おかげさまで、「ロッキード裁判」をGoogleで検索するとかなり上位にヒットするようになりました。そんなわけでたまたまこちらにたどり着いた方もおられることと思います。また、過去に某掲示板で論争をみかけ、その結末がどうなったのかを気にして検索された方もおられるかもしれません。いずれにせよ、この問題に関するコンテンツの数量がかなりのものになってしまったため、断片的にご覧いただいたのでは誤解を招く(私の主張にしても、裁判批判論者の主張にしても)恐れがあります。そこで、ロッキード裁判関係コンテンツを作成したそもそもの意図、基本的な論点の整理、その後調査を重ねる過程でわかってきた(思い出した)ことなどをこちらにまとめましたので、あらかじめご覧いただければ幸いです。


なぜ「ロッキード裁判批判論」か?

 私の第一義的な関心はロッキード裁判そのものではなく、田中角栄という政治家でもなく、「ロッキード裁判批判論」という言説にある。学生時代に立花隆の『ロッキード裁判批判を斬る』(朝日文庫、全3巻。最初に読んだのは『論駁』というタイトルで刊行されていた単行本)を読み、主たる批判対象である渡部昇一の議論とさっと読み比べてみて、「立花隆の完勝」という判断を下した。その後、読み物として面白いという理由でなんどか読み返すことはあったものの、イデオロギーを排してこの論争を眺めれば勝敗は明らかと思っていたので(実際、渡部昇一の愛読者を自称する人物が「さすがにあの論争は負け」と書いている投稿をどこかの掲示板で見かけたことがある)、裁判批判論そのものには特に関心を持っていなかった。

 ところが、ふとしたきっかけからいまだに「ロッキード裁判=暗黒裁判」論が生き残っていること、小室直樹や渡部昇一が(立花隆によって論破された、と私が判断した)議論をその後も繰り返していること、田中側弁護団の一員だった弁護士や、田原総一郎がロッキード裁判を批判する本を出版していること、ネット上でも渡部昇一に依拠した批判論者と、立花隆に依拠した反批判論者とが論争していたこと…などを発見した。私自身も、この過程で某巨大掲示板に投稿し、ロ裁判批判論者と論争することになった。某巨大掲示板では相手が消えてしまったため、自分のサイトに場所を移してこの問題に関する研究を続けることにした次第。

 この論争を扱うことに意義があるのは、この論争が日本社会での論争の悪い意味での典型になっていて、有意義な議論を阻む人間の認知バイアスをよく表わしているからである。この論争の特徴として、いわゆる政治的イデオロギーに沿った対立軸とは別のところに対立軸があるという点を上げることができる。裁判批判派には共産党系や新左翼系の法律家がいるいっぽう、いわゆる「右」の論客がみな裁判批判派というわけではない。大雑把な観察だが、渡部昇一を評価しない右派の論客(たとえば秦郁彦)は裁判批判論に与していないようである。にもかかわらず、この論争のフォロワーには一方の言い分しか読んでいない者が少なくない(当ブログへのコメンテーターもそうであることは、自ら明らかにしているも同然)。そもそも批判論の火付け役たる渡部昇一自身が裁判について断片的な知識しか持たずに(あるいは都合の悪い部分は読者に伏せて)議論を展開していること、論争相手たる立花隆の『朝日ジャーナル』誌における連載さえまともに読んでいない可能性があることは、立花隆によって丹念に暴かれている。にもかかわらず、小室直樹や渡部昇一の議論だけを読んだフォロワーが裁判批判論を再生産し、他方それを批判する側ももっぱら立花隆をひきあいに出すだけなので、立花隆は渡部昇一に論破されたと信じている批判派は聞き入れない…という情報遮断が生じているわけである。実を言えば、裁判批判派が提起している論点のほとんどは裁判の中で弁護側がとりあげており、特に論争の焦点となる嘱託尋問調書(ロッキード社の重役3人に対して、検察が捜査段階で刑訴法226条に基づき請求した証人尋問が、アメリカに嘱託されて行われ、その調書が後に裁判で証拠申請された)については、一年近くその証拠能力をめぐって争われている。立花隆が「田中弁護団が気の毒」と述べているように、裁判批判論争はその出発点から「とうに論じられている論争の蒸し返し」であり、その後も同じことが繰り返されているわけである。

 健康食品のCMにはよく「○○を飲んで癌が治った」といった経験を語る「体験者」が登場するが、これは科学的にはほとんど意味を持たない。「○○を飲んだけど癌が治らなかった」「○○ではなく△△を飲んで癌が治った」「なにも飲まなかったけど癌が治った」といった事例を集め、それらに対して「○○を飲んで癌が治った」という事例が統計的に有意性をもつかどうかをチェックしなければならないのである。しかしながら、人間は自分の信念を覆す可能性のある証拠より、自分の信念を裏付ける可能性のある証拠を熱心に探す、という「認知的バイアス」が存在することはさまざまな心理学実験によって裏付けられている。さまざまな論争がすれ違いに終わる理由の一つは、こうした人間の性向にあるといえるだろう。

 そこで、裁判批判派の主張とそれに対する反論とを両方目にすることができる場所を作ることが重要性を持つことになる。『朝日ジャーナル』誌において一週交代で渡部昇一と立花隆が書いたものを主たる題材として、両者の主張を平行して紹介するテクストを現在準備中である。もちろんこれは、自分自身の認知バイアスを正すため、裁判批判派の文章に目を通すことを自らに課す、という意味ももっている。

 第二に、いまやロッキード裁判批判論は「ロッキード事件陰謀論」とワンセットになりつつある、という点。陰謀論そのものは事件当時からあったようだが、「アメリカの陰謀だったからこそ、むちゃくちゃな裁判で有罪にされたのだ」「むちゃくちゃな裁判なのに誰も異を唱えなかったのは、アメリカの陰謀だったからだ」といったかたちで裁判批判論と陰謀論とが相互に補強しあっているのである。ここでこの陰謀論が根も葉もないものだと退ける証拠があるわけではないので(後に述べるように傍証的なものはある)その評価には立ち入らないが、陰謀論が流行るのは社会の知的風土として健全ではない。根拠を欠いた裁判批判論が陰謀論の補強に使われるのを避けることも私の目的である。

 第三に、近年さまざまなかたちで田中角栄再評価の動きがある。政治的には小泉政権への反発という側面があると思われる(それだけではないだろうが)。もちろん、被告人田中角栄の刑事責任という問題と、政治家田中角栄の評価とは独立した問題であり、政治家としての再評価をしようとすること自体はかまわない(逆にいえば、裁判で有罪になったからといって彼の政治責任の問題が片付いたわけでもない)。しかしながら、現在の日本はバラマキ政治とそれを可能にした与野党の馴れ合い(国体政治)の重いツケを払わされようとしているのであり、そうした政治手法の創始者ではないにしてもいわば完成者である田中角栄の政治家としての評価はこうした側面を無視して行われてはならない。ロッキード事件は(もしそれが事実なら)いわゆる「田中型政治」の必然的な帰結として生じたものであり、裁判批判が無責任な「政治家田中角栄」の再評価を可能にするようなことがあってはならないのである。

 第四に、人間の記憶の頼りなさという問題がある。多くの人にとってロッキード事件は過去の事件、場合によっては生まれる前の事件になってしまっている。私自身も、この件について調べるなかで多くのことを忘れていたこと、また(当時幼かったがゆえに)よく知らなかったこと、に気付かされた。裁判批判論が命脈を保っている一つの要因は、こうした忘却(ないし記憶が伝承されていないこと)なのである。例えば裁判批判派は、検察と裁判所が「田中有罪」という予断を持った世間の圧力によって暗黒裁判を行ったのだ、と批判する。これだけを読めば「そういわれれば新聞は田中バッシング一色だったなぁ」と思い込まされてしまうかもしれない。たしかに、特に捜査段階ではそうした雰囲気があったのも事実である。だが、田中は起訴後も国会議員として在職し、自民党員でもないのに大臣人事などを牛耳り、日に陰に検察に圧力をかけ続けたのである。世論の圧力があったとしても、それに対抗する政治的な圧力が存在したのであって、この点を無視した「暗黒裁判」論は一面的といわざるを得ない。また、ロッキード事件にはいろいろと奇妙なところがある。代表的なものは、全日空のトライスター採用決定時期と5億円授受の時期との食い違い、だ。これらが陰謀説や暗黒裁判論の一つの背景になっているのであるが、ロッキード事件は単に「ロッキード社が丸紅を介して日本の高官に働きかけ、全日空にトライスターを採用させた」といった単純な事件ではない。一方ではグラマン、ダグラスやボーイング社も絡んだ、他方では民間機だけでなく対潜哨戒機P3Cなどの軍用機も絡んだ、米飛行機産業の世界的商戦を背景にしており、疑惑そのものも日本だけでなく世界各国で生じていたのである。検察が政治的な配慮をしたのか、それとも単にすべてを明らかに仕切れなかったのか(あるいはその両方なのか)はともかく、氷山の一角だけが立件されたがゆえに不可解な点があれこれ生じることになっているわけだ。こうした当時の文脈が脱落したままロ裁判だけを眺めるから、陰謀論や暗黒裁判論がそれなりに説得的に見えてしまう、という側面があると思われるのである。

 第五に、立花隆と渡部昇一は相互にかなりの悪罵を投げつけあっている。もしそれが事実であれば相手の言論人としてのキャリアに大きく傷がつくような類いのものである。ところが両者とも多くの読者を持つ書き手であるわけで、これは到底見過ごせるようなことではない。中立を装うつもりはないのではっきり立場を表明するが、私が両者のテクストを読み比べた限り立花隆の言い分のほうが圧倒的に筋が通っている。ロッキード裁判に関する限り、渡部昇一はかなり悪質な書き手である、ということである。もちろん、いいっぱなしで済ませるつもりはないので、今後両者のテクストをもとに検証してゆくつもりである。もちろん、ロッキード裁判に関して出鱈目を書いたからといって、他のトピックでも出鱈目を書いているということにはならない。逆に、ロッキード裁判に関して正しいことを書いたからといって、他のトピックで書いていることも正しいということにはならない。しかし渡部昇一のロ裁判論争におけるふるまいは、善意の間違いの域を明らかに超えるものが含まれており、言論人としてのクレディビリティを問われてもやむを得まい、というのが当サイトの立場である。


 さて、ロッキード裁判批判の論点は多岐にわたるが、ここではその代表的なものである「反対尋問権」問題に絞って私なりの見取り図を書いてみよう。火付け役たる渡部昇一の議論についてはこちらこちらもご参照いただきたい。問題の焦点は、コーチャンらへの嘱託尋問調書の証拠採用が被告人の反対尋問権を侵害しているか、である。

 まずきわめて技術的にいえば、コーチャンらはロッキード裁判の公判に出廷して証言したわけではないので、その意味では文字通りの反対尋問権は問題にならない。本当の争点は

・嘱託尋問の実施時点で田中側が立ち会っていないことの妥当性

・嘱託尋問調書の証拠採用の妥当性

・田中側のコーチャンらに対する証人尋問が訴訟指揮権により却下されたことの妥当性

という三つにわたることになる。(ちなみに、最高裁ではこれらとは異なる論点、すなわち嘱託尋問の実施過程でコーチャンらに与えられた免責の法的根拠を疑問視して嘱託尋問調書の証拠採用を退けた。裁判批判派の中には最高裁が嘱託尋問を「違憲」と判断したと思い込んでいるケースが少なくないが、これは誤りである。最高裁判決も嘱託尋問調書が「違法収集証拠」にはあたらない、と但し書きをつけている。)

 この論点に関する私の見解はご面倒だが過去ログをご覧いただきたい。結論だけを言えば、どの点においても違法な点はない、ということになる。ところが、小室・渡部支持派はどうもこのような論点の整理自体に納得がいかないらしい。渡部昇一本人の意図はともかく、特に小室読者の裁判批判派はこの問題を「日本社会が被告人の権利の重要性、より一般的には近代法の精神を理解できるかどうか」の問題としてとらえている、ということらしい。そのため、どうしてもはなしがかみあわないのである。私としては「日本の刑事裁判において、被告の権利がないがしろにされがちである」こと、「反対尋問権は憲法によって(一定の制限のもと)保障されている権利である」こと、といった一般論についてはなんの異も唱えていないのである。田中角栄が被告なら法を曲げて有罪にしてもかまわないと主張しているのではなく、田中は(細かな点で瑕疵があるにしても大筋としては)問題のない手続きで有罪にされた、と主張しようとしているに過ぎない。私が問題にしているのは、実際にロッキード裁判において田中側が反対尋問権を奪われたのかどうか、という事実問題である。ところが、この論点になると批判派は渡部昇一の議論を引き写すだけなので、まったく議論が煮詰まらない…というのが私の認識である。

 もちろん、これは私の側の認識である。もし批判派の側で異議があるならば、独自の認識をまとめてお送りいただきたい(私の整理と同程度の字数で)。お望みならここにあわせて掲載させていただく。

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