こうした中で1951年9月、「サンフランシスコ平和条約」が締結され、日本と連合国との戦争の終結、日本の主権の回復、千島と南樺太の放棄、沖縄や小笠原諸島をアメリカの信託統治に置くことなどが決定された。この講和条約にはソ連などは署名しなかった。
同時に「日米安保条約」が調印され、武装解除されたままの日本に、アメリカ占領軍は在日米軍として引き続き駐留することとなった。日本は文字通り冷戦体制下で資本主義陣営の橋頭保とされたのである。
「国後、択捉の2島」を巡る解釈の変化
北方領問題は、この東西冷戦体制の下で膠着状態に陥ってしまう。
1956年10月、鳩山一郎首相がソ連を訪れ、「日ソ共同宣言」が作られ国交が回復する。そして歯舞諸島、色丹島が平和条約締結後に日本に引き渡されることに合意する。しかし、日本側は国後島、択捉島の返還も要求し、4島が返還されなければ平和条約を締結しないという立場であったので、交渉は暗礁に乗り上げてしまうことになる。
実は、この交渉の中で日本側は、歯舞、色丹の2島返還がソ連の最終条件だと分かってきたため、これで決着しようという考えもあった。
なぜならサンフランシスコ条約2条C項で、「日本国は、千島列島並びに日本国が1905年9月5日のポーツマス条約の結果として主権を獲得した樺太の一部及びこれに近接する諸島に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄する」とうたっていたからである。
この交渉のある段階までは、「国後、択捉の2島は、サンフランシスコ条約2条C項で日本が放棄した千島列島に含まれる」というのが、日本政府自身の解釈でもあった。
ところが、日ソ間で平和条約が締結され、日ソ間に友好関係が生まれると戦略上大きな狂いが生じるのが、冷戦体制下でソ連、中国と厳しく対峙するアメリカであった。
日ソ交渉が中断している最中の1956年8月、ダレス米国務長官は日本の重光葵外務大臣と会談し、日本が2島返還で決着させるなら沖縄は永久に返還しないと言い渡したと言われている。いわゆる“ダレスの恫喝”である。
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