田原総一郎の「ロッキード事件」論


田原総一郎、『戦後最大の宰相 田中角栄 上』(講談社+α文庫)、第1部「ロッキード裁判は無罪である」


とりあえずロッキード事件謀略論とロ裁判批判論を収めた第1部を読了。

まず謀略論について。前回にも書いたように、いわゆるロッキード事件謀略論の根拠なるものは角栄の秘書官(当時)や財界人の発言以外になにもない。後は石油ショック以降の国際政治情勢をあいまいな状況証拠として挙げているだけである。はっきり言って謀略「論」と呼べる水準にすら達していない。そもそも、ロッキード事件の発覚は田中退陣の後なのであって、角栄が「闇将軍」として君臨するようになったのは裁判を抱えながら猛烈な政治闘争をやった結果である。退陣直後であれば、わざわざ謀略というリスクを冒してまで田中を「失脚」させる必要などなかったのである。田原は中曽根の著書から「キッシンジャーが『ロッキード事件は間違いだった』と密かに私に言いました」という言葉を引いているが、これはキッシンジャーがロッキード事件関連資料の封印に失敗したことを後悔している、という意味に解するべきであろう。徳本が紹介している米公式文書によれば、キッシンジャーは田中を高く買っており、好意的であったからだ。だいたい、ロッキード事件への関与を疑われている人物の著書を根拠にするというのは滑稽にもほどがある。

ロッキード裁判論の方は、もっぱら4回にわたる5億円授受の検察側立証を俎上にあげるというもので、主として法律論に焦点を当てた他の裁判批判論とは少々おもむきが違っている。それはよいのだが、のっけから次のようなデタラメが書いてあるのをみると正直言って読む気が失せてしまう。

(…)コーチャンが何を喋っても刑事免責をされるという、最高裁の全員一致の“宣明書”を前提にしての嘱託尋問である。  これは、刑事訴訟法に照らして完全に違法なのだが、このとき最高裁は、あえてゴーサインを出した。(中略)のちに同じ最高裁は、このゴーサインを誤りだとして、嘱託尋問の証拠排除を決めたのだったが(後略)。

同じような趣旨の記述は第1部の結び近くにも出てくるのだが、これがどれほど間違っているか、当ブログをご覧の方にはよくお分かりであろう。まず免責を行う権限を持つのは検察であって裁判所ではない。アメリカ側が日本の法制度への誤解に基づく要求を出したために最高裁が「宣明書」を出すはめになったわけだが、その内容は「検察の免責に関する約束は守られるだろう」という旨「宣明」するというものでしかない。また、最高裁判決が嘱託訊問そのものを「違法」としたわけでないことは、繰り返し述べてきた。

他にもコーチャンの嘱託尋問が田中有罪の「最重要根拠」となった、といったロ裁判批判論におなじみの誤謬がみられる。

さて、5億円授受に関する議論(検察側の主張する日時・場所は破綻している、という主張)については検証に手間がかかるので別途行うとして、ここでは一点だけ。(田原によれば)矛盾だらけの検察側のシナリオが受け入れられてしまった背景の一つとして、被告側に真実を語れない事情があったため有効な弁護活動ができなかった…というものがあげられている。しかしながら、仮にそれが事実だとすれば、それは被告側の問題であって、裁判所や検察の問題ではない。裁判所はあくまで検察、弁護側双方の主張に基づいて判断を下すしかなく、「弁護側が語ることのできない真相」にまで斟酌することは不可能である。とすれば裁判所の判断を批判するのはお門違いというものではないのか。