石原の暴力対ポルノの暴力の覇権争いの中で・・・
ポルノ(的描写)を見て思わず興奮した、せずともすぐに目を背けられなかった時の気持ち悪さ。ポルノ的視線、モノ化する暴力の視線に同一化してしまったという嫌悪。自らの内に潜む暴力性、支配欲、差別意識を突き付けられた嫌悪。自分の世界像にポルノ的視線が忍び込んでいないかという不安。
ポルノあるいはそれを(明示的であれ暗黙裡にであれ)擁護する言説に触れた時の、背後に潜む暴力の/暴力肯定・認容の視線を触知した時の気持ち悪さ。但し、男性である僕がその暴力を直接的に被る可能性は(多くの場合)ほとんどない。
もちろん、いくつかの経路を辿って、あるいはその暴力を成り立たせている構造・規範の帰結として、別種の暴力を被る可能性はある。それに続けて、「女性の場合は・・・」と男性の僕が語ることは、たとえ暴力の記述であっても、否記述であるからこそ、暴力を引用し、反復することとなりかねない。
男性である僕は安全な場所で記述している。それ故に、意図せずとも加害者位置に身を置いてしまうことになりかねないのだ。異性愛者として同性愛嫌悪を記述する時にも同じことが起こる可能性がある。それほどに差別というものは根深いのだ。
女性嫌悪/同性愛嫌悪を、その背後にある恐怖や不安を他人に触知することは、不快ではあるが、比較的容易い。ただ、その不快さ、気持ち悪さをそのままその他人に帰属させるのではなく、自分が抑圧、投影している感情に発するのではないかと疑うことが必要だろう。たとえそれが苦痛であっても。
石原都知事・道徳的保守派にも、都条例改正反対派(繰り返すが、その一部と信じたい)にも感じる嫌悪、気持ち悪さは、暴力への、また彼らが行使する暴力への彼らの鈍感さや否認の身振りに起因するのだろう。時には、確信犯的に言を弄していると感じられ、その身振りには一層の気持ち悪さを感じる。
彼らが自らの主張を正当化しようとして言葉を並べる時、その言葉自体が暴力の再演、表出となる。彼らも意識的にも、むしろそれ以上に無意識的にもアイデンティティに関わる恐怖や不安を感じて防衛しようとしているのであろう。それ故に、その言葉はますます暴力性を帯びる。
現在の議論・対立の構図は暴力の正当性、普遍性を巡る争いと捉えると分かりやすい。つまり、暴力そのものの否定ではなく、それぞれが受け入れられない暴力を棄却し、その反照として自分の行使したい暴力の権利を保持するための、その正当性、普遍性を認めさせるための争いなのだ。
だから、石原的暴力に反対する者の言は、その意図に反してポルノの暴力へ加担するメッセージに翻訳される。逆に、ポルノの暴力に反対する者は石原的暴力や「表現規制」「言論統制」への賛同者とされてしまう。相手を利するとみなされる言論に対するこういった身振りが既に暴力性を開示しているのだ。
子どもポルノには反対しながらも条例改正案には危険を感じ取る者や、石原都知事や道徳的保守派に反対しながらも条例改正案そのものには理解を示す者はこうして難しい立場に置かれる。かと言って、二つの暴力の覇権争いを放置すると、いずれが勝利してもより悪い状況を招来するだろうという予感。
僕自身は、このような構図の中でなかなか飛び込み方が見出せない。精緻な戦略を用意しないと都合よく利用され、意図に反した効果をもたらしかねないことは自分の経験から容易に想像できるからなおさら慎重になる。そう言うことは、安全な場所に止まっている臆病さ・ずるさでしかないのではないかと自問自答しつつ。
8年近く前の、諸事情により完成度が低くかつ読みにくいものというずるい留保を付しつつ、修士論文「「性の商品化」批判と法的介入の根拠について――性的主体構築のメカニズムを問う」。論文執筆後の動向、現在の政治状況でどうすればいいのかという見解は、これまたずるいが、とりあえず留保。
(追加)最近の関連ツイート→「都条例改正問題に関連して最近つぶやいたこと」
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