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1958年8月に浅間自動車テストコースで開催された、「第一回全日本クラブマンレース」の時の事です。
第一回、第二回と浅間で行われた「全日本耐久オートバイレース」は、日本の工業技術を発展させることを目的として開催されたメーカー同士の競争の場、いわゆる「ワークスマシンの祭典」でしたが、これに対して、趣味としてモータースポーツを楽しむ「アマチュアたちの祭典」を企画し、これを通じてモータースポーツに親しむユーザーの裾野を広げよう、と考えた人がいました。
当時モーターサイクル出版(後の八重洲出版)の社長で、「全日本モーターサイクルクラブ連盟(MCFAJ)」を創設し、その理事長だった酒井文人さんです。
1958年8月にこのMCFAJ主催で開催された「全国のモーターサイクルユーザー達の祭典」が、「第一回全日本クラブマンレース」でした。
日本全国のクラブマンレーサー達が集ったこの祭典に、「クラブチーム」であるスピードクラブの面々も、ベンリイC90やドリームCS71といった市販車を元に製作したレーサーで参戦を計画していました。
が、「事実上のホンダワークス」の色濃いスピードクラブと、「ワークスの影響を排した、愛好家達の祭典」を意図していたクラブマンレース事務局との間では、レースへのエントリーの段階から何かと悶着が絶えませんでした。
まず、スピードクラブのメンバーのほとんどは、クラブマンレースへのエントリーが受理してもらえません。
55、57年と過去二回行われた浅間レースに出走したことのあるライダーは、競技規則の中でいわゆる「プロのテストライダー」である、とみなされ、参加資格がなかったからです。
また、マシンも「市販車」あるいは「市販車に改造を施したもの」である事とされ、「市販されていないワークスレーサーによる参戦は認めない」という姿勢が基本とされていました。
が、主催者であるMCFAJもこういった大きなイベントは初めての試みであったためでしょう、競技規則を細かく突き詰めて行くと出てくる「市販車とは何か?」とか、「改造とは、何をどこまで許すものなのか?」といった仔細な部分まで定義が行き届いていませんでした。
このため、その解釈を巡って参加するクラブチームとの間で物議を醸すことになったのです。
ひとつの「クラブチーム」である以上、主催者側はスピードクラブの参加申し込みを受理しない訳には行きません。
参加を受理されたスピードクラブは、主力メンバーほとんどに参加資格がない、という苦しい人繰りの中から、何とかしてそれまで浅間レースに出走したことのなかったライダー達を選出する一方、参加させる車両もレギュレーションと照らし合わせて違反のないように注意を払いながら、やっとの事で参戦に漕ぎ着けます。

が、メンバーがホンダの社員だけで構成され、マシンを作った人達も過去二回の浅間でワークスレーサーを手掛けた人達と全く同じだったスピードクラブは、周囲からみれば紛れもなく「ホンダワークス」に他なりませんでした。
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