【12/11追加】都条例改正問題に関連して最近つぶやいたこと
【12/5付】
昨晩のブログ(「石原の暴力対ポルノの暴力の覇権争いの中で・・・」)への補足として、ここのところ関連でつぶやいたものを時系列で。直接言及はしていないけど、この問題も念頭に置きつつツイートしたものを含む。
「都の漫画規制条例、修正案を再提出へ」 http://bit.ly/bQacqH 。何でまたこうなるかなあ。子どもの健全育成の枠組みは絶対いかん。道徳的保守派、言論統制を目指す者、そして悪意の搾取者が潜り込むことのできる、ねじれた対立構図は不毛。
ふと、江原由美子さんの『装置としての性支配』が本棚にあるのを思い出した。自衛隊という暴力装置が特異な訳では全くなく、様々な装置、マトリクスが存在し働いているのをイメージが覆い隠しているだけ。しかも、ハイパーイメージ化が進行。「想像界」の過剰。最近よく考えること。
「暴力」を、あの身体的/物理的に見えやすい、又は至近に捉えやすい形態に限る想像力の貧困。暴力をそれと感じさせるのを阻む又は無害化する想像力の過剰。自衛隊や警察も然り、家族も性も、あるいは「改革」も、貧困・困窮に対する不作為も。暴力を隠蔽/否認する暴力。但し、一般化もまた暴力。
存在を決めないということ。でも、僕らはよく存在を決めてしまう。存在抹消はもちろん、存在を決めることも暴力なのだけど、しばしば無自覚にその暴力を振るってしまう。だからこそ、その決定を宙吊りにし、再定義に開いておかなければならない。閉じた決定は抵抗を不可能にする凄惨な暴力だ。
殺人は存在そのものを抹消してしまうのだから、決して許されない。しかし、そのことと殺人者を死刑にしていいということとは直結しない。死刑とはまさに存在を決め、抹消する暴力を公的に行使するものである。それは秩序維持のためになされる、秩序の錨として正当化されるが、果たしてそうか?
秩序は存在を決めない/決められないことを保障するはずのものである。しかし、それは理想・理念であり、現実には存在の決定/再定義を巡ってヘゲモニーが争われる。露な暴力も、それと見せない不可視の、巧妙な暴力も渦巻く。だから秩序なるものも再定義に開かれていなければならない。
殺人=存在抹消という許されざる暴力に対して死刑を予定することは秩序を崩壊から守る錨の役割を果たすと想定される。しかし、むしろそれは大きく開いた穴、無秩序、崩壊に誘う強大な引力に対して脆弱さを見せてしまうひび割れではないのか。
秩序の場が現実にはヘゲモニー争いの場であるということ。そこに、唯一公認された存在決定・抹消の暴力形式が留保されているということ。公的承認、中立の見かけはこの暴力の危険性を覆い隠すが、いかにして反駁不能な存在決定を下し得るのか、いかなる理由で容認し得るのか。絶対的肯定は不可能。
死刑という公的に是認された暴力の問題性、容認不可能性を覆い隠したまま、その決定を市民に強制することの危険性と不条理は明らかなのだが。同時に、死刑に値するか否かという存在決定が何のためらいもなく口にされ、飛び交う現状に背筋が凍る。これに限らず、暴力容認・感覚麻痺の蔓延は根深い。
都条例改正賛成派と反対派の無意識の共犯関係ということが気になっている。ジェンダー=異性愛体制の温存、強化。暴力の是認、巧妙化/不可視化。賛成でも反対でも、善意が結果的に悪意の潜入者を後景化し守るだけでなく、賛成/反対言説が確信犯的又は偶発的に誤用/誤解されることに自覚的でいること
公序良俗の法/秩序とジェンダー=異性愛の法/秩序の共犯関係。が、一方への抵抗がしばしば、意識的にせよ無意識的にせよ他方を参照し強化してしまう矛盾あるいは必然。いかなる対抗、撹乱戦略が可能か。それ故都条例問題は厄介者でしかないが、頓挫しても、より意図を達成し得るという憂鬱。
問題はあからさまなポルノだけではない。ポルノ化、ポルノ的消費の蔓延。ポルノ的視線の充満。芸能・娯楽はもちろん、例えば事件報道。それらは明示的又は意図的になされることもあるが、それのみではない。暗黙の合意、あるいは片方、双方の無意識レベルでの差し出し/受け取り。
ポルノ的想像力の過剰と絶え間ない刺激。対照的な、暴力、抑圧、苦痛への想像力の鈍麻。ポルノ的視線への同一化あるいは抵抗の断念、屈従への誘惑、圧力。主体的、積極的な受け入れ、「歓迎」を装う/装わせる巧妙さ。視線の政治。
当然、ポルノ化、性化の及ぶ全域を規制することはしてはならないし、することは不可能。規制の副作用、弊害はもちろん、J・バトラーに倣って言えば、規制がポルノを生むという逆説。さらには規制そのものが背後に隠すポルノ的動機。繊細な規制の必要性と規制のみに依拠しない戦略をどうするか。
子どもポルノ対策を隠れ蓑にした表現規制や子どもの権利ではなく健全育成の観点からの規制への反対は当然。が、反対派には子どもポルノ規制への賛成者を十把一からげにしてレッテルを貼り、相手の議論を歪曲・捏造し、誹謗中傷し、言論を封殺しようとする者もいる。その時、僕は隠れた意図を疑う。
単純所持やCG・アニメ・マンガの禁止/処罰に反対する時、表現規制の問題点や濫用の危険を指摘するのはいい。が、その説明やレトリックが子どもや女性の権利・尊厳の侵害を擁護するものと受け取られ伝播する可能性に鈍感な場合も多い。あるいは本音の開示とも。ポルノの効果の錯誤的再現、反復。
石原都知事の発言はもちろんなのだけど、都条例改正反対派の意見(反対派皆が同じでないと信じたい)を読んでも息苦しくなる。善意の「表現の自由擁護派」は利用されないで欲しいと切に願う。石原・道徳的保守派対反対派(の一部)の応酬そのものが差別、支配、抑圧、暴力の反復、増幅。
【12/11追加】
支配。顕わな支配だけでなく、見えない、柔らかい、無意識の・・・支配。人、自然、物、状況・・・の支配。被支配、支配の失敗、支配対象の不在・・・の経験が現実のあるいは想像上の支配として向きを変えて反復される。循環し止まぬ支配欲。その支配欲はしばしば否認される。人間の弱さ。
都条例改正問題を巡ってあくまで私見の範囲であるが、推進派の動きにせよ反対派の動きにせよ、その身振り、レトリックなどはファシズムのそれと感じられる。逆に/それ故、意見を異にする者に対してファシズム、扇動といった類の形容で非難を浴びせ、言論を封殺しようとする姿勢が目に付く。
僕は、都条例改正問題の主舞台で賭けられているのは暴力の否定ではなく、暴力の正当性、普遍性を巡る覇権争いに堕したと見る。各陣営がファシズムの相貌を見せるのはある意味当然かもしれない。そして、同じであるからこその投影による憎悪亢進、自己合理化のための攻撃激化を見るのは容易い。
ファシズムに動員されるオタクというのは一見矛盾と感じられるが、肥大した自我、誇大感という項を挟むと石原・道徳的保守派との共通性が浮かぶ。だが、反対派にオタクを代表させて理解するのは誤りだろう。動員、利用されるオタクイメージ、脅迫されるオタクという視角で捉えるべきではないか。
健全育成の枠組みが暴力の再演を招いている。実際に目指されているのは、双方とも、子ども・広く社会への特定の価値観の押し付け、自分たちの暴力の正当化。自陣営のことはそう言わないが、相手にはそう非難する。投影を通じて動機が顕わになる。健全育成の一点で却下、一旦閉幕、が本当はいい。
アサンジ氏の容疑は避妊具をつけない性行為などのようで、それは確かに日本や恐らく多くの国での語感や通念上のレイプ、性的暴行とは異なる。もちろん、弾圧と信用低下の意図は随所に窺われるのだけど、それ故、常套手段として今回も性が利用されるのは二重三重の意味で非難すべきことだと思う。
アサンジ氏の文脈で指摘することには困難さが付き纏うのだが、「レイプ容疑」の情報操作を批判することは、避妊具不装着や膣内射精を含む望まれない形での性行為が孕む暴力性が過少評価され又は否定されるという効果をもたらす。そういう意味でも、分断を図る権力の狡猾さを徹底的に批判すべき。
一方に痛みへの想像力の鈍麻・欠如があり、他方に歪んだ想像力の過剰がある。自分が傷つけ得る者であるという誇大感、相手(特定の者)への被傷性の押し付け/弱者・被害者位置への押し込め、あるいは、傷つくはず/べきである状況・文脈を指示するステレオタイプ/規範。対極というよりは対である。
そういう極端さが蔓延している気がする。恣意的な、自己合理化的な使い分けがなされ、それぞれの位置がしばしば矛盾に目をつぶる都合よさやレトリックを伴いつつ固定される。加害者性を否認し、あるいは誰かを迫害者に仕立て上げるために、進んで被傷性、弱者・被害者位置が引き受けられさえする。
そういった状況下では、J・バトラー的なズラシ・撹乱(『ジェンダー・トラブル』『触発する言葉』)は困難に直面する。商品的に回収され、消費されるという無害化・無力化だけでなく、様々に張り巡らされた無効化の仕掛け、敵対的な見かけで隠蔽される共犯関係。でも、抵抗・撹乱の断念は思う壺。
同性愛者や女性の/が享受する性表現(ポルノと一致しないが、ポルノも含む。ポルノとして再領有されることもある)が石原ら都条例改正推進派の(主)動機だったのか、反対の中で対象として「構築」されたのか、明確な根拠を持たない。が、少なくとも否認された/無意識の動機であることは顕わに。
同性愛の欲望や女性・子どもの性欲の存在を否定する身振りは、彼らの欲望を特権的に保持するためのダブルスタンダードであり、内なる欲望の否認-投影、自らが「断念」した欲望の享受に対する「嫉妬」や「復讐」である。故に、彼らのアイデンティティを崩さないための秩序維持・強化が目論まれる。
その意味で、条例の目的や構造上、拡大解釈・蟻の一穴のリスクの見積りに関わらず問題が潜んでいることは明らか。その一方で、性的少数者や女性・子どもの欲望も、オタクの欲望も、当事者の外側で構築され、当事者の手から離れて領有され、暴力の隠蔽に利用されていないかが問われるべき。
政治的な意図でなく純粋な思いで賛成又は反対する人、あるいは躊躇しつつも賛成又は反対する人がいる。そういった人たちが実際に感じている痛みや恐怖、暴力の予感といったものが後景に退かされる、時に押さえつけられ、痛めつけられるというところが、繰り返すが釈然としないし、危機感を覚える。
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