'12/5/31
監督の平和への思いに感銘
100歳まで現役の映画監督を貫いき、29日に死去した新藤兼人さんは「原爆の子」をはじめ多くの作品で原爆に対する怒りを描き続けた。平和への思いは生きることへの希望につながり、ロケ地にも選んだ古里広島への愛情にも結びついた。
反骨の映画人生を記憶にとどめる人は多い。広島市西区の映像作家の田辺雅章さん(74)は、手記集「原爆の子」に体験談を寄せた。中学2年の時、映画「原爆の子」の撮影前に広島市を訪れた新藤さんを、自宅があった広島市中区の原爆ドームそばなどに案内し、被爆体験を伝えた。「約10日の滞在中、一度も笑顔を見なかった。真剣に映画と向き合う表情がまぶたに焼き付いている」と振り返る。
映画「原爆の子」で原爆症の少女を演じた広島市西区の松木恒子さん(74)も「口数の多くない、仕事一本の方でしたね」と懐かしむ。「東日本大震災以後は、福島への思いも募っていたはず」と尽きぬ制作意欲に思いを寄せた。
後進にも熱い思いを植え付けた。50年来の付き合いの映画監督の神山征二郎さん(70)=東京都三鷹市=は新藤さんがやり残した作品への思いを語る。「原爆が爆発する瞬間を描く『ヒロシマ』に情熱を燃やしていた。お手伝いに駆け付けるつもりでいたが、残念」
妻乙羽信子さんとの心の通い合いも強い印象を残す。シネマキャラバンVAG副代表の友川千寿美さん(59)=同市南区=は1988年、映画「さくら隊散る」の公開時に同市内を案内した。「細やかな心配りで、当たり前のように監督を支える乙羽さんの姿が忘れられない」という。「二人は夫婦であり、戦友であると実感した」
新藤さんが名誉市民である、広島市の松井一実市長は「功績は極めて顕著で、深い悲しみを禁じ得ない」、三原市の五藤康之市長は「市民を代表して哀悼の意を表します」とコメントを出した。
【写真説明】映画「一枚のハガキ」の撮影で、車椅子からスタッフに指示を出す新藤さん。右端は孫の風さん(2010年6月、東京都調布市の日活撮影所)