新資料を読んだ雑感 その1
立花隆の『諸君』掲載インタビューと論文、および2ちゃんねるの過去ログについて
立花隆は『ロッキード裁判批判を斬る』の中で『諸君』に掲載された自身のインタビューおよび反論記事を何度か引用しているので、断片的にはこれまでも目にしていたわけであるが、今回初めて全文を読むことができた。
もちろん基本的な論旨は同じなのであるが、いくつか新しい発見もある。その一つは、裁判批判派にいわゆる人権派の法律家が加わっていることについての立花隆の分析である。石島泰氏については『ロッキード裁判批判を斬る』においても、次のような批判がある。石島氏は自由法曹団が全共闘系過激派学生の弁護を拒否して「暴力学生に人権はないのか」という批判を浴びた際、自由法曹団を代表して反論を書いている。そこで石島氏は過激派学生の政治的評価を切り離して抽象的な「人権」論を振りかざすな、という趣旨のことを書いているのだが、にもかかわらず田中角栄については「角栄にとどまらない、人権の問題」として裁判批判を行うのは「偽善欺瞞の人権論」ではないか、というものである。
他方、「立花隆の大反論」ではひとくちに法律家といっても立場によって議論が分かれる問題についての論じ方が違ってくる、という分析を行っている(28頁以降)。専門家の間でも見解が分かれる問題に関して、例えば学者であれば自説の優位を訴えるために少々強調を行ってもかまわない。まして弁護士の場合、被告人の利益と公益とを秤にかけるのではなくもっぱら被告人の利益を追求する立場であるから、「自分に有利なことばかり主張して不利なことには目をつぶる」といった過度な強調をしてあたりまえである(そのこと自体を非難しているわけではない)。他方、裁判官や検察官の場合はそうはいかない。と、おおよそこういう趣旨である。つまり、「この問題に対してはAという説とBという説がある。しかしわたしはBをとる」という主張を「Bが正しいんです」というかたちで語ることによって、読者をミスリードしている部分があるというのである。
実はこれに近いことを9月号のアンケート特集で猪木正道(イデオロギー的には立花隆より渡部昇一に近い人であろう)も述べている。『諸君』誌上で裁判批判を行っている弁護士は「被告の人権を守るためには、そして無罪をかちとるためには、何でもするという一部悪徳弁護士」のようなものであるとし、立花隆の「大反論」は「一番説得力に富んでいる」、「角栄裁判の裁判官は実に立派な訴訟指揮を行い、極めて妥当な判決を下した」としている。ただ、立花隆は「無罪を勝ちとるためには何でもする」のが弁護士としての良心のありか、と(少々揶揄まじりではあるが)も述べており、猪木の主張は「三軍の最高指揮官」に求められる倫理、という観点からもっぱら構築されている。
渡部昇一氏は法律家からの応援の手紙をいただいたといったことを書いているが、そもそも日本にどれほどの法律家がいてそのうちのどれほどが氏を支持しているのか。支持しているとしてそれは嘱託尋問調書に関する結論についてのみなのか、それとも論証方法も含めてなのか、また氏を支持している人の立場(弁護士、学者、裁判官…)やイデオロギーの分布はどうなっているのか…。こうしたことが明らかにならない限り、このエピソードは渡部氏の議論が日本の法曹会、法学会における通説であるということの証明にはならないのである。
また、田中が被告人としての権利を侵害されているどころか、並の被告より遥かに優遇されているとする根拠として、「一審判決の下った後、通常の被告人だったら即収監です」(ところが田中はそうではなかった)、という例を挙げている。
Posted: Thu - July 29, 2004 at 06:00 PM Apes! Not Monkeys! Bad News Previous Next Comment (0)
Angelix氏へ(反論と提案)
えらくお疲れのようなので…
もちろんあなたに継続を要求する権利などないので、いつ止めていただいてもかまわない。この件に関してはきちんと資料を集めて誤謬を正してゆくことの重要性をますます感じるようになったので、自分のペースで私は続けてゆく。私の知らないところで大本営発表するようなことはやめていただきたいが(といっても止めようもないが)。
また、ここのコメントシステムのしょぼさがあなたのお疲れに拍車をかけているというのなら、どこかに場所を移して継続してもけっこう。具体的な場所の提案があれば、フェアに議論を行うための条件整備をしたうえで応じるつもりである。
さて、
> そもそも,私ははっきり田中角栄は無実だと言っている人間なんて,弁護人の木村喜助弁護士以外知りませんな.
> 渡部昇一教授についても,はっきり無実だなんて言っている文章など見た事もありません.
あまり本質的な論点ではないのでごく簡潔に。時期を問題にしないのであれば別の記事で名前を挙げた早坂元秘書も「無実」を主張していたはず。渡部昇一については「暗黒裁判」論のなかで
「〔田中のふてぶてしく見える振る舞いに〕無実の人間の怒りを感じ取りたい気がしてきている。」(59頁)
「もしクラッターに反対尋問することができたとすれば、この裁判はその時点で〔田中は無罪ということが〕明白になり、(後略)」(64頁)
(いずれも〔 〕内は引用者)
と、断言は避けているものの無実説を強く示唆している。二つ目の引用は例の「金の流れが問題になったということをほとんど聞いたことがない」という主張をうけたもので、要するにコーチャンに反対尋問しさえすればコーチャンの偽証が明らかになったはずだ、と言いたいのである。また、ロ裁判になぞらえるために「冤罪」の例をいくつかひきあいに出していることも「無実」説を印象づけようとするレトリックである。
> 私が略したのは,制定者の意図はこうだと言うためだったからだけど,自分で引用していておかしいと思いません?
思いません。横井氏の文章中に「…の場合にのみ」とでもあれば別だが。あなたが引用したのはどのようなケースを想定して制定したかということを語っているだけであって、どのようなケースは除外して考えていたかについてはなにも語っていない。また、条文起草者の意図以外の根拠についてはあいかわらず反論がないようだが…。
Googleの検索結果だけを提示するということは、ここからたどれる文書は私がどれを選んで利用してもよろしいということだろうか? 例えば2番目にヒットしたサイト(のキャッシュ) では「制限列挙」ではなく「例示列挙」と読んでかまわないというものだったが? あなたが援用している石島氏の議論については立花隆がまさに「例示列挙」と読むべき、として反論している。ロッキード裁判の判事も(もちろん法律家だ)そう読んだ(最高裁はおそらくこの論点には触れていないと思われるが未確認)。
> P.S.立花氏が挙げている NY州刑事訴訟法の伝聞例外条項って何の事?
『ロッキード裁判批判を斬る』第3巻第46章(英米法には伝聞法則の例外がないとする主張などへの反駁)、162頁からの孫引き。ただしポイントになる部分以外は省略したので、省略部分がお知りになりたければ当該の巻をご参照いただきたい。
「明文による別段の定めがある場合を除き、(…)相手方が喚問したすべての証人に対し反対尋問をすることができる」(第60・15条第1項)
これはつまり、コーチャンらの嘱託尋問調書のようなについては反対尋問権が保障されていないということ。
「(…)本法に別段の定めがある場合を除き、右の信頼性があると思われる証拠の中には、伝聞証拠が含まれる」(第70・10条第2項)
他にもこの章では、英米法が伝聞証拠絶対排除ではないことが論じられている。大陸法に関する沢登氏の議論についても、沢登氏自身が訳した文献をもとに再反論している。
立花隆の本を読んでおいた方があなたにとって有利だと申し上げたことの意味が分かっていただけだだろうか?
> 憲法において一番重要なのは,国民の権利に関する規定であって,9条ではないというのが,小室直樹博士の趣旨です.
まったく的外れ。私が問題にしていたのは、条文の解釈が制定時の条文作成者の意図によってのみ規定されるかどうかという問題。9条の重要性に関する小室直樹の意見を問題にしたいのではありません。
さて、前回いただいたコメント中に
> 石島泰氏は,文理的に,死んだ,国外にいるなどは,同じ情况を並列したもので,だから,供述後国外に出たのだと述べているけど,実際の議論の状況もその通りだという事.
という箇所がある。「実際の議論の状況もその通り」という部分はAngelix氏自身が引用したGoogleの検索結果があっさりと反駁してしまったわけであるが、もうすこし石島弁護士自身の議論に即して反論してみたい。問題になっているのは刑訴法321条における「供述者が死亡、精神若しくは身体の故障、所在不明又は国外にいるため公判準備又は公判期日において供述することができず」という一節における「国外にいるため」の解釈である。もしこれが「証言の時点では国内にいたが、その後国外にでた」というケースだけを指すのであれば、コーチャン等にはあてはまらず、それゆえ嘱託尋問調書の証拠採用はできないということになる。石島弁護士の主張は次のようなものである。「死亡」という要件に注目してみるなら、「証言の時点ですでに死んでいる」ということはあり得ない。つまり「証言の時点では生きていたが、その後死亡した」というケースしか考えられないわけである。それゆえ、もし先の引用部分を「同じ情況を並列したもの」と読むなら、「証言の時点では国内にいたがその後出国した」ケースに限って読むのが正しい、ということである。
しかしながら、「死亡」というケースの特殊性に注目するならばまったく異なる解釈も可能である。ここで例示されているのは「死亡」「精神の故障」「身体の故障」「所在不明」「国外にいる」の五つであるが、これらのうちただ「死亡」だけが「証言の時点ではその要件を満たしていなかったが、その後満たすようになった」という事態があり得ない要件である。それ以外のものについてはすべて「証言の時点では○○ではなかったが、その後○○になった」ということがあり得る事情ばかりである。この点に注目するなら、原理的な違いをもつ要件が一つ入っているのである。とすれば、ここは「同じ情況を列挙したもの」とはそもそも読めない、という解釈だって充分成立することになる。「死亡」というケースの特殊性に依拠した議論は、結局のところ「制限列挙」か「例示列挙」かを決定できないのではないだろうか。
Posted: Thu - July 29, 2004 at 06:49 PM Apes! Not Monkeys! News at Issue Previous Next Comments (4)
新資料を読んでの感想 その2
『朝日ジャーナル』での公開論争を読んで…
「あなたは子どもを虐待するのを止めたのか?」といった質問に類する詭弁
「新資料」とはいっても20年前の雑誌である。詳しくはぼちぼちととりあげていくので、まずは極めておおざっぱな印象についてのみ。両者の議論の詳細には立ち入らず、「論争」企画としての評価をば。
立花隆の寄稿分だけを読んでいても感じていたことだが、やはり編集部がもっと事前の準備をしておくべきだったと思われる。もちろん、『朝日ジャーナル』に対して「反論させろ」と要求した渡部昇一にはそこでの立花隆の連載への「反論」として議論を組み立てる義務があろう。だが、論争自体は『諸君』『文藝春秋』なども加えて展開されており、どこを出発点として議論を始めるのかが曖昧になってしまうおそれがあったのも確かである。あらかじめ両当事者に「渡部昇一の裁判批判を出発点として議論を始めるのか」「立花隆の連載を出発点として議論を始めるのか」、さらには「主要な論点としてはなにを選ぶのか」を確認し、調整したうえで論争を始めるべきであろう。これは必ずしもこの論争だけの問題ではなく、日本における各種の論争やシンポジウムの類いに共通する問題であるが、司会者なりコーディネーターなり編集者が充分その役割を果たしていないということである。
両者のすれ違いぶりは、立花隆の寄稿分第3回目(全体としては6回目)、すなわち半ばを過ぎてから、『朝日ジャーナル』での連載を前提として論争するつもりなのかそれともゼロからやり直すつもりなのか、という質問が出てきているところに端的に現れている。これでは議論が煮詰まらなくて当然であろう。
また、立花隆の側も大人げないと言えば大人げない。自分の土俵での公開論争なのであるから、とりあえずは相手のペースにあわせて(つまりは、第1回での渡部昇一の質問に答えたうえでその問題そのものの誤りを指摘するというかたちで)議論していけば、かえって相手を追いつめられたのではないだろうか。渡部昇一の問いのナンセンスさに腹が立ったというのは理解できるにしても、結果として不毛なやりとりにずいぶんと紙数を割く結果を招いてしまった。
とはいえ、論争第1回での渡部昇一の最初の問い、「角栄側がコーチャン等に反対尋問をやる機会を与えられていなかったというの本当か」は2重の意味で不当な問いと言うべきだろう。まずなによりも、立花隆がそれまでに発表してきた文章を読んでいれば、こんなことを問う意味はない、という点で。第二に、これは「イエスかノーか」では答えられない不当な問いであるという点で。
例えば誰かがあなたに「お前は子どもを虐待するのを止めたのか?」と問うたとしよう。この問いは、イエスと答えたとしてもノーと答えたとしても「過去においては子どもを虐待していた」ことを認めてしまうことになってしまうという、古代ギリシャから知られている詭弁である(もちろん、過去に子どもを虐待したことが判明している相手に対する問いとしては不当ではない)。つまり、この問いが意味を持つのは、コーチャン等がロッキード公判において検察側の証人として出廷していた場合に限られるのであるが、実際にはそうした事実がなかったのである。コーチャン等の証言を記録した調書は「証人が出廷して証言できない」場合を想定した刑訴法321条にもとづいて採用されたのである。したがって、そうした事情を踏まえているならこの問いは
・嘱託尋問にあたって田中側が立ち会っていないのは事実かどうか。また立ち会っていないことは妥当かどうか。
・(田中側が立ち会っていない)捜査段階での証人尋問の調書を証拠採用することは妥当かどうか。
・この調書への実質的反対尋問としての証人尋問が却下されたというのは本当かどうか、また却下されたことは妥当か。
という具合に細分化されねばならない(3点目について言えば、さらに調書の証拠調べが終わってから3年後に証人申請がなされたという事情も考慮に入れなければならない)。問題のこうした複雑さを無視して「反対尋問が許されなかったのは本当か」という問いをたてるのは、ロッキード裁判を論じるのに必要な知識を欠いているか、あるいは詭弁を弄しているかのどちらでしかない。
Posted: Thu - July 29, 2004 at 10:19 PM Apes! Not Monkeys! Bad News Previous Next Comment (0)
ロッキード裁判論議についての論点整理(30日1時過ぎに一部更新)
お疲れとのことであるから、論点を整理することそれ自体についてはご異存がないものと思う。
もちろん、以下の整理に異存があれば別の整理を提案していただいても結構である。また、この提案はAngelix氏以外の方(いらっしゃればだが…)にも開かれている。
(1)まず、刑訴法321条は一般論として「公判において証人として出廷し、証言を行わなかった」人間の、公判期日外における証言を記録した調書を証拠として採用してよい場合を想定している、ということを認めるか?
(2)もし認めるなら、問題は「ロッキード裁判では反対尋問権が奪われた」といったレベルにおいてではなく、
・嘱託尋問の実施過程において田中側が立ち会っていなかったことは妥当か?
・この嘱託尋問調書の証拠採用は刑訴法321条その他に照らして妥当か?(「国外にいるため」の解釈も含む)
・1982年の田中側の証人申請が却下されたことは妥当か?
といったレベルにおいてなされねばならないことになる。
もし(1)において「認めない」というなら
(2')ロッキード裁判(一、二審の判決)そのものではなく、刑訴法321条の妥当性そのものを巡る(ロッキード裁判に限定されない)議論ということになる。
さらにコーチャン等の嘱託尋問調書を証拠採用しなかった最高裁判決でも(田中以外の被告の)有罪が動かなかったことを踏まえるなら、
(3)ロッキード裁判丸紅ルートにおけるコーチャン等の嘱託尋問調書の位置づけ、および捜査段階での証拠収集プロセスでの瑕疵と判決との関係に関する議論(mayson氏お気に入りのデュー・プロセスを巡る議論)をすることもできる。
私の整理では、「反対尋問権」云々については、(1)への問いへの答えに応じて(2)ないし(2')を議論する、(1)をとりあえず棚上げして(3)を議論する、のいずれかしかロッキード裁判に関しては残された論点は考えられない。もちろん、この整理を説得的に覆していただければ話しは別であるが。
以下、30日午前1時過ぎに更新した部分。
(1)に先立ってお尋ねおくべき問いがあることに思い至った。
(0)法解釈をめぐる議論において専門家の間でも見解が分かれるようなケースにおいて、それが被告の利益になるのであればどれほど少数派の、極端な説であっても裁判所はそれを採用すべきなのか? それとも弁護側が被告人の利益につながるとあれば極論を主張するのも当然であるが、裁判官はまずもって通説および判例を尊重するのが妥当であるのか? Angelix氏はいずれの立場をとられるのか。そしてその根拠は何か?
Posted: Thu - July 29, 2004 at 11:01 PM Apes! Not Monkeys! News at Issue Next Comment (0)
ロッキード裁判、論点は何か(17時40分付記)
なぜ当方の論点整理には応じないのかを考える
Angelix氏にしてもmayson氏にしても当方が行った論点の整理にはご不満のようである(Angelix氏については単にお疲れなだけかもしれないが)。さて、よく考えてみると彼らは
(1)暗黒裁判は許されるかどうか?
が本来の争点だと思っている節がある。だからこそロ裁判批判に反論すると「リーガル・マインドを全く欠いた斉東野人」といったレッテルを貼りたがる。まるでこちらがお白州裁判を肯定する前近代主義者であるかのようにである。たしかにお白州裁判を望むメンタリティが日本社会に根強いのは確かである。オウム裁判や和歌山毒物カレー裁判で被告人が沈黙を守ると「けしからん」と騒ぐ人間が存在することからも明らかなように。しかし立花隆にせよ私にせよ、2ちゃんねるの過去ログでロ裁判批判に反論していた人々にしても、「暗黒裁判おおいにけっこう」などとは主張していない。一貫して問題にしているのは
(2)そもそもロッキード裁判は暗黒裁判だったのかどうか?
なのである。ところが批判派は(2)については渡部昇一他の粗雑な議論を引き写すだけでまともに議論しようとせず、お前は暗黒裁判を肯定している、と非難するのである。おそらく(2)よりも(1)の方がより原理的、基本的な問題であり、それゆえ(1)を問題にする自分たちの方が上等な人間だと思っているのではないだろうか。刑事裁判一般を問題にするのならそれでも結構だ。しかし個別の裁判を題材にして(1)を論じるならば、まずは(2)をしっかり片付けておく必要があることは言うまでもない。そもそも(1)については議論の余地など本来ないのである。小室信者、渡部信者に問いたい。あなたはデタラメな事実認識に基づいて裁判を批判することが、近代法の原理を擁護することに資すると思いますか? 弁護人の戦略としては、とにかく被告のために使える手は何でも使う、というのもありだろう。しかし当事者でない立場から裁判を評価するなら、実際の裁判の経過を踏まえて議論しなければ無意味ではないだろうか。
厄介なのは、小室信者のロ裁判批判者は被告人の権利を擁護するために努力していると考えており、おそらく主観的にはたしかにそうなのであろう、という点である。この自負があまりに強烈であるために、裁判に関する事実誤認と相まって「近代法の原則を充分踏まえたうえで、なおロ裁判を肯定する人間」さらには「近代法の原則を守ろうとするためにこそ、ロ裁判を擁護しようとする人間」の存在が理解できないのである。裁判批判に反論するやつはみんな検察のイヌに見えるのである。
裁判批判派が好んで口にする「角を縛る法は丸も三角も縛る」という論法について考えてみよう。だれもそんなことは否定していないのである。この表現は渡部昇一が使ったものだったと記憶しているが、身障者抹殺論者にそんなことを教えてもらわなくてもとっくに承知なのである。問題なのは、じゃあ「丸や三角」もが縛られることになると困るような法運用が「角」に対してあったかどうかなのである。こちらはそれがなかったと主張しているのであり、角についてだけ法を曲げて有罪にせよなどと言っているのではない。さらに、裁判批判派は「丸や三角を縛る法が角を滅多に縛らない」という現実の方にはほおかむりをしている。どこの国でも金と権力を持っている人間が法の裁きを免れることはしょっちゅうある。この観点から考えるなら、ロッキード裁判は「丸や三角を縛る法がちゃんと角も縛るか」どうかの瀬戸際だったのである。つまりデタラメな裁判批判論に反論するのは「丸や三角を縛らない法で角だけ縛る」ことを目指すためでも、「角を縛った法で自分のクビを縛る」ためでもなく、「丸や三角を縛る法がちゃんと角も縛る」ことを願えばこそ、なのである。このような、議論の動機の部分でとんでもなくバイアスのかかった認識を持っているが故に、「裁判批判」批判の言説をすべて「検察の論理の代弁」としてしか理解できないのであろう。「丸や三角を縛る法が角を滅多に縛らない」という事態は国民の権利への侵害が放置されているということであり、国民の権利を護るためにこそ「丸や三角を縛る法がちゃんと角も縛る」ことを求めているのである。抽象的原理に溺れて現実をみない、小室信者らしい顛末ではある。法の下の平等という理念が踏みにじられているという現実に目をつむって抽象的な理念を議論するから、この理念を実現するためにこそロッキード裁判を擁護するというロジックが理解できないのであろう。
付記:しかも抽象的な議論としては筋が通っているというのならともかく、「後件肯定の虚偽」に代表される誤謬が散見されることはすでに示したし、渡部昇一については今後も明らかにしてゆく予定である。
全くの余談。「神保・宮台 丸激トーク・オン・デマンド」のフリーコンテンツで立花隆の講演(演題は「日本の運命 小泉の運命」)を以前に観たのだが、やたらと「ええっと〜」がはいる、到底弁舌さわやかとは言えない喋り方だった。きっちり原稿をつくっての講演ではなかったのだろうか。
Posted: Sat - July 31, 2004 at 02:07 PM Apes! Not Monkeys! News at Issue Previous Next Comment (0)
エピゴーネンの思考パターン
小室直樹の『論理の方法』(東洋経済新報社)を探しにいって…
小室直樹に『論理の方法』という著書がある。後件肯定の虚偽などについても解説しているのだろうかと思って書店に行ってみたが、副題が「社会科学のためのモデル」で、論理学の本ではなく社会科学におけるモデルに関する本であった。というわけで買うのは止めたのだが、それでも収穫があった。「序章」に「本質的なことだけを強調」「捨象、抽象」という文言を見つけたからだ。これで小室直樹エピゴーネンのロ裁判批判におけるふるまいに関する立花隆や496氏、私の分析がほぼ的を得ていたことがはっきりした。要するに教祖のご託宣を断片的に鵜呑みにしてしまったわけだ。
確かにモデルを「つくる」という場面では非本質的なものを捨象することになる。間違って本質的な部分を捨象してしまえば間違ったモデルが出来上がることになるし、首尾よく本質的な部分を残して抽象化できればいいモデルが出来上がるわけだ。だが信者が忘れているのは、
・とり扱う事象により、要求される抽象化のレベルは異なる
・モデルを「使う」、ないし「検証する」場面では具体的なデータに触れなければならない
という点なのである。例えばお白州裁判と現在の日本の裁判とを比較するのであれば小室信者が振り回す抽象的なモデルが(英米法と現在の日本の法体系の違いを軽視している点を除けば)役に立つ。だが、ロ裁判批判に関して問題になっているのはそんなことではない。彼らはロ裁判が近代法の原則を踏みにじっていると批判するのだが、本当に踏みにじっているかどうかを決して具体的に検証しようとしない。彼らの議論は要するに
大前提:被告の反対尋問権を奪った裁判はすべて暗黒裁判である
小前提:ロッキード裁判では被告の反対尋問権が奪われた
結論:ロッキード裁判は暗黒裁判である
という三段論法なのだが、小前提の正しさについては渡部昇一を鵜呑みにするだけで、けっして裁判の実態を調べようとはしないのである。さらに大前提についても過度の単純化を行っている。上で述べたようにお白州裁判と現代日本の裁判を比較するのならこのレベルの抽象化でもよい。しかし現代の日本における個別の裁判を論じるのであれば、「反対尋問権」がなにに対して、どのような制約の範囲内で保証されているのかを考えなければならないのである。つまり、この場合正しい議論は
大前提:被告の反対尋問権を、法の趣旨を踏まえた合理的な範囲を超えて制約した裁判は暗黒裁判だ
小前提:ロッキード裁判では、被告の反対尋問権が法の趣旨を踏まえた合理的な範囲を超えて制約された
結論:ロッキード裁判は暗黒裁判だ
という具合に組み立てられねばならないのだ。このように議論を組み立てるなら、「法の趣旨を踏まえた合理的な範囲」の制約とはどのようなものか、またロッキード裁判の判決はこの制約の範囲内に収まるものかどうか、を論じなければならないことがわかるはずである。
相手の思考パターンが理解できたのはよいのだが、これは厄介なことだとも思うようになった。彼らが具体的な事実の検証を拒否する(例えば、コーチャン等への田中側の証人申請はいったいなにを立証趣旨としていたのか、など)のは、単に自分たちのデータ不足を糊塗して過度に抽象的な議論へと逃げ込むため、という消極的な動機に基づくのではなく、むしろ細かな事実関係などに拘泥するのは小室センセイの教えに従えば間違っている! という積極的な動機に基づいている可能性が出てくるからである。本質的なものと本質的でないものとを見分けるためにはまずは事実にあたってみなければわからないはずなのに、彼らは渡部昇一を鵜呑みにした結果「角栄は反対尋問権を奪われた」が本質的なことだと信じてやまない。それ以上詳しい事実関係を論じることは社会科学的思考ではない、と思い込んでいるおそれがあるわけだ。具体的事実を知らないことに後ろめたさをもっているならともかく、それを誇りにしているとなるとこれはなんとも厄介である。「資本主義の精神」とロッキード裁判とを同じレベルの抽象度で語れると思っている相手に、具体的事実を踏まえて裁判を論じることの必要性をどうすれば納得させられるか…。
Posted: Sun - August 1, 2004 at 01:35 PM Apes! Not Monkeys! News at Issue Previous Next Comment (0)
やっぱり丸山眞男は偉大だった!?
小室エピゴーネンを観察する機会に恵まれたおかげで、丸山眞男の偉大さが浮き彫りに…
丸山の日本思想史におけるキーワードの一つに、福澤から借りた「惑溺」という語がある。原理原則に対する日本社会の態度を、原理を軽視する機会主義と原理原則への「惑溺」という両極端で中庸がない、というかたちで批判したものだ(おおざっぱなまとめだが)。この図式によれば、小室エピゴーネンは機会主義を叱る教祖のおことばをありがたがるがゆえに「惑溺」の側に落ち込んでしまったということができるだろう。東大出版界からでている講義録はとりあえず真ん中の2巻だけ買ってあるんだけど、やはり全部買っておいた方がいいだろうか。ただ、これをそろえると後は書簡集に座談集…と蟻地獄が待っているし…。
Posted: Sun - August 1, 2004 at 10:04 PM Apes! Not Monkeys! News at Issue Previous Next Comment (0)
ロ裁判批判派のための未解決問題集
以下の問いに答えられないのになおロッキード裁判を「暗黒裁判」と呼ぶのは、福沢−丸山流に言えば単なる「原理原則への惑溺」にすぎない。
また、記事数が多くなりすぎたので、カテゴリーを新設。ロ裁判に関する記事は "Lockheed Affair" に集約しました。
さて、これまでロ裁判批判論者とやりとりを続けてきて、こちらが明示的に、あるいは暗示的に提起したにもかかわらずきちんとした(言い逃れや詭弁ではない)回答が得られていない問いのリストを作成しておく。これらの問いは、ロ裁判批判論がいかに事実を無視して議論をたてているか、いかに空中楼閣を築いて得々としているを示している。
まずはロッキード裁判について論じることの意味に関わる、いわば哲学的な問題。
・事実誤認に基づき個別の裁判における有罪判決を批判したからといって、それは近代法の原則に則り被告人の権利を擁護することにならない、ということが理解できるか?
・刑事事件の中でも収賄のような権力者の犯罪については、それを厳正かつ公正に追求することがすなわち公権力から国民を護ることにつながる、ということが理解できるか? しきりと「角も縛る法は丸も三角も縛る」ということを強調するが、権力者ほど法の裁きを逃れるという傾向、すなわち「丸も三角も縛る法が、なかなか角は縛らない」という現実は認めないのか? 具体的な根拠無きロッキード裁判批判は、「被告人になる可能性のあるすべての国民の権利」を護ることではなく、むしろあらゆる手段を使って法の裁きを逃れようとする権力者に手を貸すことになる、ということが理解できるか?
・要するに、こちらの目標は「法の下の平等」という理念を実現することだ、ということが理解できるか? 「政治権力者の処分は,刑事裁判ではなく,国会の問題です」(Angelix氏のコメントより)というような発想は政治的責任と刑事責任とを混同し、政治家が刑事責任を回避することを容認するロジックであることが理解できるか? 政治家の刑事責任を厳正かつ公正に追及することは「政界浄化の名の下に,刑事訴訟法を曲げる」(同じくAngelix氏のコメントより)ことなどではさらさらなく、単に「法の下の平等」という理念に基づく行動であることが理解できるか?
次に、ロッキード裁判論争の本来の争点がなんであるかに関する、テクニカルな問題。
・ロ裁判批判論者は刑訴法321条それ自体が違憲だと主張しているのか、それとも321条自体は合憲だがコーチャン等への嘱託尋問調書はその要件を満たさないと考えているのか。(いずれを選ぶかで議論のフィールドは全く異なってくることになる。ちなみにmayson氏がこの問いに答えられないのは、さすがに321条をそっくり違憲だとする覚悟はないものの、それ以外に嘱託尋問調書を斥けるロジックを思いつかないからであると推測している。)
・コーチャン等の嘱託尋問調書が「伝聞法則」の例外として証拠採用可能かどうかを論じているときに、ペリー・メイスンシリーズの「オウム」のエピソードなどをひきあいに出し、伝聞法則を強調したところで何の意味もないことは理解できるか?
・刑訴法226条にもとづく証人尋問が捜査段階で行われるものであって、その調書が公判に提出されることを226条は必ずしも前提としてはいないこと、調書は直ちに検察側に引き渡され、公判で検察側が証拠申請することによってはじめて公判という場に登場すること、が理解できるか?
・上と関連するが、「証人」が存在する以上その証人は公判における証人であるとする珍説の根拠は何か? 言い換えれば、226条に基づく証人尋問の証人に対して、被告人が公判における証人に対してもつのと全く同じ、寸分違わぬ権利を持つと考える根拠は何か?(「証人だから」、というのはダメ)。
・さらに上と関連して、刑訴法228条における「裁判官は、捜査に支障を生ずる虞がないと認めるときは、被告人、被疑者又は弁護人を前項の尋問に立ち会わせることができる」という規定が、憲法37条や刑訴法157条よりはるかに弱い権利しか被告人に認めていないのはなぜだと理解しているのか? また226条は被告も被疑者も存在しない時点での証人尋問をも想定した規定であるが、その場合いったい誰が「反対尋問権」をもつというのか?
・反対尋問は主尋問が終わった時点で行う旨を告げるのが通常の手続きであることは知っているか?
・裁判官には訴訟指揮権があり、必要性のない証人尋問(請求者がその必要性を明確にできなかった証人尋問)についてはこれを却下する権限を持つことを認めるか? それとも被告人の請求はいついかなる場合でも認められねばならず、恣意的な裁判引き延ばしが行われることも許容すべきだと考えるのか?
・コーチャン等への嘱託尋問調書の証拠調べは1979年に終わっていること、田中弁護団がコーチャン等への証人尋問を実際に請求したのはその3年後であることを認めるか? またこの証人尋問の立証趣旨はなんであったか?
・もし82年における証人申請の立証趣旨がまったく曖昧、あるいは抽象的で実質を欠くものであったとすれば、その請求を裁判所が却下したとしても「反対尋問権を実質的に奪った」ことにはならない、ということが理解できるか?
・上の問いに対して「理解できない」と答えるなら、それは実質的に裁判の無際限な引き延ばしを可能にすることになる、ということが理解できるか?
・英米法においても伝聞原則(伝聞証拠排除の原則)は「神聖ニシテ侵スベカラ」ざるものではなく、一定の例外が存在することを認めるのか?
最後に、裁判批判論エピゴーネンの知的誠実さに関する問い。
・小室直樹と渡部昇一の文献だけを読み立花隆の文献については全く読んでいないのに、前二者のロ裁判批判論を盲信するのであれば「信者」と揶揄されてもしかたないと思うが、どうか?
Posted: Sun - August 1, 2004 at 11:30 PM Apes! Not Monkeys! Lockheed Affair Next Comment (0)
『ロッキード裁判とその時代』読書日記 1
立花隆、『ロッキード裁判とその時代』(全4巻、朝日文庫)
とりあえず第1巻を読み終わり、第2巻にはいったところ。このシリーズのもとになる連載は1977年2月11日号から83年11月18日号まで連載され、単行本はそれぞれ81年、83年、83年、85年に刊行されている。4巻を除くとすべて渡部昇一の「暗黒裁判」論が発表される前に単行本化されていることに留意されたい。なにが言いたいかというと、少なくとも3巻までの記述は後に「暗黒裁判論」が展開されることを想定せずに書かれているということである。これがどのような意味を持つかは、いずれ渡部昇一のテクストに即して明らかにしてゆく。
本書はリアルタイムで裁判をフォローした傍聴記部分とバックグラウンドクロニクル部分とからなっているが、被告側の弁護戦術に関する立花隆の予測があるところでは的中し、また別のところでは外れている(その旨注記がある)のがまず面白いところ。また、田中角栄だけを焦点にしたロ裁判批判論争を読んでいるだけではわからないことだが、この裁判の被告たちの利害が微妙に対立していることが露呈する場面が最高に面白い。ごくおおざっぱにわけても田中側、丸紅側、全日空側、小佐野側、児玉側と5つの弁護団に分かれるわけだが、例えば丸紅側にしても全日空側にしても一枚岩というわけではない。丸紅側は基本的に金銭の授受ではあまり争わず、ロッキードと全日空に頼まれてメッセンジャー役をしただけと主張する方針をもっていた。ところが田中側と全日空側が全面否認を基本戦略としてしまったため、丸紅側が板挟みにあうわけである。そのため、証人尋問のシーンで思わず爆笑するようなところがいくつかある。例えば丸紅ルートの第44回公判で証人として出廷した渡辺全日空副社長の証人尋問。弁護方針に従って、ほぼ全面的に自供していた検事調書での供述を「それはウソを述べました」「全くのウソです」「デタラメです」と覆してゆく。これに対してなんと丸紅側の弁護人が「聞いていると、まるで全日空ルートでの偽証のリハーサルをさせているようです」と異論を述べたというのである(笑) 検察側ではない。丸紅側弁護人がである。なぜこんなことになるかといえば、全日空側が知らぬ存ぜぬを通せば、丸紅側が自らのイニシアティヴで「灰色高官」に金を贈ったことになってしまうからである。これは2巻のはじめの方に書かれているエピソードだが、1巻でも似たようなエピソードがいくつか紹介されている。例えば丸紅ルートでの罪状認否の場面。丸紅側は各被告によって程度の差はあるものの、容疑事実を全面否定することはしなかった。5億円の授受に関わったことは否認しきれないと判断したのであろう。あとはいかに「自ら望んで、積極的に関わったのではない」ことを訴えるか、を主眼においたのである。これに対して田中角栄が全面否認を宣言した場面。立花によれば次の通りである。
このときおもしろかったのは、丸紅側弁護団の表情である。被告のうち伊藤と大久保はうつむき加減で無表情に聞いていたが、弁護人たちは、一種のあきれ顔で、「あの男はほんとにまあよくいうよ」とでもいいたげな表情をしながら、田中の姿を見守っていた。桧山もまた、同じようなあきれ顔を、ちょっとの間ではあったが露骨に示して、田中に目をやった。おそらく、田中側が金の受領を認めて、金の趣旨で争ってくれれば、丸紅側もこんなにも苦労しなくてすむのにと思っている様子がありありとうかがわれた。(第1巻、78頁)
こういった記述を引用すると、裁判批判派からは「立花隆は田中=有罪という予断を持っていたからそう見えたんだ」という反論がありそうである。もちろん、その可能性はある。実際に裁判を傍聴した人間は文書からは抜け落ちる被告や証人の身体言語(しぐさや表情、声の調子)を目撃することができ、それによって文書だけでは判断できない真実を知りうる可能性があると同時に、そうした身体言語が与える印象によってミスリードされることもあり得るからである。しかし、丸紅側と田中側の弁護方針に齟齬があることは文書として残された各被告の罪状認否をみれば実際に確認できることである。そのような齟齬を前提にするなら、上のような立花隆の観察には相当な信頼性があると判断できるのである。ちなみに、嘱託尋問調書の証拠採用を巡る争いについては1巻の後半から2巻にかけて記述されている。ロ裁判批判派は実際に法廷でどのようなやりとりがあったのか、ご覧になるとよい。なお、免責付与という論点を巡る次のような記述は非常に興味深い。
この点に関する検察側の主張は次の通りである。すなわち、起訴便宜主義は刑訴法1条の目的の範囲内で検察にその運用を任されている権限の行使である。この場合コーチャン等を起訴することは事実上不可能であるという前提があるのだから、彼らを不起訴にすることによって失われる公益より、彼らを不起訴にすることによって得られる公益の方が大きく、これは刑訴法の目的に合致する、というのである。
これに対する弁護側の主張は次のようなものである。刑事手続きの問題は、単に公益の比較でどちらが得かというように考えて決められるべき問題ではなく、公益の中には、それが他と比較してどれほど小さい益であろうと決して失ってはならない法益がある。それゆえ、公益比較論は誤りである…。おそらく小室エピゴーネンの発想もこうしたものだと思われる。これに対して、立花隆は次のように言う(2巻68−69頁)。
この〔弁護側の。引用者〕主張は、その前段はまことに正しい。たとえそれが一人をのぞく万人の益になることであっても、それが一人の人間の基本的人権にかかわるような問題であれば、その一人の人間の側の法益が守られなければならない。そうではないというものがあるとすれば、それはファッショの論理である。
前段はあまりにも正しい一般論であるが、その一般論から、媒概念抜きに一挙に結論が導かれるところに弁護側の主張のおかしさがある。弁護側が正しく論理を展開するためには、それ自体正しい一般論の次に、では、どんなに小さくても無視されてはならない法益として具体的に何があり、そのうちのどれが検察側の論理の中で、単なる比較考量の対象の結果として退けられてしまったかということを述べねばならない。そこを弁護側が述べることができないところが弱い。これでは弁護側の論理は、三段論法の二段目が欠けた、誤謬論理の典型の一つである二段論法になってしまっている。
小室直樹読者は論理に強いことがご自慢のようであるから、特に解説の必要はないであろう。これこそまさに、私が繰り返し指摘してきたことである。同時に、批判派が立花隆や私に投げかけてきた非難の不当性も明らかにしている。
被告の反対尋問権を奪う裁判は暗黒裁判だ!——ごもっとも。
それゆえ、ロッキード裁判は暗黒裁判だ!——いやちょっと待って。どういう意味でロ裁判では反対尋問権が奪われたと言ってるの?
反対尋問権を奪った!——いやだから、具体的にどういうことなの? って聞いてるじゃない。
お前は暗黒裁判を肯定するのか!?——誰もそんなこと言ってないって。
お前は検察のイヌか!——なんでそうなるのかな。
暗黒裁判はけしからん!——そんなこと百も承知だって。
ロッキード裁判は暗黒裁判だ!——やれやれ…。
Posted: Tue - August 3, 2004 at 12:44 AM Apes! Not Monkeys! Lockheed Affair Previous Next Comment (0)
コメントが消えてしまっていたので…
「Angelix氏へ(反論と提案)」と題した記事へのコメントが消えてしまっていた
どうやら、記事内容を更新したときかカテゴリーを新設して移動させた際に消えてしまったらしい。申し訳ございません。
大まかな内容は、私がニューヨーク州の刑訴法を立花隆からの孫引きで、要点以外を省略して引用したところ「図書館が遠いので確認できない」というクレームがあったため、「資料もないのに裁判批判をすることは正当化されない」という私の抗議とともに、当該の条文を掲載したサイトのURLを示したというもの。以下に条文を引用する。いずれも、下線は引用者。これを読めば、英米法では伝聞法則が例外をもたないというのが単なるヨタだということは明白。
S 60.15 Rules of evidence; what witnesses may be called.
1. Unless otherwise expressly provided, in any criminal proceeding
involving a defendant in which evidence is or may be received, both the
people and the defendant may as a matter of right call and examine
witnesses, and each party may cross-examine every witness called by the
other party.
2. A defendant may testify in his own behalf, but his failure to do
so is not a factor from which any inference unfavorable to him may be
drawn.
ARTICLE 70--STANDARDS OF PROOF
Section 70.10 Standards of proof; definitions of terms.
70.20 Standards of proof for conviction.
S 70.10 Standards of proof; definitions of terms.
The following definitions are applicable to this chapter:
1. "Legally sufficient evidence" means competent evidence which, if
accepted as true, would establish every element of an offense charged
and the defendant`s commission thereof; except that such evidence is not
legally sufficient when corroboration required by law is absent.
2. "Reasonable cause to believe that a person has committed an
offense" exists when evidence or information which appears reliable
discloses facts or circumstances which are collectively of such weight
and persuasiveness as to convince a person of ordinary intelligence,
judgment and experience that it is reasonably likely that such offense
was committed and that such person committed it. Except as otherwise
provided in this chapter, such apparently reliable evidence may include
or consist of hearsay.
S 70.20 Standards of proof for conviction.
No conviction of an offense by verdict is valid unless based upon
trial evidence which is legally sufficient and which establishes beyond
a reasonable doubt every element of such offense and the defendant`s
commission thereof.
Posted: Tue - August 3, 2004 at 09:15 PM Apes! Not Monkeys! Lockheed Affair Previous Next Comments (8)
『ロッキード裁判とその時代』読書日記 2
読んでいて、渡部・小室エピゴーネンがだんだん哀れになってきた…
立花隆、『ロッキード裁判とその時代』(全4巻、朝日文庫)
まもなく第2巻を読み終わろうとするところ。各法廷での被告および証人の証言、特に丸紅伊藤、大久保両被告の法廷証言は非常に興味深い。はっきりいって、渡部昇一を鵜呑みにして「コーチャン等の嘱託尋問調書がなければ田中は無罪だったはず」と主張している人々が哀れになってきた。あなたたち、渡部昇一にだまされてますよ。
例えば丸紅ルート第91回公判での伊藤被告の法廷証言(被告人質問に対する)。四回にわたってロッキードから預かった段ボールを榎本に渡したこと、その中に現金が入っていると認識していたことを証言。事件発覚後、田中側から金を返そうかと言ってきたが断ったことも証言。これでもなお「5億円が問題にされたということをほとんど聞いたことがない」などとのたまう人間を信用するのだろうか。
さらに言えば、小室直樹の「ご託宣」をむやみに振り回すのも止めた方がいい。「教祖様」の評判を下げるだけだから。英米法のもとでの裁判の理念型を振りかざすだけで、日本における個別の裁判を批判できると思ったら大間違い。
Posted: Tue - August 3, 2004 at 09:24 PM Apes! Not Monkeys! Lockheed Affair Previous Next Comment (0)
Angelix氏の8月3日付けコメントへ
こちらもちょうど仕事が一段落ついたところなので、絶好のタイミング。
なお、コメントの一部が消えてしまっていたことについてはお詫び申し上げる。NY州刑訴法については別記事で引用しておいた。
さて、ひさしぶり(といってもこのトピックに関するこちらの更新ペースに比較しての話しであるが)Angelix氏からコメントをいただいた。8月1日付けの「ロ裁判批判派のための未解決問題集」と題する記事へのコメントである。
>一つの論旨を表す二つの文をぶった切って意味をきちんと取らず,また,現実の権力者の利益になるはずもない主張をしている
>人間を権力の手先とか言い出す妄想にはつきあいきれません.
前段は私の議論のどの部分を指しているのかよくわからない。文脈から想像するとコメント元の記事での私の
・事実誤認に基づき個別の裁判における有罪判決を批判したからといって、それは近代法の原則に則り被告人の権利を擁護することにならない、ということが理解できるか?
という質問を指しているように思われるのだが、それでよろしいか? もしそうなら、ここで私が問うていることは極めて真っ当なことだと思うのだが、どういう点で「意味をきちんと」とっていないというのか、説明していただきたい。
後段についてはいまさらなにを言うかという感じ。ロ裁判批判論は、当時の権力者である田中角栄の利益になる(もしそれがもっともな主張で社会に受けいれられるなら)内容だったのである。もちろん、事実をふまえた裁判批判であれば、被告が誰であろうとなされるべきである。しかし根拠のない裁判批判は「被告人の権利を守る」ことにはならず、単に国民の権利を侵害するだけではないか。
> それと,英米法の伝聞例外って具体的に何なのか訊いているのに答えていませんね.
これについては、当該の条文へのリンクを貼ったコメントが消えてしまっていたのでお目にとまったかどうかはわからない。改めて別記事で引用しておいた。特に$70.10を読めば、「別に定めがない限り」伝聞一般を含むことは明白。自分の誕生日云々に限られる…という主張こそ立証を必要とするはず。さらに言えば、そもそもロ裁判にとっては英米法で伝聞証拠がどう扱われるかは関係のないはなしである。ロ裁判批判派があたかも英米法では伝聞証拠が絶対的に排除されているかのような議論をするので、そんなことはないと立花隆が反論しているという、ごく派生的な論点にすぎない。こちらが具体的な条文を挙げたのだから、これが「自分の誕生日に関する証言」などに限られるなどという主張はそちらで立証していただきたい。
>こちらに分かる限りでは,ただ,“例外がある”と言っているだけでしかないので,実は何も言っていないに等しいのです.
もうちょっと虚心に読んではいかが? 別に定めがない限り「伝聞を含む」と書いてあるはず。
> 後,偽証するオウムのたとえの意味が全然とれていませんね.
> 嘱託尋問調書にも反対尋問する事は出来ません.
これについては、まず伝聞法則の例外について議論しているのに伝聞法則の原則を声高に叫んでも無意味だ、とお答えしてある。あなたがこの「たとえ」を持ち出したのは、「伝聞法則」を私が知らない、と非難するためだったはず。当初、この「たとえ」の荒唐無稽さに惑わされて私の反論が脇道に逸れてしまったのも悪いのだが、刑訴法321条が320条に対する例外規定であることを前提として議論している人間に対して原則はこうだ! と主張してもなんの意味もないではないか。
「嘱託尋問調書にも反対尋問する事はできません」という点については、ばかばかしいとしかいいようがない。オウムはもともと「反対尋問」という概念が適用可能な「証人」たり得ない。他方、嘱託尋問調書についてはその証言者への新たな証人尋問が通常は可能である。可能であるならその調書は証拠として採用できないのであって、それゆえ反対尋問権が侵害されるという問題は生じない。しかしロ裁判の場合、コーチャン等に公判で供述させることができないという事情があったために321条にもとづく証拠採用が問題になったのである。「調書」そのものには反対尋問できないということであれば、裁判官面前調書であれ検察官面前調書であれ、とにかくありとあらゆる調書、文書の類いについてもそうである。「調書」に反対尋問ができないから証拠採用してはならないということなら、それは要するに321条の全否定ということになるが、そういうご趣旨なのか? もしそうならそれはそれでかまわない。しかし321条を全否定するつもりはないというなら、「調書には反対尋問できない」などという議論は通用しないのである。
なお余談だが、あなたは(法廷ドラマではなく)現実の法廷でオウムを証拠採用するかどうかが争われた場合、「反対尋問が可能かどうか」が有効な争点になるとお考えなのか?
> 渡部・立花論争の論文なら読んだよ.忘れていて,引用する事すら出来ないけどね.
それが本当なら、もう少しこちらの意表をつくような議論をしていただきたいものだ。あなたの議論の建て方を観る限り、到底立花の『ロッキード裁判批判を斬る』(ないしその単行本なり連載)を読んでいるとは思えない。もし読んでいるのであれば蒸し返すはずのない議論が蒸し返されているから。例えばコーチャン等への反対尋問で「5億円をどう用意したか」を尋ねればよい、などという主張がそれ。これは一度読めば忘れようにも忘れようがないくらい、渡部昇一の議論のデタラメさを示しているポイントだから。
> まあ,法律家の皆が賛成するのだから,渡部氏が正しいのだろうとしか思わなかったけどね.
実質的に「盲信」だという事を認めている。そもそも「法律家の皆が賛成」というソースは? 「皆」というのはロ裁判にかかわった裁判官、検事もまた「法律家」である以上厳密にはウソであるわけだが、まあこれはレトリックとして許容するしても、もし本当に法律家の大半が渡部昇一に賛成しているというのなら、とてもロ裁判の公判は維持できなかったはずだ、と考えるのが常識というものではないか? 渡部昇一が「法律家から応援の手紙をもらった」と書いているのを誇大に信じ込んだだけじゃないのですか?
> 伝聞法則の考え方として反対尋問権が出てくる事自体は法律家の考え方としてありなのは明らかなのだから.(パル判決書とか)
誰もそんなことは否定していない、と何度言えばよいのだろうか? いま問題になっているのは「伝聞法則が日本の法体系に存在するかどうか」ではなく、嘱託尋問調書の証拠採用が「伝聞法則の例外として許容されるケースかどうか」である。ここでパル判決書を持ち出すところをみると、あなたもロッキード裁判は「東京裁判以上の」暗黒裁判だと考えているのだろうか? もしそうなら、ロッキード裁判は暗黒裁判であるということをきっちり論証できない限り、東京裁判もまた暗黒裁判ではなかったと認めなくてはならなくなりますな。
念のために付言すると、私は極東軍事裁判が手続き面で多くの瑕疵をもっていたことを極めて残念に思っている。BC級戦犯の中に少なからぬ冤罪や不公平な判決があったこともそうだが、同時に東京裁判の手続上の問題がいつまでたっても戦争責任を回避するいいわけに用いられているからだ。この意味でも、手続上の問題のない裁判であればよかった、と思っている。
Posted: Tue - August 3, 2004 at 09:56 PM Apes! Not Monkeys! Lockheed Affair Previous Next Comment (0)
ネット「ロッキード裁判批判論」との論争総括
Angelix氏もmayson氏同様捨て台詞モードに入ってしまわれたので、ここらで総括をしておくことにする。
もちろん、まだやる気がおありならいくらでも応じるが。
私の誤算(とそれに起因する戦略ミス)は、ネット上のロ裁判批判論者は要するに渡部昇一の議論を鵜呑みにした政治的田中シンパが中心であろう、と考えていたところにある。もともとの関心が小室直樹および渡部昇一のロ裁判批判論にみられる事実誤認や詭弁を指摘する、というささやかなものだったこともあり、渡部昇一が見逃しているかネグっている事実を突きつけてゆけばカタがつくだろうと考えていたのである。これには半面の真実もあり、案の定「田中の容疑事実は丸紅側被告の法廷供述、田中以外の被告の検事調書、その他の証人の証言(調書を含む)、ピーナツ・ピーシズ領収書に代表される物証によって十分裏付けられていること」「田中側によるコーチャン等の証人申請が却下されたことの妥当性にかかわる、証人申請の時期と立証趣旨の問題」についてはまともな反論は皆無であった。
他にも、刑訴法226条が捜査段階での証人尋問について規定されたものだということについて、ことばを尽くして説明したのだが、Angelix氏はともかくmayson氏には通じなかった。こんな争い甲斐のない争点であれだけ粘る人間が存在するとは全く予想しなかった。なにしろ、226条が捜査段階の証人尋問についての規定だということは、ロ裁判批判派の井上弁護士がはっきりと認め、その前提のうえに議論しているのである(『諸君』1984年6月号、「主権の放棄」論)。これもまた誤算である。
だが、最近になってようやく、ネット上の小室直樹シンパの裁判批判論は、どうも本気で「近代法の理念」を啓蒙しているつもりらしいことがわかってきた。2ちゃんねる以来mayson氏がしつこく投げかけてきた「憲法知らず」といった類いの悪罵も、当初はいかにも2ちゃんねる的な煽り文句だと思ってせせら笑っていたのだが、この点は私の判断ミスであった。単なる負け惜しみではなく、本気で私が「憲法知らず」だと思っていたわけだ。「小室センセイこそは近代法の神髄を語っておられる。小室センセイに逆らうやつは斉東野人なのだ!」ということなのだろう(「検事をぶっ殺せ」とか「総理大臣は賄賂をもらってもかまわない」と語る人間にリーガル・マインドを語る資格があるかどうかはここでは問題にしないことにする)。
彼らの議論は煎じ詰めれば次のような構造をもっている。
1)近代的な裁判たるもの、これこれの条件を満たさねばならない。
2)ロッキード裁判はこれこれの条件を満たしていない。
3)それゆえ、ロッキード裁判は前近代的な暗黒裁判である。
3)が正しいのは、もちろん1)と2)が正しい場合に限る。そして私は1)についてはなんの異議も申し立ててはおらず、2)に異議を唱えているにすぎない。しかしながら、私がいくら2)を議論しようとしても彼らはそれを1)に対する異議申し立てだと理解してしまうのである。これでは議論が噛みあうはずがない。
それにしても、Angelix氏やmayson氏にももう少しこちらの書いたものをまじめに読んでもらわなければ困る。こちらは一度たりとも「どうせ田中は悪いやつなんだから、ちょっとばかり裁判の手続きにおかしなところがあったってかまわず有罪にしてやればいいんだ」などと主張したことはないのである。何度となく「一般論として日本の刑事裁判には問題が多いこと」には言及してきたし、単にロッキード裁判が暗黒裁判などではないことを主張しているだけなのである。ところが小室シンパのロ裁判批判派は上の1)、2)のうち1)の方がより高級な問題だと思っているため、2)の妥当性の検証をネグることをむしろ誇りにしている節がある。たしかに1)の方がより一般性のある議論であるが、3)の結論を導くためには1)ではなくむしろ2)をこそ問題にしなければならないのだ。
こちらとしては、改めてロッキード事件と裁判について調べなおすモチベーションを与えてもらった点、ネット上のロッキード裁判批判派の思考様式がよくわかったこと、が収穫であった。今後は渡部昇一のテクストに即して論駁してゆく作業がメインになるわけだが、それをどういうかたちでやってゆくか、戦略を練る必要がありそうだ。
Posted: Wed - August 4, 2004 at 04:28 PM Apes! Not Monkeys! Lockheed Affair Previous Next Comments (6)
『ロッキード裁判とその時代』読書日記 3
第3巻読了
今日は通勤(往復)の電車がすいていたので大分はかどった。第3巻(1980年7月〜1981年12月)のハイライトは「榎本アリバイ」をめぐる攻防と榎本三恵子証人の「ハチのひと刺し」証言、そして小佐野ルートでの実刑判決である。小佐野への実刑により田中側は外堀を埋められた格好。なお、小佐野ルートではコーチャン等の嘱託尋問調書は丸紅ルートにおけるよりも遥かに重要な意味を持つ。にもかかわらず、弁護側はコーチャン等への証人尋問を申請するそぶりすら見せなかった(追記:そぶりも見せなかった、というのは言い過ぎかも。たしかにそぶりは見せたが、それだけだった)。
第3巻を読めば、小室直樹と渡部昇一のロ裁判批判論における「ウソ」がそれぞれ一つずつ明白となる。まずは小室直樹の「アリバイ崩しもできていないのに有罪とはおかしい」という議論。実際には、崩すまでもなくアリバイはろくに立証されていない(前回、田中側が榎本への検察側の反対尋問を拒否したと書いたが、たしかに拒否すると宣言したものの次の公判で応じていたとのこと。この点訂正。ただしその尋問でまたしてもぼろを出してしまった)。なにしろ、現金授受があったとされる時刻に榎本と会っていたとはっきり証言する証人をろくに集められなかったのだ。いわば状況証拠を集めて「アリバイが成立する可能性がある」ことを示したというのがせいぜい。弁護側はもちろん容疑事実が「存在しなかった」ことを証明する必要はない。しかし検察側の立証に対抗してアリバイを主張するならば、そのアリバイの存在については弁護側が立証責任を持つ(単に犯行時刻に別の場所にいた可能性を示せばよいというのなら、現行犯逮捕以外のほとんどの刑事事件は無罪にできてしまう)。構築されてもいないものは崩せるわけもないのであって、ようするに裁判の経過をろくにフォローせずに批判しているということである。
もう一つは嘱託尋問調書の証拠採用にかかわる批判派の議論と関わる問題。渡部昇一は「最重要証人への反対尋問をネグるのはおかしい」と主張し、立花隆に「コーチャン等は最重要証人ではない。そうだというなら最重要証人の定義を示せ」と詰めよられ、「最重要証人」とは「その証言を証拠として裁判所が採用した人のことである。たとえばコーチャン等は最重要証人の一人であり、榎本女史はそうでない」と答えた(『朝日ジャーナル』1985年10月11日号)。立花隆が指摘する通り、これは2重の意味で噴飯ものの回答である。まず、公判での証言はすべて証拠として採用される。ということは、渡部説に従えば事実上「最重要証人」と「並の証人」の違いなどなくなってしまう。また、榎本三恵子証人の証言もまた公判での証言であるから、もちろん証拠として採用されている。単に判決において援用されていないだけである(立花隆はその理由を、証言後に彼女を襲ったスキャンダル騒ぎを裁判所が嫌ったのだろうと推測している)。これはこの時点でも渡部昇一が証拠の「証拠能力」と「証明力」とを混同していることを伺わせる状況証拠ともなる。
それから、これは第2巻を読んでいて気づいた記憶違いなのだが、国会での証人喚問で「手が震えてなかなか署名ができない」という有名なシーンを全日空側の証人だと思い込んでいた。実際にはグラマン・ダグラス疑惑で喚問された日商岩井の海部八郎証人(のち起訴される)のことだった。
最後に全くの余談。どうも記憶の中で「榎本三恵子」という名前と中ピ連の「榎美沙子」という名前が連合してしまっている(笑) 両氏が話題になった時期もずれているし(かけ離れているというほどではないが)話題になった理由も全く違うわけだが、まず名前そのものが似ているのと、マスコミが描き出そうとするキャラクターがけっこう似ていたからだろうか。決して二人がごっちゃになるということはないのだが、一方を思い出すともうお一人の方もほぼ自動的に思い出してしまうのである。
Posted: Fri - August 6, 2004 at 01:33 AM Apes! Not Monkeys! Lockheed Affair Previous Next Comment (0)
当面の論点整理
321条「供述不能」の要件
伝聞法則について
Angelix氏からコメントをいただき、氏は321条が違憲という立場をとらないとのこと。したがって問題は嘱託尋問調書の採用が321条の要件を満たしているかどうか、ついで(形式的には反対尋問ではないが)実質的に反対尋問としての意味を持つコーチャン等への証人申請が却下されたことの妥当性、という2点に絞られることになる。
ただ、氏は同時に321条を合憲とする日本の法体系そのものが(伝聞法則を軽視しているという点で?)近代法の理念に反している、という主張の可能性を留保しておられる。だがそういうかたちで議論をするならば、それはもはやロッキード裁判をめぐる議論ではなくなるので、いったん棚上げし、前述の二つの論点でまず議論すべきだと思われる。英米法における伝聞法則の例外はどのようなものを含むか、という議論もロ裁判には直接関係しないのでこちらの論点に移ってから改めてとりあげたい。ただあらかじめ次の2点を言わせておいていただきたい。
・英米法における「伝聞法則の例外」、大陸法における「証拠自由の原則」に関するロ裁判批判派の議論については、立花隆も『ロッキード裁判批判を斬る』の45、46章で反論している。あなたは立花の「ロ裁判批判」批判論を読んだとおっしゃるのだから、この反論をふまえた議論をしていただきたい。「忘れた」とおっしゃるが、読んだのであれば立花隆の反論以前の議論をただ繰り返すのはおかしいのではないか。
・「英米法で嘱託尋問調書の採用にかかるような伝聞例外」があるかどうかを問題にしておられるが、コーチャン等の調書は正確には「刑訴法226条に基づいて申請され、日本の裁判所から米国の裁判所へと嘱託されて行われた証人尋問を記録した調書が、刑訴法321条1項3号に基づき証拠採用されたもの」であって、下線を引いた部分に対応する三つの論点をはらんでいる。しかし「伝聞法則」との関わりで問題になるのはこれらのうち実は「嘱託」の部分ではなく「刑訴法321…」の部分であると私は理解している。便宜上「嘱託尋問調書」と呼んではいるが、問題なのは「嘱託」ではなく「公判期日外に作成された調書の証拠採用」である、ということにご同意いただけるだろうか?
なおこの2点については、実際にこの論点が議論の対象になるまでお答えいただくには及ばない。
また、これはあなたの主張を誤解せずに読むために確認しておきたいことなのだが、
・あなたは大陸法よりも(そして大陸法的要素を残す日本の法体系よりも)英米法の方が近代法の理念をより忠実に体現している、という立場をとっておられるのだろうか?
という点も、いずれ確認させていただきたいと思っている。
さて、321条の要件のうち「国外にいるため」の解釈については、すでに何度か書いてきている。あちこちに散らばっているので改めてまとめておくと
・321条1項3号の条文そのものは単に公判期日において「国外にいる」かどうかだけに触れており、供述の時点でどこに所在していたかについては全く触れていない。
・ロ裁判批判派が援用する横井大三氏の発言についても、それが「当初から国外にいる場合を想定していなかった」ことの論拠にはなっても、「当初から国外にいる場合は排除して条文をつくった」ことの論拠にはならない。そもそも刑訴法の想定当時とロ裁判の当時とでは、海外渡航の自由度が全く異なる。刑訴法の制定当時なら、証人尋問のために海外に出かけるということなど想定できなかったとしても無理はない。だからといって、事情が大きく変化した後にも制定当時の事情に基づく条文制作者の意図に解釈が縛られなければならないとする、合理的な理由があるか?
・あなたが「供述後国外へ出た者という解釈を前提にした議論しか見つけられません」と述べて引用したGoogleの検索結果
http://www.google.co.jp/search?q=%E4%BC%9D%E8%81%9E%E4%BE%8B%E5%A4%96+%E5%9B%BD%E5%A4%96&ie=UTF-8&hl=ja&btnG=Google+%E6%A4%9C%E7%B4%A2&lr=lang_ja
で私はあっさりと「制限列挙」ではなく「例示列挙」として読んでよい、という議論(立花隆の主張を裏付ける議論)を見つけた(二つ目にヒットするサイトのキャッシュ)。
以上に、次の論点を加えておきたい。ちなみに、これもすでに立花隆が指摘していることである。
・横井大三氏の著書『証拠——刑訴裁判例ノート(2)』のなかで、証人であった米軍人が証言後に帰国してしまったというケースを扱っている。このケースについて「証人が国外にいる場合をもってその証人を法廷に喚問することの不可能な場合とした刑訴法321条1項各号の規定は合理的」する根拠について、横井氏は「裁判権の及ぶ範囲外にいる証人に対しては被告人に強制喚問請求権がないというアメリカの考え方」としている。つまり、ポイントは公判期日において証言させることができないという点にある、というのである。とすれば、供述の時点でどうであったかは非本質的な論点であるといわざるを得ない。さらに立花隆は最高裁判例「昭和27.4.9」から「もとよりその供述者を裁判所において証人として喚問することを妨ぐべき障碍事由を示したものに外ならない」という判断をひいて自説を主張している。事の本質は公判期日においてその供述者を証人喚問できるかどうかにかかっているのであり、供述の時点における事情は問題にならない、ということである。
・「国外にいるため」を「証言後出国した場合」に限定して読むべしと言う論拠の一つ(田中弁護団や石島氏が採用)に、「証人尋問の時点から、公判において証言できないことが予想されていた場合には、321条の供述不能要件は満たさない」というものがある。要するに、当初は公判でも証言してもらうつもりだったが、その後事情が変わって証言できなくなった場合に限る、というわけである。
ところで、刑訴法179条(「被告人、被疑者又は弁護人は、あらかじめ証拠を保全しておかなければその証拠を使用することが困難な事情があるときは、第1回の公判期日前に限り、裁判官に押収、捜索、検証、証人の尋問又は鑑定の処分を請求することができる」)に基づき行われた証人尋問の調書は、321条1項1号により証拠採用されうる。この場合、弁護側の申請によって行われた尋問の調書であるから、通常は弁護側によって証拠申請されることになる。さて、刑訴法179条が意味を持つのは、いうまでもなく「あらかじめ証拠を保全しておかなければその証拠を使用することが困難な事情」がある時、である。ここには証人が海外渡航する恐れのあるときが含まれる、というのは(立花隆によれば)通説である。しかしもしあらかじめ公判での証言が不可能であることが予想されていた場合には321条に基づく証拠採用ができないというのなら、179条は公判で証拠として使うことのできない証拠を保全するという、全く意味のないことを規定していることになってしまう。
この最後の点は私のみる限り決定的である。321条に226条と179条を区別するような但し書きがあるならともかく、321条の「国外にいるため」を制限列挙として狭く読む理由はない。だが、念のためさらに次の論点を予告しておく。
・当初から公判において証言しないことが予想される証人に対して226条に基づく尋問を行い、その調書を証拠採用することによって被告人のどのような権利が侵害されるというのか(ここで問題なのは、あくまで「当初から公判において証言しないことが予想される」という部分である)。コーチャン等は来日して証言することこそ拒否したものの、米国の裁判所における証言には応じたわけである。したがって田中側には公判においてコーチャン等への証人尋問を請求するという手段があり、「当初から公判において証言しないことが予想される」ことそれ自体が特に被告人の権利を侵害しているとは思えない。(したがって、以降は田中側の証人申請が却下されたことの是非が問題となることになる。)
Posted: Fri - August 6, 2004 at 01:17 PM Apes! Not Monkeys! Lockheed Affair Previous Next Comments (2)
付随的な論点について
渡部昇一はどれほど支持されているのか
腐敗是認論について
本日、さらに新しく古い資料(笑)を手に入れた。『諸君』1985年2月号に載った渡部昇一の「立花隆氏にあえて問う!」と『文藝春秋』1984年10月号の「『角栄裁判』に異議あり」である。いずれも立花隆からの反論が始まってから執筆されたもので、ロ裁判論争における渡部昇一の議論のクオリティをはかるのにうってつけの素材である。ちなみに前者は立花隆によって「反論のごときもの」「反論といっては語弊があろう」「一口でいえば、これは悲鳴と弁解である」と評されたものである。これがゆえなき誹謗であるかどうか、近々検証してみよう。
さて、321条の供述不能要件「国外にいるため」についてはすでに現時点で2つコメントをいただいているが、Angelix氏の反論が各論点に及ぶまで(ないし当面それ以上の反論がありそうにないと判断するまで)待って、まとめて論じることにする。以下では、それ以外の付随的な点について。
私が、“ロッキード裁判の当事者をのぞく法律家はみな渡部氏に賛同”というAngelix氏の認識の根拠について問い合わせたところ、次のような回答があった。
> 貴方が証明にならないと言った,渡部昇一教授に対するかなりの数の法律家の賛同です.
> 後,渡部昇一教授の,ラジオ番組でかなりの数の刑法学者が教授の論に賛成だったそうな…という話です.
> それと,左翼である石島泰弁護士までもが教授の解釈に同意している事ですね.
私はまさに「渡部昇一教授に対するかなりの数の法律家の賛同」という際の「かなりの数」という認識の根拠を問うているのだが、その根拠も渡部昇一が自著で書いていることなのだろうか? だとすれば、その認識はあまりにもおめでたいのではないだろうか。私は法律家の大部分が渡部昇一に賛同しているといったことは「到底あり得ないはなし」にしか思えないと書いたが、それには次のような根拠がある。ロ裁判批判派はロ裁判が暗黒裁判であるといい、ではなぜそうした暗黒裁判がまかり通ったかといえば「角栄を断罪すべし」という集団ヒステリーに検察と裁判所が流されたから、と主張する。確かに、事件発覚直後にいかにも日本的な田中バッシングがあったのは事実である。しかしながら、ロッキード裁判の初公判は事件発覚から1年近く経ってからのことであり、判決が出るのはさらにその約7年後である。これまたいかにも日本らしいことだが、真相解明を求める国民の熱意はこの8年間おなじレベルで持続したわけではない。他方政界では「三木おろし」につづいて大平、鈴木、中曽根各政権が「闇将軍」田中の意を受けて誕生し、法相や通産相に田中の息のかかった人間を据えて(就任直後の記者会見でロッキード裁判について問われ、「(被告が)青天白日の身となることを願っている」と語った法相までいる)検察や通産省(官僚が田中側の証人として出廷する予定だった)に圧力をかけ、田中派を拡大するとともに「灰色高官」の二階堂を幹事長に据えて党の中枢を握っていたのである。田中自身もこの間の選挙で続けて当選しており、一方でロッキード事件に対するアレルギーも残るものの、大衆的人気の面でそれなりに復活を果たしてもいたのである。極めつけは結審間近に成立した中曽根政権で法相になった秦野章である。かねてから田中擁護、ロ裁判批判の論陣を張り、指揮権発動も辞さずの構えをみせた男である。念のためにいうが、ロ裁判を批判する国会議員が存在することそれ自体を云々しているわけではない。全員がそろってロ裁判を肯定するより、批判する議員がいる方が健全ではある。問題なのはよりによってそういう男を(自民党内の反対を押し切って)法相に据える力を当時の田中角栄が持っていたという事実である。以上に述べたような状況で、検察と裁判所がグルになって「法を枉げてでも」田中を有罪にするということなどおよそ考えられないことである。逮捕前後の時期のような熱気はもはや国民にはなく、政界では田中が圧倒的な支配力をふるっている。そのような状況で「大部分の法律家」が反対するようなロジックで有罪判決をだせるだろうか? 常識的に考えて不可能である。石島・井上両弁護士のロ裁判批判論も、いわゆる人権派弁護士としての戦略的判断(調書裁判批判にロ裁判を利用する)によるもので、しかも話題になったのは彼らの立場が極端なものだったからではないのか?
さらに、今日(厳密には昨日)古書店に立ち寄って、321条の「供述不能」要件に関しても、ロ裁判の一、二審を支持する文献を複数確認してきた。メモを取るのははばかられるし、まさかほんの数頁のために数冊を購入するのもためらわれるので今回は具体的に言及しないが、必要があればいずれ名前を挙げてゆく予定である。これは皮肉でもなんでもなくいうのだが、もし今後とも機会があればロッキード裁判批判論を展開してゆくおつもりなら、果たして法律家の大部分が渡部昇一を支持しているというのが本当かどうか、きっちり検証することを Angelix氏におすすめする。渡部昇一を信頼する理由が渡部昇一の自己申告による「法律家の支持」だというのでは全くおかしなはなしではないか!
さて、ロ裁判批判とたいていの場合セットになっているのが「汚職容認論」である。Angelix氏のコメントから引用すると
> 政治責任の問題を刑事裁判に持ち込むなという発言のどこが政治責任と刑事責任の混同なのかさっぱり分かりません.
> それと,政治家の収賄(民主主義ではあって当たり前)に厳正な裁きをと言う方が,民主主義を破壊します.
> まあ,刑事裁判で有罪に出来るのならやれば…としか言いようがありませんけど
となる。まず1行目は、氏が私に対して「政治責任と刑事責任を混同している」という非難を投げつけながら「政治権力者の処分は国会の問題」だと発言したことを私がとがめたことに対する反論である。私は単に「政治家の刑事責任を刑事裁判で追及する」ことを主張しているだけであって、政治責任の追及が刑事責任の追及の代わりになるとも、刑事責任の追及が政治責任の追及の代わりになるとも言っていない。これに対して「政治権力者の処分は国会の問題」という主張は、どう考えても「政治権力者に関しては刑事責任を追及せず、国会で政治責任(だけ)を追求すべし」ということを意味するではないか。
2行目がいわゆる「汚職容認論」である。ここでの議論には欺瞞が二つある。まず一つ目は収賄が「民主主義では」あってあたりまえ、という点。非民主的な政治体制においても収賄は存在する。というより、ある程度以上の規模の政治共同体で収賄が存在しなかったものなど歴史上存在しなかったのではないだろうか。それでも、「法の支配」という近代的な原理が根付いている社会ほど収賄は少ない(あるいは数の上では同じように存在するにしても、社会がより厳しい態度をとる)と考えるのは間違っているだろうか? 近代法の理念を強調するAngelix氏に見解を伺いたい。
二つ目の欺瞞は収賄の可能性ないし蓋然性だけを問題にし、その頻度を不問に付している点である。たしかに民主主義は国民が権力者者にはたらきかけて己の望む政策を実現することをよしとするのであるから、民主主義的社会で収賄を根絶するのは不可能である。さらにいえば収賄に限らずあらゆる犯罪はわれわれが自由な社会に生きるために払わねばならぬコストである。あらゆる公務員の電話を盗聴し、電子メールや手紙を検閲し、24時間の監視体制をとるならばあるいは汚職は根絶できるかもしれない。しかしそのための非現実的なコストを無視したとしても、そうした社会は自由という理念に明らかに反する。その意味で、自由かつ民主的な社会に私たちが生きたいと思うなら、贈収賄のような腐敗がある程度生じることは容認せねばならないことである。手段を選ばず「テロ根絶」を目指せば自由と民主主義をスポイルしてしまうのと同じように、手段を選ばず「汚職根絶」を目指せば社会は窒息してしまうだろう。ここまでは異論はない。
しかしそれも程度問題である。汚職を根絶しようとすれば民主主義をスポイルしてしまうとはいえ、汚職をはびこるままにしてしまえばそれもまた民主主義を「金で買えるもの」にしてしまい、「法の支配」という原理を骨抜きにしてしまうだろう。汚職を「厳正かつ公正に裁け」という私の主張は、収賄は法を枉げ証拠を捏造してでも裁けということではない。法に照らし証拠に基づいて、しかし手を抜かずに裁けというあたりまえのことを言っているにすぎない。まさにAngelix氏が「まあ(…)やれば」と言っていること、単に「刑事裁判で有罪にできる」ものについては有罪にせよ、というあたりまえのことである。「汚職根絶」といった極端な姿勢の弊害を盾にとって事実上汚職を野放しにしてしまうような「汚職容認論」は到底妥当性をもつとは思えないのである。
Posted: Sat - August 7, 2004 at 12:39 AM Apes! Not Monkeys! Lockheed Affair Previous Next Comment (0)
反論があった論点についての再反論
1)321条1項3号の文理解釈
2)条文制作者が「どのような事態を想定していたか」だけで解釈を限定することはできない
3)法律家の間での通説はどうなっているか
4)横井大三氏自身が「供述後に出国したケース」に321条1項3号を適用することを認めている
5)限定的な読みでは、刑訴法179条が無意味になる
6)実質的に被告の権利を侵害するか
のうち、3)と5)について反論があった。
とりあえず一日待ったので、残り4つの論点については反論待ちということにしてまずは2点について再反論しておく。
まず3)に対する反論であるが、
>例示列挙というのが一貫した判例だという検索結果も確かにあります.
> でも,それは,供述の後に生じた障害の例示であるという議論になっています.
> 私が,その点で制限列挙だと言うのとは矛盾があっても特に注意を払わなかったのも,伝聞例外にあたらないという結論に影響を与えるものでも>ないと感じたから.
これはおかしなはなしである。そもそも321条1項3号が挙げている「供述不能」要件のうち、「国外にいるため」以外はもともと証言の時点で成立していることがあり得ないものばかりである(ただし「身体の故障」は微妙。また、この点に関して以前に混乱したことを書いてしまっていたので、その部分は撤回)。はじめから「死亡」していたり「所在不明」だったり「精神の故障」があればそもそも証言を求めることができないわけである。唯一、「国外にいるため」だけが証言後のみならず証言の時点から成立していることがあり得る要件なのだ。だからこそ、石島弁護士は「制限列挙」と読むことにより「供述後に国外に出た場合に限られる」と主張したわけだ。
ともあれ、刑訴法に関する教科書、理論書ではロ裁判に触れているものも少なくないようなので、いずれ「物証」をもってさらに反論する予定である。
次に5)への反論(と思われる)について。
>検察側の反対尋問権など被告人の権利に比べれば問題になりません.刑事裁判の目的は,どんな被告人でも間違って刑に処せられないようにする
>事なのですから.
> 同列に並べて議論するのがおかしいのです.
> “証人への充分な審問”という権利は,それこそ,検察側の権利としては憲法の条文には出ていないはず.
> それに,もし刑事訴訟法の条文にないとしても,理念から考えるとそうだと言えるはずです
これはこちらの論旨を誤解した反論である。別に「検察側の反対尋問権」など問題にしていないのである。刑訴法321条は証拠申請が検察側から行われるか、弁護側から行われるかには関係のない規定である。つまり、どちら側からの証拠申請についても同じように適用されるべき規定である(弁護側が検事調書の開示を要求し、それを証拠申請することだってありうる)。
つまり、あなたは意図的にか意図せずしてか、321条1項3号を「検察側の証拠申請」の場合と「弁護側の証拠申請」の場合とで違ったように読むことを主張しているのである。これは明らかに「武器対等の原則」に反しているではないか!
さらに刑事裁判の目的として「どんな被告人でも間違って刑に処せられないようにする事」だけを挙げているのもおかしい。刑訴法は第1条でその「目的」を次のように規定している。
この法律は、刑事事件につき、公共の福祉の維持と個人の基本的人権の保障とを全うしつつ、事案の真相を明らかにし、刑罰法令を適正且つ迅速に適用実現することを目的とする。
なるほど冤罪を防ぐ事は極めて大切であり、その事に全く異論はない(『取調室の心理学』についての当Blogのレヴューをご覧いただければわかるであろう)。しかし人間の認識論的限界をふまえるなら、100%冤罪を避けるにはそもそも一切の刑事裁判を断念するしかない。被告人の権利のうち絶対に侵害されてはならないものと合理的な範囲で制限されてもしかたないものを区別し(例えば、拷問などは「絶対に侵害されてはならない権利」への侵害だといえる)、さらに後者についてどこまでが合理的な範囲での制限なのかを議論しなければならないのである。「反対尋問権」は321条の存在それ自体が示しているように、後者に含まれる権利である。同じ条文を「検察側の申請」の場合と「弁護側の申請」の場合で別様に読み、「武器対等」の原則を破ってまで検察側の証拠申請に制約を加えることは、妥当とは思えない。
なぜなら、321条1項3号には「特信状況」要件があり、反対尋問を経ていないがゆえにデタラメな調書が採用されてしまうことに対して歯止めをかけているからである(さらに、証明力については他の証拠と照らしあわせてさらにチェックされる)。検察側による強要や誘導、証人自身の錯誤、といった要因によって被告人に不利な方向にゆがめられていおそれのある証言を証拠として採用してしまうことは、たしかに被告人の権利への重大な侵害である。しかし被告人の権利が侵害されるのはその証拠が被告人に不利なものだからではなく、強要、誘導、錯誤といった可能性を排除できない証拠だからである。してみれば、「特信状況」要件を満たした証拠を採用したからといって、ただちに被告の反対尋問権を実質的に侵害したとは言えないはずである。具体的にその調書が「特信状況」要件を満たしているかどうかを問題にしなければならないはずである。
もう少し具体的に述べてみよう。「国外にいるため」を「供述の時点では国内にいて、供述後に出国した」ケースに限定し、「供述の時点から国外にいた」ケースを除外することによって被告人のどのような権利が擁護されるのだろうか? 逆に言えば、「供述の時点から国外にいた」ケースを含めて321条1項3号の「供述不能」要件を理解することによって、被告人のどのような権利が侵害されるというのだろうか? 一つ考えられるのは、「もともと公判では証言しないことが予想される人間の供述を検察側が公判前に記録し、その調書を証拠として採用することはフェアプレーの精神に反する」といった類いのものである。これには一理ないではないが、しかしながら被告人の権利が実質的に侵害されるのは当初から国外にいるその証人が「公判前に検察側の申請による証人尋問には応じたが、後半が始まってからの弁護側の申請による証人尋問には応じなかった」場合に限られる。公判において弁護側もその証人(この場合はコーチャン等)に対する嘱託尋問を申請しそれが実行されるならば、実質的に憲法37条が保障する被告人の権利は保証できるのである。つまり「あらかじめ国外にいる」証人の供述を321条に基づいて証拠採用することが被告人の権利を実質的に侵害するのは、証人等が検察側の証人尋問には応じるが弁護側の証人尋問には応じないという予測が事前に成立していた場合に限られる、ということになる。ロ裁判の場合そのような予測は成立していなかったのだし、現に全日空ルートでは(宣誓供述書の提出というかたちではあるが)ロ社のエリオット証人から得た供述を弁護側が証拠として申請し認められている。また、田中弁護団も結果的に却下されたとはいえコーチャン等への証人尋問を申請している。以上の事情に鑑みれば、「国外にいるため」の要件を「226条に基づく証人尋問で供述した時点で国外にいた」ケースをも含むように解釈したからといって、実質的に被告人の反対尋問権を侵していると言えないことは明白であろう。
少々議論が細部に及んだのであらためて本質的な点を述べておくなら、憲法37条が保証している被告人の権利の核心は“裁判で十分に審理を尽くす”ということである。”本当は犯罪を犯しているのに無罪になるチャンスを得る”ことであるとか”被告人に不利な証拠はなるべく排除するようにする”といったことは被告人の正当な権利とは言えない。したがって、証拠規則は「その内容が被告人に有利であるか否か、検察側弁護側のいずれから証拠申請されたものであるか」によって左右されるべきではなく、もっぱら“十分に審理を尽くす”という原則にかなっているかどうかによって決められるべきである。この原則をふまえ、かつ刑訴法の作成当時に較べて海外渡航事情がはるかに向上した時代の裁判においては、あらかじめ国外にいる証人に対して226条に基づいて行った証人尋問の調書を321条に基づいて証拠採用したからといって、被告人の権利をア・プリオリに侵害するとは言えないのである。それ以上のことは、ケース・バイ・ケースの具体的な事情に即して判断されねばならない。
追記:判決文を代表とする、法律家の書く文章が悪文であるとはよく言われることである。しかしこの記事を書いていて、法律家の文章が悪文たらざるを得ない事情はそれなりにあるのだと納得した。意図しない解釈の可能性を限りなく排除して厳密なロジックにもとづく議論を文章化しようとすれば、どうしてもすらすらとは読めない文章になるものだな、と。
Posted: Sat - August 7, 2004 at 08:27 PM Apes! Not Monkeys! Lockheed Affair Previous Next Comments (2)
『ロッキード裁判とその時代』読書日記 4
全巻読了。次は東京新聞刊の『裁かれる首相の犯罪——ロッキード法廷全記録』(全16巻)でもさがすか(笑)
単行本の刊行当時に読んでいるはずなのだが、なにぶん第4巻の単行本がでてから20年もたっている。何度か読みなおした『ロッキード裁判批判を斬る』とは違って非常に新鮮な気分で読みなおした。
読み終わって強く感じたのは次の2点。まず、特定の裁判について論じるならやはりその裁判のディテールを知っている必要があるということ。第二に、ロ裁判批判論が丸紅側被告についてほとんど言及しない理由がよ〜くわかった。
小室エピゴーネンのロ裁判批判論にはことがらを単純化・抽象化すればするほど「モデル的思考を実践しているのだ〜」と胸を張る傾向があることについてはすでに述べたが、よほど露骨な暗黒裁判でもない限り原則論を振りかざすだけでは有意味な批判はできない。ロッキード裁判のように世間の耳目を集めるだけでなく歴史に残ることが明白な裁判の場合、検察にせよ裁判所にせよ明々白々の法令違反、憲法違反など犯すことができようもない。一部に微妙な点があるにせよそれはあくまで「微妙」なのである。大部分は異論の余地のない裁判である。小室直樹や渡部昇一のロ裁判批判がいかにこの裁判の実態に即さないものであるかは、おって明らかにしてゆく予定である。
前々から「なぜロ裁判批判派は田中以外の被告に言及しないのか」を問題にしてきたが、公判の経過を具体的に追ってみれば「言及したくてもできなかった」ということがわかる。もし丸紅側被告、特に大久保被告の公判証言に言及すれば、「コーチャン等の嘱託尋問調書が証拠採用されなければ田中は無罪」とか「5億円が問題にされたことをほとんど聞いたことはない」とか「アリバイ崩しもろくにできていない」等々の議論がとんでもないヨタであることが火を見るより明らかになってしまうからだ。これらについても近々具体的に明らかにしてゆくので、乞うご期待。
Posted: Sat - August 7, 2004 at 09:28 PM Apes! Not Monkeys! Lockheed Affair Previous Next Comment (0)
ついに敗北宣言?
こういう判定を一方に下すのは不本意だが…
当方が提出した6つの論点のうち2つにしか答えていないにもかかわらず「議論する気が失せました」などとおっしゃるのではしかたなかろう。それ以外にも勝手な言い分が目立つ。
>国外にいる供述者に関する議論は,このままではどうやら平行線に終わりそうです.
>で,通説(私も法律学における意味くらいなら知っている)を調べる必要があると言いながら,今のところ,それが調べられた形跡なんぞ,私の側
>にも貴方の側にもありませんね.(尤も,私はある法律系掲示板に質問を書き込んだが.)
私は刑訴法に関する本数冊をあたって当方の主張を裏付ける主張を見つけた旨(そして近々具体的に言及する予定である旨)述べたはずである。勝手に「調べられた形跡なんぞ(…)ありません」などと決めつけてもらっては困る。こっちはちゃんと調べているのである。それに対して自分の立証努力はといえば「ある法律系掲示板に質問を書き込んだ」というのだから笑わせてくれる。要するにあなたは渡部昇一と小室直樹を盲信していただけ、それ以上の努力はなにもしていない、ということではないか。
さらに、他の4つの論点についてあなたは言及すらしていない。「ほとんどの法律家」が渡部昇一を支持しているという「客観的」な根拠もあなたは示していない。このまま逃げるのなら、あなたの側で論証を放棄したと受けとめざるを得ない状況であることは一目瞭然であろう。
なお、4)の論点については立花隆の議論の要約のしかたが不適切だったので、当初の
>・横井大三氏の著書『証拠——刑訴裁判例ノート(2)』のなかで、証人であった米軍人が証言後に帰国してしまったというケースがある。このケースについて横井氏は「私は
>(…)証人が国外にいる場合をもってその証人を法廷に喚問することの不可能な場合とした刑訴法321条1項各号の規定は合理的」と述べている。
を次のように訂正する(あなたがコメントで言及していないので、元記事でも訂正しておく)。
・横井大三氏の著書『証拠——刑訴裁判例ノート(2)』のなかで、証人であった米軍人が証言後に帰国してしまったというケースを扱っている。このケースについて「証人が国外にいる場合をもってその証人を法廷に喚問することの不可能な場合とした刑訴法321条1項各号の規定は合理的」する根拠について、横井氏は「裁判権の及ぶ範囲外にいる証人に対しては被告人に強制喚問請求権がないというアメリカの考え方」としている。つまり、ポイントは公判期日において証言させることができないという点にある、というのである。とすれば、供述の時点でどうであったかは非本質的な論点であるといわざるを得ない。さらに立花隆は最高裁判例「昭和27.4.9」から「もとよりその供述者を裁判所において証人として喚問することを妨ぐべき障碍事由を示したものに外ならない」という判断をひいて自説を主張している。事の本質は公判期日においてその供述者を証人喚問できるかどうかにかかっているのであり、供述の時点における事情は問題にならない、ということである。
> また,憲法の条文という但し書きからするとどうなるかと言う話をした後でさえ,同じ事を言い続けるのにも呆れます.
これも一体何を言わんとするのか、意味不明。要するに私が提起した6)の論点に反論できないということなのだろう。繰り返すが、憲法が被告人に対して保証しているのは「結果的に被告人に不利になる証拠を排除する」権利ではなく、「十分に吟味されていない証拠を排除する」権利である。証人が当初から国外にいるからといって、調書が「特信状況」要件を満たしており、かつ新たに嘱託訊問をおこなう可能性が開かれているのであればその調書が「十分に吟味されていない証拠」にあたらないことは明白であろう。
> それと,伝聞例外条項について憲法違反かどうかの問題については触れませんでしたけど,ここでこのような議論になる事自体,憲法上の権利の
>問題を含んでいるのは明らかですね.
伝聞法則の例外そのものが憲法違反であるというのが極めて特殊な立場であるというのはいまさらいうまでもないことではないか! 321条が違憲だという趣旨の訴えは過去にいくつかあったものの、すべて退けられている(ということについては、あなたも読んだはずの立花隆の著作がちゃんと言及している)。「ここでこのような議論になる事自体」というが、いちゃもんならばどんなものにでもつけられるのである。そもそもあなたは321条自体が違憲という立場はとらないとはっきり言ったではないか! ならば伝聞例外条項そのものが違憲でないことはすでに認めているはずである。前言を撤回すると明確に述べるならともかく、前言を無視していまさら「憲法上の権利の問題を含んでいる」などと言い出すのは支離滅裂と言うべきであろう。
まあやる気がないとおっしゃる人を無理矢理つきあわせるすべはこちらとしてもないし、もともと当方にとっての「本丸」は小室直樹と渡部昇一であるから、あなたが降りると言うならそれでかまわない。しかし6つの論点のうち4つについては反論すらせずに議論を放棄すると言うなら、実質的な敗北宣言として理解させていただく。興味がおありなら今後とも密かに当ブログをご覧いただきたい。渡部昇一等がどれほどデタラメな議論をしているか、地道に明らかにしてゆく予定であるから。そしてmayson氏にも申し上げたことだが、こちらの目の届かないところで大本営発表をするような破廉恥なことは止めていただきたい、とだけいわせていただく。
Posted: Sun - August 8, 2004 at 01:50 AM Apes! Not Monkeys! Lockheed Affair Next Comments (2)