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箱根への小旅行(76)

そんなこんなでお昼になりました。

この大観山レストハウス、今日のようによく晴れた日ならば景観は素晴らしいのですが、失礼ながら、食事となるとそう大したものはありません。(笑)
メニューのイメージは、といえば…そうですね、あんまりメジャーではないスキー場の「ゲレンデ食堂」みたいな感じでしょうか。
「何とかレストハウス」とか小洒落た感じじゃなくて、「ゲレ食」。
分かりますかね、この感じ?(笑)
まあ、今日のような天気であれば、何を食しても窓から見える景色が最高のオカズにはなるのでしょうが…。

イメージ 1

弟が食券で買って来たそばをすすりながら、Aさんとつれづれにお話を交わします。

「秋ちゃんはねえ、ちょっとまわりの人とは違っていましたねえ。」

Aさんは言います。

「運動神経はもう抜群でしたよ。スポーツは何をやらせたって万能だし、体はやわらかいしね。学生の頃は柔道部だったんですよ。」
「へえ、柔道部ですか。それじゃあ、受け身なんかきっとお手の物だったんでしょうね。」

当時のスピードクラブのトレーニングには、砂場の手前に跳び箱を置いてそれを飛び越えさせ、体を丸めるようにして砂の上で受け身を取る練習、なんてものがあったのだそうですね。
柔道の世界では、「受け身」はどんな技よりも先に「基本」としてまずみっちりと教え込まれる筈ですから、多分秋山さんはスピードクラブに入る前から、その受け身の取り方が基本動作として身についていたことでしょう。

「ところで、秋山さんの学校ってどちらだったのですか?」
私の問いに、
「日本大学ですよ。」
そうAさんは答えます。

「え、日大?」
そばをつまむ箸を止め、私はAさんに聞き返しました。
「じゃ、秋山さんって学卒だったんですか?」

それまで私は、秋山さんも親父と同じく高卒でホンダに入って来た方だったのだとばかり思っていました。

秋山さんが亡くなられたのは昭和34年4月1日、享年24歳。
兄の呆榮さんの手記によれば、当時秋山さんは24歳になったばかりだった、ということのようですので、この年昭和34年は、秋山さんにとって満25歳を迎えることになるはずだった年、ということになります。
となれば、秋山さんの生まれ年は恐らく昭和9年、早生まれでないとするなら、昭和9年10月生だった親父と同学年だった筈、という計算が成り立つことになります。
ちなみに、親父の入社は1953年(昭和28年)の事でした。

親父の若かりし頃のエピソードを追いかける過程でホンダの歴史を紐解いて行くと、秋山さんのライダーとしての評価は、会社・クラブ内ともに、非常に高いものだった、ということがよく分かります。

以下引用---

1989年 三樹書房刊「グランプリレース 栄光を求めて 1959〜1967」河島喜好談「勝利への3年間」より

(前略)
ところが,そんな矢先,思いもかけない不祥事が発生したのです。
初出場も決定し、そのライダーも発表されていたのですが、そのうちの一人である秋山邦彦が“妻と勲章”という映画のロケ中、元箱根のカーブでトラックと衝突して死亡するという、最も悲しむべき事件が起きたのです。
(中略)
彼は大変熱心なライダーで、教養もあり、マン島コースについても、あらゆる資料を手元に集めて研究していたのです。
そして英会話も出来なければいけないというので、その勉強も欠かさずにやる程の熱の入れ方でした。
彼のレース歴は新しいのですが、人に負けたくないというファイトは旺盛な青年で、動作もキビキビしており、海外レースで長年鍛えれば、相当に伸びる素質をもっていたライダーであっただけに、彼の死はホンダスピードクラブにとっても、本田技研にとっても大きなマイナスでした。
(後略)

---

昭和31年(1956年)6月、ホンダスピードクラブがホンダ社内に発足した際、その中核を成す事になったライダーは、その前年1955年に開催された第一回浅間高原レースに出場経験のある方々でした。
では、秋山さんのお名前もこのレースのエントリーリストの中にあるのだろうか、というと、これが実はありません。
秋山さんのお名前が初めてレースシーンの表舞台に出てくるのは、その2年後の1957年、場所を第一回大会の北軽井沢の公道から、浅間牧場内「浅間自動車テストコース」に移されて開催された、第二回浅間火山レースから。
心証としては、やや唐突に「秋山邦彦」という名前が、それこそホンダの歴史の中に「突然」表れてくるのです。

私には、この理由が長いこと分かりませんでした。
年齢は親父と同じで、それほどまでに評価の高かった秋山さんが、なぜ親父や鈴木義一さん、谷口尚己さんの出場していた第一回大会に出場していなかったのか?

これが分からなかったため、このブログの中にある「私小説 つわものどもの夢のあと」の中に出てくる秋山さんは、当初未舗装の道路で行われるレースには興味がなかったのだ、という設定にしてストーリーを展開させていました。


その「わからなかった理由」が、この時のAさんの証言で明らかになったのです。
計算してみると、秋山さんの入社は親父が入社した昭和28年の4年後、恐らく23歳になる年である昭和32年春。
つまり、第二回浅間大会の行われた年の春だった、ということになるのですね。
そうすると秋山さんは、入社後すぐに厳しい選考をくぐり抜けてスピードクラブに入部し、いきなりその年の秋(11月)に行われる、当時国内では最も格式の高い「浅間火山レース」の出場選手に選抜されたのだ、ということが分かります。
やはり、非凡な方だったのでしょうねえ。
秋山さんの名前がホンダとスピードクラブの歴史の中に突如表れることになった経緯が、これでやっと腑に落ちました。

「実は私も日大卒なんですよ。秋山さん、学部はどちらだったんでしょうね?」
「学部?さあ、学部までは分からないけどねえ…。でも、身軽だったですよ。足を開いて、おなかが地面にピターッと着くくらい体は柔らかかったし、その場で後ろ宙返りまでできちゃいましたからね。」
「後ろ宙返りって、バク宙ができた、ってことですか?」
「バク宙?そう言うんですか?」
「そりゃすごいや。」

3人してそばをすすりながら、話は続きます。

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お久しぶりです!

AKIさんのBLOGを本にしたいですね♪今まで知られなかった事がテンコ盛りです!HONDAで出版してくれませんかね^^

2010/12/7(火) 午前 11:24 ebis

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ebisさん、ご無沙汰しております。
例によって、長い休筆期間を経た後、5月に突然記事を再開して現在に至っております。(笑)
いつの間にか、過去最長の連載記事になってしまいました。
本になったら、買って頂けます?(笑)

2010/12/8(水) 午前 0:29 akifukuda

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はじめまして。
私も、浅間をはじめ、黎明期のホンダレーシングが好きで、こちらのブログを欠かさず閲覧する様になりました。ブログ記事をまとめて本にしてくれたなら、間違いなく、買いますよ。

2010/12/8(水) 午後 9:13 [ アミーゴ茶カブ ]

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およよ、茶cubさんもありがとうございます。
お金にならないメディアだから、あちこちからあれこれ引用して、書きたいことが書ける、という側面もあるのだろうと思っておりまして…。
今のままが一番いいのかな、と。

2010/12/9(木) 午前 8:01 akifukuda

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