■面白さ生む「未来の他者との連帯」感覚
荒唐無稽な着想だ。しかし、抜群におもしろい。すでに映画にもなった大ベストセラーマンガなので、詳しく内容を紹介しなくても、ご存じの方が多いだろう。タイトルは、「ローマの風呂」という意味のラテン語で、現在4巻まで読める。
古代ローマには、公衆浴場がたくさんあった。それらのいくつかは、遺跡として今日でも残っている。主人公のルシウスは、そうした浴場を設計し、造るのが得意な建築家だ。熱烈なローマ愛国者で、やがて建築した斬新な浴場が高く評価され、ハドリアヌス帝の寵愛(ちょうあい)を得る。
まず、浴場に着眼したところがすばらしい。古代ローマは、間違いなくヨーロッパの精神的な原点(のひとつ)である。(西)ヨーロッパの知的な共通語が(本来、聖書とは何の関係もない)ラテン語になったことに、それは端的に現れている。にもかかわらず、公衆浴場という文化は、どういう理由か、ヨーロッパには継承されなかった。他方、古代ローマにもヨーロッパにも関係がない日本では、公衆浴場は一般的だ。
マンガは、全体として緩やかにつながっているが、基本的には一話(ときに数話)完結になっている。各エピソードは、だいたい同じパターンの筋に従っている。
まず、ルシウスが浴場建設に関係する難問に直面する(たとえば、皇帝から難しい注文を受けるとか)。そんなルシウスが風呂に入って悩み、思案していると、たいていちょっとしたきっかけで(排水溝に引き込まれるとか溺れそうになるとかのきっかけで)、タイムワープしてしまう。ワープする先は、必ず現代(あるいは20世紀後半?)の日本の、しかも浴場に関連する場所である。つまりルシウスは、われわれの社会の公衆浴場とか、家庭の風呂場とか、温泉などにワープしてくるのだ。
ルシウスは、もちろん、そこが彼の時代から2千年近くも後の未来に属する、地中海からは遠く隔たった極東の島国「日本」であることを知らない。ローマ帝国の辺境の植民地か何かだと思っている。日本人のことを、奴隷のような卑しい身分の人びとではないかと彼は推測している。そして、日本人の風貌(ふうぼう)の特徴から、彼らを「平たい顔族」などと呼ぶことにする(当然、言葉は通じないので、心の中でそう呼ぶだけだ)。
だが彼は、奴隷的な民族――と彼が勝手に思い込んでいる――平たい顔の人びとを決して軽蔑したりはしない。まったく逆である。ルシウスは、平たい顔族の風呂をめぐる文化の洗練度や先進性に驚愕(きょうがく)するのだ。われわれが工夫とも思わぬような、ちょっとした道具やマナーなどに、ルシウスはいちいち大げさに驚き、感激する。そして最後に、再びワープして元の時代と場所に戻ったルシウスは、現代日本の風呂で学んだアイデアを古代ローマで彼なりの仕方で再現し、当初の問題を解決することに成功する。
すべての物語がほぼこのパターンである。たとえば、第1話では、ルシウスは日本の銭湯に突如ワープして、戻ってくる。そして、壁に「ヴェスビオス火山の絵」(←富士山から)を描いたり、浴場で「牛の乳に果汁を混ぜた飲料」(←フルーツ牛乳)を売ったり、脱衣所に「竹の籠」(←無論、脱衣籠)を置いたり、台に「見張りの奴隷」(←番台)を座らせたり、といった工夫を施した公衆浴場を開設して、大評判を得る。
どのエピソードでも、ルシウスが、日本の風呂の当たり前の姿に大真面目に感嘆し、そしてローマ人としての彼のプライドにいささか傷をつけられ、ちょっぴり罪の意識を感じながらそれらをこっそり模倣する。この展開が笑える。絵はとてもリアルで、そして、実は細部の時代考証がしっかりしている。
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それにしても、はるかな過去の人が(彼らにとっての未来である)現在にタイムスリップして、前衛的な文明にとまどったり、驚かされたりという話は、SFにとって紋切り型ではないか。「テルマエ」のどこがそんなにおもしろいのか。
まず、風呂である。風呂はどう見たって、われわれの社会の最も先端的な部分、最新テクノロジーの集積点とは言えない。確かに、プラスチックの風呂桶(おけ)とか、瞬時にお湯が出る水道とか、ピカピカに磨いた鏡など古代ローマになかったものはたくさんあるが、しかし風呂は、基幹的な部分に関していえば江戸時代からあまり変わっていないローテクに属する。そういう部分によって、古代ローマ人を驚かせているところがおもしろい(ただし、さすがに何度も現代日本に来てそういう部分にしか気づかないのはおかしいということで、最新刊では、ルシウスはテレビや電話といった20世紀のテクノロジーに出合って悩んでいるのだが……)。
こうしたローテクに注目したせいで、古代ローマの男ルシウスは、工夫次第でそれを自分の時代で模倣したり、「当たらずと言えども遠からず」的な類似物を再現したりすることができることになる。ここが重要だ。要するに、「テルマエ」は古代ローマ人が、未来(現在のわれわれ)から剽窃(ひょうせつ)している、パクっているという話なのだ。
このことは、言い換えれば、ルシウスのような架空の人物を抜きにして、われわれ現代の日本人がローマの風呂を見ても、「日本の公衆浴場を先取りしているよ」「あと一歩で私たちの風呂と同じだよ」「ローマ人って俺たちの風呂をパクっているみたいだな」という印象をもつ、ということである。われわれの方がずっと後の世界を生きているのだから、そんな因果関係があるはずがないのに、まるでわれわれが古代に影響を与えているような感覚が否みがたく生ずるのだ。こういう仕方で、現代の日本人が古代ローマ人と(ありえない)繫(つな)がりをもっているように感じてしまう。「テルマエ」は、こうした感覚を触発してくれるのだ。
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現実にも、未来からの剽窃、未来のパクリと見なしたくなる現象はかなりある。芸術の領域では、特に、そういう現象が見られる。「Xのこの作品のあの部分は後世のYからの盗作ではないか」と言いたくなるような先取りを、ときどき見いだすことができるのだ。
実際、ピエール・バイヤール(Pierre Bayard)が、『Le Plagiat par anticipation(予期による剽窃)』(Editions de Minuit、2009)という素敵(すてき)な本を書いている。バイヤールは、知的な洗練の極みにある文学オタクとでも表したくなる批評家で、この本の中で、未来から剽窃したと見なすほかないような例をたくさん挙げている。
バイヤールによれば、歴史的に先後関係にある二つの作品があって、後世の作品において最終的に完成するようなある性質を二つの作品が共有しており、したがって逆にいえば、前の古い作品は未発達な断片というかたちでその性質をもっているのだが、その断片が、その芸術家の作品の全体や彼の文化的なコンテクストの中でいささか不協和で突出しているという印象があるとき、前の古い作品を後の作品の剽窃と見なすことができる。
バイヤールは次のような例を挙げている。ヴォルテールのある断片は、後のシャーロック・ホームズの演繹(えんえき)的推理から盗んできたかのようだ。あるいは、モーパッサンのあるあまり知られていない小説は、プルーストの有名な箇所、日常のちょっとしたものとの偶然の出合いが膨大な記憶の噴出の引き金を引くという部分の剽窃である……、などなど。
無論、実際には未来からの剽窃などありえない。影響は必ず過去からくるものなのだから。しかし、私は、こうした想像にはおもしろいお遊び以上のものがあると思う。私は、昨年の3・11以降、未来(の他者)との連帯ということを真剣に考えるようになった。そういう主題にかかわる示唆が、ここにはあるのだ。
たとえば古代ローマの風呂を見ると、われわれは自分たちがローマ人と共振し、彼らとどこか連帯しているかのような感覚を得る。もちろん、実際にはローマ人が20~21世紀の日本人のことなど考えていない。が、われわれは、まるで彼らがこちらの呼びかけに応じ、こちらからの影響を受けたかのように感じる。そのようにわれわれに感じさせてしまうものが彼らの行為の中に、例えば後のヨーロッパの歴史の中では見捨てられてしまうことになる浴場文化の中にあるのだ。
ということは、さらに次のように考えることができるのではないか。われわれの現在の行為、われわれの現在の思索の中にも、〈未来からの剽窃〉と後になっていわれるようなものがあるのではないか。未来の他者から振り返ったとき、彼らが「自分たちの剽窃だ」と感じてしまうようなものが、現在のわれわれの営みの中にもあるのではないか。
思うに、これこそ、未来との連帯ということである。未来の他者と連帯するということは、われわれが勝手に未来の他者のことを想像し、詮索(せんさく)することとは少し違う。そういう想像は、たいてい、見当はずれなお節介(せっかい)に終わる。それとは別に、われわれの現在の無意識の営みのうちに未来と呼応する部分があるのだ。それは、きっと、われわれの現在の地平、われわれの歴史の歩みの中に置いたときには、どこかすわりの悪い突出部のような形で現存しているだろう。ヨーロッパ史の中の風呂のように。