今最も優先すべきことは光化門の復元に関し、その「復元」の範囲をどこまでにするかという問題について、国民的合意を得ることが先決だろう。現在復元された光化門は、大院君(朝鮮王朝第26代王高宗の父)が景福宮を改築した1865年当時の姿を取り戻すために、コンクリートの建築物を木造に替えたほか、従来の道路を変更することで、ずれてしまった角度も修正している。このように「元来の姿を取り戻す」という意味での復元に徹するなら、懸板の字体もやはり、大院君による景福宮改築の際に工事責任者を務めた訓練隊長の任泰瑛(イム・テヨン)が書いた「光化門」の懸板文字をそのまま使用することが正しい選択だろう。問題は当時、任泰瑛が書いた字体が拓本の形でも残っていないということだ。文化財庁は苦肉の策として、現存する100年前の光化門の写真をベースに任泰瑛の字をデジタル技術で加工し再現したが、専門家たちからは「字が死んでいる」「味気がない」と不評を買っている。
景福宮をはじめ、昌徳宮、昌慶宮、慶喜宮、慶運宮(徳寿宮)の朝鮮王朝時代の5大宮の大門に掲げられた懸板が、どのような字体で書かれていたのかを参考にすることも、一つの方法といえるだろう。崇礼門や興仁之門など朝鮮王朝時代の4大門と宮廷の大門に掲げられた懸板の字体には、書く人は違っても共通した流れがあるという。光化門の懸板の字体も、こうした流れに最大限合わせるという原則さえ守れば、その他の問題も解決できるはずだ。
新たに作り直す光化門の懸板は、現代が後世に残す文化財だ。自分の主張を貫くために青筋を立てるのではなく、他人の話に耳を傾けながら譲歩して合意し、最善の結論を導き出そうとする知恵が必要だ。これは何も文化財庁に限ったことではなく、この時代を生きる人々が皆、試されていることなのだ。