたします。

Posted: Thu - August 19, 2004 at 04:28 AM Apes! Not Monkeys! Lockheed Affair Previous Next Comment (0)


雑記 その4

「小室直樹文献目録掲示板」でのAngelix氏の投稿[3422]について


当ブログへのリンクをはっての投稿であるので、当方としてもコメントしておくことにする。

> ここでも,前に,裁判は真実を明らかにするためにあるとか,そういう反論が出ていましたね.

以前にまいこ氏のコメントに対する記事のなかでも書いておいたことだが、素朴実在論を前提としたこれまた素朴な対応説におけるような意味での「真実」に到達しうるかのように考えるのは、たしかに間違いである。認識論的な限界を持つ人間が、限られた証拠をもとに議論しているに過ぎない、ということを裁判官が肝に銘じておくことは重要なことであろう。だが他方で、日本の刑事訴訟法はその第1条が規定しているように「事案の真相を明らかに」することをも、目的の一つとして想定している。この「真相」を素朴対応説的に理解するからおかしなはなしになるだけのことで、非実在論の立場から「真理」「真実」「真相」といった概念を用いることは十分可能なのである。また、「裁く」という行為の倫理的な側面を考えるなら、裁きが「真実」に基づいてなされるという前提は大きな意味をもちうる。たとえその「真実」が社会的構築物、「仮設」であるとしても、それによってひと一人を裁く以上、社会はその「仮設」にコミットしなければならない(仮設だったんだから、間違っててもしかたないよね、という態度をとれない)。そのコミットメントの証しとして「真実」「真相」ということばが用いられるなら、それは認識論的にも倫理的にも極めてまっとうな用語法であろう。

> ロッキード裁判論争当時,諸君の“立花氏の論に至っては”という文の載っている論考

> で,小室直樹博士も同じような事を言っていたようですね.

> 日本の裁判では共犯者の自白調書で被告人を有罪に出来るようになっている,とんでも

> ないとか.

一般論としての「調書裁判」への批判はあってしかるべきである。代用監獄とあわせて、日本の司法制度(ないしその運用)における最大の問題の一つであろう。イギリスで行なわれているように、取調べのプロセスをすべてビデオで記録するといったことは技術的には極めて容易であるし、警察および検察が自らの取り調べ方法に自信をもっているなら、逆に調書の証拠能力にケチをつける余地をなくしてしまえるわけである。ビデオで記録しないのはお天道様に恥じない取調べじゃないからだろう、と勘ぐられても当然である。

ただ、この異論の余地なく正しい一般論にも、二つの留保をつけておかねばならない。まず、立花隆も指摘していたように、「調書裁判」だけを問題にするのではなく、日本の法制度(およびその運用)の全体を考えなければならない、という点である。被告を含む証人が法廷で常に真実を述べてくれるなら検察も苦労しないわけで、法廷で真実を述べる義務を負わない被告のみならず、被告と利害関係がある証人が偽証する可能性は容易に想像できる。これに対して例えばアメリカであれば、免責制度と厳しい偽証罪とによって証人(共犯者を含む)に真実を供述するインセンティヴを与えているわけだが、前者は日本で制度化されておらず、後者は有名無実になってしまっている。そうなると、ロ裁判のような贈収賄事件や組織犯罪の場合、捜査段階でせっかく自供させてもいざ公判になれば政治家や組織のボスに義理立てして偽証のし放題ということになってしまう。にもかかわらず検事調書等の証拠採用を過剰に厳しく制限するなら、共犯者や証人に圧力をかける実力を持つものは片っ端から無罪になるだろう。調書を証拠から排除することによってすべての被告人が同じように恩恵をこうむるならともかく、権力か暴力を持つものほど有利になる、というのは受けいれがたい。「調書裁判」批判は検察側にもそれに代わる武器を与えることとセットで行なうべきであろう。

もう一つは、一般論として正しい「調書裁判」批判が、ではロッキード裁判にあてはまるのかどうか、という問題である。ロ裁判批判者はしきりに「共犯者の自白調書」という点を強調しているが、これはまず(丸紅ルートの場合)大久保被告が公判でも検事調書をほぼ裏づける証言をした、という点を無視している。またもう一つは、立花隆も指摘するように、贈賄側と収賄側とは共犯とはいっても、例えば強盗事件の共犯同士の関係とは大いに異なる、という点である。つまり、贈賄側が検事に迎合して収賄側を陥れるような証言をしたところで、そのことは同時に自分の罪を認めることになってしまうのである。「あいつは賄賂をもらいましたが、私は渡してません」などという主張はできない。せいぜい、どちらが話を持ちかけたかといった情状に響くような点で相手のせいにできるに過ぎない。もしほんとうは無実だというなら、歩調をあわせて否認するのが一番得なのである。強盗事件であれば偽証によって「自分は従犯であり、あっちが主犯だ」と主張することでかなりの利益を期待できるが、贈収賄事件の場合はそうではない(贈賄側の被告間、収賄側の被告間、では強盗事件の場合と同じような利害関係が成立しうる)。

さらに、個別の裁判を批判しようとするなら、「調書裁判はけしからん」といった一般論をいくらぶっても意味がない。個別の供述に則して、「調書にはこれこれの不審な点があり、一方法廷での供述はかくかくしかじかの点でより真実に近いと思われるのに、裁判所が逆の判断をしているのはおかしい」といった具体的な議論をしなければならない。だがロ裁判批判論にそうした具体論がないのは皆さんご存知のとおりである。唯一の例外は"midday"問題における渡部昇一の議論であろうか。しかしこれについてはすでに検討済み。

> (“田中角栄の真実”“田中角栄消された真実”(木村喜助著)を読むと,弁護人も嘱託

> 尋問調書に関して反対尋問権を主張したようなので,判事も弁護人も被告人の反対尋問

> 権をに触れなかったという点は,嘱託尋問調書の証拠採用の決定理由書に基づいた石島

> 泰論考に乗っかったものと解さないと間違いになるでしょうけど.)

回りくどい言い方をしているが、要するに小室直樹が裁判の実態を無視した間違った批判をしている事実に直面して、しかしそれを認めたくないので、石島弁護士のせいにしようということであろうか。いうまでもなく、他人の議論に無批判に乗っかって間違いを犯したからといって、責任を回避できるわけではない。

> 最後の方(題名に雑記1と書いてあるやつ)で私が言った,“角栄憎しの空気で”(この存

> 在は信じるが)“学問的良心がねじ曲げられた”云々というのは,私自身が当該コメン

> トで最後に認めているが如く反証可能性がなくて証明になりませんけど(私はふざけす

> ぎか?),そのように読めないものでしょうか?“だったらそんな事言うな”という反応

> ではなく“証明しろ”という反応が返って来たもので…

自分で言っておいて「そんな事言うな」という反応を期待するというのもどうかと思うが、実際にはそれと同じ趣旨のことを何度か申し上げている。陰謀説まがいの説明をするくらいなら、なぜ素直に「法律家がみな渡部昇一支持というのは間違い」と考えないのか、と。

Posted: Thu - August 19, 2004 at 06:20 PM Apes! Not Monkeys! Lockheed Affair Previous Next Comments (2)


牛犬氏の再反論について

5つの論点のうち、4番目と5番目について。(残りについては改めて)

牛犬氏の再反論はこちら。


今回いただいた牛犬氏の再反論は

1.反対尋問=証拠能力の吟味について

2.大野判事の補足意見について

3.嘱託による反対尋問について

4.証明力について

5.「主権が及ばない」とする解釈について

の5つであるが、先ずは最後の二つについて。

「4.証明力について」について。

牛犬氏の議論は嘱託尋問調書がなければ「構成要件、違法性、有責性」のいずれかが崩れることを示すことによってではなく、321条の「不可欠性」要件に関する立花隆の議論を問題にする、というものなので、当方としてもそこに絞って反論させていただく。

氏の主張の前提は、「相対的不可欠性」と「絶対的不可欠性」とを区別した立花隆の議論が「構成要件」だけに的を絞っているのがおかしい、というものである。この前提の妥当性については後に問題にするとして、まずは氏の次の主張について。

> ですから、違法性、有責性に関しても全く関係がないと主張するのなら、<不可欠性>

> 要件の段階で証拠能力なしとされなければなりません。

私には氏が引用されている立花隆の文章からなぜこのような結論がでてくるのか、理解できない。そもそも立花隆は嘱託尋問調書が「違法性、有責性」に関して「全く関係がない」と主張してなどいない。「も」とあるところをみると、ここは「構成要件、違法性、有責性のすべてにおいて全く関係がないと主張するのなら」と読めばよいのだろうが、それは一体誰の主張なのだろうか? 立花隆の主張でないことは明らかである。立花隆は嘱託尋問調書が「相対的不可欠性」を持っている、と主張しているのであるから。つまり、この一文が意味を持つのは、「相対的不可欠性しか持たない」を「全く関係ない」と読み替え、違法性、有責性について明示的に言及していないことを「違法性、有責性に関しても全く関係がない」という主張として読み替えた場合に限られるのだが、これが妥当な読解だろうか?

さらに、「構成要件、違法性、有責性」の三つをあたかも独立の、同じレベルの要件であるかのように扱っているのも牛犬氏の議論のおかしなところである。「構成要件」とはそもそも違法かつ有責な行為を類型化したものなのであるから、構成要件を満たす行為は原則として同時に違法性、有責性も満たすのであって、構成要件は満たすが違法性が阻却されるとか、違法性は満たすが有責性がないといったケースは例外である。例外に該当すると考えられる事情がない場合に、もっぱら構成要件を問題にしたからといって「違法性、有責性」をネグったということにはならない。ロッキード事件の場合に「構成要件は満たすが違法性はない」などと考える余地があるとする有効な反論がない限り、「構成要件」を問題にすることによって同時に「違法性、有責性」も問題にしていると考えてよいのである。

したがって、「相対的不可欠性を持つから321条1項3号の要件は満たすが、絶対的不可欠性は持たないから有罪判決に不可欠というわけではない」という主張には矛盾もなければ欺瞞もない。(321条1項3号が要求しているのが絶対的不可欠性である、というのであれば立花隆の議論は間違っていることになるが、牛犬氏が指摘する意味で間違っているのではない。)

さらに、

> 証拠採用段階における<不可欠性>要件の問題では「いやしくも何らかの意味で犯罪の

> 証明に必要」であるから妥当であると主張しておいて、裁判批判論に反論するときは「

> 調書は有罪判決に必要ない」というのは、相手の議論に合わせたというような問題では

> ないと思います。

というのも、相対的不可欠性と絶対的不可欠性という区別を拒否しない限り、成り立たない議論である。前者については相対的不可欠性を持つとし、後者については絶対的不可欠性を持たない、というのは矛盾でもダブルスタンダードでもない。そして321条1項3号の「不可欠性要件」については立花隆は牛犬氏が示唆しているように一貫して「絶対的不可欠性はないが、相対的不可欠性はある」と主張しているのだし、コーチャンらが「最重要承認」だとする渡部昇一の議論に対してはこれまた牛犬氏の主張とおり一貫して「最重要ではない」と主張しているのである。「最重要ではない」ことを示すための根拠として、「相対的不可欠性はあっても絶対的不可欠性はない(それゆえ、調書なしでも有罪判決は書ける)」としているわけだが、下線部を比較してもらえればわかるように、両者は力点の置き所こそ違うものの同じことを言っているのである。

5.「主権が及ばない」とする解釈について

これは「主権が及ぶか/及ばないか」という問題、つまり嘱託尋問ができたのに公判で証言させることはできないとするのは矛盾ではないか、とする牛犬氏の論点に関係するものである。そしてこの点への氏の再反論は、私の議論を前提とするなら、「二二八条二項により被疑者側の立会を認めなかったのは訴訟指揮権の発動だとする」とする立花隆の議論は誤りだということにならないか、というものである。

結論から言えば立花隆の議論は間違っていない、と私は思う。嘱託尋問を行なうにあたって被疑者側の立会いを認めるかどうかが問題になり、検察が「立ち会わせないで下さい」と要求するとすればそれは228条2項が根拠であるし、裁判所がその要求を受けいれるのも228条2項が根拠である。問題は実際に証人尋問がアメリカで行なわれる場合に生じる。日本の刑訴法228条2項はもちろんアメリカでは効力をもたないから、嘱託尋問を主催したコミッショナーが直接228条2項に基づき被疑者側の立会いを退ける、というのはたしかにおかしなはなしになる。しかし法体系の異なる二国間でこうした司法共助が行なわれる場合、相手の要求が自国の法体系に照らして不当であればそれを拒む(例えば拷問して供述させろと要求されたような場合)が、そうでなければ相手の要求になるべく沿うかたちで協力することになるわけである。つまりアメリカ側は、228条2項に基づいて被疑者側の立会いを排した証人尋問を実施してもらいたいという日本側の要求を受けいれた、ということである。アメリカに証人尋問を嘱託する際、被疑者側の立会いを排した尋問を依頼する根拠が228条2項だったのであるから、228条2項に関する訴訟指揮権の発動、ということでよいのである。


Posted: Thu - August 19, 2004 at 06:27 PM Apes! Not Monkeys! Lockheed Affair Previous Next Comment (0)


牛犬氏の再反論について(1.と3.)

牛犬氏の再反論のうち、1.と3.の論点について。


今回は

1.反対尋問=証拠能力の吟味について

3.嘱託による反対尋問について

という2つの論点について再々反論していきたいと思う。なお「2.大野判事の補足意見について」は、大野判事の意見が立花隆の想定していなかったものであり、立花隆の「裁判批判論」批判の吟味とはやや文脈をことにしていることもあって、さらに稿を改めてお答えさせていただきたい。

1.反対尋問=証拠能力の吟味について

先ず最初に、『論駁』(『ロッキード裁判批判を斬る』)の59章、58章から引用したうえで

> 証拠採用決定後の田中側弁護団の証人尋問は証明力の吟味とされています。全日空ルートのエリオット宣誓供述書も同様に証明力の吟味の問題で

> す。ですから、田中側の反対尋問の機会は形式的にも機能的にも免責をめぐるジレンマのために妨げられたと言えると思います。

とされている部分について。同じく『論駁』の59章から引用したい(私の手元にあるのは文庫版の『ロッキード裁判批判を斬る』なので、文庫本のページ数では362−363頁)。

 嘱託尋問の場合は、弁護側が反対尋問を放棄したわけではなく、初めから反対尋問を欠いていた捜査段階の供述書の証拠能力が問題となった。「反対尋問なしでも証拠能力ありやなしや」と、はじめから「反対尋問なし」が前提条件となっている証拠能力論争だったのである。そこを争点に一年がかりの論争を繰り広げた結果として、「反対尋問なしでも証拠能力あり」の結論が出たわけである(中略)その論争に敗北したとたん、「反対尋問なしでも」というところがやはり問題だから反対尋問を嘱託でやってほしいといいだしても、裁判所がおいそれと受け入れるはずはなかろう。(後略)

下線は引用者が付したものである。問題となっているのは、刑訴法321条1項3号に基づいて嘱託尋問調書を証拠採用することの是非である。この条項はもともと反対尋問による吟味を欠いた供述調書(の類い)の証拠能力に関する規定なのであって、この条項に基づいて採用された調書に関して「証拠能力が反対尋問によって吟味されていない」というのはおかしい、ということである。だからといってもちろん、実質的な反対尋問を行う権利がア・プリオリに奪われているということではない。同じく59章からの引用。

 もちろん、証拠調べをした結果、これはコーチャン、クラッターにいろいろ聞き直してみなければよくわからないことがたくさんあるぞ、聞き直した結果いかんによって、裁判の帰趨に大きな影響が出てくるぞということを裁判所に納得させられれば話は別である。反対尋問を内容とする証人尋問を嘱託でやってくれと田中側が請求し、裁判所がそれをいれる可能性は十分にあったろう。

嘱託尋問調書は321条1項3号書面として証拠採用されたのであるから、形式的な意味での反対尋問というのはそもそも問題にならない、と以前に当ブログで私は書いたが、それも同じ趣旨においてである。反対尋問を欠く調書類の証拠能力を規定した321条1号3項にもとづいて証拠採用された嘱託尋問調書に関して、その証拠能力が反対尋問によって吟味されねばならないというのは、立花隆の比喩を使っていえば、大検に通った受験者に対してやはり高校卒業資格を取ってこいと大学が門前払いを食わせるようなものである。高校卒業資格にかわる例外として大検があるのだから、大検に通っていれば高校を卒業していなくても大学は受験できるのである。したがって、嘱託尋問調書に関する反対尋問が「証明力」の部分でなされることになるのは至極当然のことであり、牛犬氏がおっしゃる「免責をめぐるジレンマ」も実は成立していないのである(これについては後に再論)。

したがって、牛犬氏が結論として述べている

> つまり、実質的に価値のある証拠でも、形式的に証拠能力のないものは排除されなければなりません。ですから、「証明力の吟味をもって証拠能

> 力の吟味の代わりをさせることはできない」のです。

についても、嘱託尋問調書の証拠採用に関する限り「証明力の吟味を持って証拠能力の吟味の代わりをさせ」た、ということはないのである。321条1項3号書面の証拠能力は「供述不能」「必要性」「特信情況」の3つ(嘱託尋問調書の場合にはさらに外国への嘱託と免責の法的根拠、228条2項の運用の問題を加えた6つが争点になったともいえる)によって吟味されるのであって、これについていえば1年間かけて行われたのである。公判での証言については、反対尋問によってその証拠能力が吟味される。しかし321条1項3号書面については、それが反対尋問を欠くプロセスで作成されたことはそもそも前提になっているのであるから、反対尋問がないからといって証拠能力がないというのは結果的に321条否定論になってしまうのである。

3.嘱託による反対尋問について

これは牛犬氏がコメント欄にてお書きになった

> 私の言う公判段階での供述とは、日本の法廷での証言ではなくて、嘱託尋問形式で行な

> う供述のことです。

とも関連したものであろう。ロッキード裁判において実際に公判段階での嘱託尋問が行なわれることはなかったので、実際に行なわれた場合にそこでの供述がどういう扱いをうけることになるかを十分考えたことがなかった。そのため、今回はそうした嘱託尋問の結果が刑訴法326条にもとづく同意書面として証拠採用されるだろう、という推理を前提として再々反論させていただく。

まず重要なのは、弁護側が嘱託によるコーチャンらへの証人尋問を申請してそれが実施され、その供述書(以下では弁護側嘱託尋問調書と呼ぶ)が同意書面として証拠採用されたとしても、321条1項3号にもとづいて証拠申請された嘱託尋問調書(以下では検察側嘱託尋問調書と呼ぶ)が「供述不能」要件を満たしているということにはなんの影響もない、という点である。もし公判段階における弁護側の嘱託尋問が公判証言として扱われるならば、「供述不能」要件は満たされないことになり検察側嘱託尋問調書は証拠能力を失う。しかしそうではなくて326条にもとづく同意書面として証拠採用されるというのなら、コーチャンらが「公判準備若しくは公判期日において」供述不能である、という事態に変わりはないわけである。

(このあたりは実際に問題にならなかったこともあって不勉強なのだが、もし公判段階での嘱託尋問が公判における証言として扱われるのであれば当然検察側嘱託尋問調書は証拠能力を失うが、その場合は検察側も改めてコーチャンらに嘱託訊問を行えば良いことになる。その場合、その証拠能力について弁護側は異議の唱えようがなくなるだろう)。

おそらく、今述べた点についてもさらに議論を煮詰める必要がありそうである。だが今回、牛犬氏は「問題は先に述べた免責をめぐるジレンマに集約される」という論法をとっておられる。そこで、まずはこちらもその点について再々反論しておこうと思う。

私の再々反論のポイントをひとことで述べれば、「321条1項3号にもとづく証拠採用が議論されている調書に対して、反対尋問を要求するというのはそもそもお門違い」である、ということである(大野判事の意見については別途議論する)。「1.」に関してもすでに明らかにしておいたように、嘱託尋問調書はなるほど反対尋問による吟味を欠いた証拠であるが、だからこそ刑訴法320条に対する例外としての321条にもとづいて証拠採用されたのである。つまり弁護側が検察側嘱託尋問調書の証拠能力に異議を唱えるとすれば、供述不能・必要性・特信情況という3つの要件の他、免責および外国への嘱託の適法性、228条項にもとづき弁護側の立ち会いが認められなかったこと、といった点で争う以外になく、「反対尋問をさせろ」という主張は(検察側嘱託尋問調書の証拠能力をめぐる争いに関する限り)ナンセンスなのである。したがって牛犬氏がおっしゃる「免責をめぐるジレンマ」にしても、「時間」という要因を考慮に入れれば全く成立していないのである。

どういうことかと言えば、免責は違法だと弁護側が主張している限り、なるほど弁護側は検察側嘱託尋問調書の証拠能力を争っている段階では弁護側嘱託訊問が可能だという立場をとることができない。しかしながら検察側嘱託尋問調書の証拠能力に関する限り、弁護側嘱託訊問の有無は基本的に関係ないのである。弁護側嘱託訊問の必要性が問題になるのは、検察側嘱託尋問調書が証拠採用されて、その証明力を争う段階になってからのことである。そしてその段階においてであれば、すでにその法廷では免責が有効だという判断を裁判所が下している以上、その判断を前提として弁護側嘱託訊問を申請してかまわないし、すでに免責に関しては争う余地がなくなっているのだからジレンマは解消しているのである。

Posted: Thu - August 19, 2004 at 11:21 PM Apes! Not Monkeys! Lockheed Affair Previous Next Comments (7)


牛犬氏の反論について(2.) 8月20日午後9時付記

大野判事の補足意見に関する牛犬氏の議論について。

牛犬氏のコメントを受けて付記(8月20日午後9時)


最後に残った「2.大野判事の補足意見について」について。

なお、この論点については立花隆が関わったロ裁判論争より後になって出てきた意見であること、またあくまで「補足意見」であることという二つの理由により、当ブログとしては完全に論駁する必要性はないものと判断している。私はロッキード裁判の判決が「すべての法律家にとって異論の余地のない判決」であることを主張しているわけではなく、あくまで「暗黒裁判だというのはデタラメ」だと主張しているにすぎないからである。したがって、当方として反駁する必要があるのは、「大野判事の意見は異論の余地のない正論であって、それゆえ大野判事の意見と対立する立花隆の意見には一片の理もない」という主張に対してである。私としては大野判事の補足意見について、「たしかにそういう意見もアリだろうが、ロ裁判についての判断としては弁護側の肩を持ち過ぎ」と考えているのであって、デタラメとは(現時点では)考えていない。もっとも、以下ではもう少し積極的な反論を試みるつもりである。

まず、この論点に関する議論の冒頭で、私の「要するにコーチャン等が日本国内で取り調べを受けて(田中側の立ち会いなしで)供述書を残し、その後出国したというのであればその供述書を証拠として採用してよいということになる」という主張に対して氏が「このようなケースでは調書は証拠採用されません」と主張されている、その根拠が私にはさっぱり理解できない。「日本国内で取り調べを受けて」というのが任意の事情聴取に応じた場合であれ226条に基づく証人尋問に応じた場合であれ、その時点では公判期日において「供述不能」となる事は予見されていなかったのであり、「321条1項3号の規定は供述時からすでに国外にいた場合にはあてはまらない」というロ裁判批判派のロジックに従ったとしても、私が提示した仮定におけるケースでは証拠採用が可能にならなければおかしい。そうでなければ321条1項3号ないし228条2項の存在が無意味になってしまうからである。牛犬氏が自らの主張の根拠として援用しているのは、大野判事の補足意見の

> 反対尋問権は受訴裁判所の訴訟手続における保障であって捜査手続における保障ではなく、刑訴法二二八条は検察官の強制捜査処分請求に関する

> 規定であって、受訴裁判所の訴訟手続に関する規定ではなく、その供述調書はそれ自体では証拠能力を持つものではないからであるとされている

>(略)。

という箇所である。なるほど、コーチャンらの嘱託尋問調書は「それ自体では」証拠能力を持たないものである。しかしながら「供述不能」「必要性」、そして特に「特信情況」という要件を満たすことによって証拠能力を持つというのが検察側の(そして立花隆の)主張であった。「それ自体では」なく、3つの要件について検証したうえでなら証拠能力を持つということである。これに対して牛犬氏のように

反対尋問権が行使されたと判断される訴訟手続を踏まなければ証拠能力を持つことはないのです。

と主張するならばどういう結果になるか? 321条1項3号が列挙した「供述不能」要件のうち、「供述者が死亡、精神若しくは身体の故障、所在不明」はまったく無意味になってしまうのである。情況が変化する可能性がある「精神若しくは身体の故障、所在不明」はともかく、「供述者が死亡」については大野説に従えばいったいなぜこんな要件が規定されているのだろうか? 大野判事によれば、226条にもとづき証言した証人(被疑者側の立ち会いはなし)が公判前に死亡したとしても、任意の事情聴取に応じて検面調書を残した後死亡したとしても、とにかくその調書は証拠採用できないということになってしまう。それならば、そもそも「供述不能」要件が321条1項に存在しているのはいったいなんのためなのか? 大野判事が伝聞法則への例外を厳格に解釈しようとする、その意図は理解できる。しかしながら、公判において実質的な反対尋問ができないのなら公判期日外に作成された調書は証拠採用できないというのであれば、321条1項における「供述者が死亡、精神若しくは身体の故障、所在不明」というフレーズははまったく無意味なことを述べていることになってしまうではないか! 私としては牛犬氏が大野判事の意見を誤解してよりいっそう弁護側に有利なように解釈していると考えているのだが、まずは「牛犬氏が理解する限りでの大野説によれば、321条1項における供述不能要件はいったいなんのために存在することになるのか」という問いにお答えいただきたい。

さらに、ロッキード裁判の場合についていえば、弁護側が実質的な反対尋問を行う機会は存在した、というのが当方の立場である(全日空ルートの弁護団は実際にその機会を利用したが、田中側はしなかった)。これ自体が現在別の論点として係争中であるが、大野説への反論の根拠として留保しておきたい。


以下、「牛犬氏の再反論について(1.と3.)」へのコメントをうけて付記しておく。

8月20日3時23分付け(ただし、このコメントシステムは時刻表示がかなりいい加減なので、実際にコメントをいただいた時刻は反映されていない)のコメントにおいて、牛犬氏は次のように書いておられる(下線は引用者)。

1について述べますと、前の私の文章に対するコメントその2において、Apemanさんが、『「反対尋問」を「相手側による証拠能力の吟味」というその機能に重点をおいて理解するなら、「主尋問に対する反対尋問」にかわって同じような機能を果たすような手段が弁護側に与えられないことが「当初から予測」されていたとはいえない。現に全日空ルートの弁護団はそうした手段をとったし、田中弁護団も証人申請はしたのである(これについては牛犬氏の分類によるところの(C)ないし(う)の問題が関わってくる)』、と述べられていたので、私はそれに反論して、田中側弁護団の証人申請は証明力の吟味ですから「証明力の吟味をもって証拠能力の吟味とすることはできない」と主張しているのです。

下線部はなるほどもっともなご指摘で、大野判事の補足意見に対する当方の見解を訂正する必要がある。以前から、嘱託尋問調書をめぐる問題が「反対尋問権」の問題として議論されることが無用な混乱の原因の一つだと指摘してきた私自身が、「反対尋問権」という用語に惑わされてしまっていたようだ。

ただ、問題を「反対尋問権」というかたちではなく、憲法37条2項で保障された被告人の権利というかたちでたて直すなら、私の議論の大枠は維持されうるものと考える。刑訴法226条に基づいて行われた証人尋問の調書は、その供述者が公判で証言しないならば321条1項に基づいて証拠申請されることになる。嘱託訊問においては反対尋問的プロセスは存在しなかったが、調書の証拠能力は321条1項3号の要件を満たすか否かという観点から吟味されることになる。それゆえ、321条1項3号の要件を満たすのであれば、反対尋問的プロセスが存在しなかったことは嘱託尋問調書の証拠採用を妨げない、というのが検察側の主張(そして一、二審および立花隆の判断)であった。ここで憲法37条2項が保障する被告人の権利という観点から考えてみると、なるほど弁護側は反対尋問によってコーチャンらの証言の証拠能力を吟味する機会は有さなかったものの、321条1項3号の要件を満たすか否かについては1年間にわたって争う機会を与えられ、さらに証拠採用決定後は新規の証人尋問(嘱託尋問形式の)によって調書の証明力に関する弁護側なりの主張を行う機会をも有していたのである。こうした情況を考えると、憲法37条2項が規定する権利が実質的に侵害されたとは言えない、と考えるのが妥当であるように思われる。


Posted: Fri - August 20, 2004 at 03:02 AM Apes! Not Monkeys! Lockheed Affair Previous Next Comment (0)