ロ裁判批判論の「原点」、渡部昇一の「暗黒裁判」論を読む
渡部昇一、「ロッキード裁判は東京裁判以上の暗黒裁判だ!」、『諸君』、1984年1月号
結局のところ、裁判批判派(渡部昇一を含む)はこの「暗黒裁判論」でロ裁判について抱いた歪んだ印象にとらわれ、実際の裁判がどのようなものであったかをろくに検証しないまま今日に至るまで議論を続けているようだ…。 「本当に暗黒裁判だったのかどうか?」を検証することなく「暗黒裁判はけしからん」と叫ぶことの虚しさ
まずは結論から。
以下に示すように、“ロッキード裁判は、最重要証人への弁護側反対尋問が許されなかったがために、肝心要の5億円の流れについて真相を明らかにしないまま有罪判決を下した、東京裁判以上の暗黒裁判だ”という主張は、間違った前提と間違った推論に基づくデマとしかいいようがないしろものである。裁判批判派はこの「暗黒裁判」というフレーズによほど感銘を受けたのか、「本当に暗黒裁判だったのかどうか?」を検証することなく「暗黒裁判はけしからん」と叫んでいるのである。暗黒裁判がけしからんのはあたりまえで、そんなことを“身障者抹殺論”を唱える人間に教えてもらう必要はない。別に裁判所や検察のやることに間違いはないはずだ、という前提でロ裁判を論じているのでもない。批判派は立花隆に「検察のCMボーイ」などというレッテルを貼り、ロ裁判を擁護する人間は権威主義者であり、自分たちは権威に立ち向かって近代法の原理を守ろうとしてるのだ、と言わんばかりである。しかし自分たちが擁護しているのがかつて首相であり、当時も「闇将軍」として永田町に君臨していた人間だということには目をつぶっているのである。
冒頭、冤罪で逮捕された経験を持つという「近親者」のエピソードに続き、ロッキード裁判に疑問を抱くきっかけになったとされる元最高裁長官二名の『朝日新聞』でのコメントがとりあげられる。両者は田中が一審判決後も議員を続けていることに関して「一審軽視だ」と批判しているにもかかわらず、それを「控訴せずに一審に服すべきだ」という主張として読み違えていることはすでに立花隆によって指摘されている。渡部昇一は『朝日ジャーナル』でも立花隆に対して「希代の第一審ベッタリ主義者」と書いているので、よほどこの点が気になるらしい。しかしその出発点が誤読なのである。
さらに、これは本来「田中角栄ほど被告人の権利を享受した刑事被告人はいない」という立花隆の指摘を裏付けるエピソードなのである。普通の会社員や公務員が一審で有罪判決をうけた場合、「いや、最高裁まで争う」からといって懲戒免職処分等を先延ばしにしてもらえるものだろうか? 起訴された時点や逮捕された時点でクビになるというのがむしろ普通だろう。私は逮捕や起訴によって直ちにクビにするのは不当だと考えているし、国会議員についても一審判決が出るまで辞職を拒否するのは理解できる。しかし一審判決が出ても「最高裁がある」からといって辞職を拒むのでは結局一審などあってもなくても同じことになってしまう。元最高裁長官が言っているのはこういうごくあたりまえのことでしかないのであって、別に最高裁まで争うなとは言っていないのである(争っても無駄だと思う、とは言っている)。
さて第2、3節で繰り広げられる「本当に5億円はもらっていないのかも知れない、という見地からこの判決をみてみると」、という視点の問題について言えば、それ自体としては何の問題もない。立花隆も書いているように、有罪という予断を持って裁判を眺めるより遥かに健全である。ただ、それはその「見地」から正しく事実をみる限りにおいてである。田中は無罪である(かも知れない)という仮定の下に、田中に不利な事実を片っ端から無視してしまうのでは(弁護士の戦術としてはともかく)まともな裁判批判にはならないだろう。
第4節で小室直樹を援用している部分にさっそく「事実の無視」が顔を出す。曰く、「アリバイ崩しもしっかりできていないのに有罪判決とは、茶番としかいいようがない」というのである。これはいわゆる榎本アリバイのことを指している。このアリバイは田中側の隠し球で、一時は検察側を大いに慌てさせたのは事実である。しかしながら検察側によるアリバイ崩しの決定打として榎本三恵子証人が出廷し、事件発覚後に榎本が5億円の授受を認めていたことを証言してしまった。その結果、弁護側が榎本三恵子証人への反対尋問を放棄し(つまり証拠能力を争わなかった)、さらに榎本被告への検察側の反対尋問を拒否したことは、すでに別記事で書いた通りである。後者がなにを意味するかといえば、アリバイに関する榎本被告の証言の証拠能力を検察側が吟味するのを拒否したということであり、その証拠能力に疑いをもたれてもしかたがない情況を自ら招いた、ということである。これはアリバイの立証を事実上放棄したに等しい。「アリバイ崩し」どころか、そもそもアリバイの立証がきちんとなされていないのである。「アリバイ立証もしっかりできていないのにアリバイ崩しとは、茶番としかいいようがない」と言いたくなる。
さて、その後が例のやつである。
物証的と言えば、以前から気になっていたことがあった。というのは5億円のお金のことである。物的証拠中の証拠だと思うのであるが、これが問題にされたことはほとんど聞いたことがない。(56頁)
のだそうである。「問題にされたこと」と書かれているのに注目されたい。「立証された」ではないのである。後に渡部昇一(およびそのエピゴーネン)は「私は嘱託尋問調書の証拠能力を否定しているのだ」と弁解していたが、「問題にされたこと」を聞いたことがないと言った以上、これがいいわけにならないことは言うまでもない。さらに5億円の授受については丸紅側が公判でも認める証言をしており(金の趣旨や事前謀議の有無といった点で争おうとした)、先に言及した榎本三恵子証言も5億円について語っている。さらにクラッターに5億円を届けた地下銀行の運び屋ホセ・アラミアは出廷して「金を渡した」と証言している。札束を詰めた段ボールを運んだ丸紅社員も出廷して、その段ボールの大きさについて証言している。嘱託尋問調書を無視したとしても5億円という「物証」は何度も問題にされているのである。
裁判から何十年もたったいまならともかく、裁判が終わった直後にこれほど基本的な事実を無視して議論を立てるがゆえに、「いくらロッキードが大会社でもそんな大金が現金で経理部においてあるはずがない。(…)すると何日か前に誰かが銀行に用意を頼んだはずである」といったピント外れの推理を「推理小説の愛読者」として展開してしまうのである。ロ社の裏金を地下銀行を使って東京に運んだことは嘱託尋問調書に書いてある。それを知っていれば「クラッター等の説明にはこれこれの疑問がある。こういう反対尋問をしておけばその点が明らかになったはずだ」という議論の建て方になるはずだ。それを知らないから「5億円をどう用意したのか聞いてみるべき」といったばかばかしい議論になる。「それは本来証拠として認められるべきではなかったのだ」と言い張ったところで、証拠として採用されたという事実を消し去ることはできない。「問題にされたということをほとんど聞いたことがない」という議論の前提が間違っているのである。間違った前提に基づいていくら「原理原則を大事にしろ」という議論をたてても無意味なのである。
第6節はふたたび元最高裁長官らの発言に噛み付いている部分で、基本的には第1節を膨らませたもの。第7節では職務権限論も軽く扱われているが、やはり一番問題になるのが嘱託尋問調書の証拠採用が憲法37条違反だという主張、いま現在も裁判批判派の最大の論点にまつわる部分である。ここで渡部昇一はまたしても5億円をどう準備したのか、を問題にする。それも「どこかの銀行で用意したはず」という自分の思い込みに基づいてである。ロ社の裏金を地下銀行ルートで運んだというのが検察側の主張であり、嘱託尋問調書以外にも金を日本に運び込んでクラッターに渡した本人が法廷で証言しているのである。にもかかわらず、銀行に問い合わせてみればクラッターのウソが明らかになる、などとピント外れのことを書いてしまう…。
その後に来るのがタイトルの由来となった東京裁判との比較である。東京裁判は「十分ではなかったが、被告側弁護士は、検事側の証人に対する反対尋問をする機会を多少は与えられていたのだ」というのである。ここで南京大虐殺の目撃証人があたかもマギー牧師1人であるかのような嘘を書いていることについてはここでは論じない。しかし、ロッキード裁判公判に出廷した証人は50人を超え、そのすべてに対して弁護側は反対尋問をしている。コーチャン、クラッター等を実質的な証人とみなして反対尋問権があったと考えた場合でも、50人を超える証人のうちの2人にすぎない。「多少は与えられていた」という東京裁判以上の暗黒裁判だというのはもとより、東京裁判と同等の暗黒裁判だという主張すら不当な誇張であろう。さらに、コーチャン等への証人尋問はア・プリオリに禁じられたのではない。現に田中側は証拠調べから3年も経って証人申請を行った(実質的な反対尋問権を行使した)。ただ、その申請の立証趣旨があまりに具体性を欠いたために裁判官の訴訟指揮により却下されたにすぎない。必要性が明らかでない証人申請の却下が37条違反でないことは明白であろう。
すると最後の砦は第8節でのコーチャン、クラッターが「最重要証人」であるという認識である。なるほど最重要証人であれば、立証趣旨の曖昧さに目をつぶってでも尋問させるべきだ、という議論は成り立つ。しかしながら、これまた口を酸っぱくして言ってきた通り、ロ社の2人は田中の容疑事実にとって最重要証人ではないのである。なにしろ直接田中側と接触していない(直接経験した事実を田中側についてはなに一つ語ることができない)のであるから。後に『朝日ジャーナル』での公開論争で、「じゃあ最重要証人とはどのような証人か?」と立花隆に問われ、渡部昇一は「裁判所が証人として採用した証人のことだ」と答えて失笑を買った。