本論争の意義について

まいこ氏のコメントについて


具体的指摘抜きで感想を述べておられる部分については、「反論」するというのもおかしなはなしなので、ただありがたく承っておきます。

「あなたにとっての目的達成とは、いったい何?」というお尋がねあったので、よい機会であるから改めて明らかにしておきたい(これまでにも何度か書いてはいるのだが)。「ガス室によるユダヤ人虐殺は無かった」とか、先日も当ブログでとりあげた「人類の月面着陸は無かった」といった、いわゆる修正主義的な言説がある。私にいわせれば「ロッキード裁判は暗黒裁判だ」という議論はその手の言説の一つなのである。ちょっと調べればわかりそうな事実を無視して議論をたてる人間がいて、またちょっと調べればその議論のおかしさがわかりそうなものなのに調べずに鵜呑みにする人々がいる。誰かが反論しても知らぬ顔の半兵衛で同じ議論を繰り返す…。どうせデタラメなのだから放っておけばよいのか、と言えばそうもいかないのである。例の月面着陸虚構論にしてもなんと徳間書店から出版され、大手の書店では(今日確認してきた)科学書コーナーに並べられている。ユダヤ人虐殺虚構論については文藝春秋社の『マルコポーロ』誌に掲載されたのが有名だし、ロ裁判批判論の主な舞台も文春系メディアであった。それなりに名の知れた人物が一流の出版社から刊行している議論だけに、その影響力を過小評価することはできない。さらに、ここで名前を挙げた三つの議論のいずれもが陰謀説とセットになっているため、“信じやすい”人々への訴求力が非常に強いのである。

繰り返しになるが、具体例をあげてどれほど「ちょっと調べればわかりそうな事実」が無視されているか、明らかにしてみよう。まず月面着陸虚構論は、テレビ朝日で放映された番組を論拠の一つとしている。実はその番組はもともとフランスでエイプリル・フール企画として制作されたもので、テレビ朝日での放映時にもその旨のコメントがなされていたのだが、月面着陸虚構論者にかかればこのコメントも「陰謀」によるものにされてしまう。番組の目玉の一つは、月面活動のシーンの特撮をスタンリー・キューブリックが依頼されたという趣旨のものであり、証言者のなかにはキューブリック夫人や「ジャック・トランス」という名の映画プロデューサーが含まれている。しかし「ジャック・トランス」氏の映画プロデューサーとしての業績を調べてみればわかることだが、そんな人物は存在しないのである(まあ、同名の映画関係者がたまたま存在する可能性までは否定できないが)。そしてキューブリックのフィルモグラフィーを少し調べればわかるように、「ジャック・トランス」という名前はキューブリックの『シャイニング』の主人公の名前なのである。もちろんこれはエイプリル・フール番組ならではのシャレなのだが、『ハリウッド映画で読む世界覇権国アメリカ』という著書のなかでキューブリックの映画(『アイズ・ワイド・シャット』)もとりあげている著者はそのことに気づいていないのである。

さてロ裁判批判論についてはやはり渡部センセイに代表になってもらおう。一連の裁判批判論の幕を切って落とした『諸君』の論文、「ロッキード裁判は東京裁判以上の暗黒裁判だ!」では、「物証中の物証」である「五億円のお金」について、「これが問題にされたことはほとんど聞いたことがない」という主張が議論の柱の一つになっている。そしてそれを前提に、「五億円が現金で保管されていたはずはないからどこかの銀行で用意されたはずで、クラッターに反対尋問したうえで銀行の記録を調べればクラッターのウソが明らかになったはず」という趣旨の議論を展開するのである。実際の裁判の経過をちょっと調べてみれば、こんなことを書く人間の裁判批判論が眉唾ものであることは明々白々である。なにしろ5億円がロ社の裏金(現金で保管してあった)から捻出されたことなどはすべてクラッターの嘱託尋問調書に書いてあるからである。これを立花隆に指摘された渡部昇一は、「私はクラッター等の嘱託尋問調書は証拠として採用されるべきでなかったと主張しているのであるから、嘱託尋問調書に何が書いてあろうと関係ない」という趣旨の弁解をした。Angelix氏もこの弁解をそのまま繰り返している。しかしこれは3重の意味で弁解にもならぬ言い逃れにすぎない。まず権利問題と事実問題の混同がある。たとえ嘱託尋問調書は証拠採用されるべきでないと主張するにせよ、第一審では現に証拠採用されたのである。その裁判を批判するならば調書が証拠として採用されたことは前提として議論がなされねばならない。第二に、もし渡部昇一が「五億円の流れが充分立証されたというはなしは聞いたことがない」とでも書いていたのであれば、まだしも先ほどの弁解は意味を持っただろう。しかし実際には「問題にされた」ことを聞いたことがない、と書いたのである。たとえ採用されるべきでなかった証拠であっても、「問題にされた」ことに変わりはないのである。第三に、五億円の流れについてはクラッターの証言以外にもさまざまな証言、物証(有名なピーナツ領収書など)が裏付けている。香港から日本に5億円を持ち込んだ地下銀行の運び屋までが法廷で証言しているのである。どう考えても5億円が「問題にされたことはほとんど聞いたことはない」という認識は単に渡部昇一の無関心ないし怠慢の現れであって、事実には全く対応していないのである。もちろん、ロ裁判に関心を持たなくたってかまわない。無知であってもかまわない。しかしだとしたら、ロ裁判について語るべきではないのだ。議論の前提がこんなデタラメなのだから、立花隆が当初「世の中アホなことを言う人がいる」という心境で無視していたというのも当然だろう。

しかしながらそうした「アホなこと」が20年経っても信じられているのである。コーチャン等に反対尋問するとして一体何を聞くつもりなのか、という私の質問に対してAngelix氏が「五億円をどうやって準備したか」という例を挙げたことをみれば、デタラメな議論がどれほど無批判に鵜呑みにされて再生産されているかがわかりそうなものである。

もはやロッキード事件に関心を持つ人は少ない。しかしロッキード裁判批判論だけは繰り返し登場し、命脈を保っているのである。アクセスしやすいかたちでことの真相を明らかにしておこう、というのが当ブログの目的であり、デタラメな議論が再生産されることを防ぐことができれば、私の目的は達成されるわけである。

> 小室、渡部に言わせればあなたこそ、目の届かないところで大本営発表をする破廉恥な輩ではないのですか?

まさか二人に直接書簡を送りつけろと要求しておられるわけではないのだろう。当Blogは現在、ロッキード裁判についてWeb上で調べようと思えばかなり上位にヒットするサイトの一つとなっている。別に隠れて運営しているわけでもなんでもないのであって、二人の目が届くかどうかは両氏にとっての問題でしかない。さらに、こちらは「デタラメ」を一つ一つ具体的に、根拠を挙げて指摘しているのであって、それを「大本営発表」と評するならばそれこそ根拠を示していただきたいものである。

さらに、私が「こちらの目の届かないところで」云々と書いたのには、ちゃんと背景がある。いずれここで明らかにする予定であるから、それをご覧になってからご判断いただきたい。

> 勝った負けたにこだわりだすと終わったあと何も残っていないことに気づきませんか?

ご心配いただいているようだが、私にとっては、雑誌のバックナンバーや昔読んで手放してしまった本を改めてそろえるという労力を払うだけのモチヴェーションをもてたという点、ロ裁判批判論が再生されている現状についての知識が得られた、という点で十分な成果が「残って」いる。

もちろん議論の対象によっては、「勝った負けた」にこだわるのは無意味なことだろう。しかし「ロ裁判批判論は重要な事実を無視(ないし誤認)している」というのがこちらの主張なわけで、論題の性質上これは「勝った負けた」の問題にしかなり得ないわけである。

Posted: Sun - August 8, 2004 at 03:19 PM Apes! Not Monkeys! Lockheed Affair Previous Next Comments (6)


本論争の意義について Part2

再びまいこ氏のコメントについて。

あわせてψ氏にもお礼申し上げます。


まいこ氏より再びコメントをいただいた。氏の丁寧な文体に釣り合わないのは非常に申し訳ないのだが、コメント欄ではなく新規記事でお答えするとなるとどうしてもこういう文体でないと書きにくいためで、けっして悪意あってのことではないので、この点ご容赦いただきたい。またまいこ氏は別段論争を望んでおられるわけでもなさそうなので、気が向かなければ無視していただいても結構である。私は単に当ブログの主として頂戴したコメントへの自分の見解を書いておきたいと思って書いているだけなので。

さて、

> すべては、仮説だと思います。

> 裁判そのものも、一応の答えを出す自動販売器に過ぎません。真理とは無関係です。

> 小室、渡部、立花、その他の諸氏も、各々の仮説を提示したに過ぎないと思います。

> その一方を擁護して他の一方の間違い探しをしてもどうにもならないと思います。どうしても本丸を落とすというなら直接書簡を送りつけるべ

>きです。

> 二の丸、三の丸は無視したほうがはやいでしょう。

問題はこのご意見がどのような存在論、認識論を前提としているかである。「仮説」は通常は「検証」というプロセスとセットになっているわけだが、氏は検証によって異なる仮説間の比較を行うことが無意味だとおっしゃっているのだから、事実による「検証」などできない、むしろわれわれが「事実」として受けいれている命題も「仮説」なのだ、という反実在論的、構築主義的立場をとっておられるように思われる。実は、存在論そのものを主題として論じるなら、私の立場もそれほど遠いものではない(正確にいえば、基本的にはパットナムの「内部実在論」に近い立場)。例えば「五億円はロッキード裁判において繰り返し問題にされた」というのが「事実」ではなく「仮説」であるとおっしゃるのならそれはそれでよい。しかしながら私は異なる仮説間の比較、取捨選択が無意味だとは考えない。よい仮説と悪い仮説の区別は可能だと考えている。もちろん素朴実在論的な意味での「現実」と一致する仮説が正しいなどと主張しているのではなく、結論だけを言うならプラグマティズム的な意味においてである。「五億円はロッキード裁判においてほとんど問題にされなかった」という「仮説」よりも「五億円はロッキード裁判において繰り返し問題にされた」という「仮説」の方がよい「仮説」なのである。

しかしここでの議論は存在論的なものではないのだから、いちいち「五億円はロッキード裁判においてほとんど問題にされなかった」という「仮説」、「五億円はロッキード裁判において繰り返し問題にされた」という「仮説」、といった表現を用いるのは煩瑣なだけである。議論はその対象にあわせた抽象度で行えばよいのであって、こうしたプラグマティズム的な態度に基づきここでは「五億円はロッキード裁判において繰り返し問題にされた」を「事実」と呼んでいるのである。

ただ、まいこ氏の存在論的立場がよくわからなくなるのは

>「~条はこうすべきだ。」「憲法改正は~条を問題にすべきだ。」というような本当の議論をしてほしかったのです。あなた方の議論は、「誰々

>が~といっていた。」「~はこうなっている。」というものばかりでした。これは弁護士、ジャーナリストの仕事でしょう。われわれにはもっと

>他の議論の仕方があるのではないでしょうか?

という部分である。氏の主張によるなら「〜条はこうすべきだ」という主張もまた「仮説」なのだろう。しかしそうした「仮説」間の比較対象については有意義なものと考えておられるわけである。いったい、「本当の議論」とニセモノの議論を区別する基準は何なのか? 「〜条はこうすべきである」といった議論が「本物」で、ロッキード裁判批判論がきちんと事実に基づいたものであるかどうかについての議論はニセモノだとする根拠がさっぱりわからない。まさかご自分が関心を持っている議論こそが「本物」だとおっしゃるつもりでもないだろうに。「〜はこうなっている」という議論が「弁護士、ジャーナリストの仕事」だというのも全く納得のいかないはなしである(日米開戦の是非は一般市民でも論じられるが、真珠湾攻撃の可否は軍人だけが議論すべき、という渡部昇一の主張を思い出してしまった)。いったい何を根拠にそのような分業を提唱されているのだろうか?

まいこ氏はロ裁判そのものには興味をお持ちでないようなので偶然なのだろうが、実はまいこ氏のご注文は渡部昇一の議論の建て方に非常に似ているのである。渡部昇一は「ロッキード裁判において、田中側は最重要証人に対する反対尋問を許されなかった」「田中角栄は別件逮捕された」という前提のもとに、立花隆に対して「被告人の反対尋問権を奪ってよいのか」「別件逮捕をよしとするのか」といった問いを突きつけている。しかしながら立花隆は「被告人の反対尋問権は尊重されるべきだ」「別件逮捕は批判されるべきだ」ということにはなに一つ異を唱えておらず、「コーチャン等はロ裁判丸紅ルートにおける最重証人ではない」「田中は外為法違反でも起訴されているのだから別件逮捕ではない」と渡部昇一の問いの前提そのものに反論しているのである。こういう場合、「〜はこうなっている」はニセモノの議論で「〜はこうすべきだ」といった議論をせよと言われても困るのである。有意義な議論をするためには問題を正しく提起しなければならない。「〜はこうなっている」のレベルで間違った前提に基づいて問題がたてられている場合、「〜はこうなっている」のレベルでまずは反論せざるを得ないのである。

さらにこの点についてはψ氏が私の言いたいことを先どりして代弁してくださっているのだが、私がまいこ氏の運営するblogなり掲示板なりに乗り込んで議論していたというならともかく、当初から「事実誤認に基づくロ裁判批判論がいまだ横行している」という問題意識で記事を書いているBlogで「それは本当の問題ではない」と言われても困ってしまうのである。「私はそんなことに関心はない」とおっしゃるならそれで結構である。「すいません、うちはそば屋なんで豚骨ラーメンはやってません」とお断りするだけのはなしである。しかしそば屋に来て「豚骨ラーメンこそ本物の麺料理だ。豚骨ラーメンがないのにはがっかりした」と言われても困ってしまう。根拠もなく「本当の議論はこれである」とおっしゃるのはいかがなものだろうか。

さらに付け加えるなら、刑訴法の意義とか憲法37条の意義といった(おそらくまいこ氏の望んでおられるレベルの)問題については、別段Angelix氏やmayson氏と意見を異にしているわけではないのである(お二人がどう思っているかはわからないが)。反対尋問権が被告人の重要な権利であること、刑訴法321条が安易に運用されていることが日本の刑事裁判の大きな問題であることなどは、わたしも(そして立花隆も)繰り返し述べてきたことである。見解が異なるのは、「ではロッキード裁判において憲法37条が保証する被告人の権利が踏みにじられたのか、刑訴法321条は安易に運用されたのか」といった問題、まいこ氏がおっしゃる「〜はこうなっている」レベルの問題においてなのである。そしてAngelix氏もmayson氏もそのレベルの問題として当初コメントを寄せてきたのである(特にmaysonについて言えば、私が憲法37条を軽視していると思い込んでしまい、「〜であるべき」レベルの議論を途中から盛んにするようになったが)。とすれば、当ブログにおける「本当の議論」はまさに「〜はこうなっている」というレベルでなされるべきではないか。当ブログがとりあげたのは「刑事裁判一般」ではなく、「ロッキード裁判」という個別の裁判である。「〜はこうなっている」という問題に触れずに個別の裁判を論じることはできないと私は考えるが、まいこ氏は違うのだろうか?

さて、順番は前後するが、

>わたしは、新しい意見が出るのを期待していましたが、どうやら期待はずれだったようです。

というご意見について。これについては全くそうだろうと思う。そして実はそのことこそ、私が当ブログでロッキード裁判批判論をとりあげた動機なのである。ナチスのガス室虚構論にしても、まったく新味のない説が繰り返し唱えられている。なぜかと言えば、ロッキード裁判批判論と同じく、とっくに反論されている議論をそのまま懲りずに持ち出してくるからである。私がアクションをとろうとしているのはこうした事態に対してなのである。もちろん、この点についてはガス室虚構論者やロ裁判批判論者も同じことを言うのだろう。だからこそ「〜はこうなっている」というレベルで議論を煮詰めてゆく必要があるわけだ。

> とあなたはおっしゃいますが、それは結局あなただけの問題、論争の当事者だけの問題ではありませんか?いくらデタラメを指摘したところで結>局あなたの自己満足になってしまいませんか?そうではなく、新たな通有性のある議論を期待したのです。

個人がひっそり運営しているBlogなのだから「自己満足」で結構ではないか、と開き直るのもみっともないのでお答えするなら、「自己満足」に終わるかどうかは今後ロッキード裁判について調べるためにGoogleあたりで検索して当サイトを訪問してくださる方がどれくらいいるか、にかかっている。いまさら小室直樹や渡部昇一に自説を撤回させることを目指すつもりなどもともとないのであって、私が二人を「本丸」と表現したのは二人の著作を読んでロッキード裁判に疑問をもち、自分でも調べてみようと思った人々がこのサイトを見て二人のロ裁判批判論を批判的に検討するきっかけになってくれればいい、という意味なのである。

Posted: Sun - August 8, 2004 at 06:55 PM Apes! Not Monkeys! Lockheed Affair Previous Next Comment (1)


小室直樹、「『世論』と裁判」

『諸君』1984年9月号、アンケート特集「『角栄裁判』をどう思いますか?」への寄稿。


『諸君』のこのアンケート特集は14人の回答を掲載しており、その大多数は裁判批判論である。明確に裁判支持の立場を打ち出しているのは2名だけで、そのうち1人は「なにが人権だ」というタイトルで「お白州」裁判を支持するという、まるで『諸君』編集部の思うつぼのような裁判肯定論である(笑)

さて、小室直樹の寄稿は3段組3頁強と、この特集のなかでは長い方の部類に属するが、それでも自説を十分に展開するに足るページ数とは言えないだろう。その意味でこれをもって小室直樹の裁判批判論を代表させるのはフェアとは言えない。それを承知でここでとりあげるのは、第一に紙数の限界をいいわけにはできない事実誤認がみられること、第二に先日まいこ氏より頂戴したコメントと内容的に重なる主張があるからである。

まずは順に小室直樹の論点をピックアップしてみよう。

1) 日本の裁判が「とくにマスコミとの連関において、いかにひんまげられ易いものか」、という論点。

2) 近代的な裁判は「真実」を明らかにするものではない、という論点。

3) 2)をうけた「反対尋問権を奪った」「自白判決」といった批判。

まず1)については、「川島武宣教授の研究」に言及するだけで具体的な議論はなし。これは紙数の限界を考えるとやむを得ないところ。しかしこれはロッキード裁判が「マスコミとの連関においてひんまげられた」可能性、蓋然性について語っているだけで、それ以上のものではない。また、田中角栄という被告が検察および裁判所に与え得たプレッシャーについてはなにも触れていないという点で一方的であろう。さらに別記事でも書いたことだが、ロッキード裁判の一審判決は事件発覚から7年も経って(事件発覚からはそれ以上の時間が経って)から出ているものである。この間、マスコミは同じ熱意で田中バッシングを続けていたわけではない。

2)はまいこ氏のコメントと関連するところなので、後回しにする。3)のうち反対尋問権に関わる部分はさんざん論じているが、次のような記述が目を引く。

 根本の問題は、憲法第三七条第二項(…)という最も基本的な権利について、弁護人の主張にも裁判所の論旨の中にもまったく触れられていないことである。

 何と、角栄は、反対尋問をする権利を否定されたままで、有罪の判決をうけたのであった。憲法に明記された最も基本的な権利を裁判所は白昼堂々としてこれを無視し、弁護人もあまり重視しない。(…)

(64頁)

これを読めば、小室直樹がロッキード裁判について極めて断片的な資料しか読まずに批判を行っていることは明らかである。嘱託尋問調書が証拠申請されてから実際に証拠調べが始まるまで、1年以上の期間、弁護側と検察側は激しく争ったのである。もちろん、そのなかには憲法37条をめぐる議論もあったし、証拠採用にあたって裁判所がだした決定書もこの論点に触れている。立花隆が揶揄したように、これでは田中弁護団が気の毒、というものであろう。

また、ロ裁判が全体として「自白判決」であるとする根拠、「肝心の物的証拠はどこにもない」というのも誤った議論である。まずここでは証拠が「自白」と「物的証拠」だけに二分されており、それ以外の証言(被告人およびコーチャン、クラッター等以外の証人による証言)が全く無視されている。さらに、立花隆に言わせれば、ロ事件は贈収賄事件としては珍しいくらい物的証拠が豊富な事件なのである。有名なピーナツ・ピーシズ領収書をはじめとして、5億円の動きを裏付ける物証が豊富にある。「共犯者の『自白』だけで有罪にしてもいいんだ」などということは全くなかったのである。これなどは、新聞報道をみているだけでもわかりそうなものなのに(「黒いピーナツ」というフレーズは、事件発覚当時小学生だった私ですら知っていた)、不可解としかいいようがない誤解である。たしかに、贈収賄事件の場合当事者の自白が重要性をもつのは事実である。贈収賄という犯罪の性質上、これはやむを得ないことであるし、だからこそ贈収賄事件の立件は難しいのである。捜査段階では自供しても公判ではそれを覆す、というのもよくあるはなしで、ロ裁判でもそうであったように刑訴法321条に基づき証拠採用された検事調書が有罪の決め手になる事が多い、というのもその通りだろう。しかしロッキード裁判の場合、大久保被告は公判でもほぼ検事調書での自供を肯定したのである。被告人以外の公判における証言、物証などとあわせるなら、むしろ他の贈収賄事件より検事調書への依存度は低いと言わねばならない。

さらに、あくまで一般論として議論するなら、検事調書や警察での調書を安易に信用してはならない、というのは全くその通りである。日本の刑事裁判一般への批判としてなら、この議論は正論であろう。しかしそれが直ちにロッキード裁判に当てはまるかどうかはまた別問題である。個別の裁判を批判するなら、検事調書と公判での証言とを具体的に分析し、検事調書を否定する証言に説得力があるか、検事調書に誘導や強要の痕跡がみられるか、他の証拠とより整合的なのはどちらか…といった吟味がなされねばならない。こうした具体論抜きで「検事調書を信用するな」と言うのであれば、贈収賄事件などはとにかく公判でしらを切り通せばすべて無罪になってしまうだろう。もともと贈収賄事件は当事者の自白に依存する割合が高いのだから、いっそ犯罪ではないことにしてしまえ、とまで主張するならそれはそれで首尾一貫した議論である。ひょっとして小室直樹はそう考えているのかもしれない。だが、そこまで極端な立場はとらないというのであれば、当事者の捜査段階での自白以外の証拠、証言が豊富にあるロッキード裁判を批判するというのは奇妙なはなしと言わざるを得ないであろう。

さて最後に2)について。ここには「近代裁判の本質を科学的理念型として表現」(原文には「理念型」に「モデル」というルビあり)、「近代科学における諸命題は、ことごとく一種の仮設」といった表現がみられるので、まいこ氏のコメントは小室直樹をふまえたものであるように思われる。今日の科学論の水準に照らすなら、ここで展開されている小室直樹の科学論はかなり素朴なのだが、わずか3頁の論文ということに鑑みこの点は追求しないことにする。

近代裁判においては両当事者の主張はすべて「仮設」であり、重要なのは仮設の「検証のための方法であって結果ではない」(原文、下線部は傍点)。さらに、近代裁判において「裁かれるのは検察官」である。つまり近代裁判の手続きは検察官の「仮設」を「検証」することをもっぱら念頭においてすすめられねばならない、というのである。これについても、あまりに英米法に偏った「理念型」であるということは指摘しておきたいが、ロッキード裁判を擁護するうえであえて異論を唱えねばならないところはない。なぜか? 刑訴法321条はたしかに320条の原則に対する例外規定ではあるが、それは別段検察側の「仮設」をノーチェックで通してしまうような規定ではないからである。小室直樹の用語を借りるなら、近代的な刑事裁判において重要なのは、「結果において被告人に不利な仮設を排除する」ことではなく、「手続きにおいて検察側の仮説の検証がおざなりにならないようにする」ということである。いわゆる反対尋問権についても、反対尋問を行うことそのものに意義があるのではなく、反対尋問によって検察側の「仮設」が吟味されることに意義があるわけである。とすれば、反対尋問に代わって検察側の「仮設」をチェックする手続きが組み込まれている限り、反対尋問を経ていない証言の証拠採用は直ちに憲法37条第2項の趣旨に反していることにはならないのである。ロ裁判で問題になった刑訴法321条1項3号の場合は、いわゆる「特信情況」要件が検察側「仮設」のチェック機能を担うことになる。さらにロ裁判の場合には、コーチャン等に(嘱託による)証人尋問を請求するという途も開かれていたのである(実際に全日空ルートの弁護団はそれを利用した)。ロ裁判批判派は田中弁護団の証人申請が却下されたことばかりを言いたてるが、証人申請がア・プリオリに不可能だったわけではないことを無視している。弁護側の請求により検察側の「仮設」をチェックする「手続き」はちゃんとあったのである。さらに証人申請却下の問題を論じようとするなら、弁護側の立証趣旨はなんであったのか、また田中側の申請が3年も遅れたのはなぜなのか、申請が却下された後いちおう異議は唱えてみたものの、その異議が却下されるとそれ以上争わなかった(特別抗告しなかった)のはなぜか、といった具体的なことがらが問題にならざるを得ない。単に一般論ですますなら、嘱託尋問調書は(たしかに例外ではあるがそれでも)ちゃんと手続きに則って証拠採用されたのだ、という反論で片付いてしまうのである。

Posted: Mon - August 9, 2004 at 04:55 PM Apes! Not Monkeys! Lockheed Affair Previous Next Comments (2)


調査結果予備報告

刑訴法に関する本、15冊ばかりをチェック


いや〜、ずいぶんと香ばしいコメントがついているなと思って調べてみたら、どうやら、

http://tmp4.2ch.net/test/read.cgi/sisou/1087720065/

の339あたりがきっかけのようですな。いるんだよね〜。自分の知性の限界が世界の限界だと思っている人間。世界の中心でバカと叫んでいるつもりで世界の周辺でバカをさらしているやつが。ちゃんと「陰謀論には気をつけろ」と忠告までしているのに。しかも「アポロ月面着陸はなかった」説についての記事にまでコメントしちゃって。「ジャック・トランス」氏のフィルモグラフィーは調べてみたんだろうな(笑) ぶっちゃけたはなし、あれじゃあAngelix氏、mayson氏、まいこ氏が気の毒だわ。

さて、自分の知性の限界が世界の限界ではないことを承知している私としては、刑訴法321条における「供述不能」要件の解釈について、調べて参りましたですよ。こういう場合誰のどの本を参照するのが常道なのかわからないのでとりあえずランダムサンプリングで15冊ほどピックアップ。そのうちある程度詳しく「供述不能」要件について言及していたものは約半数。詳しくは明日にでもメモをもとにご報告しますが、結論だけを言うと「国外にいるため」を「供述の時点では国内にいて、その後国外に出た場合に限る」という説を支持するものは皆無でした。ロッキード裁判の嘱託尋問調書に直接言及したものもいくつかあったが、「供述不能」要件が問題になった事例として扱ったものはほとんどなし。消極的にではあるが、「当初から国外にいるケース」を321条が許容することを裏づけているといえるでしょう。伝聞例外の許容範囲に関して、最高裁が嘱託尋問調書の証拠能力を否定した判例に言及するものが一例(評価を明言していないのでおそらく妥当な判例としているのだろうが、この場合はあくまで免責が問題なのであって「供述不能」要件は問題になっていない)。逆に最高裁判例を批判して証拠能力を認めるべきだったとするものが一冊(当然、「供述不能」要件の解釈についても一、二審を支持していることになる)。また、最高裁の判決以前に書かれた本で証拠採用を「妥当」としたものが一冊。さらにコーチャン等が来日して証言するつもりのないことをどの程度まで確認すべきか、という争点を扱ったものが一つ。他に「国外にいるため」という要件を扱ったものとしては、外国人の証人が供述した後で捜査当局が国外退去処分をその証人に対して下したようなケース、すなわち「国外にいるため」という事情が捜査当局の関与によってもたらされたようなケースについて問題にしているものが目立った。言うまでもなく、コーチャン等の嘱託尋問調書の場合、「国外にいるため」という事情は捜査側の関与によりもたらされたものではない。

一般論としては、最高裁判決をひいて「供述不能」要件の本質が「法廷において証言することを妨げる事由」にあることを解説したもの(それゆえ例示的列挙と読むべきとするもの)が目につく。これもまた、「供述の時点から国外にいる」ケースを排除する議論への反証となっている。

Posted: Tue - August 10, 2004 at 10:59 PM Apes! Not Monkeys! Lockheed Affair Previous Next Comments (2)


「供述不能要件」に関する調査結果

アトランダムに選んだ約15冊のうち、9冊ほどに関連する記述を発見。以下、順不同に紹介

9冊中、裁判批判派の主張(の一部を)裏付ける説を紹介したものは1冊だけ。1冊ははっきりと一審の判断を支持し、もう1冊は最高裁判決を批判してまで下級審の判断を支持。その他は直接この論点に触れていないものの、「例示列挙」が通説とする点ではすべてが一致。


A)村井敏邦(編)、『現代刑事訴訟法(第二版)、三省堂、238頁

丸紅ルートの最高裁判決に言及し「妥当」としているが、これはあくまで「免責」という論点で証拠採用を斥けた判決への評価であるので、「供述不能」要件には直接関わらない。また、嘱託尋問が行われる際に依拠した日米司法共助によって得られた「宣誓供述書」が証拠採用された千葉地裁の判例を「その他注目すべきもの」としてあげている。

B)坂本武志、『刑事訴訟法』、酒井書店、145頁

「供述不能要件」の解釈は例示列挙説。また「死亡」以外のケースへの但し書きとして、その事態が相当の期間にわたっていることが必要、とする(近いうちに供述可能になる可能性がある場合はダメ、ということ)。なぜなら「供述不能」要件のポイントは証人を公判において尋問することが極めて困難な情況にある、ということだから。「供述の時点では国内にいなければダメ」という主張を消極的にではあるが反駁している。

C)田宮裕、『刑事訴訟法(新版)、有斐閣、374−375頁

英米法における伝聞例外について記述あり。判例の積み重ねを「信用性の情況的保障と必要性という二つの概念」で説明するウィグモアの説を紹介(この点は日本と基本的に同じということになる)。具体的にはウィグモアは1)臨終の陳述、2)財産上の利益に反する供述、3)家系に関する供述、4)認証証人の供述、5)業務の通常の過程でなされる記述、6)私有地の境界に関する供述、7)故人の供述、8)土地、歴史、婚姻、性格等に関する評判、9)学術論文、10)商業用、職業用の目録、11)宣誓供述書、12)肉体的感覚や精神状態を表す供述、13)とっさの発言、14)公務員の作成した文書等、を挙げている。また連邦証拠規則も趣旨としては同じようなリストを挙げているが、「メモの記録」などが含まれているのが注目される。いずれにせよ、Angelix氏が想像していたよりも遥かに広範な「例外」が認められていることがわかる。

D)同上、380頁

「供述不能」要件はやはり例示列挙として読んでよい、という説。「ある程度継続的な場合」かつ「脱法の意図による作為の入り込む余地があってはならない」という二つの但し書き。後者はむしろ供述後に国外にでたような場合(捜査当局が国外退去処分をだすなど)にこそ問題になることであり、当初から本人の意思で国外にいるケースを除外するという説はやはり消極的にではあるが反駁されている。

E)田口守一、『基本論点 刑事訴訟法』、法学書院、173−5頁

「国外にいるため」という要件について、「可能な手段を尽く」していることが必要、とする。ロッキード裁判の判例にも言及があるが、これは交通手段の発達により今後は国外にいる者についても公判出頭の可能性を検討すべき、という趣旨。嘱託尋問調書の証拠採用それ自体については暗に肯定していると推測することができる。

また、D)と同じく、証拠を申請する側の作為により「国外にいる」という情況がつくられた場合は除外する、という学説を紹介。さらに「訴追機関の証人提出義務」と題したセクションでは、供述不可能であることが予測される場合(コーチャン等への尋問がそうであった)に作成された供述書の証拠採用に厳しい制限をつけるべきとの説を紹介している(「通説」とはしていない)。この説を前提するなら田中側によるコーチャン等への(公判における)証人尋問要求の問題(時期の遅れと申請の却下)が最終的な争点ということになる。裁判批判派に有利な内容を含む唯一の文献。

F)田口守一、『刑事訴訟法』、弘文堂、306−307頁

「供述不能」要件はやはり例示列挙が「通説・判例」とする。「これと同様またはそれ以上の事由の存する場合においては証拠能力を認めることができ」るとした判例を引用。「供述不能」という点に関する限り、「当初から国外にいる場合」も「これと同様」のケースにあたるのは自明だろう。また、本書もやはり「国外にいるため」という情況が訴追機関によってつくり出された場合には証拠能力が認められないとしている。

G)石川才顯、『通説 刑事訴訟法』、三省堂、256頁

伝聞例外の趣旨について、「伝聞証拠であっても、供述に際しまたは書面の作成の過程において、反対尋問の行使に代替しうる程度の、高度の信用性が認められるときには、証拠能力を認めてよい。反対尋問制度は、信用性吟味の機能を有するからである」との解説。反対尋問を実体化して「反対尋問を行うこと」それ自体にこだわるのは間違い、ということになる。

H)安冨潔、『やさしい刑事訴訟法(新版)』、法学書院、199頁

やはり「供述不能」要件は例示列挙説。その事態がある程度の期間にわたっていること、および作為的につくり出されたものではないこと、という条件を付す。コーチャン等の場合はもちろんどちらも満たしている。

I)臼井滋夫、『刑事訴訟法判例研究』、東京法令、446-447頁

ロッキード裁判がとりあげられている。嘱託尋問調書を証拠採用した一審の判断について「正当」としたうえで、「理論上の問題」として免責は法的に有効でないという弁護側の主張を前提とした場合の証拠能力について検討している。472頁以降で「供述不能」要件について考察している。裁判批判派にとって二番目に都合が悪い文献。

J)渥美東洋、『刑事訴訟法判例解説』、三嶺書房、290−291頁

別の箇所で「供述不能要件=例示列挙」としている。ここでは丸紅ルートの最高裁判決を「三権分立に関し、議会への過大な期待がある」と批判。また嘱託尋問調書の証拠採用が対決権を侵害するものではないともいい、むしろ一、二審の判断を支持。批判派にとってはもっとも都合が悪い文献。

Posted: Wed - August 11, 2004 at 06:05 PM Apes! Not Monkeys! Lockheed Affair Previous Next Comment (0)


とうとう『小室直樹☆統一スレッド』に…(12日午前1時更新)

一カ月以上経って、ようやくもとのところに戻ってきた。

http://academy3.2ch.net/test/read.cgi/sociology/1081587279/747

残念ながら、Mayson氏はすでにどこかに「凱旋 」したそうです。


さて、昨日の香ばしい渡部信者のコメントについて補足。

「かい人21面相」を思わす口調でたくさんコメントがついているが、ネタは次の三つに尽きる。

・ロッキード事件はアメリカの陰謀や

・お前の言うとることは「すでに決まってることに文句言うな」ちゅうことや

・細目に入るなよ

ツᅥツᆳツ￉ツRモ_ヨᅳツ￉ツᅪム¥マᅫツᄁツᄉツᅣツᄉツᅵツ￁ツᄑチBツ￙ツ￱ツᅥチAヘ￙ヤᄏヤ£ヤᄏヤhツᅩフᄒツᄂツᄆツᅥツᅪモᆵツᄊツᄆツᅥツᅫツ￁ツᄅツ│チBツᅵツᅠム¥ユラリCユ~ツ￰ツ￐ツ→ツᄚツ←ランリ_モIヘᆰヒメツ￰ネ↑ノ゙ホンツ￁ツᅣツᄁツ←チiモKラpテフテxテヒツ￰ハᅯネ£ツᆭツᅣツᄁツ←ツᆰチjマᆲホᄎヤhツᅥネ£ツ￁ツᅣチAモnユヤヤhツᅩツ￙ツᄂツᅪヒcリ_ツᆰチuヘᅲヨᅳチvツ￉ヒyツᅯツᅥツᅡツᄁここここ 、それからここあたりにきっちり書いてある。

2点目もなかなかケッサクで、そういう自分は渡部昇一を「信じる」らしい(笑) 「細目」についての議論を拒絶するくせに「信じる」のを、普通は「盲信」というと思うのだが。過去に手放してしまった資料をまた集め、条文の解釈をめぐって文献をあたったうえで論じていても、裁判批判を批判したら「決まってることに文句言うな」と言ってることになるらしい。こっちは単に「文句を言うなら事実をふまえ、誤謬推理をせずに言え」ということなんだがなぁ。まあ、権威主義の裏返しですな。結論は逆だけどメンタリティは同じ。渡部昇一を「信じる」というのなら、ここやここで明らかにしたデタラメの釈明をしてもらいたいものだ。


第1点目についてはもはやことばもないという感じだが、「謀略説」もふまえたうえで議論していることはここやここをみてもらえばわかる。まあ、陰謀説好き人間のメンタリティがよく現れていて興味深い、とはいえる。陰謀説を考えつく人々はともかく*、人の唱えた陰謀説を信じるのは常識を疑わずに信じるのと同じくらい簡単で、想像力も論理的思考力もとくに必要ない。しかし信じている「内容」が世間の常識とは違うというただそれだけの理由で、「おれは世間の連中と違って懐疑的・批判的精神を持っている」とか「おれは世間の連中が知らないことを知っている」という優越感を味わえるのだよね。これが陰謀説の最大の魅力。それじゃあその陰謀説をどれだけ懐疑的、批判的に検討したのかというと…まあたいていはなんにもしてません。

* もっとも、物語のパターンとしては陳腐なものが多い。オカルト論者にも共通することだが。

それからこれもまた小室信者、渡部信者の定番。細かな論点で論破されるたびにどんどん抽象的(と言えば聞こえはいいが、実際にはおおざっぱな)論点へと逃げる。

Posted: Thu - August 12, 2004 at 12:39 AM Apes! Not Monkeys! Lockheed Affair Previous Next Comments (2)


Angelix氏、本拠地で撤退宣言

この掲示板の投稿については両氏以外のものについても多少いいたいことはあり、またコメントをしようとしたけどソフトの制約ではねられて、結局やめちゃった人の投稿も見つけたんだけど、ここで言及するのは両氏のものだけにする。


さて、Angelix氏はついに自分のホームグラウンドでも撤退宣言をおだしになったので、こちらも遠慮なしにやっていくことにする。

8月8日付のコメントに「私はある法律系掲示板に質問を書き込んだが」とあるのをみて、ちょっとしらべてみたところ、なんとAngelix氏とmayson氏が連携プレーをしていたのを発見した。

二人の連携ぶりは[3269](過去ログ)とか[3343]をご覧いただければよくわかる。おかしいのは、二人がつながりを隠してそれぞれ書き込んでいるくせに、[3350]で「各個撃破」だと愚痴を言っているところ。二人のコメントに対してそれぞれ別に記事を立てたのは「礼を尽くした」のであって、まさか文句を言われているとは想像もしなかった(笑) もし一緒くたに議論して欲しかったのなら、そう言えばいいのに。

大体はすでにこのブログで書いていることと重なってしまうのだが、まず笑ってしまうのは

[3281](mayson氏の投稿)

> しかし、冷静に考えれば、おかしなことに気づきますよね。

> >2人は裁判に証人として出廷してはいない。

>

> では何のために「出廷」したのでしょうか?

> 彼の主張どうり、捜査のために「出廷」したのだとすると、

> 司法が、行政権力に協力することになるのでは?

> 捜査のためなら、裁判所をとうさずに直接2人を取り調べればよい。

> おそらく、彼は三権分立の意味から理解していない。

いや〜、これには笑いました。ひょっとしてわからないフリをしてごねているのかと思っていたけど、本当にわかってなかったんだ…。刑訴法226条をちゃんと読めよ。そもそもコーチャンらが出頭したのはアメリカの裁判所であって、ロッキード裁判の法廷とはなんの関係もない(証人尋問が嘱託された時点では裁判は始まっていなかった)。「何のために」って、そりゃあ証言のために、に決まってるだろうが。刑訴法226条はそういう特殊な証人尋問を規定した条文なんだってば。「司法が、行政権力に協力することになるのでは」ってのも裁判批判論定番の珍説で、すでに当ブログで反論済み。もちろん、普通は「裁判所をとうさずに直接2人を取り調べ」るわけ。226条はそれができない場合に、検察の権限を制限しつつ捜査を進めることを可能にするための手立て。ここでは裁判所が検察の権限を制約するために登場しているのだから、「三権分立」に反するどころか逆に「三権分立」にかなった条文なのだよ。

[3360](Angelix氏の投稿)

> こっちは,引き写しで十分だという前提で議論しているので,何でこんな事も知らない

> のだ,調べろよなんて思われているようですけど.

これはあんまりといえばあんまり…。これからはためらわずに「信者」と呼びます。そうでなければ、他人と議論する際に「引き写しで十分」だという発想は出てこないもの。調べるのがめんどくさいなら自分のHPかBlogでクダを巻いていればいいんで、よそで議論を吹っかけるなよ。

[3364](mayson氏の投稿)

> 論点は、憲法、刑事訴訟法についての考え方に要約されると思います。

> 私は、「憲法、刑訴は国民の権利を守るためのもの。」

> 彼は、「憲法、刑訴は秩序を維持するためのもの。」

> という主張の違いに行き着くものだと思います。(結局、この議論には至らなかったの> ですが、、、)

> 以上が、私とブロガ−の議論の要旨及び根本思想(たぶん)です。

このまとめが間違いであることはすでに2ちゃんねる時代にちゃんと指摘 してあるんだけどなぁ…。

もう、彼の頭の中では「小室センセイに逆らうやつは憲法知らずの斉東野人だ」というのがドグマになってしまっていて、なにを言っても説得不可能なんだろう。こういうのを「ローマカトリック戦術」と呼ぶらしいです(笑)

一番新しい投稿もひどい。

[3394] (Angelix氏の投稿)

> それにしても,Google でヒットするどのページを見ても,“供述を取った後に生じた

> 障害”に関して,死亡などの理由を例示していると書いてある事はあっても,最初から

> 国外にいる場合は議論されていないのに,例示だから“初めから国外にいる場合も含ま

> れる”と解釈出来ると述べ立てるのには呆れました.

まず、該当するURLをリストアップする手間すらかけずにGoogleの検索結果だけ挙げて何かを論証するつもりになっているという「知的不誠実」ぶりがひどい。さらに、その頼みの綱が実はなんの論証にもなっていないことに気づいていないのもひどい。

ここで論点となっていたのは、刑訴法321条1項3号にある「〔公判期日外に供述書を残した証人が〕国外にいるため〔公判で供述できない〕」という要件が、

1)供述書の作成以降に国外に出た場合に限られる

のか、それとも

2)供述書の作成時点ですでに国外にいた場合も含む

のか、というものである。この場合、2)を否定する論拠を挙げようとするなら、「供述後に国外に出た場合に限られる」ないし「供述の時点から国外にいる場合は該当しない」などと書かれているページを挙げなければならない。単に「最初から国外にいる場合は議論されていない」というだけでは、1)に対するごく弱い傍証にしかならないのである。なぜか。「最初から国外にいる場合は議論されていない」という事態はなるほど1)の傍証であるとも解釈できるが、同時に

3)「最初から国外にいる」ケースはそもそも希なので、よくある事例を類型化して論じる場合には無視されている

4)「最初から国外にいる」ケースに適用してもなんの問題もないので、わざわざとりあげていない

のいずれか(ないし両方)を裏づけているとも解釈できるからだ。まあ私の推測では3)だろう。国外にいる人間には基本的には捜査当局の力が及ばないので、日米司法共助にもとづき証人尋問が嘱託されたロッキード事件の捜査のようなケースはそうそうないからである。このように、「最初から国外にいる場合は議論されていない」ことは、他に補強証拠がなければ1)の論拠にはならないのである。つまり1)の主張はそもそも確立されていないわけで、それに対して「何か有効な反論はあったでしょうか?」などというのはあつかましいにもほどがあろう。ちなみに、ちゃんと「有効な反論」をしておいたからね。

ほかに興味深いのは、二人そろって「論点を拡散された」とか「論点をずらされた」とか、「法律論がどんどん曲芸化」などと愚痴っているところ。やれやれ。例えばAという命題の当否について論じる場合、そのAだけをいくらこねくり回してもしかたないでしょうが。Aの前提にあるBを問題にするとか、AをCとDに場合分けするとか、Aの帰結であるEを論じるとか…するのがあたりまえ。いったい「議論を煮詰める」「論点を絞る」ということがどういうことだか、わかっているのだろうか。





Posted: Thu - August 12, 2004 at 09:46 PM Apes! Not Monkeys! Lockheed Affair Previous Next Comment (0)


牛犬氏からのコメント

牛犬氏からコメントをいただいたので掲載。MS Wordファイルで送られてきたものをWordでHTML文書に変換し、ファイル名を変更しただけでその他の操作は加えていません。


牛犬氏からのコメントはこちらからご覧下さい。当方の再反論は別記事でアップします。

貧乏性で、これだけでアップロードするのはためらわれるので、香ばしいコメントへの感想の続きをば。以下は牛犬氏のコメントとは全く関係ありません。

まずはこれ。

> なにが渡辺・小室エピゴーネンやねん。

>

> おまえは「法体系エピゴーネン」やないか。

>

> まだ人間の言うこと聞くほうがよっぽどマシじゃ、ボケ。

>

> 日本人は欧米人みたいに啓典宗教で世の中を回してるわけやないから、人づてによる知の体系でやるのが正統なの。

>

> 法体系なんか海外文化の借り物じゃ、アホ。

> もしかして、お前、ガイジン?

「憲法知らず」と罵られるかと思ったら今度は「法体系エピゴーネン」だって。どっちかに統一してほしい感じだが(笑)、面白いのはこのコメントが小室直樹の裁判批判論の大前提を破壊しているところ。「借り物」の近代法なんかどうでもいいというんだったら「適正手続き」も「法の支配」もうっちゃらかして悪いやつはとにかく縛れ、ってことになりますわなぁ…。というわけで、このコメンテーターについては「小室信者」というのはあてはまらないようです。

つぎは2ちゃんの「小室直樹☆統一スレ」から。

「持久戦」云々というのはまいこ氏のコメントにもあった非難だが、これがなぜ批判になりうると考えるのか、さっぱりわからない。ある程度複雑な問題を丁寧に論じようとするならスタミナが必要になるのはあたりまえじゃないか。まさか「角栄は無罪だ!」「いや有罪だ!」って叫んですっきりするのが「論争」だと思っているのだろうか?

「自分に都合のいいコメント入ると大喜び。大絶賛。」というのもばかばかしいはなしで、ロ裁判そのものに関して私を支持するコメントはこれまで一つも入っていない(はず)。まいこ氏が「別の議論を期待していた」と書いたのに対してそれは筋違いではないかと指摘したコメントがあり、それに対して私が「いいたいことを代弁してくれた」と書いたにすぎない。ロッキード裁判が「東京裁判以上の」暗黒裁判だ、とブチ挙げた渡部昇一も顔負けだな。

それから、あちこちにAngelix氏の某掲示板での投稿がコピペされているようだ。いったいなにを狙っているのか、さっぱりわからない。


Posted: Fri - August 13, 2004 at 09:34 AM Apes! Not Monkeys! Lockheed Affair Previous Next Comment (0)