メキシコ債務の悪循環

NACLA XXXI No.3, 1997より抄訳

 

メキシコはブラジルにつぐ第三世界最大の債務国であり、対外債務の総額は1700億ドルにのぼる。1980年代の長期債務危機の時代を経て、1990年代に入ると債務額はさらに加速度的に増大した。そのうえ金融のグローバル化に関連して、債務の性質にも変化が生じている。まず、メキシコの民間金融大手が国際市場での債券発行に積極的に参加しだした。ついでメキシコ証券市場が外国資本投資の重要な受け手として登場した。第三に、1994年から95年にかけての経済破綻の結果、政府が複雑な金融返済義務を負ってしまったのである。

以上の新たな状況は、メキシコの経済や社会関係そして政治にいかなる影響を及ぼすのだろうか。債務危機は再び発生するのだろうか。こういった問いに答えるには、まず、30年間にわたって対外債務がこれほどの規模にまで膨み、メキシコ経済に極度の不安定性をもたらすに至った原因を検証しなければならない。

 

債務危機の原因

メキシコの対外債務は、1960年代以降、インフラ整備と金融安定化のための借入によって増え始める。借入先の大半は世銀、米州開発銀行(IDB)IMFといった国際金融機関だった。これらの融資は低金利で返済期間が長期というメリットをもっていた。さらに発電・送電や電話網の整備、道路や橋の建設、急成長を遂げる都市向けのインフラ整備といった経済開発の基盤構築には、民間資金が投入されにくいという事情もあった。だが、供給された融資額自体は大きなものではなかった。メキシコの対外債務は1964年に23億ドル、1970年になっても60億ドルといったレベルに留まっていた。

対外債務の爆発的増加は1970年代初頭から始まる。1972年の70億ドルから74年には140億ドルへと2倍に膨らみ、1977年には290億ドルへとさらに倍増し、1982年初頭には800億ドルに達した。奇妙なことに、この間、公的債務(公的部門が負う債務)と民間債務(民間企業の債務)の比率は、前者が70%、後者が30%とほぼ一定している。

変化が生じたのは、資金の供給源である。1960年代から70年代初頭にかけてメキシコ政府の借入源は国際金融機関だったが、1970年代半ばになると日米欧の民間銀行が新たな顧客を求めて中南米に殺到し始める。文字通り数百行もの米国民間銀行がメキシコの公的部門や民間部門に押し寄せ、1982年には巨大6行だけで113億ドルもの対メキシコ債権を保有するという事態に至った。巨大6行とは、Citicorp, Bank of America, Manufacturers Hanover, Chase Manhattan, Chemical BankそしてJ.P.Morganである。

1970年代を通じて、オイルダラーの増大と欧州経済の長期不況を背景に、国際金融市場で利用可能な資本が劇的なまでに増加していた。これが第三世界諸国でのうまみの多い債務取引を巡って、銀行団の間で激しいシェア競争を引き起こしたのである。先進国での熱狂に加えて、中南米諸国の国営企業や国立開発銀行、のちには民間銀行や企業も加わった借入競争も債務の急増に拍車をかけた。なお、アルゼンチンやブラジル、チリ、ペルーなどでは、軍事政権が1970年代に巨額の近代兵器購入を行ったことも債務急増の要因だが、メキシコ軍の規模は小さく、これに当てはまらない。

対中南米融資の大半は、1970年代には急速な開発戦略を掲げていた国営企業や国立開発銀行に投じられた。メキシコの場合、莫大な利潤をあげる国営独占企業のメキシコ石油後者(PEMEX)と、同じく電力部門の国営独占企業である連邦電力委員会(CFE)の二社に向けられた。PEMEXの対外債務は1970年には、わずか36700万ドルだったが、1981年には110億ドルを超え、メキシコの公的対外債務の27%を占めるに至った。電力網の拡大も歴代政府の優先課題であり、この結果CFEの債務も同時期に99900万ドルから82億ドルへと急増した。

この二社に加えて、国立融資銀行(NAFINSA)

国立公共事業銀行(BANOBRAS)、国立貿易銀行、

農村融資銀行も債務の主要受け入れ機関であり、

1981年には合わせて100億ドル以上の対外債務

を抱え、うち短期債務が80億ドルを占めるとい

う事態に陥っていた。

メキシコの民間企業も国外からの融資を求め、

とりわけメキシコ北部の都市で経済的首都として

知られるモンテレイに本拠をおく財閥ALFAがそ

の中心であった。ALFAの対外債務は米国系銀行

を中心に10億ドルを超えていた。これらの債務

は、相対的に安定した為替レートと順調な輸出収

入によって裏付けられていた。だが、1981年半ば

に国際経済が劇的に変化し、ALFAをはじめとす

る企業が相次いで倒産の憂き目を見る。以降、長

期的な再建プロセスに突入する。

新規融資はメキシコ政府の認可を必要としていたものの、銀行家も政治家も債務の蓄積や企業の返済能力を注意深く監視していたとは思えない。債務の多くに政府が裏書きをしていたため、まさかメキシコ政府が返済中止を考慮するとは考えなかったのである。Citicorpの頭取は1970年代末の融資ブームの時代に、「国家は破産しない」と豪語していた。だが、1982年にメキシコは破産寸前に至り、中南米の歴史でもっとも深刻で長期的な債務危機に突入してしまった。

 

債務危機の勃発

1980年の時点で世界的な融資額や件数は巨大になっていたが、IMFや世銀を含めて正確な情報はまるで存在しなかった。ポール・ヴォルカーの率いる米国連邦準備制度委員会が1980年代初頭に金利を引き上げた結果、中南米諸国は利払い増大に対処するため、新たな融資を確保する必要に迫られた。だが、急増した債務の返済義務は中南米諸国がもつ財政負担能力を上回ってしまっていた。

まずメキシコが倒れ、19828月に利払いの一時停止を宣言する。当時、対外債務総額は870億ドルで、その内訳は公的債務が約600億ドル、民間債務が190億ドル、商業銀行債務が85億ドルを占めていた。メキシコ危機が国際金融に及ぼす影響は劇的なもので、IMFと世銀は1982年9月に世界市場の恐慌の可能性について関する協議を迫られた。展望は暗澹たるものだった。このため、国際金融機関は一連の救済措置に踏みきり、まず、11月に80億ドルのメキシコ向け緊急融資パッケージに合意する。これはメキシコの1982年の返済義務と同額であった。IMFはメキシコ債務の返済保証を支援するため拡大引き出し権から45億ドルを提供し、多角決済銀行(BIS)185000万ドルの融資、米国財務省も20億ドルの短期融資を決定した。

ついて債務のリストラ交渉が開始され、1983年には二つの商業銀行グループが1983年の利払いを保証するために、70億ドルの追加融資を実施した。以降、Citibankを代表する対メキシコ債権を有する530の銀行団が交渉を継続していった。

あまり知られていないが、1986年に国際石油価格の下落を原因として、メキシコは二度目の債務危機に陥っている。メキシコ財務省は銀行団に対して利払い停止の可能性をつげ、国際金融機関がこれを避けるために再度、融資パッケージを組織したのである。IMF17億ドル、世銀が23億ドル、商業銀行団が16億ドル、パリクラブ合意で15億ドルの債務繰り延べ、さらに日本政府が10億ドルの融資を提供した。

商業銀行団との間で結ばれた新たなリストラ合意を受けて、ベイカーとブレイディ財務長官から一連の提案がなされ、1988年にメキシコ債務危機の長期的解決へ向けた基盤が形成された。合意は、旧債権をブレイディ債権と呼ばれる米国財務省の保証突きの新債権に交換することをベースとしていた。この結果、ある程度まで商業銀行団に対する債務総額が減額され、利払いも減った。

 

ネオリベラル構造調整の導入

メキシコ債務のリストラは、IMFと米国財務省、国際商業銀行団からなる三者同盟がメキシコの公的部門に対して、厳格な返済義務と国営企業の民営化や貿易自由化を含む大がかりな市場志向の改革を強要することに成功した点を反映している。この一連のネオリベラル政策は、後にワシントン・コンセンサスとして多くの途上国に適用されることになる。いったんネオリベラリズムが中南米諸国の政治・金融エリートによって導入されると、ブレイディ・プランに代表される限定的な債務削減政策が適用されるとともに、米国政府・IMFによって厳格なネオリベラル改革を条件とする融資政策が発動され、債務国と債権団体との間で和解がとりもたれるのである。

ブレイディ・プランは1988年のサリーナス政権の発足とともに本格的に始動し、中南米諸国に対する融資合意の基本的モデルとなった。以降、サリーナス政権(1988-1994) は経済成長の復活へ向けて、国外からの積極的な資本調達         

                  にのりだす。だが、メキシコに還 

                  流し始めた資本の大半は、実は米 

                  国など国外銀行口座にメキシコ人

                  富裕層が逃避させていた数十億ド

                  ルの資本だった。これが多くの国

                  営企業の民営化や銀行の再民営化

                  の際の購入資金となったのである。

                   1989年から1993年にかけて民 

                  営化された巨大企業のなかに、独      

                  占的電話公社であるTELMEXが 

                  ある。これを購入したのが、後に

                  中南米最大の金持ちとなるメキシ

                  コ人投資家カルロス・スリム・エ

                  ルーである。このほか、巨大な製

                  鉄会社が数社、数十の製糖工場、バス製造会社、20の農産物加工会社、多くの鉱山会社などが売却された。これによってメキシコ政府は120億ドルの資金を手にしたが、実際にはこれらの国営企業がもつ資産価値は遙かに高かった。

サリーナス政権は1982年に国営化された23の商業銀行の売却にも着手し、123億ドルの追加資金を国内投資家から得た。これら銀行の新たな所有者となった220-名は、メキシコの産業・金融構造全体の改革にのりだし、国内資本の集中と集権化を劇的なまでに進めた。同時に、ニューバンカー世代と呼ばれる彼らは、その巨大な金融・産業グループへの融資を国外に積極的に求めていったのである(サリーナス政権と組んだ彼らの不正な蓄財については、PUENTE20号「新しい銀行家の急速な台頭」を参照)。

この結果、1990年から94年にかけて、民間対外債務が再び急増しはじめるが、その返済義務期間は70年代末の債務に比べてずっと短期間であった。新たな債務は、TELMEXや巨大セメント会社(CEMEX)、民営化されたBANAMEXSERFIN, BANCOMERなどの銀行が国外で株式や債権を販売したことによって増大していった。とりわけ1992年から94年にかけて、メキシコのかなりの数の中規模企業や銀行が米国や日本の低金利に引きつけられて融資ゲームに乱入していった。国立開発銀行も再び巨額な債務を担い始めた。

IMFによれば、1990年から93年にかけてメキシコは途上国向け資金の20%に相当する910億ドルを受け取った。このうち、直接投資はわずか166億ドルにすぎず、金融投資が610億ドルにも達していた。メキシコ証券市場には国外から少なくとも220億ドルもの資金が流れ込み、政府や金融情報誌は証券ブームと経済繁栄という楽観的観測に踊っていた。

バブルの崩壊

メキシコ証券市場が作り上げたバブルは、為替安定の追い風を受けて、米国からさらに資金を引きつけた。だが、1990年代初頭には貿易赤字が1000億ドルにも達していた。ペソの過大評価は証券投資を引きつけたが、輸出産業は不振に喘いでいた。為替レートの安定は、経済のファンダメンタルズに基づいてはいなかったのである。貿易赤字はメキシコのGATT加盟とNAFTAの批准がもたらす輸入の急増によって膨らみ続けていた。

1994年にメキシコで生じた一連の事件は、政治がいかに金融に影響を及ぼすかを示す格好のテキストである。1月のサパティスタ蜂起が金融市場に大きなインパクトを与えたと見なす者もいるが、事実に反する。株価は2月半ばまで上昇を続け、財務省がTELMEXの株式15億ドルを売却した時点で、下降を始めたのである。メキシコ人富裕層や外国人投資家が数週間で100億ドルを超える資金を引き上げたのは、3月のコロシオ大統領候補の暗殺を契機とする。

この時点で、中央銀行と財務省当局は金融政策で歴史に残る決定的な誤りをおかした。国外資本逃避への対抗策として、ドルに連動した短期国債(テソボンド)の発行を行ったのである。199412月までにメキシコ人富裕層や外国人投資家は300億ドルものテソボンドを手にした。償還期限1年未満のテソボンドは、政府を破産に追い込む時限爆弾であった。

さらに財務省も中央銀行も外貨準備高を公表しないばかりか、債務が深刻化していることまで隠したのである。12月にセディージョ政権が発足するや否や、中央銀行総裁は再び取り返しのつかない誤りをおかす。特権的な投資家にのみ通貨切り下げを伝えるのである。12月前半だけで中央銀行は20億ドルものテソボンドを買い取った。メキシコの代表的金融機関もこれに続き、切り下げへの防衛措置として160億ドルのテソボンドを購入する。外国人投資家もドルを求めてメキシコ債権の売却を始め、切り下げ圧力がいよいよ高まっていった。

941220日、政府は最大15%までの切り下げを認める為替レートの柔軟化を導入する。またもや金融当局の大失策である。翌日、わずか5時間でメキシコ主要銀行はペソ売りを浴びせかけ、80億ドルものドルを購入し、中央銀行がもつ最後のドルまで買い尽くした。以降、ペソの自由な下落を認める完全な切り下げ以外に策はなくなってしまった。

 

勝者と敗者

 ペソ切り下げの帰結とは、1930年代の大恐慌以来、最悪の経済不況である。政府と民間金融部門の失策によって、甚だしいコストがもたらされた。1995年だけで百万人以上が職を失い、多くの銀行が技術的に破産状態に陥り(政府の介入以外に生き延びる道はない)、国内総生産は1年で8%も下落した。影響は中南米やアジアにも及び、何十億ドルもの資金がこれらの新興市場から引き上げられた。この結果、19952月、米国財務省が異例の緊急融資パッケージを発表する。当初発表された金額は400億ドルで、これは一国に供与された額としては前例のないものである。1996年を通じて実際に供給されたのは、米国財務省の125億ドル、IMF170億ドル、世銀とIDB40億ドル、商業銀行の10ドル弱である。

国内外を問わず、テソボンドの購入者の大半は損をしなかった。資金をドルで取り戻せたからである。実際、メキシコの金持ち投資家たちは、切り下げ直前の数週間の間にペソを使ってテソボンドを買いまくり、巨額の儲けを手にした。テソボンドのペソ建ての価値は、切り下げ後に倍増している。つまり、米国財務省とIMFによる救済パッケージは、テソボンドの買い戻し資金として使われ、メキシコ人富裕層へのさらなる富の移転に利用されたわけだ。

メキシコ企業の株式に投資した外国人投資家は、株価の下落によって巨額の損失を被った。ニューヨークの機関投資家たちは、通貨切り下げを無責任な政策として非難する。だが、彼らも1990年から93年にかけてペソがドルに固定されていたおかげで、証券市場で巨額の富を手にしていたのだった。3月のコロシオ暗殺で切り下げの可能性が高まると、機関投資家たちは金融政策の継続を主張し、結果として切り下げリスクとそのインパクトをさらに強めたのである。

これまでのところ、金融破綻の最大の敗者は国内の納税者である。米国・IMF220億ドルの融資に加えて、従来の債務1000億ドルの返済、さらにメキシコ商業銀行への政府の債務400億ドルの返済義務を背負わされている。1996年を通じて、メキシコは米国財務省に140億ドルを前倒しで返済し、クリントン政権から賞賛を寄せられた。資金の大半は石油収入だが、債務返済の負担はまったく軽減されていない。メキシコ

1995年と1996年に毎年350億ドルを超

える返済を行った。これは中南米の歴史で前

例のない規模の返済額である。

 

繰り返される危機

1982年と1995年の危機は共通点が多い。

救済パッケージの主役も同じだ。だが、1995

年危機の際の救済額はかなりの巨額にのぼっ

た。IMFはメキシコ危機を「21世紀最初の

金融危機」と形容して、特別引き出し権の基

金を倍増する決定を行った。

実際、中南米諸国がバブルとその崩壊と

いうプサイクルを繰り返さない保証はない。

それどころか、巨額な資金が短期間で世界

的に移動するという現実をまえに、このサ

イクルがいっそう激化するとの見通しもあ

る。中南米諸国の国内貯蓄率は依然として

低く、このため国外資本投資への必要は高

い。中南米諸国では、水道・衛生、電気通信、発電、輸送に対する要求に応えるだけで、今後6年間に毎年600億ドルの資金、つまり毎週10億ドルもの資金が必要とされている。

メキシコ危機にもかかわらず、1996年に入って中南米への資本流入が再開されたのは、このような事情もある。1996年、国際資本市場で売り出された中南米諸国の株式と債権は過去最高の770億ドルに達した。メキシコ系多国籍企業は1996年に100億ドルを超える債権を国外で発行している。世界第三位のセメント会社CEMEXだけで、今や50億ドルの対外債務を抱える。メキシコの国営・民間銀行もこの1年半の間に大規模な対外借入を行った。

メキシコの債務総額1700億ドルは1995年以来、あまり増えてはいない。公的債務の巨額な返済と商業銀行の短期債務が返済されたためである。だが、今後とも返済額は恐ろしい規模にのぼる。国内の生産的投資に使えるはずの巨額な資金が、債務返済のために国外に流出し続けるという債務の罠にはまりこんだままである。日米欧へ債務返済という莫大な資金移転の一方で、国内投資の必要性に刺激されて、大規模な新規資金がメキシコに流入している。

世界金融市場の急速な変化は、新興市場における変動リスクを高めただけである。このリスクを軽減するための戦略を生み出さなければならない。完全に新しい戦略なしには、さらに深刻な債務危機に直面することになるだろう。