箱根への小旅行(77)
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この写真が撮影されたのは、昭和33年から34年にかけての頃かと思われます。 場所はまず間違いなく浅間自動車テストコースでしょう。 この頃のホンダのマシンといえば、エンジンがOHCあるいはOHVの4ストローク、フレームはエンジン自体がストレスメンバーを兼ねるバックボーン型であった、というのは、ホンダの歴史にちょっと詳しい方なら誰もがご存知のことかと思います。 ですが、この写真、一番左に写っているマシンを良く見ると、フレームは2本のダウンチューブを持つダブルクレードル、エンジンは明らかにシリンダーヘッドにカムシャフトを持たない「2ストローク」であることがはっきりと分かるのです。 タンクやフロントフォークの形状からして、この一番左端のマシンも他に並んだものと同様、1958年の第一回MCFAJクラブマンレースにホンダスピードクラブが走らせたRC71あるいはRC76であろうと思われます。 が、なぜかエンジンとフレームがこの1台だけ他と違う。 しかも、そのエンジンもフレームも当時ホンダが手を染めたことがなかった筈のタイプのものであることを考え合わせ、「これは一体どんな背景を持ったマシンなのだろう?」と、強く興味をそそられたものでした。 結局これがなんだったのか、その記事を書いた当時は分かりませんでしたが、当時スピードクラブにいらしたAさんだったら、この謎のマシンについて何かご存知かもしれない、と考えるのは至極当然の帰結です。 この写真が親父のアルバムの中にあったものであることを説明しながらAさんに差し出し、質問を投げかけてみました。 「この左端のマシンって、何だと思われますか?何かご存知ではないでしょうか?」 この写真を見たAさんは、「よくこんなものに気付いたもんだねえ。」と、半ば感心し、半ば呆れたように笑っておられました。 謎解きのヒントになれば、と思い、私は続けます。 「この左端のマシンって、恐らく島崎貞夫さんのものなんじゃないかって思うんです。」 そう言って写真を指差し、 「この車、タンクに『雷電』って書いてありますよね?『雷電』って、確か島崎さんが自分のマシンに入れていたネームだったんじゃなかったかと思います。昔、島崎さんがこんなマシンの開発に関わっていた、ってことはなかったでしょうか?」 私の問いの「開発」という言葉にAさんが敏感に反応して答えました。 「いや、この時代にホンダがこんなタイプのマシンを開発していた、なんてことは絶対にないね。だって、社長が大嫌いだったもの。社長がダメだ、っていうものを会社が作るはずがないでしょ?」 「確かにそうですよね。私もきっとそうだったはずだと思います。」 そうは言いながら、それでも私は改めて写真を指差して言いました。 「でも、これってどう見ても2ストロークですよね?こんな写真が残っている、ってことは、間違いなくこういうマシンが当時のホンダにあった筈だ、って考える他ないと思うんですが。」 そう畳みかける私の問いに、うーん、そうだねえ、と暫く写真を眺めていたAさん、 「いやあ、分らないねえ…。私もこんな写真初めて見るしねえ。」 …なんとこの写真。 元スピードクラブのメンバーの一人であったAさんですら素性が分からないようなものだったのです。 「そうですかあ…。残念だなあ。」
これでこの謎のマシンの素性が分かるかもしれない、と期待していたのですが…。 やはり真相は藪の中、ということになってしまうようであります。 |
この画像を意識して見るのは、初めての気がします。まったく気がつきませんでした。よく見れば、フレームの2本のダウンチューブが、不自然な曲がりをしてるようで、RCのフレームに2ストエンジンを無理矢理載せた処理のように見えます。対、ヤマハやトーハツなどを想定したテスト車両を作ったのでしょうか?。黎明期のホンダレーシングの謎解きは、一向につきませんね。
遅ればせながら、新年おめでとうございます。今年も謎解きの記事投稿を楽しみにしています。
2011/1/1(土) 午前 10:29 [ アミーゴ茶カブ ]
茶カブさん、あけましておめでとうございます。
やはりそう思われますよね?まずエンジンがありきで、そのエンジンを載せるための無理矢理な造形がこれ、という気がします。
この後、Aさんから「想像だが」との注釈付きで、考えられる可能性のひとつが示唆されました。
その可能性として語られた話は、昔これを記事にした折に全く別の方から伺った、やはり「可能性」として語られたものと同じものだったのですね。
とすれば、恐らくはそれが真実と思って良いのではないだろうか、と今私は思っているのですが…。
2011/1/1(土) 午後 5:31