2012年 06月 01日
女子はなんとかロンドンへの切符を手に入れ、今日から男子が始まります。
一時はバレーボール大国だった日本ですが、今はオリンピックに出場するだけでも
もがき苦しまなければいけない時代になってしまいました。
放送もTBSとフジテレビの共同です。
地上波が単体で巨額の放映権料を払えなくなり、レギュラー番組との兼ね合いで
毎日、ゴールデンに時間枠を確保するのが難しくなっているのでしょう。
ほかのメディアに押され始めている地上波は局の垣根を越えて手を組まなくては
いけなくなっているのかもしれません。ファンは、見られればそれでいいんですが。
ハハハ、
行きました。モスクワ・オリンピック最終予選の取材でした。
フランクフルトで乗り換えたのはバルカン航空でした。“国営”とは名ばかりで
あとにも先にも、こんなおんぼろ飛行機には乗ったことがないと思える恐ろしい
代物でした。腰回りが私の倍ほどあって、ひげの濃いおばちゃんスチュワーデスが
あらかじめ配った紙の皿にぶっといソーセージを一本乗せたとき、取っ手を包帯で
補強したサモワールで紅茶を注ぎに来たとき、震えあがりました。ハハハ。
このとき、日本女子はすでに出場権を得ていましたが、男子はいくつかの大会で
条件を満たすことができなくて、最後のチャンスをこの大会にかけていました。
取材に厳しい制約があってなにかとやりにくいことだらけの東欧圏での最終予選を
放送したのは東京オリンピックの“東洋の魔女”からのバレーボール熱が続いて
いたからです。結局、この大会でも出場権はとれませんでしたが。
初めてバレーボールと接したのは東京オリンピックです。金メダルを獲った直後の
“魔女”たちにインタビューしました。
キャプテン/セッターの河西昌枝には指先をカメラに見せてほしいと頼みました。
監督の許可を得て“唯一の女らしさ”としてマニキュアをしていたのです。初めは
嫌がりましたが、無理を言いました。普通の女性と変わらぬ指先を見て、男勝りの
プレーをしていることがウソのように思えました。
主力選手へのインタビューを続ける私にスタッフが時間を知らせていました。
「(残り)3分」、「2分」と書いた紙を見せるのです。まだ若かったとはいえ、一応
“プロ”ですから、そちらを見なくても分かるのですが、うしろの席の控え選手は
私が気づいていないのだと勘違いしたようです。さかんに背中をつつかれたことを
昨日のことのように思い出します。ハハハ。
前田豊副会長(女子)、松平康孝専務理事(男子)が解説者として大活躍されました。
何回コンビを組んだか思い出せないほどご一緒したものです。
前田さんは優しい口調で分かりやすい解説ぶりでした。
一方、先日、亡くなった松平さんは耳に心地いい歯切れのいい口調で話されました。
特に、選手にニックネームをつけるなど、バレーボールの面白さを伝えることに
一生懸命だったことを思い出します。
東京オリンピックの熱気を単なる“ブーム”で終わらせず、マイナーだったバレー
ボールを人気種目に仕立て上げた功労者と言ってもいいでしょう。
水泳の木原光知子と並んでいわゆる“美人アスリート”のハシリでした。
キャリアの中で“呼吸が合った解説者”5人の中に入ります。うまい下手ではなく、
彼女と組んだ仕事を終えたあと「今日は失敗した」と思った記憶がないのです。
女性解説者にはありがちですが、選手に関してネガティブなことが言えないという
マイナス点を除くと、仕事相手として最高に楽しめる人でした。
バレーボールの実況には長く携わりましたから思い出に残る選手たちも大勢います。
第2回春の高校バレーで準優勝した秋田・角館南高校の荒木田裕子もその一人です。
記憶に間違いがなければ、彼女は左右両方の手でスパイクを打つアタッカーでした。
しかし、準決勝あたりで左肩を痛め、右手一本で奮戦しましたが、高田高校の前に
屈しました。実況担当だったら涙腺が危なかったでしょう。ハハハ。
日本で初めて開催された77年のワールドカップでは、モントリオール金メダルの
白井貴子・前田悦智子・松田紀子が復活しました。フジテレビとしては視聴率も
ほしいところですが、彼女たちの力を借りて日本列島を盛り上げ、大会そのものを
成功させれば日本での永久開催に結び付くと考えたのです。
女子は優勝、男子も銀メダルに輝き、大会は大成功でした。そして、日本開催も
ずっと続いています。思惑どおりになったわけです。同じように、日本チームが
活躍しても、舞台が海外の場合と国内とでは盛り上がりがまったく違います。
もし、日本開催を有難いと思っている人がいたら、その陰に、去年、故人になった
Kさんの活躍があったことを思い出してあげて下さい。
私にとっても、直前のヨーロッパ選手権を取材するためフィンランドに行くなど、
充実した仕事をした思い出の大会です。
夏ごろからほかの部への異動を希望するむね意志表示をしていましたが、大会中、
ホテルの部長の部屋に呼ばれて「気持ちは変わらないのか」と“確認”されるなど、
精神的には落ち着かない大会でした。ハハハ。
この大会には77年の女子優勝メンバー4人が解説者として参加してくれました。
体は大きいですが、底抜けに明るく、気持ちのいい“お嬢さん”ばかりですから
彼女たちと帯同するツアーは楽しいものでした。ただし、体力にものを言わせて
食べる量、飲む量がハンパじゃないことに驚きました。
大会中に何度か会食する機会がありましたが、普段ほとんどアルコールを飲まない
私はもちろん、体育会系で自信があるはずのスタッフも、次々にダウンさせられて
いました。死屍累々。ハハハ。
奥が深い競技です。60~80年代ほどではないものの人気は衰え知らず、視聴率も
かなりいい結果が出ています。
私が現役のころ、現場の熱狂ぶりは男子>女子、視聴率は女子>男子でしたが、
今はどうなんでしょうか?それぞれの理由に変りはないのでしょうから、きっと、
今日から、プレーに関係なく黄色い声が飛び交うのでしょうね。ハハハ。