支那とは蔑称である  


 最近、「支那とは蔑称でない」という言説が盛んである。しかし、僕はその意見には賛成しない。 「支那とは蔑称でない」の理論は確かこんな感じだと思う。

「支那」という言葉の語源は最初の統一王朝「秦」から来ており、旧来現在の王朝名(明とか清とか)と区別して、「あのモンゴルやシベリアの南でユーラシア大陸の東は端の地域」を意味する言葉で使われてきた

 しかし、よく考えてみて欲しいのだが、そもそも蔑称と言っても語源まで侮蔑語なのって逆に少なくないか? アカは共産主義者の蔑称だが、もともとアカというのは何も悪い意味ではない。世界初の共産主義国家ソ連(と言うと日本共産党の人間が文句つけてくるかも知れないけど無視)は非常に寒さの厳しい北国で、泣くと泣いたそばから涙が凍る、何もかも凍りつく大地だ。そんな極寒の地を暖めてくれる希望の共産主義ということで、共産主義のイメージカラーは暖色の赤になった。何も悪い意味は無い。日本人の蔑称jap,これもJAPANからきていて、このJAPANはマルコ・ポーロの東方見聞録に出てくるジパングからきていて、このジパングはもともと「日本」を意味する中国語だったそうだ。何も悪い意味は無い。「貴様」って言葉も、もともと敬語だったんだぜ?確かに漢字見れば「とうといさま」だし。でも、現代じゃ敬語のつもりで「貴様」って呼んでも通用しないよ?まあ「イエローモンキー」とか「非人」とかそのものずばりの蔑称もあるんだけどさ。  と言うわけで、その言葉の語源とその言葉が蔑称かどうかってのは、何も関係が無い。大事なのは、今どう使われているかって事だ。 んでさ、今(あくまで今)「支那」って言葉を使っている人間って、まず確実に支那(中国)を罵倒しているよな。石原慎太郎にしても、小林よしのりにしても、そこらへんのネットウヨク系サイトにしても。「支那はすばらしい国です。パンダがいるんです!」みたいな事を言っている人、見たことない。ご丁寧に「支那とは蔑称でない」と言うことをつらつらと講釈しているサイトは色々あるけど、そういうサイトはまず間違いなく、同時に「支那」を悪い意味で使い、罵倒、批判している。その批判自体は、かなり正しい。(たまに単なるイチャモンが混じったりしてるけど)正しいが、罵倒に使うと言うことは、「支那」と言う言葉が蔑称と言うことを認めていることになる。皮肉なことに。  「『中国』と言うのは中央の国、中華の国ということで、尊称だから嫌だ、支那が正しい」と言うことも聞くが、それってつまり蔑称ってことになるよな。「天皇陛下」の「陛下」の部分は明らかに尊称だけど、尊称をつけなくて「天皇」だけだと蔑称になるんだろ?  つっても、僕が知らないだけで、「支那」をいい意味で(あるいは中立的な意味で)使っている人がいるかもしれない。でも、言葉ってのは大部分の人が使っている言葉が正しい言葉だから、それは通らない。


 繰り返すが、JAPと言うのはアメリカ人が日本人を馬鹿にした呼び方だが、語源は何も悪い意味ではない。なのでイギリスなどではJAPという単語が特に悪い意味だという認識が薄いらしい。どこかは忘れたけど、どっかの国で開かれた国際大会で、日本代表のゼッケンに書かれている国の略称が「JAP」だったのを、日本の選手団が「JAPだと日本に対する蔑称になるからやめて欲しい」と申し出たところ、大会主催者側はそれを認め、「JPN」に変えたそうだ。主催者でわざわざ「JAPANの前三文字をとっただけだ。こっちには差別する意図も罵倒する意図も全く無い」と言ってがんばる人はちょっと裏を感じざるを得ない。
 ここで言いたいことは、「支那とは蔑称である」それだけである。別に「蔑称は使うな」なんて偉そうなことは言うつもりは無い。僕も「アメ公」とかよく使うし。ただ、「支那とは蔑称でない」なんて屁理屈つけずに、使うなら使うで、堂々と侮蔑しろってことだ。

トップへ