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【内・外】 謗法呵責・誹謗と批判そして対話
本日付けの聖教新聞「名字の言」に以下の記事が掲載されていて感銘を受けました。

キリスト教徒が多い長崎。30年前の5月、同地を訪問した池田名誉会長は
 同志に教えた。
 「法の上の厳しさと、人間的なつながりを、混同してはいけない。信仰で
 会うのではない。人間として会うのです」。その後、名誉会長自身が宗教間
 対話を世界に大きく広げていく。


 (2012/5/29付け)

創価学会は他宗を誹謗していると言われたことはありませんか?

誹謗の誹は「不快感を与えるまたは傷つける意図のある失礼な表現」=悪口
誹謗の謗は「根拠のない嫌がらせ」=デマ
また
批判とは、人の言動・仕事などの誤りや欠点を指摘し、正すべきであるとして
論じること。(大辞泉)とあります。

人間だれしも自分に「正義」があると過信してしまうと、他宗派に所属しているという
だけで、救いがたい人間だという先入観をもってしまいがちです。
たしかに「四箇の格言」のように日蓮仏法では法の上では厳しい面も持ち合わせています。
他宗への批判であるため誤解をまねくこともしばしばです。

しかしよく考えてください。正法を保ち広宣流布を目的とするのなら信じている人を論破
すれば、それでよいというものではないですよね。
たとえ理屈の上で論破されていたとしても、人間は一念三千と説かれる瞬時に移り変わる
感情をもっているのですからすんなり正法に帰依するとは限りません。

学会に入会しない=正法が理解出来てない ではないのです。

また謗法を見て呵責するとはいっても、形式的に~~は禁止というようにマニュアル化
してしまえば「なぜ謗法だといえるのか」と自分なりに考えを巡らせる必要が薄れてしま
います。
意味も理解せずに、さらによく解っていない民衆を罵るだけでは、ただの独善です。
さらには曲解して嘲っているだけならば前述した「誹謗」にあたるといえるでしょう。

批判とは、人の言動・仕事などの誤りや欠点を指摘し、正すべきであるとして
論じること。(大辞泉)と紹介させていただきましたが、
ややもすると 人間だれしもが持ち合わせている欠点を個人特有の欠点で
あるように短絡的に考える人がいます。
誹謗と批判を混同しているケースだといえるでしょう。

これは、創価学会入会第一世代の方々のように(失礼)、もともと創価学会を批判
していた側から正法を求めて学会の門戸を叩いた人と
学会二世三世でも、自分の信仰としての創価学会に対する意識構築と目的観が
確立できている人。
そしてそれ以外の、ただなんとなく信仰をしている人や、自分だけが成功する事や
救われること、手柄を注目されるために信心を利用している人との差であるように
感じてなりません。

残念ながらネットの自称学会員の人の中にも、自分から邪宗だ謗法だとつっかかって
おいてその行動を自慢しているだけの人も見受けられます。

なぜ自分が批判されるか、批判する相手を理解しようと手間を省いて、まず自己肯定
をしようとするから、常に相手が悪く自分は悪くないという傲慢な態度に終始して
しまうわけです。

呵責は相手に対しての働きかけという意味もありますが、同時に自分の言動に対して
の責任も負っています。
古参の先輩に昔の学会の厳しい謗法呵責についてお聞きすると
「そうしなければ因習深い自分の宿業を断ち切れなかった」と述懐された事を
私は覚えています。
「良心の呵責」という言葉もあるように、慈悲に基づいた呵責はかならず、相手と自分
に対して問いかけといった二面性があると考えます。
以前、「つらつら日暮らし」のブログ主の禅寺の和尚とのやりとりで話題にしたように、
折伏とは自分に対しての臆病や無慈悲を断ち切る意味合いもあるのと同じようなもの
です。


第一世代の方々や自分の信仰として再構築しておられるかたは
「かつて自分もそうであった」という自省も含めた経験があるからこそ、様々な
誤解や批判の核心部分がなにであるかが察知できるのでしょう。
どんなにまくし立てられても平然とされておられます。我に固執されてません。
また絶対に対話する事をこちらからあきらめたりされません。
そういった所に師匠のようないぶし銀の精神的余裕を感じるのです。

斬って捨てて意識しないようにしようとする人に世間の人は「心の財」を感じる
でしょうか。

誰にも壊されない精神的幸福「心の財」を強くもちあわせてこそ、対話は続け
られるのではないでしょうか。

名字の言は最後にこう締めくくっています。

対話は「論破」が目的ではない。認め合い、友情を結ぶためだ。
 反対に“あの人はこう”と、こちらが垣根をつくっている場合も多い
「相変わらず」という言葉はあっても、実際に変わらない人はいない。
 少しの勇気を出して、会って話してみよう。「開かれた対話」は私たちにもできる。

(2012/5/29付け聖教新聞)


「妙法」の「妙」とは自らの変革を意味しています。
人の命や意識は自ら変わることができる。
『ローマは1日にしてならず』との格言にもあるように、対話は短い間で決着をつけるような
ものではありません。

あきらめないこと、そしていつか必ず通じるという信念が対話を対話たらしめているのです。

私も決して独善ですませる事のない「開かれた対話」をめざしていきたいとおもっています。


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by abehi-ken | 2012-05-29 15:45 | Trackback
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