トップページ社会ニュース一覧映画監督 新藤兼人さん死去
ニュース詳細

映画監督 新藤兼人さん死去
5月30日 15時51分

映画監督 新藤兼人さん死去
K10054834211_1205301610_1205301610

「原爆の子」や「裸の島」などの多くの社会派の作品で、国際的に高い評価を受けた100歳の現役最高齢の映画監督で、文化勲章受章者の新藤兼人さんが、29日老衰のため、東京都内の自宅で亡くなりました。

新藤さんは、広島県の出身で、故・溝口健二監督のもとで脚本を学び、松竹に移籍して、脚本家として活躍したあと、昭和25年、より自由な表現を求めて、独立プロダクションの先駆けとなる「近代映画協会」を設立しました。そして翌年、自伝的な映画の「愛妻物語」で、監督としてデビューしました。
広島の原爆の被害を描いた「原爆の子」を、昭和28年にカンヌ国際映画祭に出品して、被爆の惨状を世界に訴え、その後も「第五福竜丸」や、「さくら隊散る」などの反核、反戦をテーマにした作品を相次いで発表しました。
瀬戸内海の島を舞台に、低予算で制作した代表作のひとつの「裸の島」は、セリフが全くない実験的な映画で、昭和36年に、モスクワ国際映画祭のグランプリを受賞して、国際的に高い評価を受けました。
その後も、未成年者による連続殺人事件をテーマにした「裸の十九才」や、津軽三味線の奏者を描いた「竹山ひとり旅」など実在の人物や事件を基にした意欲的な作品を発表したほか、夫人で女優の乙羽信子さんの遺作となった「午後の遺言状」や、「生きたい」などの作品で老いをみつめ、内外で数々の映画賞を獲得しました。
優れた映画を作り続けた功績から、平成14年に文化勲章を受章し、現役最高齢の映画監督として、90歳を超えても、旺盛な創作活動を続けました。自身の軍隊経験をもとに監督と脚本を手がけ、おととし公開された「一枚のハガキ」が、遺作となりました。
新藤監督の通夜は、6月2日、告別式は、6月3日に東京・港区の増上寺で執り行われます。

“朝、体調が急変”

新藤監督が設立メンバーの1人となっている近代映画協会の石坂久美男プロデューサーは「新藤監督はここ最近、好きな相撲を見ながら、寝たり起きたりの生活をしていた。きのうの朝、一緒に住んでいる孫が体調の異変に気づいて医者を自宅に呼んだが、そのまま亡くなった」と話しました。そのうえで「新藤監督は日本の映画史を語るうえでも絶対に外せない人で、最後まで好きな映画を撮れて幸せな人生だったと思う」と話していました。
新藤兼人監督が亡くなったことについて映画評論家の佐藤忠男さんは「60年にわたって独立プロダクションで自分の作りたい作品だけを作り続けるという強い意思を貫いてきた監督でした。亡くなったのは確かに悲しいことですが、長年にわたって映画でこれだけのことができると実証したという意味で、こんなに幸せな監督はいないと思います。まさしく映画人のかがみです」と話しています。そのうえで、新藤監督の作品について「単なる社会派ではなく、土臭いけれども懸命に働くといった農民的精神が貫かれている。その精神が結晶となって最もよく表れているのが、遺作となった『一枚のハガキ』ではないか。新藤監督も遺言のような作品として意識して撮ったのだと思います」と話しています。また、最近の新藤監督について、「先月、100歳の誕生日会では集まった人たちに一人一人声をかけられていましたが、だいぶ疲れている様子でした。人生の代表作と言えるような作品を撮って多くの人に祝ってもらい、とても幸せそうな様子でした」と話していました。

[関連ニュース]
このページの先頭へ