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さて、「ありがとうフェスタ」のライダーに話が戻りまして。
この時すでにこの世にいらっしゃらなくて、ゲストとして参加できなかった鈴木義一さんについてお話しましょう。
仲間から「ギッチャン」の愛称で呼ばれた鈴木義一さんは、埼玉でスピードクラブが結成された時の第一期生でした。
初参戦のレースは1953年の名古屋TT、その後1955年の富士登山レースと浅間高原レースも走り、クラブ発足時のメンバーの中では、一番長いレースキャリアを持っていました。

本田社長や河島監督とはまだホンダが浜松の町工場だった頃から付き合いが深く、その関係は単なる上司と部下の間柄を超え、同じ志で結ばれた「同志」と言っても良いものだったといいます。
クラブの発起人であり、主将だった佐藤市郎さんが第一線を退いた58年頃からスピードクラブの主将を務め、二輪から始まってやがて四輪へと広がっていった日本のモーターレースの黎明期に、その足跡を残された方でした。
写真:55年浅間高原レース終了後のライダー達
前列左より
大村美樹夫、本田宗一郎、工藤義人(技術部部長)、中村武夫、谷口尚己の各氏
後列左より
鈴木義一、佐藤市郎、鈴木淳三、高橋邦良の各氏
このうち、スピードクラブのライダーとなったのは義一さん、淳三さん、谷口さんの3名でした。
義一さんを知る人の証言によるその人となりは、というと、高校総体にボクシングと円盤投げの選手として出場したことがあるほどの運動神経と身体能力を持ち、その行動は緻密にして大胆、論理的で数字にも強く無類の話し上手、そして、組織の中にあっては第一に自分の部下のことを考え、次には組織のことを考えて私利私欲を振りかざすことがない、という、天からニ物も三物も才を与えられたような方だったのだといいます。
「・・・この世にホントにそんな人がいるんかいな?」
私などは下衆の勘繰りでついそう思ってしまうところなのですが・・・。
例えば、後年四輪に転じて日産ワークスからタキ・レーシングへと渡り歩き、勝利のために敢えて敵を作ることさえ厭わない「一匹狼」として生きた、元スピードクラブの田中健二郎さん。
その健二郎さんは、亡き義一さんを回想して「忘れ得ぬ畏友」と称え、「あれだけ多士済々でひとくせもふたくせもある(スピードクラブの)若者たちがまとまって行けたのは、ひとえにギッチャンという隊長がいたからだった」とその著書「走り屋一代」に記しています。
群れない「一匹狼」をしてそこまで言わせるだけの人だった、ということでしょうか。
掛け値のないお話であるのに違いないでしょう。

写真:59年浅間火山レースライトクラス表彰式
左より
田中健二郎(2位)、島崎貞夫(優勝)、鈴木義一(3位)の各氏
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