Études fondamentales sur l’éducation- 1
pour de futurs enseignants de primaire et de secondaire

古賀毅の講義サポート2012

教育基礎総論(小・中・高)1

早稲田大学教育学部教職課程(全学部対象)
月曜6限(18:15-19:45)  早稲田キャンパス 15号館 101教室

当科目は教職課程科目ですが、教育・教職に関心をもつ方にはオープンとしますので、とくに断りなくご来聴ください。

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2012(平成24)年度 教職科目における指導・評定指針

>> 20126月の授業予定 <<
6
4 歴史の中の教育思想(2):新教育思想をめぐって
6
11 日本教育史(1):近世〜明治期の教育
6
18 日本教育史(2):大正〜占領期の教育
6
25 日本教育史(3):高度成長期以降の教育


■■次回は・・・
9-
日本教育史(1):近世〜明治期の教育

今回から日本の教育史を古いほうからたどっていくことにします。ただ、欧米教育史を中世からはじめたのに対して、こちらは近代すなわち明治期を始点とします。江戸時代までの日本に教育文化がなかったのでも、大したことがなかったわけでもありません。明治期に社会のもろもろを西欧化(occidentalization)することで近代国家の建設を進めようとしたために、それ以前の教育の制度や内容や文化をすぱっと捨てて西欧流を移入したからにほかなりません。こうした事情は、政治・経済・軍事など他の諸制度にもみられますし、アジアなど非欧米世界の教育史もまた似たような構造をもっています。よいか悪いかは置いておいて、西欧の歴史の中で形成された教育のしくみ――つまりは近代公教育―――が世界のスタンダードになったということでした。

国家が主宰し、全国で均質的に実施し、国民全員を対象とし、そして「国民」の育成と統合を図るという近代教育の目的を、日本も踏襲しました。日本が公教育制度をスタートさせた1870年代といえば、西欧諸国でも急ピッチで公教育のしくみが整えられていた時期にあたります。フレッシュでエネルギッシュな取り組みに直接学ぶことができたのは幸運なことだったのではないでしょうか。また、アジア・アフリカ・ラテンアメリカなどの諸国が基本的には宗主国(植民地支配をした国)のモデルを採用したのに対して、日本は複数の国を並行して眺めながら、そのいいところ、日本に適合しやすいところを選ぶことができたのであり、その点でも幸運でした。第二次大戦後の教育改革がアメリカ一国をモデルにして進められたのに対して、明治期の教育には英・米・仏・独・露など複数のお手本があったのです。――どの国でも実はそうなのですが、近代教育の「典型」みたいなものがあったとしても、それはその国なりの仕方にアレンジされます。教育課題が国ごとに異なるからです。日本の場合、(1)直前まで士農工商という身分制や藩という分権的な統治機構が存在していたこと、(2)近隣に教育の近代化を図ろうという国が他になかったこと、(3)欧米の圧力の中を国家として自立して生き延びるためのリアルな方針があったこと、(4)そして何より欧米諸国とはまったく異なる文化的・思想的・社会的土台が存在したこと、により、アレンジの度合いはどの西欧諸国よりも大きくなりました。

明治51872)年に学制が布告され、初等義務教育を含む近代的な教育制度が打ち立てられました。そのことは小学校の社会科の教科書にも載っているので、わりになじみのある話だと思います。が、「学校がつくられました、みんなが通うようになりました、めでたしめでたし」というわけではありません。日本の学校教育がどうにか落ち着いたかたちに行き着くのは明治30年代になってからのことです。それまでの20年ちょっとは、教育の目的・方針、内容、方法、制度などをめぐって右往左往、試行錯誤の連続でした。そうした中で、明治5年の学制がもっていた特色はむしろ失われていきます。欧米の模倣に飽き足らず、日本人としての独自性や固有の理念を追求しようとするとき、日本の学校教育は真に新しい時代を迎えたといえそうです。

今回は、変革のエネルギーと執念に満ちた近代の教育を扱うのですが、欧米発祥のしくみが移入される前にどのような状態だったかを確認する必要もありますから、ほんの少しだけ江戸時代の教育状況についても触れることにします。

*諸事情によりレビューの更新が少し遅れます。ご了承ください。

 

 

REVIEW 5/28
*文意を損ねない範囲で表現や用字法などを改めています。複数のレビューを統合したり一部を省略したりする場合もあります。

レビューの件数が非常に多いのですべてを掲載することができません。類似するものは統合したりあるものに代表させたりしています。ご了承ください。

7回の授業(20世紀の教育課題)の範囲について網羅した文献はおそらくないと思われます。私自身、何と何を読んでこのようにまとめたのか、さっぱり記憶にないのです。いつの時代についても同じですが、とくに現代に近づくほど、実際の社会動向のようなものをしっかり知っておきませんと教育のコンテキストは理解できません。現代史とくに20世紀史の勉強を強く勧めます。教育とか教職を飛び越えて、あなたの学問とか人生に寄与するはずです。

何でこんなこと勉強しなきゃいけないのか?という子どもの口癖というか、誰でも一度は抱く疑問は、公教育が定着した結果として生じるのですね。それを考えると私たちはとても恵まれています。(教育)

金持ちか貧乏か、男か女かにかかわらず教育を受けられるのは幸せなことなんだなあと感じました。(商、類例複数)
下構型中等教育出身の人が上構型(つらら型)を受けたいと思うのはしごく当然のことであり、生まれが貴族でないからといって自動的にエリート教育から外される、というのはあまりに間違っていると思います。日本国憲法によって社会的弱者(経済的に貧しい人、女性)でも自分の能力によって社会進出できるようになって、本当によかったと思います。(法)
・・・> よかったと思いますが、一点だけ修正しておきますと、つらら型・エリート学校は「下構型」です。上・下という文字から受けるイメージと逆になるかもしれませんが、間違えませんように。

20世紀前半と後半で教育制度が大幅に違くなったりして、とても興味深いと思った。今の教育制度は、たくさん試して生まれた結果なのかと思った。世界の教育制度がどのように日本に影響してきたか、また日本の制度は他の国々から見たらどんなふうだったのか、今後の授業が楽しみになった。(国教)
19世紀から20世紀の、民衆の教育に対する意識の変化は、社会の変化の流れに沿っていたのだということがわかりました。いろいろな国の教育を知って、どの国も単線化されたのだと思っていたので、ドイツの例などを知って意外に思いました。やはり自分が受けてきた教育がスタンダードだと自然に考えてしまっているんだと思いました。(教育)

教育が戦争・政治・科学などさまざまな影響によってころころ変わっていくのを見て、いかに教育が国に振り回されているかがわかった。(基幹)

自由権・社会権について今回すこし触れられましたが、高校では18世紀に自由権(国家からの権利)、19世紀に参政権(国家への権利)、20世紀に社会権(国家による権利)と習いました。今回の講義では19世紀=自由権ということでしたが、いったい18世紀、19世紀のどちらなのでしょうか?(教育)
・・・> ご当人には直接お答えしましたが、そのような疑問をお持ちの方もおられると思いますので整理しましょうか。憲法学とか社会思想における人権(権利)概念の変遷をどう捉えるかについては当然ながらさまざまな考え方があります。ご指摘のような整理を、私も政経の資料集か何かで見たことがあります。自由権→参政権→社会権と3つ並んでいるほうがたしかに「変遷」したように感じますし、しっかりまとめられたような印象をもちますが、私はこの考え方を採りませんし、おそらく誤りだと思います。自由権/社会権というのと参政権は次元の異なるものです。参政権を出すのなら、なぜ請求権は出さないのか、平等権はどこに位置づけられるのかなど、いくらでも突っ込みようがあります。国民が国家から保障される一義的な権利としての基本的人権というのは、やはり自由権と社会権であり、強いていうなら新しい人権(これは論理的に一括されるべきものではなく、社会権確立後の社会変化に伴って現出した権利の総称)が3つ目に来ます。教育だけでなくてさまざまな社会領域と重ねて考えていくと、その意味がわかってくるのではないでしょうか。さて、そのこととは別に、自由権のことを「19世紀的人権」、社会権を「20世紀的人権」と呼び、これはもう確定しています。自由権のルーツは18世紀ではなく17世紀であり、ホッブズやロックの言説に根があります。初期資本主義(言い換えれば経済的自由主義)を正当化するための論理であり、公民の教科書では自然権natural rights)と書いてあったはずです。今でいうところの「人身の自由」と「財産権」にほかなりません。しかし「国家からの自由」を求める自由権の考え方が浸透し定着して社会のスタンダードになるのは19世紀を待たなくてはなりませんでした。当科目でも第6回で扱った、産業革命と市民革命を経てからのことです。そうして初めて、絶対王政でなく自由・平等な市民が議会を通じて政治に参画し、人々の経済活動に国家権力は介入しない(要するに重商主義への批判)という実態を伴うことになったのでした。アダム・スミスが『国富論』(諸国民の富)で打ち出した市場原理の考え方を最大限に尊重する、自由な経済活動を大原則とする社会です(経済活動の自由の中には職業選択の自由も含まれます。生き方が自由になったのです)。しかし、重化学工業化を大きな契機として、一般民衆(労働者)には自力で自由になる自由がない、だから国家権力の作用によって自由になる権利があるのだという社会権の考え方が出てきます。以上のまとめでおわかりいただけましたか? ちなみに自由権を「第1世代の人権」、社会権を「第2世代の人権」と呼ぶこともあります。これは「新しい人権」を「第3世代」と表現する際に用います。

日本の教育形態ばかり見てきたので、他国の教授法を見ることはあっても形態を見る機会はありませんでした。たしかに他国の教育制度に可能性は感じますが、自分が受けてきた教育を見なおすのは少し悔しいし、難しいですね。(国教)
以前、ドイツの教育制度について学んだとき疑問を感じたが、先生がおっしゃったように日本の教育制度にも欠点が多くあるのではと思った。自分が経験した世界しか見ようとしないと、それこそが「正しい」と思い込んでしまう。(スポ)

日本と外国の教育がここまで違うとは思いませんでした。(多数)
さまざまな国の教育を知ることができて楽しかった。(教育、類例複数)
・・・> この種の話をすると毎度のように「国によって(時代によって)教育のあり方が違うのに驚きました」というリアクションが多数寄せられるので、私は逆に驚いてしまい、「当たり前じゃないか。病気か?」という突っ込み(ギャグです)を入れるようになりました。だからあれですね、学校教育というのは、そこで何が教えられるかということ以上に、どんな教育体制(態勢)だったのかということが決定的な要因になりえるのですね。

日本の無関心民主主義に慣れすぎていたせいか、一般民衆が自らより高い質の教育を望んだということが意外に感じられました。また、望みがかなったらかなったでさまざまな問題が生じて、教育の方向性を決めることの難しさを感じました。(国教)

教育制度改革をしようとすると旧くからの層が反対するというのは、伝統校出身なのでよくわかります。社会が変動しているので、それに合わせて教育のかたちも変えなければいけないと思います。(文)

いまの日本の義務教育は、初等教育の小学校と、下構型中等教育の中学校でできているのだとわかった。だから突然、専門化(教科ごとの先生)してしまったのかなと。「あとで役に立つ」という言葉は、中・高の場合、役に立たない教養的な内容を学習しているのだから、いってはいけないように思った。(文)

なぜエリート校は男女別学なのですか? 何か利点があるのですか?(教育)
下構型中等教育では「男子の優位(通常は別学)」だそうですが、どういうことでしょうか。男子のほうが優位という考え方はどのようなロジックで正当化されたのでしょうか。また、男子の優位と男女別学はどのように関係があるのでしょうか。(法)
・・・> 前の方の質問が後のものと重なるのかどうか微妙でした。今回の内容に即していうなら、「現在の日本のエリート校」の話ではないですよね? 下構型(エリート学校)が別学なのは、19世紀(20世紀かな?)までの社会的エリートが男性であったことを考えれば当然のことです。極論すれば女性には人権が設定されていませんでした。ただ、「エリートの家に生まれた娘」については将来エリートの男性に嫁いでそれにふさわしい家庭を築き、子どもを育てるという役割がありますから、それへ向けた教育機関が別建てで設定されました(日本でいえば高等女学校)。「優位」という言葉にどきっとしたかもしれないけれど、遺伝的に優位であるとか何とかではなくて、現実のエリートは男子だったということを表現しているだけのことです。

なぜ私立の小学校が存在するのだろうか。エリート教育ではあるのだろうが、結局社会で評価されない。日本の初等教育は完全に単線化すればよいのに。(社学)
・・・> 短い文章なが3つの誤りが含まれています。(1)私立小学校は今回扱ったような意味での「エリート教育」ではありません。(2)「結局社会で評価されない」というのは何をいっているのかわかりませんが、おそらく事実に反します。(3)日本の初等教育は完全なる単線型です。

日本の中学校・高校は、英語ではjunior / senior highschool、中国語でも「初等中学/高等中学」といいますが、中学校と高校をあまりセットとしてとらえないのは何か理由があるのでしょうか?(文)
・・・> 名称の問題と「中学校と高校をセットにする」うんぬんとはつながっていないように思いますが? 英語(ではなくて米語ですよね)や中国語ではセットになっているので、日本では、ということなのでしょうか。私の勝手な考えですと、第二次大戦後に後期中等教育を「高等学校」と名づけたのは一時の気の迷いだと思います。中等教育なのだから論理的には正しくありません。ちなみに、戦後改革のベースになった米国教育使節団報告書(第11回で扱います)では「高等中学校」という呼称を提案していました。

教育が国ごとに多様化されていて、どこからそれがはじまったのか気になった。国ごとに違うのは、なぜ、どういった理由なのかを知りたい。(教育)
・・・> 国ごとに違うのが当然で、理由なんてありません。各家庭の家具の配置や子育ての方針が違うのと同じです。ここまで授業を受けてきて「理由」に感づかないのであれば、少々きびしいと思いますよ。

日本は、アメリカのおかげで今の単線化された制度があると思うと、何とも複雑でした。戦争は嫌な過去ですが、アメリカの占領を受けたおかげで日本は守られた部分が多いと思います。(教育)
憲法の授業でも、日本がGHQに占領されたことにより民主化がスムーズ?に進んだと聞きました。教育の分野においてもそのような恩恵?があったと初めて知りました。(教育)
・・・> 教育学部の憲法の授業ということはW教授かな? たぶん「もう一度占領されたら」うんぬんというギャグは私もそのむかしW先生からパクったような気が・・・(笑)

ドイツがまだ複線型をとっていることに驚いた。単線型がよいとは一概にいえないというが、たしかにそうだと思う。むしろ日本の単線型が日本にとってよいか悪いかなんて考えたこともなかった。(国教、類例複数)

イングランドとドイツの違いがよくわかりませんでした。イングランドも「スクール」が分かれているのなら複線型ということになるのですか?(創造)
・・・> 典型的な複線型です。

全国民に平等にチャンスが与えられる単線型のほうが疑う余地もなくよいと思っていましたが、ドイツの考えなどに触れてみると、複線型にもよい点はあると思いました。どちらにも生徒の能力を伸ばす可能性も、削ぐ可能性もあり、絶対にこちらがよいというのは存在しないと思いました。(文)
どの国も同じような問題に直面しているのに、その打開策が両極端に分かれるのは興味深い。どちらがよいのかを比べることもできなければ、どちらにもさらなる問題もある。先日先生がいっていた「教育は自分が受けてきたものを基準にして考えてはいけない」という言葉を思い出しました。たしかに、ドイツの教育を受けたらフランスの教育はまったく違うからという理由で受け入れられないし、逆も同じだと思います。勉強が得意か苦手かという違いでもこのことは当てはまると思いました。(文構)

全員が中等教育を受けるようになったことで、やる気の起きないアカデミックな勉強に不満をもつ、ということには納得がいきました。しかし、複線型教育へシフトすることは教育機会の格差を生むでしょうから問題です。いまの高校では、授業についていけない人がいる一方、いわゆる受験生は予備校へ通います。・・・一律教育には限界があるように感じます。(先進)
高校へ行ったはいいものの授業についていけないという状態になってしまうのであれば、ドイツのような複線型もありだと思う。しかし最低限の教養は必要だと思うので、それをどこにするかが難しい問題になると思う。(教育)

欧米教育とひとくくりにしているが、国によって方針や結果が違うとわかった。どれがよくてどれが悪いかわからないが、今後日本が求める教育のためにはどの国が参考になるのか気になった。(教育、類例複数)
国ごとに特色が出ていておもしろい。どの制度も一長一短で、どれが正しいのかはわからない。日本では高校を出ていない人は低く見られるが、長い目で見れば高校を卒業している人としていない人では変わらないこともある。結局は自分しだいという面があるのではないかと思ってしまう。(スポ)

ドイツの教育制度は、高校生のころドイツ語の授業中に聞いてから、何て合理的なんだろうと思っていました。本来は大学に行く学力がないのに、そして興味もないのに、とりあえず「大学」とやらに行く日本の制度は、大学の質を下げているように思うからです。高校の延長を教えている大学もあるそうですし。とりあえず大学、という考えがニートを増やしていて、経済力を低下させることにもつながっているのではないかと思います。(社学)
・・・> 以下の複数の方の意見に共通する傾向ではありますが、現に大学というところ(それもトップクラスの大学)にいてそれなりに学べている人が、そうでない人や学校を批判するのはかなりきわどく、危ういことだとお考えください。世の中全体からみれば、あなたがたのような人こそ圧倒的に少数派だということを、教育現場に立てばさんざん思い知ることでしょう。日本の教育システムの中で、早い段階で振り落とされ、立ち戻るチャンスも十分に与えられなかった人たちが、大学に入って真に学ぶ喜びと出会い人間的にも成長するということは、いくらでもあります(むしろそちらが主流です)。学力や興味がないのに進学するから問題なのだというのは、一見すると正しく思えますけれど、そうでもありません。では早稲田の学生には学力や興味があるのか?と訊ねたらどうなのでしょうか。どちらかといえば運不運の問題なのではないですか。「学ぶ気持ちや能力がないなら来ないでよ。足を引っ張らないでよ。分相応にやってよ」ということを「上」の人が言い出すとき、それは往時のエリート階層の忌まわしき再現になります。教育者をめざすのであれば、そうした発想とは早い段階で決別されますように。繰り返しますが、あなたがたのような人こそ圧倒的に少数派なのです。

知り合いの大工の棟梁さんが、「弟子を育てるなら中学校出てすぐの年齢からのほうがいい大工になる。できれば中学生くらいの年から就職させたいんだけど」といっていました。単線型というのは最初はよいものだと思っていたけど、同様のデメリットは他にもあるのだろうと思いました。皆が同じ教育を受けるのはなぜいいことなのか、そのあたりを考えられていなかったと思います。(文構)

世界的にみれば複線型から単線型へと変わっていきましたが、再び複線型に戻ってきている感じがします。しかしどちらにもメリット、デメリットがあり、単線型か複線型にどうしても偏っていくと思うので、教育は2つの型のあいだを行ったり来たりしていくような気がします。どうすればどちらのデメリットもないような教育ができるのかはわかりませんが、個人の能力を確実に伸ばし、全員に平等で経済の発達も進められる理想の教育に近づけるような新しい考えが出なければ、いつまでも教育は変わらないと思います。(基幹)

授業でもいわれていたように、現代社会を生きていくためには、どう生きていくかにかかわらず中学校までの知識は必要だと思うので、中学校までは「すべての人のための教育」でもよいと思います。しかし、中学校以降は、普通科・工業科・商業科のように「一人ひとりのための教育」をしていくためもっとさまざまな選択肢が出てくるといいと思いました。(スポ)
単線型と複線型が国によってさまざまな現状からして、必ずしもどちらが正しい教育だとはいえませんね。でも、単線型の日本の教育を受けてきた身としては、高校時代に将来の夢をあまり意識しない人が多数いたことに、何やら不安を感じていました。先を見通せないままに教育を受けるのは、どうなのかなと。(教育)

先生がドイツの話のところで出した再複線化の件で、偏差値が高い学生がそうでない学生の可能性をつぶしているかもしれない、というのが興味深かったです。たしかに偏差値のみの視点だと低い生徒は落ちこぼれの集まりのようになってしまうけれど、他の分野で優れた才能をもっている場合もあるので、1つの視点だけから判断するのはよくないと思いました。(スポ)

ドイツの複線型の話が印象に残りました。10歳というのはさすがに早いかなと思いましたが、好きな道に早いうちに進めることはすばらしいと思いました。惰性で高校に通っているような人たちを生まないためにも必要な制度だと思います。(スポ)
ドイツが中等教育から複線型というのには驚きました。早くから専門性を高めることができると思いますが、中学校でほぼ人生の道を決めるのであれば、小学校には、そのために選択肢を経験したり広く見渡したりするような授業があるのでしょうか?(教育)
歴史の流れに沿って多くの国が単線化の道を選択したのに対し、ドイツは今もなお複線型であることが興味深かった。十代で選択したコースを途中で変えたくなったらどうするのだろうか?(法)
・・・> 複線型の学校制度では「横移動」は基本的にできません。袋小路になっているのです。それこそが複線型の最大の問題点。だいたい、どんな賢い子どもでも小学生に将来を見通した判断などできるはずがないし、そういう授業があってもほとんど意味をなしません(たぶんないと思います)。基本的には親の意向で決まるのです。親が大学卒なら「やっぱり何といってもギムナジウムから大学に行って学ばなくては」と無前提に思うでしょうし、親が職人さんなら「うちの子はのびのびやればいい」といいつつ、負担の少ないハウプトシューレに行かせる結果になることでしょう(昨今の首都圏で、私立中高を出た親はほぼ無前提に子どもに同じ選択をさせるのと似ています)。つまり、そこに真の「選択」の要素は乏しく、実際には階層再生産になっているということです。それでもなお、そのほうがいいと考えるドイツ人が多いので・・・

ドイツが複線型をいまだに残しているということは、単線型の教育と複線型の教育は、結局その国のしくみや労働状況、考え方によってよしあしを決めることができないということなのでしょうか?(教育)
学校教育の、それぞれの時代の成功・失敗、よしあしはどうやって判断できるのか? 単線型、複線型の維持など国による制度の違いを知って、そう疑問に思いました。(文)
・・・> 成功・失敗、よしあしなんて当然ながら一概にはいえないし、いう必要もあまりないと思いますよ。前の方の質問は、遺憾ながら意味がよくわかりません。

ドイツでは小学校卒業時に将来を選択するという話がありましたが、私の経験では、小学生のとき賢かった子は今も賢いし、そうでない子はそのままだし、そこまで可能性を狭めることにはならないのではないかなと思いました。もしかしたら、これは、一斉式授業で個々のニーズに応えられないために、できない子を伸ばすことができない、ということなのかもしれませんが・・・。質がよくなってこそ量を増やす意味が出てくるのかなと思いました。(文構)
・・・> 一斉式授業その他の理由により個々のニーズに応えられないために、できない子を伸ばすことができないからです。

単線型と複線型は、その時代や国の特徴などによって適性が分かれると思った。ドイツの話が出たときには、ドイツの製品を見てわかるようにその技術力の高さがよさであり、マイスター制度は成功しているように思う。(創造)
私は、PCなどの技能ではなく、自分の手でできる技術をもちたいとつねづね思っているので、ドイツの教育は実があってよいと思いました。(教育)
ドイツの教育制度が興味深いです。ある職を専門的に勉強するのはよいことだと思います。みんながみんな大学で学んで何かを身につけられるわけではないでしょうし・・・(教育)
ドイツが今でも複線型の制度を採っているのには驚きました。いわゆる先進国はみな民主的な単線型教育をおこなっていると思っていたからです。でも、小さいころから専門の教育を受けた人だからこそ職人になれるので、ドイツでは職人が尊敬を集め、マイスター制度が成り立つのだと思った。(教育)
ドイツのハウプトシューレとレアルシューレの例に驚きました。昔ながら?の職業はその2つの学校でよいのでしょうか。IT系の企業で働きたいような人は、やはり大学に行くのでしょうか。(教育)
・・・> IT系の企業で働きたいような人はギムナジウム→大学でしょうね。レアルシューレのほうはまだ工科大学などへの編入が(多少は)可能なのですが。ドイツの制度に対して共感的に受け止めてくれた人が多いみたいですね(そう考えてくれるように誘導したのです)。ただ、ドイツが今のままでよいのかといえば私は怪しいと思う。ハウプトシューレにおける意欲低下はしばしば報じられていますし、結果的に「ギムナジウムに行けばヤンキーがいない」と(どこかの国の私学志向の人みたいに)考える人が多くなって、本来の目的にそぐわなくなってきつつあります。

ドイツのマイスター制度がよいと少し思った。日本の教育も、まだ若いから決められない、とかいうのではなく、もう少し自主性を入れて教育制度をつくれば学力低下も食い止められるんじゃないかと思う。現代化政策の話はひどいと思ったけど、「ゆとり」って考えもないと思った。(教育)

現在の教育が抱えている、生徒の学力のばらつきや学習意欲の低下の根底にあるのは、国民の学力を向上させるための中等教育の開放であり、このような矛盾の解決には一部複線型の導入も採用すべきではないか。(教育)
日本は完全単線型をやめてしまえばよいのではないか、と思った。義務教育が終わったらもう義務じゃないのだから、職業訓練校をつくって、勉強に興味のない人はそちらに入って役立てればいい。(教育)
・・・> 再複線化というのは悪魔のささやきだと考えましょう。複線型がどういうものであったのか、歴史をもう一度検証してみてください。そしてもう一度、自分がいまこちら側(安全な側)にたまたまいられるという前提を振り返ること。

中等教育の機会が多くの人に与えられるようになっても、なかなか質の向上は難しいのだと思います。個性をつぶすことになるのではないか、教育への意欲がなくなる(なくなっている)のではないかと、課題は多いと思います。(教育)

かつては、中等教育までが普通で、田舎の人などは高等教育を受けることができなかったと知って驚きました。私の祖母も中学校しか出ていないといっていたのを思い出しました。今ではほとんどの人が大学まで行くし、理系なら大学院にまで行くのがめずらしくない状況です。これは経済成長や少子高齢化の影響を受けていることだと思います。しかし、この不況下で、大学を卒業しているいわゆる高学歴の人でも、すんなり職が手に入るなんてことはありません。だったら大学は、抽象的な学術的理論よりも即戦力となる実践力に移行していくべきです。これから日本に、アメリカのコミュニティ・カレッジのような特殊なスキルを磨く学校がどんどんつくられていくといいのではないかと思います。(先進)

高校時代にアメリカに研修に行き、アメリカの高校で授業を受けたが、本当に大学みたいだった。授業も個人の意見を大事にしていて、生徒も自分の生活に責任をもち、自分で決め、自分で行動しているような気がした。日本は、アメリカと比べると面倒見がいい、おとなに保護されているような感じがする(補習とかもあるし)。アメリカの高校で勉強に追いつけない生徒はどうしているのだろう。アメリカと日本の教育、世界各国の教育のどれがいちばんよいというのは一概に決められないが、教育がその後の国を引っ張っていくおとなを育てるためにあるのだとすれば、その国のその後のあり方は教育の方策に現れているのだと思った。(スポ)

欧米各国の教育改革は、自分の予想以上にさまざまな試みによりなされていたと知って驚いた。しかし、それでも今なお改善すべきところがたくさんあるという事実に、何だか気が遠くなった。私は個人的には国家アイデンティティは失われるべきではないと思っているので、それを維持しながら現代社会で教育するという方法を自分なりに考えてみようと思う。(教育)
制度がしっかりとしてよいものになると新しい問題が起こってくる、というのは教育にかぎったことではなく、何だか皮肉でおもしろいですね。中等教育で、専門の先生がいるわけではなく「理科」などと大まかな区切りしかないのはたしかに不親切だし、教える側としても教えにくいと思います。今日の話の解決編はあるのですか?(先進)
・・・> 解決編はみなさんの教師としての歩みの中にあります。なんちゃって。「理科」が大まかなのはそのとおりだけれど、専門化すればかえって全体的な文脈をとらえられず、生徒の学習意欲や学力が下がると思いますよ。ちなみにフランスでは、小学校低学年で「世界の発見」(理科と社会を合わせた生活科みたいなもの)、高学年で「科学・技術」、中学校で「物理-化学」と「生命と地球の科学」の2教科に分かれ、それが高校につづきます。日本流にいえば第1分野・第2分野というところですが別教科です。

一人ひとりのニーズに応えようとしたら、それこを複線型に戻してしまわなければいけないような気がするのですが、それをあくまでも単線型を維持しながらおこなうのがブレア首相の教育改革ということなのでしょうか?(文)
「何歳まで学校で学べば社会で生きていける?」という問いがあったが、企業の採用側にいわせると「ヘタな大卒より専門学校卒」なのだと聞いたことがある。社会で働いて生きていくのに、何となくたくさんの知識をもっているのよりも、専門技術に特化しているほうがやっていきやすいのは確かだと思うので、必ずしも大学に専門技術を期待するのではなく、高校(あるいは中学校から?)でももう少し「特化」を視野に入れるように変えていかなければいけないのかもしれない、と思った。(教育)
・・・> 英国はそもそもが複線型なので前の方の質問は少し違うのですが、でもコンプリヘンシヴ・スクールという枠を動かさずにその中で個性化を打ち出すという意味では、だいたいご指摘のとおりです。ある中学校が個性化(Specialist School化といいます)に成功したら、そのノウハウや理念を周辺の学校と共有するというしくみがブレア改革の重要な点で、なかなかよくできていると私は思います。(ブレアの社会政策全般については山口二郎『ブレア時代のイギリス』、岩波新書を参照)

教育の大衆化・民主化は大切だとかすばらしいという考えにばかりにとらわれていましたが、education for allが成功したことによる弊害も生まれていることには少し驚きました。たしかに、collège pour chacunのような一人ひとりに合った教育を提供できればいちばんいいと思いますが、現実的にはそれも難しく、実行するとなったら教師の数も足りなくなるし競争力もなくなるしで、何にせよデメリットは出てくると思います。どこか妥協点に収まらなければ仕方ないのだと思いました。(教育)
私は、公教育においてeveryoneのための教育をおこなうという矛盾を乗り越えることが今の時点ではできていないと思っています。そもそもの問題として、いま「公教育」をおこなう意味を問いなおさなければならないのではないかと思います。(教育)

制度的に解決されたというのは本当にすばらしいことだけれども、階層の固定化に教育機関が一役も二役も買っているというのは(日本でも)現代でもまったく変わっていないはずで、それはどうやったら解決できるのだろうとよく考えます。そもそも、「そうあるべきではない」というのが、どうなのかというのはありますが。(法)
エリートと一般市民の行く中等教育の違いは財産の有無であったが、現在では中学校までは同じ教育を保障されるようになり、高校は自分で普通科・商業科などを選べるようになった。でも、やはり今でも家庭の経済力によってある程度は決まっていると思う。(人科)

スプートニク・ショックをアメリカに惹き起こした当のソビエトはどのような教育体制をとっていたのか気になった。単線型か複線型か。(商)
・・・> 変形複線型でした。どうもソ連というのは労働者を優遇したのか侮蔑したのかよくわからんです。

ロシアの真似をしたアメリカの教育現代化運動や、そのアメリカの真似をした日本、日本の真似をしたフランスの教育政策が失敗に終わってしまったことから、ただ他の国の真似をしただけではうまくいかないものだなと思った。何が足りないのか、何を必要としているのかがわかっていなければ、どんな試みも無駄になるのだと思った。(教育)
・・・> いろいろ誤っているところがあります。ロシアでなくソ連です。この間違いは冷戦後に生まれた人に多いのですが、自分で思っているより深刻な間違いですので注意してください。さて、教育現代化運動はソ連の真似をしたのではありません。アメリカの現代化の真似をした日本の教育が失敗したのはおそらく事実ですが、日本の真似をしたフランスが失敗したとは私は申していませんし、たぶん失敗ではなかったと思います。

フランス人はフランス中心だと思っているのが滑稽だと思った。(教育)
・・・> フランス人はフランス中心だと思っているのが滑稽だと思っている日本人のほうがずっと滑稽です。よその悪い点ならすぐわかるもんですね。

日本人がみな高校を卒業している点を真似されたことはとてもおもしろい話でした。(教育)
フランスの「バカロレア80%」の目標がいまだ達成されていないと聞いて、日本の高校進学率は(その是非は別として)高いのだと思いました。(教育)

フランスのバカロレアという制度は頭がいい方法だと思う。(教育)
ドイツに住んでいましたがアメリカ式のインターに通っていたのでカフェテリアありました。バカロレア(IBですよね?)もっています。(教育)
・・・> 欧州は資格の社会ですので、国ごとに初等教育・中等教育の修了資格というのが設定されています。フランスのバカロレアに相当するドイツの資格はアビトゥーア。後の方がもっておられるというIBInternational Baccalauréatのことで、大学入学資格を国際的に保証するためのもの。フランスのバカロレア(ナポレオン1世の時代に創設された)に倣ったものですが授業で取り上げたフランス国内のバカロレアとは趣旨・効力が違います。ちなみに日本政府は国際バカロレアを今のところ公認していませんので、この資格をもっていてもすんなり日本の大学に入れるわけではありません(大学ごとに対応が分かれます)。

アルザスの人々はフランス政府に反感をもっているのですか?(文)
・・・> 「アルザスの人々」を一括するのは困難です。反感をもっている人も、そうでない人もいます。日本政府に対する沖縄の感覚といえば近いですかね。

いまイギリスについて学んでいることもあって、イングランドやスコットランドのアイデンティティの話がとくに興味深かったです。日本、とくに本州に日本人として住んでいるとあまりナショナル・アイデンティティについて強く意識することがないように思います。(文構)

国家の中にさまざまな民族がいて、母語が違ったり、独立を求めたりと、非常にデリケートな問題だと思います。また、国家の中にさまざまな民族がいる状況で国民国家の国民をつくるような単一の教育制度は難しく、これから変容していくのではないかと思います。(スポ)
・・・> 基本的に、国家の中にさまざまな民族や言語があるのが世界の常識で、日本が異例中の異例なのです。また、国家の中にさまざまな民族がいる状況だからこそ国民国家の国民をつくるような単一の教育制度が生まれました。ただ「これから変容していく」だろうというのは正しいと思います。

アメリカのNo Child Left Behind Actについては、堤未果さんが著書の中で、階級化・格差拡大を進めるものだとして痛烈に批判していましたが、古賀先生はこの法律やブッシュ政権の教育政策全般の方向性についてどうお考えですか?(法)
・・・> 堤さんの本は読んでいませんが、彼女の日ごろのスタンスからしてだいたい見当がつきます(笑)。階級化・格差拡大を進めるものだと私も思います。到達目標を設定するのはよいとしても、そこへの道筋は学校や教師まかせで、点数をクリアすればよいというのは、ちょっとね。ただ、アメリカの教育は非常に分権的なので、ブッシュや連邦政府が何らかの方針を決めて取り組んでも現場レベルまで(よくも悪くも)浸透しない傾向があります。

教育方針を考えなおしていく上で、アメリカのように州ごとに独立し法制度も変わる連邦制に対して、日本は統一的であるので、その点ではアメリカより有利ではないかと思う。(教育)
・・・> でも、地方レベルでいろいろな実践ができるほうが身軽のような気もしますよ。日本と同じような中央集権の国といえばフランスです。フランスにはたしかに教育方針を一発で変えられてしまう機動力があります。日本の緩さや保守性は分権的なアメリカよりひどいですよ。どうでもいい話ながら、フランスが中央集権であってよいところといえば、私のような「フランスの専門家」がブレなくて済むという点ですね。政府の方針さえ押さえれば「これがフランスの教育です」と言い切れてしまいますので。

現代の教育に求められているのは「一人ひとりのための教育」だけど、でも教育の今のかたちだとそれがムリだってことにショックを受けた。教育の成功、失敗に国力の上昇とかが使われていたけど、ホントにそれで計っていいのか気になった。たしかに最初の目的は国としての力をつけることだけど、そういうもんじゃなくなった気がした。(教育)
・・・> ショックを受けた感じが生々しく伝わってきます。ゆっくりでよいですが、もう少しかっちりとした文体にしてゆかれますように。

「個性を伸ばす」という目標ではじめられたゆとり教育は、学力低下というレッテルを貼られ、「ゆとり世代はダメだ」という風潮に見舞われているような気がします。私たちが受けた教育は失敗だったといわれているいま、その教育を受け、否定された私たちは、どのような教育を理想にするべきなのでしょうか。(教育)
1990年代後半のゆとり教育は、実質的に失敗ということになったと思いますが、その試みが否定された中で「個別」の教育が求められても、不可能なのではないでしょうか。LDADHDの子どもが増えているということで「個別」の教育は必要だと思いますが・・・(教育)
・・・> 残念ですが、ゆとり世代はこのままスルーされてしまうような気がします。いまの中学生以下の世代が力をつけたらいよいよピンチですよ。たしかに世代の特色というのはありますが、しかし個々の能力や見識は多様です。「私たちは、どのような教育を理想にする」かではなくて、「私は」としてほしい。いつまでも生まれた世代とか受けた教育のせいにばかりしていると、その後ろ向きの思いとかルサンチマンが教え子に(マイナスの意味で)伝わってしまいますよ。

もし教育の現代化運動がまだつづいていたら、数学が苦手な私は学校に行くのが嫌になっていたと思います。(教育)
小学生で集合を教わっていた時期があったのが驚きでした。それに比べて、私は高校時代にベクトルもまともに教わらずに終わってしまったので、学力の格差を感じます。(教育)
高校生のとき、数学の成績のせいで留年しかけたのもゆとりのせいなのか・・・なんて思ってしまいました。(教育)
・・・> ゆとりのせいじゃないですよ。詰め込み時代にだって数学の成績のせいで留年した(しかけた)人はいっぱいいましたし、ゆとり世代だってたいていは留年していないし。あれですね、ゆとり世代って、負の記憶を共有する連帯感みたいなものがあるね。

「ゆとり」が1970年代からいわれていたことには驚きました。(複数)
ゆとり教育は私たちの少し前あたりからはじまったものだと思っていました。一度詰め込み教育で失敗して方向転換したのに、失敗から学ばず、またゆとり教育を見なおそうとしているのは、どうなんだろうと思いました。(教育)

私たちゆとり世代は、それ以前の学生と学力の面で著しく落ち込んでいるのか、しっかり証明してほしいです。就学期間が全体として上昇しているなら、結果的に差はそれほどないような気もしてしまいます。(教育)
・・・> 証明するのはさほど難しくない作業だと思いますが、結果を見ても落胆しませんか? 半ばギャグ的な揚げ足取りだけど、「就学期間が全体として上昇しているなら、結果的に差はそれほどない」という思考の道筋がもう学力的にどうなのかと(笑)。

ゆとり教育でよかったです。(教育)

給食の例がわかりやすかった。私は小・中・高の12年間、それ以前の幼稚園も、母の弁当だったので、給食で学校生活を送っていたら何か違っていたのかもしれないと思うと、おもしろい。(先進)
・・・> おもしろいかもしれませんが、今回の話は給食か弁当かではなく、給食かカフェテリアかということでした。他にも、給食の思い出話みたいなのを書きつらねたレビューがいくつかあったけれど、文脈に乗りませんね。

どのような教育がよいか、という問題は非常に難しいようです。日本も欧米に追従してばかりではなく、もっと独自に考えてやっていくべきだと思います。今の日本には思想の根幹を成すものが抜け落ちすぎているように見えますが、それゆえの追従なのでしょうか。第二次大戦前の状態がよいとはいいませんが。でも、せめてもう少し、授業の最後に出てきたアイデンティティのようなものがないと何をやっても無目的化を改善できないと思います。(先進)

いままでの授業の中でいちばん難しく感じた。自分の思考がいろんな方面に飛んだ。その中でもやはり強く感じたのは、自分が大学進学を選んだ理由。周囲に流されるまま選んだ大学進学。その選択肢を当たり前のように与えられたという恵まれた環境があったからこそだと思うが「選択肢を捨てる」ということもある意味盲目的なのではないかと思った。大切なものを見失う。今後、高校の無償化が進めば、さらに同じような状況にいる学生は増えるのではないかと思う。もっと早い段階で、できれば高校生段階で、学校、教育について見つめる機会をつくるべきだと思った。(社学)

教育自体への要求から教育内容の拡充の要求へと変わり、さらに画一的な教育内容から「個」を重視する多様な教育を求める声が生まれた。いま「個別」を重視する意思を示しながらも、全体向けの教育制度を捨てきれない状況で、教育がどのように変化していくのかが非常に重要な問題であり、とても興味深いものだと感じた。(文)
高校の教員を希望しているが、自分の高校時代を思い出して、どんなにすばらしい先生でも一人ひとりのニーズに応えるというのは不可能だとあらためて知って、落ち込んだ。学習指導要領という国からの指示や「次につながるものを」という社会からの要請は何だかんだいっても大きいし、一人ひとりに「何やりたい?」と聞いた結果を授業で実現するのは難しい。というか無理だろう。また、私がそうでなかったとはいわないが、漫然と高校に通う生徒は多い(もちろん目的意識のある人もいるが)。普通科の必要性がここに来てまたわからなくなってしまった。あとで今までの授業内容を見なおすつもりだが・・・今回は少しパニックになった。(文)

日本は全体的な学力を上げようとしているのに対し、中国はトップの人を極めさせるというような教育観であるような印象があります。今後の国家レベルで日本と中国は変わってくるのでしょうか。どちらの教育観がよいとかはあるのでしょうか。(教育)
・・・> 一般に、全体的な学力を上げようとするのは先進国、エリート育成に力を入れるのは後発国の特徴です(日本も戦前はそうでした)。「どちらの教育観がよいとか」は主観の問題です。それより「とか」なんて使わないでくださいな。国語力が問われますよ。

近代の「国民を生み出すための教育」が教育の普遍化を必要とした、という知識を念頭に置くと、「一人ひとりのニーズに合った教育」を大人数教育で実現するのは難しいのではないかと思いました。イギリス(イングランドでしょうか?)ではそういう観点から親による、家庭での教育が見なおされているという話を聞きました。(教育)

「知る」とは古語において「治める(支配する)」という意味もあり、そこから知識は力であったし、また今もその幹は残っているはずだという話を、最近16歳の男の子から教わったのだが、教育史を学んでいると知識は力であると感じることが多々ある。力である以上、取り扱いに注意しなくてはならないわけである。教育史とは、その力に対するさまざまな手なずけ方の歴史に観えてくる。いまだに人間に懐いてくれたとは思えないが。(文)
・・・> 知事とか領知とか知行とかね。知とは、たしかに刃物みたいなものではあります。利器にも凶器にもなりうる。

社会の複雑化・高度化によって、高度で幅広い学習が必要とされるのもわかります。この授業の最初のころに先生が「もっともっと勉強しないといけない」といっていたこともよく憶えています。このままではいけないということはわかるけれども・・・これからの日本の教育はどうすればいいの? どうなってしまうの? 国内において個人の能力を伸ばすべきなのか、国内全体の平均を上げるべきなのか、日本の教育レベルだけを上げるべきなのか、世界全体の教育レベルを上げるべきなのか、今は何を優先すべきなの? どうしたらいいのか、わからなくなってしまいました。(教育)

漫画を読んでいる人や寝ている人が多くて目障りなので追い出してほしい。(教育)
・・・> 寝ている人はともかく漫画を読んでいる人はたぶん単位を取れないと思いますので放っておいてください。教場に来てプリントをもらえば何とかなる、のではないことくらい、授業を聞いていればわかるはずなのに、それでもそうしているというのは、よほど楽観主義者なのかよほどアホなのかのどちらかです。目障りだというなら自分で「目障りだから出て行け」というか、そういう人があまりいない前列に来ることですな。そんなことまで面倒はみません。大学の授業だし、教職だし。

経験主義とエッセンシャリズムの話はとても興味をもてました。日本はどっちの色が強いのか気になりました。(教育)
・・・> 次回に!

 



開講にあたって

教育基礎総論は、教職課程の入門的科目として、教育の理念・思想・歴史・制度や学校教育およびその周辺のアウトラインを広い視野から学び、教育のプロをめざす上での専門性(教職専門性)の基礎を養うことをねらいとしています。早稲田大学の教職課程で取得できる免許状にはさまざまな学校種(小・中・高)や教科が含まれますが、その違いにかかわらず共通して基盤とすべきものといえます。受講生の多くは12年生で、教職課程はもちろん専門分野についても初歩的な段階にあると思われますので、プロをめざすのだという前提に立ちながら、個別・具体的な知識やスキルの習得よりも、教育・学校・青少年・教員といった事象を見つめる視点・視角やアプローチの手法を学ぶことを優先したいと思います。教育は、誰もが主観的には(児童・生徒として)経験しています。そのため、何となくわかった気になっていたり、メディア等で報じられることをそのまま受け取ったりする弊を招きやすい分野でもあります。職業としての教員は、職業的な専門性というものを当然もたなければなりませんので、当科目あるいは他の教職科目の学習を通して、広く深い知見をも身につけられるよう期待しています。

前期の教育基礎総論1では教育の歴史・思想・理念などを中心に扱うことになります。後期の2では、現代教育を構成するさまざまな要素を分析します。単位は独立していますが、履修に際しては同一クラスを通年履修することが推奨されています。各クラスとも前・後期の内容がセットになるよう設定されていることと思いますので、ぜひそのようにお願いします。

教育に興味がある、教員になりたいという人の場合、その関心の大半は現代の学校教育、たとえば学力の問題、いじめや学級崩壊、少年犯罪、モンスター親といった社会的現象として報じられる部分や、各自が児童・生徒として経験した学校や教員の問題(不満や批判を含む)にあるのではないかと思います。そうした観点からみますと、当科目で扱う教育の歴史・思想・理念といったものは、これまで最も視野に入りにくかったのではないでしょうか。「21世紀の日本の教員になるのに、どうして18世紀の西欧の思想家について勉強しなくてはいけないのか」という不満を感じ、モチベーションを得られないという人もいることでしょう。しかし、教員養成(未来の教員を育成するプロセス)のしくみがどう変化しようと、当科目のような学習が基礎にあるという点は不変なのです。歴史・思想・理念を探求する学習活動は、社会と人間と教育がどのようなかたちで相互にかかわり合っているのか(つまり教育は何のために存在するのか)、あるいは私たちが学校教育と呼んでいるものの原理・本質はどこにあるのか、といったきわめて大事なことを知るにつながります。目先の技術や教育内容を学ぶだけでは、10年どころか5年ほどの変化にすら対応できないことでしょう。

さいきん気になっているのは、学部学科を問わず、少なからぬ大学生が歴史や外国事情、概念、思想など直接経験しにくいものを苦手としていることです。教育にかぎらず、大学生が真に学ぶべきは、すぐに役立ちそうなものではなく、物事の土台(コンピュータでいうOS)となる部分であり、歴史とか思想といったものもその重要な一部をなします。高校までの歴史学習がどれほどの水準であったかは知りませんが、どうであっても、いま大学生としての学びを見つめなおし、大いに取り組んでください。その学びこそが、教壇に立ったときの基準になるからです。私たち教育者は、自分が学んだようにしか教えられないという宿命を負っています。自身の学びが単語の丸暗記ならそのような教え方になりますし、自身がネットをパクるやりかたなら生徒にもそれが伝播します。教職科目への取り組みの甘さがプロとしての欠陥の原因にならぬよう、心して臨んでください。

当科目では、特定の教科書を指定しません。教育・教職関係のテキストは無数に出ていますので、書店で手にとって、数冊を購入しておくとよいでしょう。

 

当科目の評定方針

前期末の試験により評定します。受講後のヒストリカル・リフレクションは前期総計20点まで考慮のうえ加点し、圧縮はおこないません。
出席点はいっさいありません。

 

教職科目の基本的な作法 (他科目も同様と心得てください)

出席するだけではダメ  教員になるための重要なワンステップと心得よ
教職の専門性は知識と技術にある  それらの向上をめざせ

次の事柄は厳禁(教職科目以外でも同様だが、とくに自覚されたい)
授業中の私語  エスケープ(無断退出)  帽子・コート・マフラー着用のままの受講
飲食物(とくにペットボトル)の持ち込み

 


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