小室直樹、「『世論』と裁判」


『諸君』1984年9月号、アンケート特集「『角栄裁判』をどう思いますか?」への寄稿。


『諸君』のこのアンケート特集は14人の回答を掲載しており、その大多数は裁判批判論である。明確に裁判支持の立場を打ち出しているのは2名だけで、そのうち1人は「なにが人権だ」というタイトルで「お白州」裁判を支持するという、まるで『諸君』編集部の思うつぼのような裁判肯定論である(笑)

さて、小室直樹の寄稿は3段組3頁強と、この特集のなかでは長い方の部類に属するが、それでも自説を十分に展開するに足るページ数とは言えないだろう。その意味でこれをもって小室直樹の裁判批判論を代表させるのはフェアとは言えない。それを承知でここでとりあげるのは、第一に紙数の限界をいいわけにはできない事実誤認がみられること、第二に先日まいこ氏より頂戴したコメントと内容的に重なる主張があるからである。


まずは順に小室直樹の論点をピックアップしてみよう。

1) 日本の裁判が「とくにマスコミとの連関において、いかにひんまげられ易いものか」、という論点。
2) 近代的な裁判は「真実」を明らかにするものではない、という論点。
3) 2)をうけた「反対尋問権を奪った」「自白判決」といった批判。


まず1)については、「川島武宣教授の研究」に言及するだけで具体的な議論はなし。これは紙数の限界を考えるとやむを得ないところ。しかしこれはロッキード裁判が「マスコミとの連関においてひんまげられた」可能性、蓋然性について語っているだけで、それ以上のものではない。また、田中角栄という被告が検察および裁判所に与え得たプレッシャーについてはなにも触れていないという点で一方的であろう。さらに別記事でも書いたことだが、ロッキード裁判の一審判決は事件発覚から7年も経って(事件それ自体からはそれ以上の時間が経って)から出ているものである。この間、マスコミは同じ熱意で田中バッシングを続けていたわけではない。


2)はまいこ氏のコメントと関連するところなので、後回しにする。3)のうち反対尋問権に関わる部分はさんざん論じているが、次のような記述が目を引く。


 根本の問題は、憲法第三七条第二項(…)という最も基本的な権利について、弁護人の主張にも裁判所の論旨の中にもまったく触れられていないことである。
 何と、角栄は、反対尋問をする権利を否定されたままで、有罪の判決をうけたのであった。憲法に明記された最も基本的な権利を裁判所は白昼堂々としてこれを無視し、弁護人もあまり重視しない。(…)
(64頁)

これを読めば、小室直樹がロッキード裁判について極めて断片的な資料しか読まずに批判を行っていることは明らかである。嘱託尋問調書が証拠申請されてから実際に証拠調べが始まるまで、1年以上の期間、弁護側と検察側は激しく争ったのである。もちろん、そのなかには憲法37条をめぐる議論もあったし、証拠採用にあたって裁判所がだした決定書もこの論点に触れている。立花隆が揶揄したように、これでは田中弁護団が気の毒、というものであろう。

また、ロ裁判が全体として「自白判決」であるとする根拠、「肝心の物的証拠はどこにもない」というのも誤った議論である。まずここでは証拠が「自白」と「物的証拠」だけに二分されており、それ以外の証言(被告人およびコーチャン、クラッター等以外の証人による証言)が全く無視されている。さらに、立花隆に言わせれば、ロ事件は贈収賄事件としては珍しいくらい物的証拠が豊富な事件なのである。有名なピーナツ・ピーシズ領収書をはじめとして、5億円の動きを裏付ける物証が豊富にある。「共犯者の『自白』だけで有罪にしてもいいんだ」などということは全くなかったのである。これなどは、新聞報道をみているだけでもわかりそうなものなのに(「黒いピーナツ」というフレーズは、事件発覚当時小学生だった私ですら知っていた)、不可解としかいいようがない誤解である。たしかに、贈収賄事件の場合当事者の自白が重要性をもつのは事実である。贈収賄という犯罪の性質上、これはやむを得ないことであるし、だからこそ贈収賄事件の立件は難しいのである。捜査段階では自供しても公判ではそれを覆す、というのもよくあるはなしで、ロ裁判でもそうであったように刑訴法321条に基づき証拠採用された検事調書が有罪の決め手になる事が多い、というのもその通りだろう。しかしロッキード裁判の場合、大久保被告は公判でもほぼ検事調書での自供を肯定したのである。被告人以外の公判における証言、物証などとあわせるなら、むしろ他の贈収賄事件より検事調書への依存度は低いと言わねばならない。

さらに、あくまで一般論として議論するなら、検事調書や警察での調書を安易に信用してはならない、というのは全くその通りである。日本の刑事裁判一般への批判としてなら、この議論は正論であろう。しかしそれが直ちにロッキード裁判に当てはまるかどうかはまた別問題である。個別の裁判を批判するなら、検事調書と公判での証言とを具体的に分析し、検事調書を否定する証言に説得力があるか、検事調書に誘導や強要の痕跡がみられるか、他の証拠とより整合的なのはどちらか…といった吟味がなされねばならない。こうした具体論抜きで「検事調書を信用するな」と言うのであれば、贈収賄事件などはとにかく公判でしらを切り通せばすべて無罪になってしまうだろう。もともと贈収賄事件は当事者の自白に依存する割合が高いのだから、いっそ犯罪ではないことにしてしまえ、とまで主張するならそれはそれで首尾一貫した議論である。ひょっとして小室直樹はそう考えているのかもしれない。だが、そこまで極端な立場はとらないというのであれば、当事者の捜査段階での自白以外の証拠、証言が豊富にあるロッキード裁判を批判するというのは奇妙なはなしと言わざるを得ないであろう。


さて最後に2)について。ここには「近代裁判の本質を科学的理念型として表現」(原文には「理念型」に「モデル」というルビあり)、「近代科学における諸命題は、ことごとく一種の仮設」といった表現がみられるので、まいこ氏のコメントは小室直樹をふまえたものであるように思われる。今日の科学論の水準に照らすなら、ここで展開されている小室直樹の科学論はかなり素朴なのだが、わずか3頁の論文ということに鑑みこの点は追求しないことにする。

近代裁判においては両当事者の主張はすべて「仮設」であり、重要なのは仮設の「検証のための方法であって結果ではない」(原文、下線部は傍点)。さらに、近代裁判において「裁かれるのは検察官」である。つまり近代裁判の手続きは検察官の「仮設」を「検証」することをもっぱら念頭においてすすめられねばならない、というのである。これについても、あまりに英米法に偏った「理念型」であるということは指摘しておきたいが、ロッキード裁判を擁護するうえであえて異論を唱えねばならないところはない。なぜか? 刑訴法321条はたしかに320条の原則に対する例外規定ではあるが、それは別段検察側の「仮設」をノーチェックで通してしまうような規定ではないからである。小室直樹の用語を借りるなら、近代的な刑事裁判において重要なのは、「結果において被告人に不利な仮設を排除する」ことではなく、「手続きにおいて検察側の仮説の検証がおざなりにならないようにする」ということである。いわゆる反対尋問権についても、反対尋問を行うことそのものに意義があるのではなく、反対尋問によって検察側の「仮設」が吟味されることに意義があるわけである。とすれば、反対尋問に代わって検察側の「仮設」をチェックする手続きが組み込まれている限り、反対尋問を経ていない証言の証拠採用は直ちに憲法37条第2項の趣旨に反していることにはならないのである。ロ裁判で問題になった刑訴法321条1項3号の場合は、いわゆる「特信情況」要件が検察側「仮設」のチェック機能を担うことになる。さらにロ裁判の場合には、コーチャン等に(嘱託による)証人尋問を請求するという途も開かれていたのである(実際に全日空ルートの弁護団はそれを利用した)。ロ裁判批判派は田中弁護団の証人申請が却下されたことばかりを言いたてるが、証人申請がア・プリオリに不可能だったわけではないことを無視している。弁護側の請求により検察側の「仮設」をチェックする「手続き」はちゃんとあったのである。さらに証人申請却下の問題を論じようとするなら、弁護側の立証趣旨はなんであったのか、また田中側の申請が3年も遅れたのはなぜなのか、申請が却下された後いちおう異議は唱えてみたものの、その異議が却下されるとそれ以上争わなかった(特別抗告しなかった)のはなぜか、といった具体的なことがらが問題にならざるを得ない。単に一般論ですますなら、嘱託尋問調書は(たしかに例外ではあるがそれでも)ちゃんと手続きに則って証拠採用されたのだ、という反論で片付いてしまうのである。