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今回は伝道に限らず、信仰全般の話です。私は神様に対して、「命懸けで○○をやります!」という言葉は使えません。そのような祈りをしたことがありませんし、そのように祈れません。理由は、2つあります。 1つ目は、神様に対して失礼だと感じるからです。神様は、生きた私を通して氏族的メシヤを勝利させ、天一国を実現されようとしています。それなのに、「何かができなかったら死んでもいいです(命懸けとはそういうこと)」というのは無責任だと思うからです。 まだまだ寿命があるのに、その寿命で果たすべき責任を放棄しているように感じます。神様は「私が天寿を全うしつつ、責任を果たしてほしいと願っている」と思うからです。 2つ目は、簡単に私の命を奪うことができる力を、神様が持っているからです。「私が出会った神様(1) 」で書いたように、そのことは痛切に感じています。、「3日間禁煙」という蕩減条件を果たせなかっただけで、雷に打たれそうになりました。 万能の神様は、ちっぽけな私の命など、いとも簡単に断つことができるのです。本当は死ぬ勇気もないくせに、軽々に「命懸けで○○をやります!」と言って、本当に神様が私の命を断とうとしてきたら、思いっきり後悔します。 ですから、私は問題を解決するために条件を立てるときでも、「命」よりも軽いものを懸けるようにしています。通常は、食物(断食)とか睡眠時間などです。 今までの信仰生活で、最も深刻な信仰的課題に直面したのは、約20年前です。このときは、「さすがにこれは命懸けでやるべきだろう」という本心の声がしました。そこで、「もしこの問題が解決できなかったら、どうやって死のうか」とシミュレーションしてみました。ここらへんが科学者の悪いくせです。(-_-;) ペテロは、「イエス様と同じ姿で十字架にかかるのは申し訳ない」と、逆さ十字架で殉教しました。「真の父母様と共に生きてみ旨を歩まなければならない私が、こんな問題も解決できないで死を選ぶのだから、もっと悲惨な死に方でないと申し訳ないだろう」という考えになります。 「それは、どんな死に方だろう」と、いろいろとシミュレーションしてみました。「やっぱり、簡単に一瞬で絶命したら申し訳ないだろう、苦しみ喘ぎながら死ぬべきだろう、まず目玉を……」と考えていくうちに、とても怖くなりました。最後は「やっぱ、命懸けは無理だなあ」という結論に至ってしました。(-_-;) では、どうするのか? 考えた末、左手の小指1本を懸けることにしました。もし問題を解決できなければ、小指を1つ切り落とすのです。命を懸けるよりは、ずいぶんとハードルが低くなりました。 しかし、指を切ったことがないので、切り方が分かりません。そこで、また科学者の悪いクセで、まずは調査しました。どこらへんを切り落として、直後にどのような処置をしたら死なずに済むか、念入りに調べました。 切り方は分かりましたが、練習しておかないと、いざというときに失敗して死んでしまうかもしれません。そこで、道具をそろえたうえで、実験してみました。切るべき個所を、ちょっとだけ切ってみたのです。 痛いのなんの! ちょっとだけ切ったのに、激痛です。血も涙も止まりません。結局、病院に行って治療してもらう体たらくです…。 それでも、これだけ準備して、やっと小指1本を懸ける決意が固まり、問題解決に取り組みました。今も左手は5本の指がありますので、おかげさまで結果は「問題を解決できた」ということです。 もし、「命懸けで○○をやります!」という言葉を使う人がいらっしゃいましたら、ぜひこのようなシミュレーションをお勧めします。別に嫌味で言っているのではありません。このくらい具体的に考えてみると、言葉の「重み」、「深刻さ」が分かると思うからです。 そして、このように具体的に準備をしているうちに、決意って固まっていくものだと実感しています。さらに、このようにして決意が固まったら、もう問題は解決しているのです。「出発の決意、すでに勝利」です。 |
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確かに「命懸け」は軽率に使えない言葉ですし、神様の領域なので人が口にするべきものでないと思います。 |
光太朗 2012/06/02 00:04 |
明日は尾瀬霊園で第30回全国聖和祝祭です。先駆けて霊界にいらっしゃる方々の中には、地上人生を途中で終え、悔いを残しながら行かれた人もおられると思います。そのような方々のことを思えば、地上にいる我々はもっとしっかりしないといけないですね。 |
小林浩 2012/06/02 21:09 |
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